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’08平和考・京都:水平へ 岡部伊都子さんの伝言/5 /京都

 ◇ハンセン病元患者と出会い「私は差別者」と自覚

 ◇心の「壁」超える力求め

 瀬戸内の穏やかな海に空色のアーチ橋が弧を描く。二つの国立ハンセン病療養所がある長島と、本土を結ぶ邑久(おく)長島大橋(岡山県)。90年冬、初めて訪れた岡部伊都子(いつこ)さんは、出迎えた長島愛生園入所者の宇佐美治さん(82)と、2年前にようやくかかった「人間回復の橋」を踏みしめた。<なんと……、まあ、なんと短い海のへだて、でしょうか>

 かつて「らい」と呼ばれ、不治の病とされたハンセン病。1907年に前身が制定された「らい予防法」の下、へき地に置かれた療養所で「救らい」と称した国の隔離政策は遂行された。戦時中に特効薬ができてもなお「業(ごう)病」とさげすまれ、偏見と差別の「壁」は残った。

 30歳での離婚を、岡部さんは「第二の人生の始まり」と書く。病弱で学歴も資格もなく職探しに挫折。<直接に社会の風にあたって、はじめて、差別意識がどのように身をくるむのか、その一端を味わった>。筆一本で生きていく覚悟とともに、自分の心の中の「壁」も見つけた。

 <「わたくしは差別なんかしてはいない」と思っていた。差別とは無関係だと思うそのことが、どんなにおそろしい差別であったか。他の苦しみを見棄(す)て、人を踏みにじって、わたくしはぬくぬくと暮(くら)してきたのだ。無関係どころか、わたくしが差別者だった>

 64年、ハンセン病で全盲となった詩人、吉田美枝子さん(96年死去)からの手紙が縁で大島青松園(香川県)を初めて訪ねた。光を失い、舌先で点字を読む「からだのほろび」を抱えても強く生きる姿に触れて、それまで<想像したり、人の話を聞いたりしているときに感じていた一種の恐怖心は、やはり、まことに観念的な思考の結果>と気付く。

 戦跡を訪れた沖縄でも療養所に足を伸ばした。<発病の宣告、失明の絶望。本病にかかって自殺を考えなかった人はない。ここでは社会と同じ虚栄や虚飾は通用しない。「慰める」なんてとんでもない。人々の底抜けの強さ明るさにかえって励まされる><見舞いにゆくのではない。力づけられにゆく。そのことが、逢(あ)えば、ことんとわかる>

 ハンセン病から回復した人々との共生のため奔走し、岡部さんとも親しかった真宗大谷派解放運動推進本部委員の訓覇浩(くるべこう)さん(46)は「今よりもっと精神的垣根が高かった当時、療養所に身を運んだ事実はすごい」と驚く。そして「岡部さんは出会った人々から力をもらって自分を保ち続けた。私たちが自分の差別意識に気付いて心が折れそうになっても、『そんな自分でもかかわっていいんだ』と力をもらえる」と話す。

 愛生園で講演し、「自分は差別者」と告白した岡部さんは、こんな決意も語っている。<ほんとに、痛むべきことに痛むべき力を持ちたい。ほんとうに見なければならないものを、見る勇気が欲しい。理解する力が欲しい。ああ、もう、その思いでこれまでずーっときたわけです>

 「人間回復の橋」開通から8年後の96年、岡部さんらが願い続けた「らい予防法」廃止が実現した。01年には熊本地裁が国家賠償を命じた判決で、国は控訴を断念し、隔離の非を公式に謝罪した。一方で、全国13施設の入所者は最多期の約4分の1になり、平均年齢は79歳を超えた。「ついのすみか」の将来が揺らぐ。京都でも繰り広げられた署名運動が後押しとなり、元患者の生活を守る「ハンセン病問題基本法」が今年6月に成立。来春の施行後、実効性が試される。

 8日開幕した北京五輪で中国当局は一時、ハンセン病の病歴を持つ人の入国を拒否する姿勢を見せた。「岡部さんがもし元気でおられたら、すべての弱い人に対して声を上げてくれただろうに」。宇佐美さんはつぶやいた。形や場所を変えて繰り返される偏見と差別との闘いは、今も続く。

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 <>の部分は岡部さんの作品「いのちの旅人」「人の世に熱あれ 人間に光あれ」「大切な仲間」「『地面の底が抜けたんです』を読む」「桟橋の少女」「〈講演〉いのち明(あか)り」から抜粋し引用しました。=次回は12日掲載予定

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毎日新聞 2008年8月9日 地方版

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