■ プランクトン検査の信頼性 |
東京新聞(11月15日)の報道によると、秋田県大仙市の4歳男児殺害事件で、殺人事件として立件できた決め手はプランクトン検査だったとのことである。「死亡した進藤諒介ちゃん(4)の遺体を司法解剖した結果、肺に水が入っており、プランクトンが検出されていたことが15日、県警捜査1課と大仙署の調べで分かった。諒介ちゃんが発見された自宅近くの用水路のプランクトンとほぼ同様の構成。現場の用水路は水深わずか数センチだったが、暴行を受けて瀕死の状態の諒介ちゃんが用水路の水を飲み、窒息死したとして、県警が事件と断定する有力な手掛かりの1つになった。」
http://www.tokyo-np.co.jp/flash/2006111501000106.html
私の依頼人、八木茂氏にトリカブト入りあんぱんを食べさせられて殺害されたうえ、溺死に見せかけるためにその死体を利根川に投棄されたとされる佐藤修一さん(当時45歳)の場合は、肺だけではなく腎臓からも利根川に生息するのと同じ構成のプランクトンが発見された。今回秋田県警の依頼で行われたプランクトン検査が信頼できるのだとすれば、佐藤さんも利根川に入ったとき生存していた(つまり死因はトリカブト中毒ではなく、溺死)ということになる筈だ。
しかし、さいたま地裁の裁判官たちは「プランクトン検査の有効性については学界でも論争されている」と言って、佐藤さんの死因はトリカブト中毒だと決め付けて、八木さんに死刑を言渡した。
プランクトン検査という科学は、被告人を有罪にする場合には信頼できるが、無罪にする場合は信頼できない。そういうことだ。
■ 黙秘とミランダの会 |
佐藤優『国家の罠:外務省のラスプーチンと呼ばれて』(新潮社2005)というとても面白い本を読んだ。著者は外務省のロシア専門家で自らを「情報屋」と呼び、内外の政治家やビジネス・エリートたちと広汎な情報ネットワークを持っている。ロシア支援委員会による北方四島支援事業に関連して鈴木宗男氏とともに背任、偽計業務妨害の罪で逮捕、起訴され、1審で有罪判決を受け、現在控訴中だ。その経験を、外務省内の派閥抗争や北方四島を巡る政治情勢などを踏まえて詳細に論じている。拘置所の日常や特捜検事の取調べの様子がとても生き生きと描写されており、色々な意味で勉強になる本である。
拘置所で弁護士と面会する場面でミランダの会が登場する。佐藤氏は、接見室で、「黙秘に切り替えたらどうだろうか」と尋ねる。
「そうですね」大森弁護士は一呼吸おいて答えた。
「『ミランダの会』といって、取調べに対しては完全黙秘、公判段階で供述するとの戦術を勧める弁護士たちもいますが、勝算は必ずしもよくありません。裁判所に対して『特殊な思想を持っている人だ』という印象を与えます。それに公判で、何もない更地に全く新たに建物を建てていくというようなやり方になりますから、ひどく時間がかかります。お勧めできません」
「黙秘は検察官にとってはどのような意味をもちますか」
「本当に困ります。供述調書がとれてナンボの世界ですから」
「それでも黙秘するとどうなりますか」
「周囲を固めて滅茶苦茶な話を作り上げてくるでしょう」
「わかりました。黙秘はやめましょう」
(同書、222-223頁)
この大森という弁護士は何に基づいてこんな説明をしたんだろうか。
私は10年以上ミランダの会の会員をやり、その前半は代表者だったが、「取調べに対しては完全黙秘、公判段階で供述するとの戦術」を依頼人に勧めたことは一度もない。ミランダの会の弁護要領にもそのようなことは書かれていない。
裁判所がわれわれやわれわれの依頼人をどのように見ているかは知らない。しかし、検事はさておき、裁判官がわれわれを「特殊な思想を持っている人」と考えているようには思えない。私を判事室に招じ入れ親しく談笑してくれる裁判官もいる。その裁判官も「特殊な思想の持っている人」なんだろうか。
ミランダ方式の弁護を行った事件の公判が「ひどく時間がかかる」というのも理解できない。私の感想では、検察官が自白調書を証拠請求しないので、時間は短縮される。
「勝算」について、私には絶対的な自信がある。これまでミランダ方式の弁護活動をやった否認事件の9割以上は不起訴になっている。
黙秘という戦略は色々な意味で依頼者のためになる戦略である。大森さんは、黙秘すると検事が「周囲を固めて滅茶苦茶な話を作り上げてくる」と言うのだが、確かにそのような事件もある。しかし、そうじゃない事件もある。検事が「むちゃくちゃな話」を作って起訴してくれたおかげで、無罪になることもある。また、被疑者が数日間完全黙秘を貫き通すと、その後の取調べの圧力は緩やかになる。形式的に取調室に呼び出して、1時間程度雑談したりにらめっこしただけで終わってしまうことが多い。積極的な否認供述をすると、捜査官は徹底的に否認を崩そうとしてくるので、取調は長時間に及び、依頼人は消耗するのだ。
佐藤さんがミランダの会についての非常に誤った理解に基づいて黙秘権を放棄してしまったのはとても残念だ。
■ 公判廷における被告人の拘束とデュープロセス |
アメリカ連邦最高裁は、5月23日(アメリカ東部時間)、7対2で、死刑事件の量刑公判において、陪審に見えるような仕方で被告人を拘束することはデュー・プロセスの保障を定めた第5、第14修正に違反するとした。Deck v. Missouri, No. 04-5293. 足かせと手錠と腹鎖をされたまま審理を受けてなされた死刑判決を破棄した。
法廷意見(ブライヤー判事)は、古いイギリスの判例、19世紀以来のアメリカの下級審レベルの慣例などを引いて、有罪・無罪を決める公判審理において、被告人が陪審の前で拘束されない原則は、無罪の推定、意味のある防禦の権利(拘束は弁護人とのアクセスを侵害する)、厳粛な雰囲気でかつ一定の敬意を払われた状態で裁判を受ける権利などに由来する憲法上の原則であることを確認した。
そのうえで、死刑事件の量刑審理は、陪審が被告人の生死を決定する重要な手続であるから、有罪無罪の決定と同等の保障がなければならないとした。また、例外的に拘束が認められるためには、それが必要であることを個別具体的に示す必要があると言っている。
http://caselaw.lp.findlaw.com/scripts/getcase.pl?court=US&vol=000&invol=04-5293
この問題は、日本でも、被告人の着席位置の問題とともに、裁判員裁判が実施される前に解決しておかなければならない問題だ。現在行われているように、被告人がちゃんとした服装をして革靴を履いて出廷することが許されず、腰縄手錠で入廷させられる上、弁護人席ではなく、拘置所の看守に挟まれて、弁護人席の前や傍聴席前に座らされる運用は、無罪推定や弁護人の援助を受ける権利など被告人の様々な権利を明白に侵害しているとわたしは思う。
1月に行われた日弁連全国研修でも、わたしはこの点を力説したのだが、これから4年の間にどこまで改善されるだろうか。
今回の最高裁判決によると、量刑公判の際に、弁護人は拘束具の使用に対して繰り返し異議を述べている。「なぜなら、陪審の前でデック氏が拘束されているという事実は、彼らをして被告人が……現在も危険な人物であると思わせるからです」と。
日本の弁護士は依頼人のためにこうした異議申し立てをするだろうか。
■ 書証の取調べに同意してはならない |
全国各地で、裁判員裁判を想定した、法曹三者による非公開の模擬裁判が進行中である。関係者の話によると、公判前整理手続の場面で裁判所は、弁護人に向って、検察官の主張(「証明予定事実」)について――民事の準備書面のように――詳細な認否をさせたうえ、検察官が取調べ請求する書証を出来るだけ多く証拠に取れるように、その取調べに同意することを迫っている。それこそが裁判員の負担を軽減して「争点」に即した充実した公判審理(「重点司法」と言うらしい)をする不可欠の態度だ、と言って弁護人を説得にかかっている(というより、それを渋る弁護人を叱責している)とのことである。このような訴訟指揮ぶりは全国一律に行われており、「最高裁判所」の既定方針のようである。
しかし、「最高裁判所」(憲法に基づいて最高裁判所を構成する15人の裁判官とは別の人たちである)の真意がどこにあるかは別として、このような裁判所の意向に弁護士が易々と従うことは、裁判員の負担を軽減するどころか、彼らを公判審理から疎外し、結局は裁判員制度を形骸化する道につながるのである。
書証すなわち捜査官が用意した捜査書類が評議室に持ち込まれたとたんに、評議室は職業裁判官の独壇場になるだろう。逮捕手続書や捜索差押調書を読んだ経験のある素人がいるだろうか。法医学者や薬学者の鑑定書を一読して理解できる素人がいるだろうか。検察官の作る供述調書をさらさらと読みこなせる素人がいるだろうか。いるわけはない。これらの書証を前にした裁判員はどうするか。身近にいる専門家すなわち裁判官に、これらの書類の意味するもの、その作成過程などを一々尋ねるようになるに違いない。裁判官は丁寧に説明するだろう。
その説明の過程で、裁判官は素人に向って、それらの書証が指し示す事実(すなわち情況証拠)を解説するに違いない。こうして評議室は、裁判員の質問と裁判官の解説と教示の場になってしまう。まさに裁判官は「事実認定のプロ」として振る舞い、その権威を背景にして評議を独占してしまうのである。裁判員制度をその所期の目的に沿って生きながらえさせるためには、このような事態を絶対に避けなければならない。そのための戦略をわれわれはとらなければならない。
そのためにはどうするか。
まず、どのような場合にも書証の取調べに絶対に同意しないことである。例外はない。絶対に同意しないこと。これである。これまでわれわれは、被告人の身柄拘束の長期化を恐れて、証人尋問の範囲を「必要最小限」にするために、争いのない事実関係に関しては極力書証の取調べに同意してきた。というより、現実には、被告人の身柄の早期解放の利益を優先して、たとえ争いがあっても、事実上これに同意することを強いられてきた。しかし、裁判員裁判は集中審理方式(連日開廷――証人を次々に連続して取り調べる)が行われるのだから、書証を不同意にして証人尋問を行うことになっても、裁判の長期化はそれほど深刻ではない。それよりも、調書が評議室に持ち込まれる弊害の方が遥かに大きい。
「争いのない」事実についても、評議室のなかで裁判官が捜査書類を解説するという方法ではなく、警察官や鑑定人が法廷に出てきて証言する方を選択するべきである。こうすることによって初めて裁判員は公判審理に主体的に参加することができる。この方式を定着させることができれば、捜査官は「裁判員に説明できる」捜査をするようになるだろうし、とにかく書類を作ってしまえばよい、という発想をしなくなるだろう。取調べだけではなく、被疑者が尿を任意提出する経過など、しばしば争いになりがちな捜査過程の可視化を彼らが真剣に考えるようになるかもしれない。
誰が見ても明白な事実であり、証言を聞くのもバカらしいと思われるような事実関係についても、書証の同意という方式はとるべきではない。合意書面(刑訴法327条)を活用するべきである。検察官と弁護人が事実関係について合意してその内容を書面化し、それを法廷で朗読すればよいのだから、時間の節約になる。これこそ裁判員の負担の軽減に資する方法と言うべきだろう。
ところが、各地の模擬裁判で弁護人が合意書面を提案すると、裁判官は「それでは心証が取れない」などと言って反発するそうである。しかし、これはおかしい。両当事者が「これが真実である」と言って合意しているのに、裁判官が自ら独自の心証を取らなければならない理由はどこにもない。合意書面の内容を事実としてその先の審理をすればよいのである。合意書面に対する裁判官の態度を聞いていると、彼らが「裁判員の負担の軽減」を本気で考えているのか怪しくなる。結局、裁判官は捜査書類を評議室に持ち込むことで評議室内における自らの権威を確保したいのではないだろうか。
さて、こちらが書証の取調べに反対してもなお、書証が証拠として採用されてしまったらどうするか。その場合は、刑事訴訟法305条によって、法廷で書証の全文朗読を要求するべきである。法律上弁護人が全文朗読を要求するかぎり裁判所はそれに従わなければならないはずだ。絶対に「要旨の告知」を承諾してはならない。それを承諾するということは、書証が評議室に持ち込まれて裁判官が裁判員にその内容を解説するということを意味するからである。
そもそも法は全ての証拠調べを「公判廷」=公開の法廷で行うことを要求しているのであり、証拠を評議室に持ち込んで検討することは、特別な理由がないかぎり許されないはずである。それをする場合にはあらかじめ裁判員からその理由を示した要請が為されるべきであり、両当事者の意見を聞いたうえで、持込の可否が決定されるべきである(そのような刑訴規則の定めが是非とも必要である)。
裁判官は評議室の中において、素人の裁判員と対等の、一人の事実認定者に過ぎない。裁判官は事実認定について「意見」を言うことはできても、裁判員に向けて「解説」をする権限などない。「意見」と「解説」の区別は実際上微妙であろうが、要するに、裁判官が事実認定について裁判員よりも優れた能力を持った専門家として振舞うことは違法である。
また、裁判官が評議室の中で法の解説をすることも違法である。なぜなら、評議室の出来事は秘密とされていて、裁判官が行った法の解説を両当事者はその場で知ることができず、したがって、意見や異議を言うことが出来ないからである。裁判官が裁判員に法の解説を行い、それが違憲・違法な解説だった場合、それは当然上訴理由とされなければならない。ところが、これが公判廷でなされず、評議室で行われたのでは、当事者はその違法に気づかず違法は闇に葬られてしまうからである。だから、裁判官が評議室で法の解説をすることは、被告人から上訴の機会を奪いことに他ならないのであり、憲法に違反するのである。
要するに、裁判官は評議室においては、裁判員の同輩の1人として事実認定についての個人的な意見を言えるだけであって、証拠書類の意味内容を解説したり、法の解説をすることは違法なのである。
裁判員制度を生かすのか、殺すのか。いまが正念場である。
全国の模擬裁判関係者が今行われている実験の重要性を深く自覚し、安易な妥協をしないことを心から祈る。
■ 想像力の欠如、人間性の喪失−−控訴棄却判決を受けて |
東京高裁第10刑事部(須田賢裁判長)は、昨日、八木茂さんの控訴を棄却して、一審の死刑判決を追認した。検察庁の倉庫にあるはずの300件あまりの鑑定書の開示を一切せず、弁護人が請求する新証拠については検事が同意したもの以外のすべての取調べを拒否し、1人の証人も取調べず、再鑑定もせず、事実上何の証拠も調べず第1回公判で即日結審した。手続だけではなく、判決もスピード感に溢れていた。弁護人の控訴趣意をバサバサ切り捨てるようなそんな判決だった。1年かけて530ページの控訴趣意書を書いたわれわれ弁護人をあざ笑うかのように、裁判官は小気味よく判決文を朗読して行った。
判決は、佐藤修一さんをトリカブト毒で殺害したという武まゆみの証言は「偽りの記憶」だというわれわれの主張をただ一言「明らかに合理的根拠を欠いたもの」とだけ言って退けた。
しかし、少なくとも次のことは疑問の余地がない。――2000年3月に逮捕された後1ヶ月間にわたる否認供述を撤回して「風邪薬事件」を自白した後も、武は「佐藤修一さんは殺していない」「佐藤さんに毎日のように少しずつトリカブトをあげていたけれども、最後は佐藤さんは利根川に飛び込んで自殺した」と供述していた。刑事からしつこく追及されても彼女は半年間この供述を維持した。しかし、10月24日(逮捕の7ヵ月後)に佐久間検事から「佐藤さんがトリカブトで死んだことは科学的に間違いない」「このままの供述をしていると八木と同じ否認扱いになる(死刑になる)」と言われたことをきっかけに、武は「頭の中にあんパンの絵が浮かびました」と言いはじめ、トリカブト殺人のディテールを少しずつ断片的に供述するようになった。武は大学ノートにその「記憶回復」のプロセスを克明に記録しているが、その様子は、ロフタスの『抑圧された記憶の神話』が描く「記憶回復セラピー」の様子と瓜二つである。このノートによれば武がトリカブト殺人のストーリーを完成させたのは2000年12月半ばであり、彼女は「記憶の蓋を開けてくれてありがとう」と佐久間検事に感謝の言葉を述べている。武は2001年9月はじめから10月末にかけて法廷で、獄中ノートとほぼ同じ記憶回復過程を証言した。
《取調室の中で犯罪の記憶が捏造されることなどあり得ない、「偽りの記憶」などと言う荒唐無稽な主張はまじめに取り上げるに値しない。》第10刑事部の裁判官たちはそう言いたいようである。しかし、われわれの主張には科学的な根拠がある。催眠のような手の込んだことをしなくとも、虚偽の記憶が作られることを多くの心理学者が確かめている。そして、警察の取調べで比較的容易に虚偽の犯罪記憶が作られることを取調べの録音テープで実証している研究報告もある。われわれはこれらの研究成果も控訴趣意書の中で引用した。裁判官たちはそれらの実例と本件とがどう違うと言うのだろうか、判決は黙して語らず、ただわれわれの主張を「明らかに合理的根拠を欠いたもの」というのみである。何をもって「明らか」と言いたいのか、私には理解できない。
判決は、佐藤さんの臓器や毛髪からトリカブト毒の成分が検出されたという鑑定結果は武の語るトリカブト殺人を裏付ける客観的な証拠だという。しかし、この証拠は武が捜査官に繰り返し語っていたもう一つ別のストーリー、すなわち、「毎日少しずつトリカブトをあげていた。けれども、最後は佐藤さんは利根川に飛び込んで自殺した」というストーリーをも裏付けるのではないだろうか。そして、さらに、佐藤さんの肺や腎臓から利根川に生息する珪藻類が検出されたという鑑定結果は、まさにこのストーリーの後半部分(佐藤さんは溺死した)を裏付けるのではないか。
判決は、このプランクトン検査について、汚染防止の措置がとられていないから信頼性に欠けるという。確かに汚染防止の措置はとられていない。しかし、肺から検出された珪藻のうち小型のものばかり腎臓から検出され、肺から多数検出された珪藻が腎臓から一つも検出されていないということは、「汚染」では説明ができないだろう。汚染であれば、両者には相関関係があるはずである。この相関関係の欠如は、要するに、腎臓から出た珪藻は肺胞を通過して心臓に至ることができたものだけ(すなわち佐藤さんは溺死した)だからではないのか。判決文はこの点についても沈黙する。
われわれは、この問題に決着をつけるために、科捜研に冷凍保管されている佐藤さんの臓器を使って再鑑定することを求めた。裁判官は「必要ない」と言ってこれを却下した。そのうえで、1審で提出されたプランクトン検査結果は汚染だと決め付けた。再鑑定が無意味である証拠はどこにあるのだろうか。この態度はフェアなものだろうか。人の生死を決める判断をする裁判官のとるべき態度だろうか。
どんなに控えめに見ても、この事件は何も調べずにバタバタとやっつけられるような事件とは思えない。いまだかつて死刑事件の控訴審の審理と判決がこのようなやり方でなされたことがあっただろうか。私はその例を知らない。
■ 偽りの記憶 |
現代人文社から『偽りの記憶:本庄保険金殺人事件の真相』(定価2800円)を出版しました。著者は八木茂さんの弁護人--私のほか、松山馨、山本宜成、鍛冶伸明の各氏--です。
さいたま地裁は2002年10月に八木氏に死刑を言い渡しましたが、これは完全な誤判です。1人でも多くの人にこの世紀の大冤罪の真相を知ってもらいたいと思います。
是非本書を手にとってお読みください。書店のほか現代人文社のウェブサイトで注文することもできます。
http://202.33.140.26/genjin//search.cgi?mode=detail&bnum=20095
■ 「付添い人」って何なの? |
佐世保の「同級生刺殺事件」で家裁に送致された小学6年生の少女の付添い人は、鑑別所で少女と面会した後、記者会見をした。彼は「彼女とはまだ信頼関係ができていない」と前置きしながら、面会の際の少女とのやり取りを事細かに記者に説明した。依頼人のことを語る弁護士というよりは、まるで、評論家のような口ぶりだ。
そのニュースをラジオで聞きながら、私は、なんだか無性に腹が立ってきた。
彼女は14歳未満だから刑事責任がない。だから、「犯罪者」になることはない。しかし、大人であれば「犯罪」に相当する行為について、彼女は長期間の身柄拘束を伴う保護処分を受ける可能性がある。自分の弁護士に話したことの秘密が保たれないどころか、それがすぐさま全国民に知れ渡ることになると知ったら、彼女はその弁護士を「信頼」することなどできるわけないだろう。
ましてや、まだ初めて面会したばかりで「信頼関係ができていない」段階では、少年は、警察の圧力によって、あるいは、大人への遠慮によって、あるいはその他さまざまな原因で、弁護士にも本心を語ることができないことが多い。少年事件を取り扱う弁護士にとってこれは常識じゃあないのか。
子供の権利条約は、「刑法を犯したと申し立てられた全ての児童」に対して、弁護人の援助を受ける権利を保障している(40条2項(b)(A))。弁護人との秘密交通権は弁護権のもっとも基本的な要素ではないのか。
そして、いずれにしても、弁護士の最低限の倫理として、依頼人との間のコミュニケーションの秘密を守るというルールがあるはずではないか。この国の弁護士のなかには、この最低限の倫理すら意識せずに仕事をしている輩がいると言うことなんだろうか。
私は本当に腹が立ってきた。
■ 司法制度改革は「改悪」なのか |
The Japanese Way of Justiceの著者デイビッド・ジョンソンが、法律時報に最近寄稿した論文のなかで、今回の司法改革について「最優先の主要問題であるべき」警察の改革――取調べの録音や警察を監視する第三者機関の創設など――が除外されたことを指摘して、こう結論している。
「改革の動きの中で、警察に向かって吠えかかるべき犬が沈黙を貫いた理由は、何よりも権力の合理性に対する勝利という点に尽きる。警察は、司法制度改革において、明らかに最大の勝者であるように見受けられる。警察は(多大の権力と僅かな説明責任という)彼らの身分を変えることを望んではおらず、彼らの望み通りのものを得ようとしている。」(デイビッド・T・ジョンソン「日本における司法制度改革――警察の所在とその重要性」法律時報76-2-8、13頁(2004))
私は彼の論旨に全面的に賛成である。日本の刑事司法は警察の取調室で被疑者から自白を獲得するというプロセスに非常に大きく依存しており、その過程が不透明であることが裁判の長期化や誤判に代表されるような様々な問題を生み出している。したがって、その過程を透明化することが刑事司法改革の最優先課題とされるべきである。この問題を先送りすることを決めた審議会意見書は厳しく批判されてしかるべきである。
しかし、改革が不十分であるという指摘をすることと、改革そのものに全面的に反対しそれを阻止する運動をすることとは別である。私は今回の刑事司法改革は不十分なものであると考える。しかし、改革そのものには反対ではないし、それを阻止しようとは思わない。
政府の検討会が発表した「骨格案」によれば、不十分なものとはいえ、検察官手持ち証拠に対する開示請求のルールが定められる。そして、事実認定は官僚裁判官の独占物ではなくなる。「骨格案」によれば、合議体は裁判官3人、裁判員6人であり、評決は、合議体の過半数であり、かつ、裁判官1名以上及び裁判員1名以上が賛成しなければならない。これは、証拠開示の権利がまったくなく、評決が官僚裁判官の単純多数決にゆだねられている現在の制度よりもはるかにフェアな制度である。
繰り返すが、これは非常に不十分な改革である。しかし、どのように不十分な改革でも何もしないよりはマシである。われわれはこれまで掲げてきた目標をこれからも掲げ続ける必要がある。そして、これまで以上に改善のための努力をしなければならない。100%理想どおりの提案が出現するまでは全ての提案に反対するという態度は、いかなる改善も生み出すことはできない。それは、結局、現状を固定するだけである。
■ 韓国最高裁の「ミランダ判決」 |
韓国大法院(最高裁判所)は、本年11月11日、韓国対ソン事件で、身柄拘束下の取調べを受ける被疑者は弁護人の立会いを求める権利を有し、捜査官はその要求を拒否することができないと決定した(本サイト「資料集」参照)。
その判断の中身もさることながら、この実体判断をする前提としての手続問題についての裁判所の考え方も注目に値する。弁護人の立会い要求を拒否する検察官の措置に対して、弁護人が地裁に準抗告の申立をし、地裁がこれを認めた。この地裁の決定に対して検察官が大法院に特別抗告をしたのに対して、大法院は地裁の決定を正当だと言って抗告を棄却したのだ。
韓国の刑訴法417条は次のように定めている。
「検事又は司法警察官の拘禁、押収又は押収物の還付に関する処分に対して不服があればその職務執行地の管轄裁判所又は検事の所属検察庁に対応する裁判所にその処分の取消又は変更を請求することができる。」
詳しい経緯はわからないが、この条文は日本刑訴法430条の影響を受けた規定であることが条文の体裁からうかがえる。日本刑訴430条は準抗告の対象を「39条3項の処分または押収若しくは押収物の還付に関する処分」と言っているが、韓国刑訴には接見指定の制度(39条3項の処分)がないので、準抗告の対象となる処分は「拘禁、押収又は押収物の還付に関する処分」という言い方になったのであろう。
韓国大法院は、検察官が被疑者の取調べに弁護人を立ちあわせるのを拒否する処分をこの「拘禁に関する処分」の一つと解釈して、準抗告による救済を認めたわけである。
決定はその実質的な理由として、この準抗告の規定が「被疑者の拘禁又は拘禁中に行われる検事または司法警察官の処分に対する唯一の不服申立方法である」からと言っている。この点は日本刑訴でも事情は全く同じだ。違うのは裁判所の対応だけである。例えば、被疑者と弁護人が手紙を授受しようとするのを留置場の警察官が阻止したという事案について、日本の最高裁は、この処分は監獄法令に基づくものであって「刑訴法430条2項にいう『処分』にあたらない」と言って準抗告を認めない(最1小決平14・1・10判時1776-169)。
準抗告できないということは、「行政訴訟をやれ」と言うことである。処分の取消しを求める行政訴訟を裁判所に提出して、訴状が受理されて第1回口頭弁論期日が指定されるまでに、肝心の事件は終わってしまうだろう。準抗告を拒否することが救済を拒否することに等しいということは、おそらく最高裁の裁判官も分かっているはずである。分かっていながら、法律の条文をことさらに厳格に解釈して救済を拒否する(他方で、勾留延長に関する「やむをえない事由」とか、保釈不許可に関する「罪証を隠滅すると疑うに足りる相当な理由」のように、被疑者・被告人の権利を制約する条文については非常に緩やかで自由自在な解釈をする)。これが日本の最高裁がこれまで採ってきた態度である。
今回の韓国大法院の決定は、このような日本式厳格解釈主義をとって、貴重な権利を葬り去るという行きかたはしないことを表明したということに他ならない。
さて、韓国と日本の司法の違いを実感するために、この次に取調べ立会い要求を拒否されたら、準抗告の申立をしてみようか。
■ 参議院の附帯決議 |
7月9日「裁判迅速化法」が参議院本会議で可決され成立した。その附帯決議には注目に値する文章が含まれている。参議院は「政府及び最高裁判所は、本法の施行に当たり、次の事項について格段の配慮をすべきである」として、「2 裁判所における手続の充実と迅速化を一体として実現するため、民事裁判における証拠収集手続の一層の充実並びに刑事裁判における証人尋問中心の公判手続の実施、検察官手持証拠の事前開示の拡充に努めるとともに、取調状況の客観的信用性担保のための可視化等を含めた制度・運用について検討を進めること」と言っている。
おそらく、この附帯決議は、日本の国会が採択した文書ではじめて「検察官手持証拠の事前開示」「取調状況の……可視化」という言葉を使ったものであろう。その意味では画期的な決議なのである。
政府の検討会が取調べの可視化を本気で考えていないらしいことは、以前に書いたが、検討会の委員はこの附帯決議を重く受け止めるべきである。「審議会が先送りした議論の蒸し返しだ」などという言い訳はもう通用しない。国権の最高機関の一翼が「格段の配慮」を要請しているのだから。
■ 黒豹の雄たけび |
TBSNewsiというウェブサイトのニュースで貴重なビデオを見た。これ(下のファイル)はその一部を録音したもので、和歌山県警に設置された暴走族取締り班、通称「黒豹」の田中班長の肉声である。前半は黒豹が捕らえた暴走少年を取調室に連行した直後、彼が少年を怒鳴り付けている場面、後半は記者のインタビューに答えている場面である。
日ごろ暴走行為に明け暮れている少年でも、取調室のなかで和歌山弁で「なめてんのか。おりゃあ!」なんてやられたら、ビビッてしまうだろうというのが、私の感想である。
この場面は取調べの最初の部分であるから、田中氏はこの後少年に黙秘権を告げて取調べをして調書を作成したのだろう。どんな風に黙秘権を告げるのか。それは少年にとって権利告知として意味をなすのか。それに続く彼の供述は「任意」の供述と言えるのか。そして、田中さんは他の事件でも同じようなやり方で取調べるんだろうか。つまらない詮索をしたくなる。
それにしても、前半と後半が同じ人物であることを知っておくのは、とても重要であると思う。
■ 裁判官の人事とプライバシー |
最高裁は、4月に再任期を迎える判事1人を「裁判官にふさわしくない」との理由で指名を拒否し、その決定と決定の理由を本人に告げた。しかし、問題の判事の氏名、性別、再任拒否の理由などは「プライバシー」を理由に公表していない(http://www.asahi.com/national/update/0314/003.html)。いままで裁判官の再任拒否をしても、最高裁はその理由を本人にも告げていなかったから、理由を本人に告げたというのは――あまりにも当たり前のことだけれど――1つの「進歩」なのかもしれない。しかし、問題の裁判官の名前や拒否理由を「プライバシー」を理由に公表しないというのは全く納得できない。
どのような人がどのような理由で裁判官になれないのかは、われわれ国民にとって重大な関心事である。その理由がたとえば犯罪とか病気とか借金とか個人的には他人に知られたくない事情によるのであったとしても、裁判官という職業がわれわれの生命、自由、財産にかかわるものである以上、その「個人的な事情」は「公の関心事」である。公務員の人事のプロセスを「プライバシー」で隠蔽するというのはおかしい。
下級裁判所の裁判官は最高裁判所の指名によって内閣が任命することになっている(憲法80条1項)。しかし、これまで、最高裁の誰がどのようなプロセスでこの指名権を行使しているのか、内閣の誰がどのようにして任命権を行使しているのか、われわれには全く知らされていない。すべてが完全な密室で行なわれてきた。アメリカでは、連邦裁判官は大統領の指名と上院の承認というプロセスで任命されている。裁判官候補者は、上院の求めがあれば公聴会に出頭して宣誓のうえで証言しなければならない。候補者は議員の質問に答えなければならないのである。その関門をくぐりぬけなければ裁判官にはなれない。実際にも、多くの裁判官候補者の任命が上院で否決されてきた。日本の国会にはそのような権限はないが、最高裁や内閣が指名や任命のプロセスを国民に説明するシステムを作ることは可能なはずである。
現在政府の司法制度改革推進本部・法曹制度検討会では「下級裁判官所裁判官指名諮問委員会」を最高裁に設置することを検討している。1月15日に発表された「規則要綱」によると、法曹三者の他「学識経験者」を加えた11人で構成される委員会が指名の適否を審査することになっているが、委員会の審議が公開されることを定めた規定はないし、その結果を公表することを定めた規定もない。結局「密室」の空間を多少広げただけになるのではないだろうか。
この問題の背後には、裁判官の任命について「最高裁の指名」という官僚機構を温存するのに適したシステムを採用したことの問題とわが国におけるプライバシー概念の混乱という問題が横たわっている。いずれも一筋縄では行かない問題であり、われわれが裁判官の人事を公開の場所で議論できるようになるのは遠い将来のことかもしれない。
■ うそつきは誰だ |
埼玉県警察本部の茂田忠良本部長は先月12日の会議で、桶川事件の捜査に怠慢があったことを認めた報告書について、当時警察庁と折衝していた担当者から聞いた話として、「警察庁から『こんな報告書では世論が持たないぞ。警察にもっと非があったのだろう。非を書け』と言われて、不確かなことまで書いてしまったものなのです」と話した(埼玉新聞3月5日付)。これに対して警察庁側は「こちらから『非を書け』などと言うなんてありえない」と反発しているそうである。
これは面白いエピソードである。警察の作った報告書で警察自身が自分の非を認めているものに私は出会ったためしがない。むしろ、自分たちの行動の正当性を強調する目的で作られたとしか思えない報告書の類は腐るほどある。たしかに「非を書け」なんて「ありえない」話ではある。しかし、当時の世論を意識して、警察庁幹部が埼玉県警をスケープゴートに仕立てようとすることもありえない話ではないだろう。
真相は藪の中である。はっきりしているのは、本部長と担当者と警察庁幹部の3人のうち誰かが嘘をついていると言うことである。警察の幹部であっても、責任逃れや組織防衛のためには平気で嘘をつくことがある。残念なことに、警察官の証言だけで、被告人の言い分を簡単に退けてしまう日本の裁判官には、この常識は通じない。そういうことだ。
■ 謝罪すべきなのは裁判官だ |
2月11日付毎日新聞朝刊のコラム「記者の目」で、小林直記者は、無実の窃盗事件で逮捕され、控訴審で無罪となったものの、身柄拘束中に職を失った元会社員(32歳)の災難を伝えている。小林記者は、男性の言い分を十分に聞かずに「認めると釈放され起訴猶予になる」「認めないと拘置期間が延び起訴される」と言って自白を迫った警察官や、証拠関係を十分に吟味せずに起訴した検察官の対応を非難している。そして「警察・検察は男性に謝罪すべきだ」と結んでいる。
しかし、この事件で男性に謝罪すべきなのは、警察官や検察官ではなく、男性の勾留を決定し長い間保釈も認めなかった裁判官である。なぜなら、たとえ、窃盗の容疑で一時的に身柄を拘束されても、裁判官が勾留を認めなければ、彼は職場に復帰できたし、そうすれば職を失うこともなかっただろうからである。保釈が認められていれば、男性は「刑事被告人」として数年間裁判を戦わなければならないとしても、公判のときだけ会社を休すめば済んだはずである。その間普通の家庭生活を営むこともできたはずだ。
法律では「逃亡」や「証拠隠滅」をすると疑う「相当の理由」がなければ、被疑者や被告人は身柄拘束を受けないことになっている。ところが現在の裁判官はこの要件を恐ろしく緩やかに解釈している。罪を否認したり黙秘しただけで「関係者と通謀して証拠を隠滅する可能性がある」などと言って勾留を認めたり、保釈を拒否したりしている。今回のケースも、男性が窃盗を否認したから裁判官は勾留を認めたのである。だから、彼を取り調べた警察官が「認めれば釈放され、認めないと勾留期間が長引く」と言ったのは、全く正しい。間違っているのは法の要件を厳密に吟味せずに安直に彼の身柄を拘束する決定をした裁判官である。謝罪すべきなのは裁判官なのである。
日本のマスメディアは、「冤罪事件」が起こると必ず警察や検察の「杜撰な捜査」を批判する。その批判の全てが間違っているとは言わない。しかし、裁判官が、法が彼らに要請している役割をきちんと果たしていれば、被告人は会社を辞めたり一家が離散したりする悲劇は起こらない。裁判官が証拠を適切に吟味して「疑わしきは被告人に利益に」という刑事裁判の鉄則に忠実であれば、誤判は起こらない。「冤罪事件」の悲劇を作り出している張本人は裁判官なのだ。マスメディアは、裁判官が法を無視しているという現実にもっと目を向けるべきだ。
■ 裁判官の給料 |
日本の裁判官の給料は昨年減額されたが、アメリカ議会は連邦裁判官の給与を増額する法律を最近可決した。連邦最高裁長官のレンキストは毎年の年次報告書で、裁判官の給与とローファームで働く弁護士のそれとの格差を指摘し、このままでは多様な背景をもった優秀な法律家が裁判官職を敬遠してしまい、司法の独立が危うくなると警告を発していた。このレンキストの要請を受けて連邦議会はようやく裁判官の給与を上昇させることに同意したのである。上昇率は3.1%で、地裁判事が154,700ドル、高裁判事が164,000ドル、最高裁判事が190,100ドル、最高裁長官が198,600ドル(いずれも年俸)である。
こうして数字を並べると、日本の裁判官の給与システムとの差が歴然とする。上記のように、アメリカの裁判官の給与体系はわずか4つのランクであり、同一審級内では皆同じ額に定められている。これに対して、日本の場合は合計41のランク付がなされていて、例えば地裁の裁判官(判事と判事補)だけで20段階に分かれている。判事の最高(1号)は月額1,317,000円、判事補の最下位(12号)は月額234,700円で、6倍近い差がある。因みに最高裁判事の給与は月額1,646,000円、長官の給与は月額2,255,000円である。
古くから指摘されているように、裁判官の給与体系における細かなランク付は、最高裁事務総局による差別的な人事とともに、裁判官に対する官僚的な統制の温床となっている。システム自体が裁判官を平等に扱っていないのに、合議体に参加する裁判官同士の関係が平等に運営されると考えるのは非現実的である。しかも、日本では合議体の裁判官は判決において個別意見を執筆することも禁じられている。これでも「不自由」と感じないようなタイプの人間しか裁判官になることができないということなのだろうか。
日本の最高裁長官が、司法の独立への危機を憂えて、多様な背景をもった優秀な法律家を獲得するために給与体系の改革を求める意見を国会で述べる日は来るのだろうか。
■ 取調べの可視化 |
政府の司法制度改革推進本部の「裁判員制度・刑事検討会」の最近の「議事概要」というのを見た。ある委員が「検察官手持ち証拠のリスト化や、取調べ状況のビデオ録画の義務付けについても、公判手続の合理化の方策として議論すべきではないか。」と提案したら、別の委員が「前者は、証拠開示の方法の問題である。後者も、審議会意見は、『取調べの適正確保』の問題として議論した上で、将来の検討課題としており、それを『捜査・公判手続の合理化・効率化』の問題であるとして議論するのは、議論の蒸し返しになり適当でない。」と言ってこの提案をはね付けた。
この検討会が「取調べの可視化」を本気で議論する気がないことがこの議論でよく分かる。取調室の中で拳銃が発射され被疑者が死亡したという事件が起こっても、取調室を「ブラック・ボックス」のままにしておいてもいいと考えている人たちが、われらの代表としてこの国の明日の刑事司法を議論しているのである。
国連の人権委員会の勧告という「外圧」も効果がなかった。そして「検討会」がこのありさまである。この問題の改善のためにいったいわれわれは何をしたらいいのか。昭和のはじめに警察での取調べのひどさを国会で取上げて「人権蹂躙問題」として厳しく追及した国会議員が何人もいた。そういう国会議員はいないんだろうか。
■ 接見禁止の異常な事態 |
最近やたらと接見禁止がつくケースが増えている。過去10年間で10倍に増えた(朝日新聞02/6/22)。以前はついても「公訴の提起まで」というのが普通であったが、最近は公訴提起後も接見禁止がつき、1審判決後もついたまま(解除を認めない)というケースまである。これはかなり異常である。
接見禁止をされた人は親族や友人知人と会ったり手紙のやり取りができず、精神的に孤立する。そして、自分の無実を人々に訴える術を失う。それは個人の表現の自由を全面的に剥奪するのである。現代の官僚裁判官はこうしたことに対する人間的な感受性を失いつつあるのではないか。私にはそう思えてならない。