6日は広島の原爆死没者慰霊式、9日は長崎だ。
毎年、この時期になると、なんとも鬱陶しい思いになる。
「核廃絶」という言葉が、いかに意味もないまま、安易に使われているか。その情緒性が嫌悪感をすら催させる。
原爆被災者の苦しみは痛いほど分かる。いまなお後遺症で苦しんでおられる方も多い。そのことに思いをはせないわけではない。
だが、そのことと政治家が発すべき言葉とは区分けして考えたい。
「核攻撃から市民を守る唯一の手段は核兵器の廃絶です」
秋葉忠利広島市長は、平和宣言で今年もまた、こういう表現をした。
気持ちは分かる。誠実な思いであることも分かる。
だが、政治家としては、まったく無意味な内容であることに気付かなくてはいけない。あるいは気付いていて、それでもなお、こういう空疎なことを述べるのならば、これはだれかが指弾しなくてはならない。
いまの日本を取り巻く安保環境の中で、政治家として言うべきはこういうことではないか。
「北朝鮮の核攻撃から国民を守る唯一の手段は、日本が核兵器を持つことです」
あるいは百歩譲って、
「アメリカの核の傘が本当に有効に機能するために、日米同盟をいっそう堅固なものとすることです」
これくらいのことをいえば、国際政治のイロハを認識したうえでの政治家として責任ある発言ということになる。
「核廃絶」というのは空想的な理想論でしかない。もし、核廃絶が現実のものになったら、それこそ日本は核攻撃の危機にもろにさらされることになる。
核廃絶という状況下では、「核を隠し持っているもの」が君臨するのである。現状では北朝鮮であることはいうまでもない。
P5といわれる国連安保理常任理事国(米英仏露中)の核兵器とそのほかの核保有国とは意味が違う。
P5は、核管理、核軍縮の舞台に乗っている。核バランスをはかりながら、周到に核軍縮を進めてきてもいる。P5のうち、1国でも核廃絶に踏み切ったら、世界の核バランスは一気に壊れ、すさまじい国際緊張の時代となる。
仮に核廃絶の理想郷が実現したとして、次に脅威となるのは、生物化学兵器だ。これも隠し持っているものが絶対的な優位を確立することになる。世界はその国にひれ伏さなくてはならない。
したがって「核廃絶」というのは空想的プロパガンダではあっても、現実の政策目標としてはなじまない。政治家はそこを見据えないといけない。
秋葉市長は対人地雷やクラスター爆弾の禁止についても高く評価した。日本の防衛安全保障力をそぐことになるという厳粛な事実を分かっていないのであろう。
日本の安全保障政策は、国際政治、周辺環境の現実に基づき、たゆまぬ外交努力、防衛力整備によって、初めて可能になる。その冷徹な次元では「核廃絶」はなんらの意味も持たないのである。
by 故郷求めて
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