「人生はギャグ」を信条に生き、酒を愛した自由人でもある漫画家の赤塚不二夫さんが2日、その天真らんまんな生涯を閉じた。97年末に食道がんとわかっても、「ストレス解消の薬だから」と酒もたばこもやめなかった。がんを公表した時も、焼酎のお湯割りを飲みながら、「シェー」のポーズをするなど、ギャグに生きギャグに死んだ人生だった。【内藤麻里子】
デビュー作は少女漫画。徐々にギャグの本領を発揮し出し、62年「少年サンデー」に連載を始めた「おそ松くん」が大ヒット。イヤミというフランスかぶれの変な人物が言う「シェー」がブームに。他にも「ケムンパス」「バカボンのパパ」などユニークなキャラクターを生み、「ニャロメ」は70年前後の大学紛争で反体制のシンボルとなった。作品は次々とテレビアニメ化され、「ニャロメ」「レレレのレ」などの流行語を生んだ。
65年にブレーンを務める長谷邦夫さんら仲間と「フジオ・プロ」を設立。長谷さんや編集者らとギャグを徹底的に練る「アイデア会議」で作品を作り込む作業を続けた。アシスタントから古谷三敏さん、北見けんいちさんらを輩出した。
人気漫画家になってからの遊びっぷりは破天荒だった。東京・新宿を足場に大いに飲み歩き、ジャズの山下洋輔さん、作家の筒井康隆さん、映画監督の山本晋也さんなど幅広い交友関係を持った。そんな中からタレント、タモリさんを見いだした話は有名だ。ジャズ・フェスティバルのプロデュースやミュージカル・コメディーの演出など多方面に才能を見せ、前夫人公認のもとで再婚するなど話題にも事欠かなかった。
98年秋、紫綬褒章が決まった時の会見では、電話で連絡がきた際に「何でオレみたいなバカにくれるの?」と聞いたという。「だって酔っぱらって警察のお世話になったこともあるしさあ」などと説明した後、「これでいいのだ!」とバカボンのパパのセリフを言って笑わせた。ギャグ談議は続き、「とにかくみんなを笑わせたいということから始まって、チャプリンやキートン、ダニー・ケイなどから学んだものを消化して作品に取り入れただけ」と自作を語っていた。
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東京都新宿区の赤塚さんの自宅兼事務所には、午後11時過ぎ、同区内にあるジャズクラブ「J」の経営者、バードマン幸田さん(62)が駆けつけた。タモリさんとの共同経営の店で、「赤塚さんには助けられた。こんなにいい人はいない」と声を詰まらせていた。
(がんを公表後)イベント会場でお会いした時、医者にお酒を止められているのに「ビールぐらい大丈夫だよ」と飲んでいた。「らしいな」と思った。喪失感を、ひしひしと感じている。
ギャグのセンスはハリウッド的で日本人離れしていた。実験的な小説を理解できる文学性もあり、僕の小説「家族八景」を漫画化してくれた。医者に酒を止められてもがぶがぶ飲み、病気を治していたので、死なない男だと思っていた。
覚悟はしていたがショックだ。出身が同じ奉天(現・瀋陽)で、ちばてつやさんらと「中国引き揚げ漫画家の会」をつくった。いつも明るい酔っぱらいで仕事の話は全然しなかったけど、「残り少ない人生をどうする」という話をした時、2人とも「目が見えない人のための漫画を描きたい」と同じことを考えていた。赤塚さんは点字付き絵本を出した。元気だったらもっと出せたのにと思う。
トキワ荘時代はおとなしかったが、ある時期から吹っ切れたようにギャグ漫画を描き、大ブレークした。漫画も行動もユニークで、面白いことが大好きな人。最近、病院へ行かなくてはと思い娘さんに手紙を書いた。彼を越すギャグ漫画家は今後なかなか出ないだろう。「お疲れさま」そして「安らかに」。
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56年 嵐をこえて
※漫画家デビュー
58年 ナマちゃん
62年 おそ松くん
(65年第10回小学館漫画賞)
62年 ひみつのアッコちゃん
67年 天才バカボン
(72年第18回文芸春秋漫画賞)
67年 もーれつア太郎
毎日新聞 2008年8月3日 東京朝刊