2006年3月19日(日)
「電話番号とインターネットの解約の方は、今週中に私が責任を持って済ませておくわ。 True* で働いている高校時代の友達が『旅券のコピーと委任状があれば解約できる』って言ってたから、とにかくホテルに戻ったらすぐに委任状を書いてよね。面倒くさいとか言って先延ばしにしてると、ホントウに忘れて数ヶ月後には料金未払いでブラックリスト入りよ」
* 旧 Telecom Asia 株式会社。一般加入電話のほか、携帯電話(旧Orange)やインターネットビジネスを手がけているタイの大手通信会社。
リヴァーシティー・スィープラヤー船着場(スィープラヤー第2船着場) ท่าเรือ ริเวอร์ซิตี้ สี่พระยา 、午後9時15分。周囲にはオリエンタルやペニンシュラなどの高級ホテルが建ち並び、水と光によって作られたコントラストが夜の幻想的な雰囲気を見事に演出していた。正面には今月開業したばかりのホテル「ミレニアム・ヒルトン」が見える。
僕はバンコク最後の夜をホテル「ミレニアム・ヒルトン」で過ごすことにした。タイ史における主要な歴史的舞台とされてきたヂャーオプラヤー川の水辺に陣取って、ワットプラゲーオ(エメラルド寺院)をはじめとする歴史的建造物や、トンブリー朝開闢以来239年もの歴史を刻み続けてきた旧市街を眺めながら、約4年半に渡るバンコク留学を総括してみるのもまた一興だろうと考えたからだ。そして、僕たちは遊覧船に乗ってヂャーオプラヤー川を北上しながら、今日までのバンコク留学生活を振り返ってみることにした。
今から4年5ヶ月前の2001年10月末日、僕は某金融機関を退職した。一部の悪意ある読者によって、「ケイイチは消費者金融業界に身を置いており、人間関係に失敗した結果、退職を余儀なくされた」という風説がしきりにインターネット上で流布されているが、それは僕を貶めるために捏造された根拠なき中傷にすぎない。僕が辞めたのは、一流ではないにしてもフツウに預貯金のできる金融機関であったし、退職理由も「自分が所属していた情報処理部門が子会社化され今後の経営が危ぶまれたため」というもの。決め手となったのは、金融機関の職員に IT 系企業のやり手社員と競争できるほどの情報処理技術があるはずもなく、将来に渡る安定した就業に強い懸念が残るというものだった。こうして、僕は今後の転職型労働市場で生き残るためにも、なんとかして他の分野での職能を極めなくてはならないという必要性に迫られた。
2001年11月7日深夜、僕は日本人専門家層の薄い東南アジア諸語を学んで、その能力を今後の生活の糧にしようと、大きな旅行カバン片手にバンコク・ドーンムアング国際空港に降り立った。日タイ交流を目的とするオンライン掲示板で知り合ったスィーナカリンウィロート大学の学生達に空港まで迎えに来てもらい、無理を言ってその後のアパート探しまで手伝ってもらった。さらにタンマサート大学の学生と同棲することで、留学のパフォーマンスを最大限にまで高めた。今日の成功は、すべて留学初期にこうした良質な友人達に恵まれたおかげだと思っている。
2002年1月、現在に至るまで「外国人向けのタイ語教育カリキュラム」としては最高峰として知られる、ヂュラーロンゴーン大学文学部主催のタイ語講座「インテンシブタイ」が始まった。1日あたりの新出単語はなんと100語。さらに、5週間毎に実施される進級試験で6割以上の得点を取れないと放校処分になるという厳しい規則もあった。当初は「わざわざ会社を辞めて遙々タイまでやって来て、それで放校されてしまったとあったらあまりにも無様すぎる」と必死になって頑張ったが、次第にスパルタ教育の重圧にも慣れていき、最終的に無事修了することができた。この段階で、辞書なしで新聞記事をすらすらと読めるようになっていた。
2003年3月、大学院へと進学しようとタイ・東南アジア研究室に願書を提出しに行ったところ、英語力の不足を理由に入学を拒否されてしまった。こうして予定通りに事を運べなくなった僕は、3つの選択肢から1つを選ばざるを得なくなった。ひとつは「タイ語が話せる第二新卒」として日本での再就職を目指すこと。もうひとつは「タイ在住日本人としては類い希なるタイ語使い」(タイ在住の平均的な日本人のタイ語力は驚くほど低い)として現地採用のキャリアを形成することだ。しかし、僕は目的達成のための最短経路として、もうひとつのアメリカ・ロサンゼルスへの語学留学という道を選んだ。どんな困難があっても、初志を貫徹することこそが肝要だと考えたからだ。
ここまでが、僕の「バンコク留学生」としての前半部分だ。その1年半のあいだには、十数行で語り尽くすことのできない様々な出来事があったが、それでも簡単に振り返ってみると、だいたいこんなカンジになるだろう。日本とタイとの文化的な違いに、日々驚きの連続だった。
引き続いて、僕の「バンコク留学生」としての後半部分を振り返ってみたい。
2003年5月、僕はカリフォルニア州ロサンゼルス郡アルハンブラ市にある英語学校 Language Systems へと通い始めた。タイ語留学時代に比べると退屈で平凡な毎日だったが、それでも典型的とも言える語学留学生の生活を満喫することができた。ただ、僕がフツウの日本人語学留学生と違ったのは、タイ人の共同住宅へと転がり込み、英語でも日本語でもなくタイ語で日常生活を送っていたということかもしれない。
2003年10月、ヂュラーロンゴーン大学主催の TOEFL 互換英語能力検定 CU-TEP で所定の基準を満たし、無事、僕はヂュラーロンゴーン大学大学院東南アジア研究科修士課程への進学を果たした。一部の悪意ある読者によって、「ケイイチは金を使って裏口入学しただけだ」とか、「東南アジア研究科は外国人から金を取るために開講された講座である」とかいう風説がしきりにインターネット上で流布されているが、それらは僕を貶めるために捏造された根拠なき中傷にすぎない。そもそも、タイの国立大学に不正入学をするなど、よほどの強大な権力と莫大な富を持っていない限り到底できるようなものではない。タイの大富豪で現職の総理大臣でもあるタクスィン・チンナワット警察中佐などは、娘をヂュラーロンゴーン大学に押し込むために、(入試の得点や高校の内申点を金で買えなかったが故に)なんと学部長に掛け合って出願基準を変更させたほどだ。・・・そんなこと、僕のような一般市民にできるはずがない。それに、東南アジア研究科に所属する学生の大半がタイ人であるということからも分かるとおり「外国人向けの講座」という指摘は誤りであるし、タイ人学生からも多くの学費を取っているという点から「外国人から金を取るための講座」という指摘もあたらない。タイ教育省からの助成金を受けられない外国人学生はタイ人学生の2倍弱の学費を納めなくてはならないが、この研究科の学費が高額であるそもそもの理由は、政府の高官や著名な学者を次々と招いたり、国内外への研究旅行がいろいろと企画されているため、他の講座よりも多くの経費がかかっているからにすぎない。
このブログを始めて3年7ヶ月が経過した2004年6月、僕は2ちゃんねるの麻薬売春関連掲示板「危ない海外」での本格的な中傷に晒されるようになる。この件について、現状では2005年11月1日付けのバンコク留学生日記「タイ沈没の悲劇をかいま見る その2」で分析した範疇を超えていないようなので、ここで新たに論じることは特にない。
(6月11日追記: 2ちゃんねるでの誹謗中傷のなかには、「ケイイチに好意的でない大使館員と会った」などといった、僕自身にはその信憑性を測ることのできないような脅しも数多くあったが、「ケイイチは妾の息子だ。証拠品として戸籍謄本のコピーを入手してある」と言われるようになってから、実のところ僕は密かにほくそ笑み胸をなで下ろしている。戸籍謄本には、両親に離婚歴がないことや、僕が嫡出子であることがしっかり明記されている。なあんだ。2ちゃんねるに僕を貶めるためのスレッドを立てた中傷者がいままで主張していたような「裏情報」も「動かぬ証拠」も全部ハッタリだったんだってカンジだ。いやあ、よかった、よかった)
それ以降、僕はそれまでずっと疑問に思っていた「日本人によって語られてきたタイ人像」の真偽について、さっそく調査にあたってみることにした。このようなセンシティブな問題を扱うと、娼婦スタンダードでタイを語ってきたような自称タイ通らに何を言われるか分かったもんじゃない思って差し控えてきたが、売買春関連のウェブサイト管理人や掲示板投稿者らに好き勝手なことをいろいろと言われるようになってから、僕も誰に気兼ねすることなく読者に訴えたいことを自由に書けるようになった。そこで、それまで一般のタイ人に限定されていたの調査対象を、一気に日本人向けの夜の歓楽街「タニヤ」にあるカラオケスナックやタイ人向けの高級キャバレーで働く娼婦達にまで広げた。こうして、僕は興味深い発見の数々に出くわすことになる(日記形式でシリーズ「微笑みの国タイランドと厳しい現実」に収録)。
「タイ人の全体像は、いままで数多くの日本人達によって娼婦との体験だけを元に語られてきた。このとき、一般のタイ人の存在は完全に黙殺されてしまった」
こうした結論に結びつくような要素を発見をするたびに、僕はそのことを嬉々として日記というかたちで書き殴った。まったくもって気分爽快だった。おかげで、僕もバンコク日本人社会に関するちょっとした専門家になれた。
ヂュラーロンゴーン大学は世界ランキングで50位前後にあり、日本の京都大と一橋大のちょうど中間くらいに位置するタイにおける最高学府とされている。そして、僕が所属していた東南アジア研究科は、この大学における中の中程度の難易度にある専攻分野だ。僕の GPA は3.0 (日本でいう平均評定 4.0 または「優」に相当)をほんの少しだけ上回る程度だった。
研究室における僕の存在は、単なる「凡庸な学生」のひとりにすぎなかった。それというのも、タイの最高学府や世界各国の有名大学を卒業して、奨学金を得て研究に従事している学生達が大半を占めているような研究室で、僕のようなフツウの留学生が頭角を現すことなど所詮無理な話だったのかもしれない。それでも、そんな彼らが「継続履修のための最低 GPA」を下回って次々と除籍処分を受けていくなか、なんとか修了まで漕ぎ着けることができただけでも十分に満足すべき成果ではないかったかと思う。
2005年11月中旬に英文50ページの最後の大型ペーパー(学期末小論文)を提出して以降(僕はこの学期に100枚弱のペーパーを提出した)、僕は2月の修了認定試験を受けるまで自由の身になった。最後の1学期(2548年度後期、2005年11月~2006年3月)は履修登録をしなかったため学費が大幅に減免され(なんと93%引きだ)、余った金と時間を利用してレーシック(視力矯正手術)を受け地方都市への旅行を繰り返した。好奇心の赴くままに自由に行動してみるというのも、いろいろと学ぶべきものが多くてなかなか有意義なものだ。
そして、バンコク留学最終日前夜を迎えた。大家の好意で退去期限を1日延期してもらったコンドミニアムを昼過ぎに出て、友人のクルマに大きな旅行カバン5つを詰め込み、今晩の宿泊地ホテル「ミレニアム・ヒルトン」(一泊3,000バーツ)へと向かった。友人とともに遊覧船に乗ってヂャーオプラヤー川を北上しながら夕食を取り、ホテル最上階のラウンジでバンコクの夜景を眺めながら軽く一杯飲んで客室へと戻った。