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秘史・日本の原爆研究(1)零戦技術から「遠心分離」2008/08/04配信
(編集委員 久保田啓介) 立命館大学名誉教授の加藤隆平(89)は大阪府高槻市の自宅の書斎に、その論文を大切に保管している。タイトルは「不純アルミニュームを使用せる超々ヂュラルミンの研究」。終戦前年の1944年夏から冬、住友金属工業名古屋軽合金製造所(現住友軽金属工業)で書き上げた論文だ。 「間もなく終戦になり、米軍に接収されたら困る研究資料はほとんど焼き払った。大切な資料だけ隠され、2、3年後に同僚が返してくれたので、復刻製本したんです。その研究が旧京都帝大の原爆研究の一部だったとは、当時はまるで知りませんでした」 ●「原爆」と知らず 三重県出身の加藤は42年4月に京都帝大理学部物理学科に入学。翌年10月、実験物理学教授、荒勝文策の研究室員となった。そのころ荒勝が旧海軍から原爆計画「F研究」を委託されていたことを、加藤はまったく聞かされていない。
「研究所長は五十嵐勇さん、課長は北原五郎さん。ともに超々ジュラルミン開発の功で軍から2万円の報奨金をもらったとうわさになっていた。今なら8000万円ぐらいでしょうか。荒勝先生から住友金属に行ってくれ、と命じられたとき、当然、飛行機材料を研究するのだと思いました」 戦況悪化で物資が極度に不足し、超々ジュラルミンに不可欠な高純度アルミの入手が困難になっていた。加藤は五十嵐から、鉄やシリコンが混ざった低純度アルミでも、超々ジュラルミンを作れる技術の開発を指示される。 「銃剣を構えた憲兵が目を光らせ、開発を急げと無言の圧力をかけてくる。毎朝6時半に出勤し、小学校卒の助手2人と熱いるつぼの前で汗だくになって実験しました」 「兵隊に取られた兄貴が電気化学専門で、ふと読んだ兄の本がヒントになりました。マグネシウムを混ぜると不純物を消せると……。がむしゃらに実験したら1カ月ほどで超々ジュラルミンができたんです」 同年9月、京都帝大を卒業した加藤はそのまま住友金属に就職。やがて自身がそこに派遣されたのは別の目的のためだったと知る。 同年11月ごろ、荒勝研の講師、清水栄(後に京大教授)が加藤を訪ねてきた。「キャビネ判の写真の束をドサッと置いて『これを読んでくれ』という。スウェーデンの化学者スヴェドベリ(1926年ノーベル化学賞)の『超遠心分離法』の論文だった。コピー機がない時代だから1枚ずつ写真に撮り、全部で70−80枚あったと思う」 遠心分離法とは、容器を高速回転させると重い物ほど外に飛び出す原理により、比重の違う物質をより分ける技術だ。 ●当時の最先端 加藤はいぶかしく思った。「高速回転する容器には軽くて丈夫な材料が欠かせず、超々ジュラルミンに目を付けたのは分かる。でも、何に使うのですか」。清水は答えた。「君は良い材料を提供してくれればよい。装置製造の発注先はもう決まっている」。加藤は清水に請われるまま、できたばかりの長さ約1メートル、直径約10センチの超々ジュラルミンのインゴット(鋳塊)2本を荒勝研に送った。 戦争は破局に近づいていた。45年6月、名古屋空襲で住友金属の工場は壊滅的な被害を受けた。開発陣は豊橋に逃げるが、そこもすぐに爆撃された。 終戦後の9月、軍需工場解体で加藤は職を失い、1年後、三重県立医専(現三重大医学部)で物理の講師になった。しばらくして恩師・荒勝や清水らの話から真相を知る。荒勝が海軍から委託された「超遠心分離法ウラン濃縮」の新材料開発が自分の任務だったと。 「荒勝先生はサイクロトロン(円形加速器)の建造で住友金属から大型磁石用の鉄材を供給されていた。住友金属から荒勝研の若手を欲しいという要請があり、それで私が派遣されたようです。鉄材と引き換えだったのでしょうか……」 58年、加藤は立命館大助教授に迎えられ、荒勝を追うように加速器の建造や核物理の研究に携わった。 加藤は振り返る。「戦後は高純度アルミが手に入るようになり、私の技術はお蔵入りになってしまった。でも、当時最先端の研究だったと自負しています」 「結果として軍事研究にかかわったのかもしれないが、そんなふうに考えたこともない。荒勝先生はノーベル賞を取ってもおかしくないくらい独創的で、人間味あふれる学者だった。先生の知遇を得たことを生涯誇りに思います」=敬称略 ▼超々ジュラルミン アルミニウムと亜鉛、マグネシウム、クロムなどからなる合金で、軽くて引っ張り強度が大きいなど優れた性質をもつ。1936年、住友金属工業伸銅所(現住友軽金属工業)が開発。零戦の構造材に採用され、飛行性能を飛躍的に高めた。現在も航空機のほか機械部品や車いすなどに使われる。 ●核分裂の基礎研究でも先駆的 欧米の科学者が原爆研究に乗り出す契機となったのが1938年、ドイツの核化学者オットー・ハーン(44年ノーベル化学賞)らによるウランの核分裂の発見だった。 ウラン235に中性子をぶつけると、原子核が壊れてエネルギーを発生すると同時に、新たな中性子が生まれる。これが別のウラン原子核にぶつかると玉突き式に「核分裂連鎖反応」が起こり、爆発的なエネルギーを取り出せる可能性が示唆された。 日本でも39年、京都帝大の荒勝教授の下、萩原篤太郎講師(後に広島大教授)が核分裂1回で2.6個の中性子が発生することを突き止めた。ハーンの実験から1年弱、世界に先駆けた成果で、海軍第二火薬廠(しょう)で講演するなど軍部にも報告した。 海軍が原爆研究「F研究」を荒勝教授に正式委託したのは43年5月とされる。天然ウランに0.7%しか含まれないウラン235の濃縮技術が主要テーマだった。陸軍が42年ごろ、理化学研究所の仁科芳雄氏に委託した「ニ号研究」では「熱拡散法」と呼ぶ濃縮法を研究中で、荒勝研は遠心分離法を選んだ。 荒勝教授が41年ごろに着手したサイクロトロンの建造もF研究に組み込まれ、海軍が建造費や資材を支援。海軍は上海の闇市場でウラン化合物130キログラムを調達し、荒勝教授に提供したことも分かっている。 戦後の欧米の研究ではウラン核分裂で生じる中性子は2.4―2.5個と計測され、荒勝研の実験の正しさが裏付けられた。ただ研究は基礎段階にとどまり、ウラン鉱石入手のめどが立たないこともあり、中断を余儀なくされた。 ●戦況悪化、材料開発段階で頓挫 京都帝大のウラン濃縮遠心分離法の研究は不明な点が多いが、装置の設計図が現存するほか、製造を航空計器メーカーの東京計器製作所(現トキメック)に発注したことが分かっている。加藤氏の証言で、荒勝教授は住友金属工業の協力を仰ぎ、装置実現のカギを握る超々ジュラルミンの開発を進めたことが明らかになった。 荒勝教授の部下だった清水栄氏(当時講師)らの戦後の証言によると、F研究では毎秒15万回で高速回転する遠心分離器の開発を目標に掲げた。通常の軸受けでは摩擦が生じて到底不可能なため、回転容器を磁力で浮かす方式や、絶えず空気を送って浮かせる「エアクッション方式」が検討されたという。 だが加藤氏の証言にもあるように、戦況悪化により材料開発の段階で頓挫。試作機製造にも至らなかったとみられる。「荒勝教授は実際に装置を作るよりも、超高速回転メカニズムの科学的探求に関心があった」という見方もある。
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