漫画家・赤塚 不二夫さんの告別式 タモリさん「わたしもあなたの数多くの作品の1つ」
2日に肺炎のため亡くなった漫画家の赤塚 不二夫さんの告別式が、東京・中野区の宝仙寺で営まれた。
赤塚さんを肉親以上に慕っていたタレントのタモリさんが、その思い出をかみしめるように、そして敬愛の念を込めた弔辞を述べた。
弔辞で、タモリさんは「わたしがお笑いの世界を目指して九州から上京して、歌舞伎町の裏の小さなバーでライブみたいなことをやっていた時に、あなたは突然、わたしの眼前に現れました。その時のことは、今でもはっきり覚えています」、「『君は面白い。お笑いの世界に入れ』」、「自分の人生にも、他人の人生にも、影響を及ぼすような大きな決断を、この人はこの場でしたのです。それにも度肝を抜かれました。それから長いつきあいが始まりました」、「深夜までどんちゃん騒ぎをし、いろんなネタをつくりながら、あなたに教えを受けました。いろんなことを語ってくれました。お笑いのこと、映画のこと、絵画のこと。ほかのこともいろいろとあなたに学びました。あなたがわたしに言ってくれたことは、いまだにわたしに金言として心の中に残っています。そして、仕事に生かしております」、「あなたはわたしの父のようであり、兄のようであり、そして時折見せるあの底抜けに無邪気な笑顔は、はるか年下の弟のようでもありました。あなたは生活すべてがギャグでした」、「あなたの考えは、すべての出来事、存在をあるがままに、前向きに肯定し、受け入れることです。それによって人間は重苦しい陰の世界から解放され、軽やかになり、また時間は前後関係を断ち放たれて、そのときその場が異様に明るく感じられます。この考えをあなたは見事に一言で言い表しています。すなわち『これでいいのだ』と」と述べた。
多くのキャラクターをつくり上げ、数々のギャグを生み出した漫画家の赤塚 不二夫さん。
7日に営まれた告別式には、タモリさんをはじめ、1,200人が参列した。
小松政夫さん(66)は「『葬式にふさわしくない顔をしたのが映っていた』と言われたんでね。楽しかったことを思い出しながら、そんな顔になったのかなと思ったりなんかしましたけどね」と話した。
楳図 かずおさん(71)は「実際、漫画家に接しますと、あんまり面白い方がいらっしゃらなくて、それで言いますと、赤塚さん、本当にご自身で漫画そのものをやってらっしゃったというところがあって、あー、すごいなって、僕もそんなふうになりたいなというふうに思いましたね」と話した。
弔辞の中で、タモリさんは、1985年に海で遊泳中に亡くなった、たこ八郎さんの葬儀で、葬儀委員長を務めた赤塚さんの思い出を述べた。
タモリさんは「たこちゃんの葬儀の時に、大きく笑いながらも目からぼろぼろと涙がこぼれ落ち、出棺の時、たこちゃんの額をピシャリとたたいては、『このやろう、逝きやがった』とまた高笑いしながら、大きな涙を流してました。あなたはギャグによって物事を動かしていったのです」と述べた。
祭壇には人気キャラクターが赤塚さんを囲み、照れくさそうに笑う赤塚さんの遺影は、長女・りえ子さんが一番好きな写真を選んだという。
ひつぎには、赤塚さんが愛した猫「菊千代」と一緒に写った写真と、アイデア帳、鉛筆、そして「天才バカボン」の漫画本が納められた。
そして、会場にはファンの献花台も設けられ、炎天下にもかかわらず、赤塚作品を愛したファンが多く訪れた。
タモリさんは「あなたは今この会場のどこか片隅に、ちょっと高いところから、あぐらをかいて、ひじをつき、ニコニコと眺めていることでしょう。そしてわたしに、『お前もお笑いやってるなら、弔辞で笑わせてみろ』と言っているに違いありません。あなたにとって、死も1つのギャグなのかもしれません」と述べた。
タモリさんのお笑いの才能をいち早く見いだした赤塚さん。
弔辞の際もタモリさんは、「わたしは人生で初めて読む弔辞が、あなたへのものとは夢想だにしませんでした。わたしは、あなたに生前お世話になりながら、一言もお礼を言ったことがありません。それは肉親以上の関係であるあなたとの間に、お礼を言うときに漂う他人行儀な雰囲気がたまらなかったのです。あなたも同じ考えだということを、他人を通じて知りました。しかし、今お礼を言わさせていただきます。赤塚先生、本当にお世話になりました。ありがとうございました。わたしもあなたの数多くの作品の1つです。合掌。平成20年8月7日、森田一義」と締めくくった。
(08/07 13:26)