◎ 敗戦下の満洲〜帰国
◎ 敗戦直後の奉天
【テキスト】『元治元年の全学連』(1968.03)
- この一文は敗戦直後の奉天事情を書いたもの。これ以降、氏は何度もこの当時の実情を訴えることになるが、再デビュー当初に書かれたこの追懐文はそれら後に書かれた文に
比べ比較的丁寧に書き込まれている。
・ソ連軍側の動きについて(→クラフチェンコ司令官)
- そこでは一日に何人も死んでいった。ひどい日には二十人も動かぬ屍体になってしまった。発疹チフスが蔓延していたからである。まだ死なないまでも、もう死ぬことになっているどす黝い人間が、蓆の仕切りの中には、まるで風に吹きよせられた病葉か、すでに腐土になりかけた朽葉のように重なりあっていた。よどんだように屍臭が、そこには渦をまいてたちこめていた。
一九四五年の秋、今では東北とよばれている当時の満州国の奉天市。いや、もうその時は瀋陽という名になっていたが、中心街区の春日町の北。つまり奉天駅から放射線の大通りになっている浪速通りと交叉する向こう側に、日露戦争後に建立された「春日神社」と「北春日小学校」があった。
奉天の日本人街は平安広場先の青葉町方面が住宅区域であるなら、この春日町一帯は商業地域で富裕な一角となっていた。だから八月十五日の終戦に先だって、十二日にソ連軍が国境を突破して進入すると十四日から奉天駅前を皮切りに毎日四町四方ぐらいの割で、当時の満人が馬車を列ねて襲撃にきた。家財はもちろん床板まで剥がしてもっていった。略奪騒ぎである。だから初めは、家を壊され奪われてしまった邦人の収容所に、その北春日小学校の校舎は充当されていた。
しかし九月に入って、赤旗をつけたソ連戦車が進入してくる頃になると、衣服や荷物も奪われて麻衣に孔をあけて首だけだした邦人や、よれよれの満服をきた開拓団の生き残りが、まるで獣のように四つ足で疲れきって温かい南へと奉天へ這いつくばって流れこんできた。
奉天の市街は南部は住宅街で、暴動の襲撃を恐れて硝子戸には板をはり戸口も釘づけだった。住んでいる日本人は裏口や屋根を伝って外部とは殆んど没交渉に、まるで殻をしめた貝でもあるかのように暮らしていた。たとえ同じ日本人でも見知らぬ者は拒んでよせつけなかった。だから、、奥
地の難民は、暴動の巷となっている北部の春日町から浪速通りへと集まってきた。混乱しきっていた。もちろん浪速通りの中央郵政局脇や駅前には「派出所」の名目で十名位ずつの巡査はいたが、「警察」という国家権力の名の許に、付け届けをしない人民には、あくなき苛斂誅求をし、勝手に逮捕したり無実の罪を作りあげて陥れていた彼ら警官は、八月十五日の終戦の放送が入ると、すぐさま官服をぬぎ捨て逃亡。一人残らず家族を伴って官舎からも姿を昏ましていた。それでも九月の末には警察総局や各派出所は一斉に襲撃されて、どうして残っていたのか、まだ官服をきた儘の日本人の警官が八人余り見つけ出されて、満州中央銀行前のポプラ並木に一人ずつ首を吊らされて一列横隊にだらりと並ばされていた。すると当時の占領軍は「日本敗残兵の襲撃」と発表し、「旧日本兵の逮捕」つまり「男狩り」というのが十月一杯まで続いた。だから北春日小学校の教室を分割した収容所へ、奥地から引揚げてきた女子供の中へ身を匿す為に脱走兵が混入してきて、俄か作りの夫婦も多くできたようである。
- 【写真上:奉天駅と駅前広場(藤川宥二監修『さらば奉天』より)】
- 【写真:奉天駅前広場から浪速通りを望む(同上)】
- 【写真:春日町(同上)】
- 【写真下:春日小学校(同上)】
- 八切氏は一貫して“北春日小学校”と表記するが“春日小学校”が正しいらしい。
しかし十月に入ると満州は零下十度の寒さになってしまう。そして、おまけに発疹チフスの猖獗である。次々と収容所の日本人は屍体になっていった。
終戦までは奉天の日本人墓地は北陵にあった。しかし、その頃の状態では、とても屍体はそこまで運んでゆけるものではなかった。
満人を苛めたのは軍と警察で、その被害はなにも彼らだけではなく、無力の在留邦人も、やはり軍人と巡査に虐げられてきたのだし、それらへの報復は、八名の警官の制服をきた人間を、まるで蝙蝠が逆さにとまったような恰好で首吊りさせてしまっているから、もう済んでいるようにも思うのだが、日本人に対しては略奪暴行勝手次第で、殺害しても殺人にはならぬような時代だったから、危険で北陵までは運搬できぬ屍体はやむなく小学校の校庭へ孔をほって並べていた。
なにしろ土が凍っていて深く掘れなかったし、それに一日平均十体ぐらいずつも屍体がでては、一列に並べ、またその上に重ねてゆくしか、他に方法はとれなかったのである。
零下十度といっても十月の末になると、夜になると二十度ぐらいの酷寒の夜もある。そんな晩、「キェイッ」と異様な声をはりあげて、積まれた屍体の下から、凍りつく衝撃に生き返って覚醒し、まるで泳ぐような手ぶりをしながら、学校の教務室をもって充当していた分区事務所の灯をめがけて、飛び込んでくるものがいた。初めの内はびっくりした。
「・・・死んだのが蘇ってきて、三日ぐらいで、どうにかまた本復してしまう例があった。
・・・屍臭に近い異様な香りの漂う難民収容所には、誰もあまり近づきたがらないし、また発疹チフスやペストの予防注射液も入手できず、うかつに入り浸ると感染の恐れがあると、開業医の経験を持つ者や満州医大の連中までが、収容所へ来てくれず、それより金儲けになる占領軍の男共の性病治療に、赤十字の手製の旗を掲げて商売して、自分やその家族を守るのに必死だった頃。私は幼い時分から死を惧れないというか、生きているより死ぬ方が好いと、そんな自閉症的な性格が強かったので、ふつうの人道主義的なものでもなく、唯みんな嫌うから、ひとの厭やがることだからと、あまのじゃくな精神でやっていたのであろう。私は一九四五年の秋から一九四六年の春、北春日大隊長として生き残りの難民婦女子二千人を錦県壺盧島から博多まで引率してくる日まで、足かけ三年〔二年、正味一年〕にわたって屍体と倶に暮らしてきた。当時まだ二十代の若さだったから身体も元気で感染もしなかった之かも知れない。
だが噎せ返るような、饐えるような屍臭は今でも鼻腔に強く残っている。そして時々私はそれを、なにかの折りに、はっとしたように嗅ぐ。
そして今でもその匂いの幻臭に、なんでもない時にも嘔吐を催したりする。とくに顔色の悪い人に逢ったりすると、何百いや千に近いむきだしの屍体の横列の山を、自分が積ませて日々見て暮らしてきているだけに、すぐ咽喉がごくっとなって吐いてしまう。女性ならば、悪阻ですともその場を繕ろいもしようが、なにしろ私は男である。とても、そうした弁解は許されない。だから失礼があってはいけないから電話ではお話をするが、初見の方とはお目にかからない事に今でもしている。なにしろ自分が死ぬのは己れの屍体を見ないで済むからよいが、私の体験では他人の遺体というのはまあ一体や二体ならばよいが、あまり集団で重ねて、毎日それを見るものではないようである。
さて、これは常識的には奇妙な話かもしれないが、前にも書いたように、
「脈搏が止り、心臓の鼓動が停止し、鼻へ手を当てがってもスウスウしないような状態」、つまり生体が遺体に変化したと確認してしまい、
「校庭の屍体収容所へ運ぶよう」と使役の男共にいいつけ、届出の住所本籍氏名の欄に、「死亡」という記入をさせた後の状態になって、つまり屍体の山へ次々と横並べに、一列横隊に積ませてから、およそ、まる一日から三日目ぐらいになって、
「キェッ、助けてくれろ」と、蘇生してまるで幽鬼のような顔をして、上にのっかっている人間の遺体をのけ、喘ぎながら這いだしてくる「更正人間」が、春や秋はすくなくなかったが、冬と夏には多い時は月に二人、三人いやもっとあったかもしれない。
正確な員数は、博多の引揚援護局の役人が「提出してください」といわれてしまって差出したきりなので、完全な数は覚えていないが、
「死亡のち更正」と朱筆させたのが、私の記憶では足かけ三年間〔二年〕に四十名はいたような気がする。
ろくに施薬もできず処置もとれぬ儘、(動かなくなったから死んだのだろう)ぐらいの素人判断で、屍体置場へもっていってしまう占領下の混乱時代だから、仮死状態の儘でおいてきて、それが蘇生してきたのが多かったのであろう。しかし、
「いったい<死>とはなんだろう」と手伝いの人々と、よく論議したものである。
なにしろよく見馴れてしまい麻痺もしていたが、やはり気になって仕方がなかったのだろう。
「動かなくなった車のエンジンの所を蹴飛ばしたり、聴こえなくなったラジオをボインと叩くと、エンジンが掛かったり電波が入ってくるようなもので、つまり衝撃で接続が外れていたのがくっつき、活動し直すように、人間も最初は仮死の状態が初めに現われ、それが続いて完全な死になるのだが、酷寒や酷暑に刺激されると外部の皮膚から衝動が伝わり、それで止っていた心臓が動きだすのではないか」というような結論になっていたと想う。そして、「死んでも、また蘇返ってくる例はないこともない。だから茨城の水戸では今でも、火葬はせず、郡部へゆくと寝棺に釘もうたず一週間は埋めずに地上へおいておき、もう出てこないと判ってから、初めて孔をほって埋めるのだ」とも教わったものだ。
【テキスト】『切腹論考』(1970.10)
- さて私は昭和二十年夏、満州の奉天にいた。八月十八日アスファルトの街路遠くから音させ、カタピラを響かせて重戦車の行列〔クラフチェンコ戦車兵科大将指揮下=第六親衛戦車軍〕が入ってきた。赤いボロ布ともいいたい油と黒い汚染のついた裂けたような旗がついていた。クラフチェンコ赤軍司令官の進駐が始まると、奉天駅から春日町へかけては一斉に満人の騒動が始まった。在留日本人は浪速通の裏にある北春日小学校へ避難してきた。サーベルを腰に吊った男達も、まぎれこむように一緒に入ってきた。そして彼らは、「おれたちは切腹するんだ」といいだした。初め彼らは五名いたが、途中で酒を買いに行くと出ていったのが戻ってこなくて、「それでは」と四人の中では年長なのが、まっ先に刀身をぬき手拭でまきつけてから、「バンザイ」と春日神社の方へ拝礼して「やあっ」と気合もろとも突き刺した。しかし、(自腹を痛めるのは辛い)というが、腹部の脂肪は強いのか、ゴムのフットボールを突いたみたいに切先が腹のところへ窪みをつけたきりで、刀ははね戻ってしまった。
「突くものではない。力が倍いる。腹に押しあてて前のめりに身体で押すんだ」
肩章はむしってあったが貫禄のあるのが、のぞきこんで気合をかけた。しかし、その頃になって突いた窪から血が滲んできたものだから、最初の男はそこへ唾をつけて、
「貴様らたるんどるぞ、生きて虜囚の辱めをうけたらどうする」と貫禄のあるのが、立ったままで刀を腹におしあて前へ倒れた。
これは血みたいな赤黒いものが出た。小鉢に三杯ぐらいヒュッと音をたて飛んだ。すると他の者は転がった男の側へかがみこみ、刀身がどれくらいまで刺さっているか掌の幅で計ったりした。もちろん当人は眼をカアッと見開いているものの気を失っていた。すると他の連中は「しっかりしろ」と死のうと切腹している最中の人間の背中をさすって声をかけた。
「その内に正気づくと,出血多量で死ぬ迄は七転八倒のひどい苦しみをするぞ。今ならば、腹を切ったかどうかぐらいだから縫合すれば助かる:医者をよんできてやらにゃ」
顎鬚の黒い男がいった。そこで私も、刺さった刀身から零れだす黒い血潮にあがってしまい、すぐとびだして医者を迎えにいった。しかし戻ってきた時には三人の男は誰もそこにいなかった。応急手当をうけて晒木綿の腹巻みたいに包帯した切腹人間も、四日後には私にも黙って何処かへ行ってしまった。
だから、北春日大隊長として在留婦女子二千をコロ島から博多へ引き揚げさせた翌年から、「切腹論」といったものを集めようとしたが不思議なことに納得できるものは日本にはない。これまで誰も、まともには書いていないのである。
【参考】福田実著『満州奉天日本人史』(1976.01)
- 次に文化関係について述べると、瀋陽〔旧奉天〕では、ソ連軍の命令で、昭和二十年十二月末、日ソ友好協会ができ、日本側の文化関係者、技術者の対ソ協力が要請された。なかでもニキータ少佐は報道について熱心で、ニュース速報や日本人新聞の発行に努力した。しかし日本人共産党関係者が文化活動をリードするに至らずして、ソ連軍、中共軍ともに瀋陽を撤退した。
国府軍の代となり、元満州日日新聞および康徳新聞の社員たちが中心となり、瀋陽の同社工場を利用し、昭和二十一年三月十七日より「東北導報」を発行した。(中略)
芸能関係については、クラフチェンコ副司令官の要請により、瀋陽に遼寧芸術協会を設立(責任者吉田英雄)、芸能工作隊を編成して、中ソ両軍将兵の慰問を行うこととなった。そのかたわら、大陸座を根拠に邦人向けの公演も行い、暗鬱な気分を引き立てる役割を果たした。メンバーは、たまたま来満巡演中だった東宝名人会を中心に、築地小劇場の三浦洋平、チェロの高勇吉、舞踊の石井久子、鳳久子、宝塚の芝恵津子らであった。その一部は、昭和二十三年の最終遺送(遺骨)まで瀋陽に踏みとどまり、演芸活動を続けた。
【テキスト】「八切止夫ーズバリ相談(4)」(『話の特集』1971.04)
- ◎・・だから君の相談の一において、「マルクス的意味での全世界獲得から転落」の箇所にも文句をつけたい。
昭和二十年八月、クラフチェンコ司令官の赤軍戦車隊〔第六親衛戦車軍〕が奉天へ入ってきたとき、私はマルクス的意味での同志と想い、資本論五冊をもち、
「タワリーシチ」と彼らがダワイは戸毎にくるのを止めに行った。なのに彼らは刑務所出身の兵隊だったとかで、マルクスも知らず、「女を出せ、当てがってよこせ」と銃口をつきつけ(中略)てんで駄目である。
私は日本人の俄か露天商に、高畠さんの資本論を売り払い、紫色の軍票をうけとった。が、それも銃をつきつけられ帰り道にダワイされた。モスコーから廻ってきた将校には良いものもいた。しかし、
「初め悪ければ後も悪し」で、私は君より二十六年前に脱落した。だからそんな事で悩むなよといいたいのである。
◎ー問い・・三島由紀夫兄の葬儀になぜ行かなかったのか。回答如何では抹殺してやるぞ。浅草基地の右翼同志は、不逞の輩を一掃する。
ー答え・・(葬儀へは)予約を出すのは照れくさいから当日、正午に一般として行き(中略)読経のあと、伊沢某〔伊沢甲子麿?〕の「彼の死は吉田松蔭の刑死のごとく、ゴルゴダの丘の・・」の所で帰ってきた・・。ただ、私が云いたいのは、
「死のうとする作家が死んでゆける時代」
「生きようとする作家も生きられぬ時代」
はっきりこの区別を、君も本誌の読者なら考えてほしいものである。
【テキスト】『同和地域の歴史』(1984.06)
- 機械を拭ったような赤黒い旗をたてたソ連の重戦車〔クラフチェンコ戦車兵科大将指揮下=第六親衛戦車軍〕が、奉天へ入ってくる二日前、朱徳の八路軍をひとまず追ったらしい張学良の軍勢や、私に青竜刀できりつけ七センチの傷痕をつけてくれた救国保安隊なる土匪もいた。更衣をきた旧関東軍大尉が、北春日収容所へ、旧兵隊を探しにきた。北春日分隊長といっても一人きりの私もつき合わされた。
- (中略) たしか十四名の更衣の将校だけが集まりはしたが仕方なく「大君のへにこそ死なめ・・」と斉唱してから水盃し、至上に対し奉って、「お詫びのために、さきがけして死のう」と案はきまったが佐官待遇といっても素人の私が心配らしく、まっ先に割腹をする順序となった。北春日神社に三宝があったのでもってきて、見よう見まねで、刀をつき刺したら、確りしている筈なのに甘皮でまいただけの三宝が、尻の下でペチャンコになり引っくり返えり、私は左腹へつきたてたまま気を失い、二日ぐらい意識を失っていたが、重戦車のキャタビラがコンクリート道路を物凄く揺るがすのに気づいた。私の切腹の仕損ないをみて、皆が落胆したのか怯気をふるったのか、医者をよびにゆくと出かけ、それっきり唯の一人も戻ってこないという、世にも哀れな終戦を私は迎えた。
- (中略) やがて辻々にはクラフチェンコ赤軍司令官名で、読んでも判らぬ布告がはりだされた。いつの間にか頼みの中国軍は、さっさと撤兵していなくなってしまって、代りにソ連兵と共同占領するように、朱徳司令官の中国八路軍赤軍が進駐してきて慌しい一日となった。中国軍が逃げる時においていったコーリャンとアワとを十袋ほどみつけ、動ける者に運ばせて、塩味だが腹一杯くわせて、ほっとしていると、日本人会から使いがきて、「赤旗を立てぬと敵性とみなされ、タンクが侵攻してくるぞ」と連絡してきた。せっかく満腹して眠くなって横たわっていた連中を、たたき起こして大急ぎで赤旗を何本も作って小学校の廻りに立てたら夜があけてしまった覚えがある。
【テキスト】『日本人の血脈』(1983.08)
- 満州では故クラフチェンコ司令官指揮の囚人部隊が進駐してきた際、表戸や裏口をみなくぎづけにし、開かぬようにして壁を壊して通用口を作ったり、外へ出る時にははしごを窓から降ろして使いました。しかし連日連夜の慰安用の女狩りや、シベリア送りの兵隊脱走補充用にと、民間邦人の男狩りが始まると、同じ町内でも互いに信用できなくなり、天井裏に畳を上げて隠れ住み、みな別個となって付き合わず、またそれしかなくなりました。体験者はご存知でしょう。
【テキスト】『わが腹は赤かりき』(1971.01)
- あの暑かった夏。白い入道雲の浮かぶ満州の荒野へ、条約を無視した赤軍が怒涛のごとく侵攻して来た。「無敵関東軍」とそれまで豪語していたのが妻子を疎開させ、現地召集のシロウト兵に「死して護国の鬼となれ」と命じ自分らも逃げてしまった。ひどいものである。
おかげで彼らが口を酸っぱくして演説していた「武士道」なるものを、それからは信用できなくなったのだが、さて当時の関東軍は現地満人に衣料切符は与えたが、現物は殆んどやらなかった。そこで孫呉や興安からの引揚げ邦人婦女子は、着物やモンペどころか腰巻やショーツの類まで、途中で略奪されみな丸裸だった。ところが、そこへ襲ってきた赤軍の機甲軍団。第一線はシベリヤ囚人部隊であるときいたが、これが物凄いなんてものではなく、荒野を逃げ惑う邦人婦女子は、彼らの波状攻撃により、性の迫害が生そのものにまで及んで、何とか致死でばたばたと死んで行った。さて、山で遭難した遺骸を燃した経験者はご存知だろうが、人体というのは水分がその殆んどのパーセンテージをしめているから、マッチと枯草位では焼けっこない。そこで引揚同胞は、遺体を放ってもこられず、といって焼くには手間が掛かるので、よく燃えるように骨から水分の多い肉片をむしり取った。が、それでも棄ててくると山犬に後をつけられ、生きている方までが、ついでに餌食にされ食い殺される。だから、骨からはずした部分を携帯しての逃避行となったが、さて次々襲ってくる連中は「オーチン、ハラショウ」とばかり、荒野の中で包囲した生きた日本女性の体を、寄ってたかってほしいままにたあげくが、死んでる肉片まで、彼女らの傾向食糧の鹿の乾肉かと勘違いしてもりもりかじって食した。やがて性的に経験の浅い少女たちは、日に何十回の迫害に堪えかね荒野で死んだが、辛うじて生きのびられた女性は、カナカ土人のように腰に草葉をまいたり、敗れた麻袋を拾ってかぶり、獣のごとく奉天へ辿りついた。そして、北春日小学校へ彼女らは収容されたが、赤軍包囲下のため初めは食料がなく、彼女らの中からも餓死者が一日おき位にはでていた。やがて残った彼女らが白粉や口紅を手に入れ、やむなくロスケ相手の性業を始めだすまで、何人かは、いや全部の女たちが窓硝子の割れた教室の中で「鹿肉」とよんでいたそれを食べ、悲惨な話だが飢えをしのいでいたのを私は眺めている。
【参考】加登川幸太郎監修『第二次世界大戦通史』(原著者ピーター・ヤング、邦訳、1981.01)
- 満州の戦い ソ連軍の対日進攻作戦計画は、一九四五年五月から七月上旬にかけて、モスクワの参謀本部で仕上げられた。七月五日、その責任者ワシレフスキー元帥が諸計画とともにチタに到着し、七月二十九日までに計画を完成、大本営の承認をえた。七月三十日、極東ソヴィエト軍総司令部が設けられ、総司令官にワシレフスキー元帥が任命された。
進攻命令は八月七日、ザバイカル、第一極東、第二極東各方面軍に発せられ、八日夜半の対日宣戦放送ののち九日早朝から満州、北朝鮮に対する進攻が始められた。
主攻勢は、外蒙の突出部から進発するザバイカル方面軍でその先鋒は第六親衛戦車軍(クラフチェンコ大将)だった。同軍は戦車・装甲車一〇一九両、装甲自動車一一八両、大砲・迫撃砲九四五門、高射砲一六五門、自動車六四八九両、オートバイ九四八両。砂漠地帯から大興安嶺を越え満州の中心部奉天方向に、四五〇kmの距離を一日平均九〇kmの進攻速度で、突進するよう計画されていた。この正面の日本軍の配備はほとんどないと同然で進攻第一日目は一四〇kmを進出した。戦車の燃料と水の補給のため二個空輸師団が動員され、八月九日から十九日までの間、第六親衛戦車軍は約八二〇kmを突進した。
◎ 敗戦下の奉天(奉天北春日在郷軍人会など)
【テキスト】『わが腹は赤かりき』(1971.01)
- 〔邦人は〕満州へ入ると一週間以内に兵籍の如何を問わず関東軍は在郷軍人会へ入れさせこれを搾った。私は丙種合格だったが、それでも入れられていた。ところがである。五月一日と八月八日に根こそぎ動員があって、私を除く全員に揃ってみな赤紙が一度にどっときてしまった。七百名からいた分会員が私一人しかいなくなり、よってやむなく「貴方では心細いが、なにしろあんたしかおらんのだから」と、関東軍北春日分会四十九代目の分会長にされてしまっていた。
それまで町会や在満邦人会の密告から私が助かったのも、モスコーへ一度連れていかれた事と、この役つきのせいだったのだが、さて、義勇軍募集となって、「本地区の在郷軍人会はどうしたか?」と満腹の旧関東軍将校に気合いをかけられ、「はい、自分が分会長であります」と申告したところ、分会員が何人いるかも聞いてくれず、その将校は「ここは奉天駅前の春日町浪速通りの日本人街の中心であり、北春日神社の所在地である。北春日分会は本日より、殉忠千早隊となのって当地区を死守せい」と命令された。この時全満一斉に、国府軍の通達で各地にこういう隊ができ、やがて全滅させられた経緯はいずれ他日かくことにするが、わが千早隊たるや、なにしろ私一人きりである。(中略)天皇さまはご存知ないだろうが、私の二十世紀の千早隊の結成は大変だった。
- 満州医大に残っていた学生二人と、青葉中学の四年と三年が参加してくれ今でいえば「全学共闘派」のようなものができた。(中略)十二月十八日、まんじ巴とふる雪の中で、交番襲撃事件というのが起きた。在満邦人会と手を共に同じ同胞のくせに、その時どきの権力にべったりくっつき、男狩り、女狩り、財産狩りを手伝っていた奉天総局の日系指導者に対し、これまで怨みを抱いていた邦人青年が銃器を渡された途端に蹶起し「撃ちてしやまむ」と、浪速通交番、平安通交番、鉄西筋交番を一斉に襲い、総局の日系幹部を雪の中に引きずりだし、満州興銀前の並木にずらりと吊るしてしまったのである。今でいう内ゲバ騒ぎになったので、二十日に八路軍はなんの抵抗もうけずに入ってきた。こうなっては仕方がない。せっかく実弾訓練もしていたがついに鳩一羽うたず、千早隊は、解散式もあげずバラバラになった。ところが「わが軍を阻止せんと計った反革命行為」として朱徳司令官は十二月事件の摘発を行った。すると吾が身だけ可愛い日本のオトナが、又しても密告や訴人をした。おっかない国民である。このため、新京にいた吾が友「白川五郎」は大同公路で銃殺にされた。
が、幸か不幸か、私は事前に町会長に相談しに行っていたので、町のボス共は(もし訴えれば自分らも巻き添えになる)と心配したのか、おかげで千早隊は検挙されずにすんだ。しかし安心はできない。私は難民収容所の死体処理をやりながら、厳しい冬を過ごした。ところが春になって中共軍の好意で、錦県のコロ島からの引揚げが始まった。
- さてそうなると、「天皇さまの御為に死のう」と、かつて誓いあった町内のオバハン達から「あれならば、若いけれど」と・・見込まれ、私が北春日地区の婦女子二千二百四十人かを、つれ戻る梯団長におされてしまった。とかくと、さも私が立派みたいだが、今でもトロいが二十代の私はもっとバカタワケだった。いつ同胞のオトナから、密告されるやも知れぬといった不安から臆病者の私は、土匪がひしめきあい発疹チブスとペストが発生していた錦県へというので、みな尻込みして誰も引きうけてのなかったのに、梯団長となって、書けば六百枚位になる苦労をして博多まで辿りついただけである。
- 十月から十一月初旬にかけて大広場前の三井ビル近くで交番襲撃事件があった。これは三井ビル地下室に共産軍のために逮捕抑留された日本人を助け出そうとして失敗したものである。これには国府軍に共鳴した若い日本人が参加したものと思われる(座談会での発言、『満洲奉天日本人史』316ページ)。
【テキスト】『同和地域の歴史』(1984.06)
- 私は海軍報道部高瀬中佐より「海軍思想普及要員」というお墨付を貰っていたので、現地召集もなかったから若いのは私一人。北春日在郷軍人会の武器格納庫になっていた春日社の社務所倉庫には、擬銃と廃銃とだった。
【テキスト】『わが腹は赤かりき』(1971.01)
- 何しろ私は一九四五年の夏、あまりにも死をみすぎている。ふつうの戦争体験というのは、命令下において束縛されながらのものだが、私は、まったく自由の立場で、八月十八日に、油で汚れた赤黒いボロ布をさげた重戦車の後から麻布をかぶったり、一糸まとわぬ生まれたままの姿の日本人が、元寇のときの捕虜のような恰好で、群をなしぞくぞくと続いてくるのに、まずドギモをぬかれたものだ。彼らは引揚げの途中で満人に襲撃され(当時衣料切符が満人へは配給がなく、不足してきていたので)身ぐるみはがされていた。抵抗すれば叩き殺されてしまう。そこで仕方なく赤い戦車のキャタピラの音をきくと、女達をギセイに供してその後に命からがらついてきたという話だった。
さて苦しい時の神頼みというが、奉天へ入ってきた開拓団の男女の生き残り八百は、「あっちだ・・・」と春日町から浪速通りをこえ、北春日神社へと移ってきた。そして神前にぬかずくと、遥か東方を伏しおがみ、「テンノオヘイカ、バンザイ」を三唱した。すると、そこへ北春日派出所の巡警を伴なった日本人の金星をつけた豪いのが現われてきて、「オマエラ、チンポコまるだしで不敬だぞ」と一喝した。すると餓鬼のような連中が、「うおッ」と叫んで、その奉天警察総局の高級警察官を囲んで、もみくちゃにした。やがて満人警官が発砲してその高官の遺骸は曳きずっていったが、八百人の連中は神社につづいた夏休みの小学校の建物へ入りこんだ。満人や赤軍に散々いためつけられた彼らは日本人には強く、三々五々お貰いというよりは遥か高圧的に、食料その他の徴発にきた。「尻をまくる」という言葉があるが、私のところへ現われた三十女のごときは、「こうみえたって、わたしゃ満人は五十と二人、ロスケだって四十余人にやられてる女なんだ」と縮毛のはえたところをめくってみせ、下から逆なでしながら喚きたてた。
やがて進駐した赤軍が占領体制をとると、「ダワイ」「ダワイ」と夜ごとに銃声をならして訪れてくれる連中をさけるため、社宅のようなところは棟が一つだから、窓や戸に板をはって出入りは梯子を使う俄か作りの城砦をこしらえたが私の住まっていた春日町や浪速通りは商店街なので、一棟が二戸ずつに分かれ、そうはゆかなかった。兵役はないのだが人手不足のため、嘘みたいな話だが、当時の北春日在郷軍人分団長にされていた私が、商店街のおっさんから警備方をコンモウされた。しかし私は弱った。分団長に私がなったのは、(他の分団員が)根こそぎ現地動員でみなもってゆかれ、誰もいなかったからである。一人ではなんともなるはずはない。
そこで西部劇のような具合に、北春日小学校へ行って補助シェリフを募集した。「難民」とよばれている彼らの中から、用心棒を選んだ。鉄西から運搬途中に入手した銃器弾薬があったからだ。しかし、ダワイよけに編成したはずの連中が、雪のふりだした十一月末に脱走兵と組んで暴発をした。なにしろ前は憲兵隊と組み、赤軍進駐後はロスケの手先となって脱走兵狩りをし、同胞をシベリヤ送りにしていた奉天警察総局へ「それっ」と暁の攻撃をかけ、日本人が日本人の警官を雪中にひきづり出し、興銀前の並木を、ずらりと首吊りの木にしてしまった。
さてこの後が大変で、案外に日本人はレジスタンス精神がなく、すぐ、長いものには巻かれろといった考えが多いのか、自分だけ助かろうと密告者が多く私も逮捕された。しかしクラフチェンコ司令官の見解が「旧日本軍残党の暴動」という方針だったらしく、いったんはモスコー送りになった私も、ぜんぜん兵役経験がなかったせいなのか戻された。しかし、この結果、次々と南下してくる難民がふえ、多い時には三千人にもふくれあがった北春日小学校の連中には、やがてけわしい冬が訪れてきた。形ばかりの配給だった粟もこなくなった。
銀行が封鎖され金のなくなった私は、自分の蔵書を並べて売り、見るに見かねて資金のカンパをしたが、とてもそんなことでは、飢えた同胞たちへの助けにはならなかった。女は切羽詰れば身体を売るというが、それも買手があればこそで、化粧でもしなければ飢えた女たちを、誰も相手にしなかった。だから子供づれの女は、眼前のチェンピーやマントウをかうためや、己を売る化粧品代に、赤と紫の赤軍軍票の百円か二百円で、わが子をみな売っていた。毎朝、北春日小学校の入り口には、子供を買うマーチョが並んでいた。つまりこんな具合だったから栄養失調やハッシンチブスで一日に二十人位は死んだ。北陵の日本人墓地まで運べないし、火葬にする薪もない。凍った校庭の土は掘りようもない。だから並べて積むしかない。
しかし月六七百の死体が零下二十度の気候では、冷凍マグロのごとく固まってくっついてしまう。なのに時たま酷寒のショックで生き返ってくるのもいる、ところが困ったことに、夜中に堂々と満人が荷車をもってきて、頭だけを斧で叩き落して運んで持ってゆくのである。「六神丸」の原料にするためだという。それが贋物の八路軍とは後で判ったが、「救国革命軍」の本営へ、やむなく文句をというか陳情にいったところ、髪のはえた大男が、「死んだ者が生きている人間の役に立って、薬になるのに・・なにを吐かすか」と青竜刀をひきぬかれ、私はコツンとやられてしまった。だから私は今でも漢方薬の黒焼きを嫌う。異民族支配下になることも厭で堪らない。共産主義を敬遠するのも肌身にしみているからだろう。
◎ モスクワへ
【テキスト】『信長殺し、光秀ではない』(1967.08)
- 私は目まいしそうに過ぎ去った日を憶った。あの日、満州の奉天の浪速通りの自宅でダワイされた私は、クラフチェンコ赤軍司令官の命令ということで、モスクワへ送られた。行ってからは、今の旧モスクワの青い宿舎へ入れられ、通信社の仕事など手伝わされ、半年後(?)ようやく、吸い口が半分にもなっているロシア煙草を十カトンぐらい渡され、スパシーボと当時の瀋陽飛行場まで送って貰えたが、それでも行きはひどかった。シベリヤ鉄道の中でさえ、こんな羊くさい兵士にはあけくれかこまれて「これをよこせ」「あれをよこせ」と拳銃をつきつけられて次々と身の廻りの時計から万年筆、上衣までも奪われ、拒みでもすると首を締めつけられたこともあった。いくら私が、むこうの要請でモスクワへ行くのだからと説明しても、彼らは口を尖らせ、「ヤポンスキーは、ヴラーグだ」、つまり敵国人だと、いつも睨みつけていた。厭な記憶である。私は今でも熊みたいな兵士に追いかけられている夢を、子供みたいに時々みる。
◎ 長女陽子さんの死
【参考】矢留楯夫「父を語る」(『歴史民俗学』2000.06)
- 翌年〔1945〕、妹が生まれたようです。引き揚げの時に、発疹チフスが原因で死亡した。霊園に父親とともに葬られています。
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◎ 葫廬島からの引き揚げ
- コロ島=Bコロ島は、日中戦争の時、日本軍が中国への上陸作戦で、大連港だけでは間に合わないので急遽、軍専用の港として作られた新しい港。(→引き揚げ年譜、奉天〜葫廬島地図)
【テキスト】『わが腹は赤かりき』(1971.01)
- 十一月に入って中共軍撤退国府軍進駐の知らせが、秘密裏に洩れてきて、いわゆる「日軍決死隊」が組織され、雪のふる朝、奉天警察総局を初め各地を襲撃した時、「憎むべき日本人暴
徒を、吾々日本人の手で捕えるか、又はもよりの警察へ知らせてください。そうしないと日本への帰国の望みは絶たれるかもしれません」。ガリ版新聞と日本人向けラジオ放送は、こればかりをくり返し、しまいには、「密告された方には報奨物資を、寛大なる当局のお取り計らいにて差しあげます」となった。私は当時(遼陽芸術協会)なる腕章をもらい、旧満映の吉田秀雄に脚本書きをさせられていたが、上演料は一文も渡されず、あべこべに密告されるような羽目になった。しかし、のち北春日大隊をおしつけられ、二千余人の女子供をコロ島から博多へつれ戻ってきた時、引揚船の中に事情を知っている女性がいて、私が密告された時の報奨が、粟五斤だったときかされた時には、さすがに呆然とさせられたものである。
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- ・【右地図:葫廬島(コロ島)】
【テキスト】『同和地域の歴史』(1984.06)
- 兵役は免除されていなかったものの根こそぎ動員の現地召集にも佐官待遇の航空本部のお墨つきで面倒がられたのか厄介がられてか即座に外されてしまい、終戦になってしまうと誰もいなくなった奉天北春日在郷軍人会の唯一人きりだけの分会長になってしまった。
春日通りとよぶ奉天の目抜き通りなのに誰もいなくて、訓練用の偽銃とよぶ木型と全然照準が合わぬ廃銃が格納されていた北春日小学校の倉庫の鍵を保管するだけの仕事だった。が、北春日小学校が北満からの難民の収容所になると、次々と逃げてくる人々のために働かねばならなくなった。何処からも食糧や衣服の供給がなくて寄附を貰い歩く毎日だった。銀行は何処も締めて行員は、みな逃げてしまっていたので、現金を出してくれる処はなく、物ばかりゆえ、それを露店にひろげて売って食物にかえて配給するのだが次々と増加する難民には、満足に食させる訳にはとてもゆかず、寒くなると毛布もなくムシロとゴザだった。
マイナス二十五度から三十度に気温の下がる冬が近づくと、発疹チフスで次々と体力のない者から仆れていった。郊外の北陵に日本人墓地はあったが、とても危険でそこまでは行けずスベリ台や遊動円木の並ぶ校庭に屍体を野天積みをした。土を掘って埋めたくても凍っていてシャベルでは何ともならなかったからである。が十段積みぐらいに土畳みたいに、ぐるっと積みだした頃から、寒さに意識づくのか、まだ仮死状態の儘で積んでしまったのが、ピイッと笛みたいな悲鳴をあげて屍体の山の中から、抜けだしてくるのが多く連夜のことだった。すぐ熱い白湯を呑ませッコーリャンがゆを当てがって戻すのだが、せっかく蘇生しても体力の限界がきているから回復はむりで、殆んどが何日も行き続けられず完全にまた動かなくなって屍体の山へ逆戻りの有様だった。まったく、どうしようもなく遺骸の丘を見るだけだった。
高級官僚は家族もろとも早く逃げてしまっていたが、官僚は残されていた。が日本人なのに、まったく難民には関心を示さず、堪りかねて医薬品や彼らの保管食糧を貰いに行くと、「彼らは、もともと棄民ではないか」と相手にしてくれなかった。(中略)みな難民を見て見ぬ振りをしだしていた頃。四十すぎの女の人が、満服を手に入れてきて髪にススなど塗って身を守ろうとするのに、若い娘は逆に派手なものをつけ化粧して出かけてゆき、ウォトカの瓶とか、カスカスするロシアケーキをもってくるようになった。だから、そうした娘さんの処を廻って、難民たちのために小麦粉を施してもらうのが私の仕事で、北春日第二一〇一部隊として、女子供二千百十八人を錦県のコロ島まで引率輸送して、そこから博多まで引揚げてくる日まで、一日も私としては手の抜ける日はなかった。なにしろ北陵に集められた旧日本兵の脱出が相次ぎ、埋め合わせに町内の若者を警官の言いなりに員数あわせに送り、娘たちの性で助かった親も多いので、満州の引揚げ者は互いに旧敵同士みたいに想い、あい黙して何も語らず、それぞれの怨みを胸にひそめているのである。真実の歴史をなんとかして明らかにしようとする八切史観は屍体の山から産まれた。
【テキスト】『サンカいろは唄』(1986.08)
- 四十一年前、今の瀋陽の奉天北春日小学校収容の、北満や東満の難民たちの世話を私はしていた。「現地召集」の根こそぎ動員で男という男は皆いなくなったのに、牛込陸軍航空本部で佐官待遇のお墨付きを受けていた私には召集がなく、誰も残っていないので収容所長にされてしまった。黒龍江やチチハルの開拓団から俵や麻袋を纏って逃げてきた同胞の面倒をみて、一年後に、北春日第二〇一ニ部隊として婦女子二千八百を守って錦県コロ島から引きあげてきたのだが、「コトツ」は収容所で皆が話しあっていたので覚えていた。
◎ 付記:奉天から帰国した人々、その他
【参考】『朝日新聞』(2003年8月16日付)
- 赤塚不二夫氏「空が赤一色に塗りつぶされた」
- 両親と長男で小学四年生のぼく、妹、弟らと満州の奉天(現瀋陽)に住んでいた。八月十五日の夕方、町の彼方の空は真っ赤に燃えていた。地上を覆った戦争の火が、天空を染めて、赤一色に塗りつぶしたかのように燃えさかっていた。はるか地平の彼方まで、血のような色の広がり。その中を何万羽という数知れぬカラスの大群が舞っていた。黒いものは次から次へと現われ、どこへともなく飛んでいく。ぼくはその光景の中に、ぼうぜんとたちつくしていた。それがぼくの原風景となった。
- ちばてつや氏「大人たちの様子 幽霊のよう」
- あの日、大人たちの様子が変だったことを思い出しました。直前まで騒がしくおしゃべりをなどをしていたのに、ぼうぜんと幽霊のようになったり、涙を流していたり。玉音放送を聞いたのでしょう。僕らは友達と遊んでいました。そのちょっと前、中国人街が変に騒がしかった。爆竹が鳴り、嬌声が響き・・。六歳、ぼんやりとした奉天の記憶です。翌日から中国人たちが家に押し寄せるなど町は危険になり、数日後、夜の闇にまぎれて家から逃げました。一年後、博多に引き揚げまるで、隠れて過ごしました。
- 森田挙次氏「むちで打たれていた日本兵」
- 中国東北部、当時満州と呼ばれた奉天にいました。終戦の翌々日ごろだったか、日本兵がしばられ、荷台に乗せられているのを町の中で見ました。中国人がむちで打ったり、石をぶつけたり、罵声を浴びせたりしていました。僕は当時六歳でした。家の周りにバリケードを築いてとりでのようにし、中国人が入ってくるのを防いだことを覚えています。家のすぐ隣りにあった広場では、日本兵に銃殺も行われました。「子どもはみちゃいけない」と言われいたけれど、すき間からのぞき見ました。
【参考】『朝日新聞』<声>欄(2008年1月11日付)
- 62年前の8月9日、旧満州(中国東北部)のジャムスに住んでいた私たちは、ソ連軍に追われ避難を始めた。ハルビンでソ連兵の略奪をを受け、着の身着のままにされた。4ヶ月後、やっとの思いで奉天(瀋陽)市にたどり着き、日本人小学校の講堂で、300人の避難者と共に生活を始めた。零下30度の12月、水道は凍結しており、井戸の水で何とか生き延びていた。(中略)
間もなく、発疹チフスが大流行して死者が続発した。中学2年生の私は死体運搬係りとして、木製の二輪車で裏山に捨てに行かされた。辺りには凍結した遺体が散らばっていた。
【参考】大村彦次郎著『文士の生きかた』(2003年10月、ちくま新書)
- 葉山嘉樹(五十一才)が満州国開拓団の一行に加わって、長野県西筑摩郡山口村の家を出立したのは昭和二十年六月十日、敗戦の日に先立つわずか二ヶ月前のことであった。(中略)。昭和二十年八月九日、ソ連が突然宣戦を布告し、満州に侵入を始めると、開拓団〔双竜泉〕内部でもこれからどうするか、ということが問題になり、葉山は内地引揚を主張した。しかし、目の前には取り入れ前の農作物があり、土地に対する愛着のつよい団員たちはとにかく収穫を済ませよう、と葉山の引揚げの説に反対した。八月二十日過ぎに、ソ連兵がやって来て、時計や衣類などを略奪していった。九月の中旬に再びソ連兵が現れ、団の武装解除をすると同時に、男の団員二十余名を強制連行した。これを待っていたかのよう二、土着の満洲農民が不穏な動きを示し始めた。(中略)。
この様子を見て、団員たちは土地を棄てて内地に引き上げることを決意した。団員たちが略奪を免れたわずかばかりの荷物を持って双竜泉をあとにしたのは十月に入ってまもなくだった。葉山の躰は「アメーバー赤痢のため食物を受けつけず、、栄養失調を併発し、極度に衰弱した。顔にむくみが生じ、他人は葉山とは識別できなかった。葉山は娘の百枝の肩に縋りつくようにして、団の最後尾につき、前を見失わないように歩いた。北安駅へ辿り着いたときは、すでに雪が十センチほど降り積もり、寒さが身に沁みた。(中略)
十月十八日未明、鴉の鳴き声がやかましく、百枝が眼を覚ますと、汽車は平原の寒駅に停まっていた。傍らの父親に声をかけたが、返事がなく、もう一度、「お父さん、お父さん」と呼びながら肩に手を触れると、葉山の躰は音もなく崩れ、息は絶えていた。彼の死を知らせるかのように、躰からシラミがポロポロと這い出してきた。百枝の泣き声で同じ列車にいた医師がやって来て、遺体を見て「脳溢血ですね」と言った。百枝はリュックから鋏を取り出し、父の遺髪をすこし切り取り、自分の衣服に収めた。
汽車がいつ発つか分からないので、団員や兵隊たちが駅前の土地に遺骸を埋める穴を掘った。その穴にアンペラを敷き、葉山は横たえられた。(中略)葉山の他にもう一体嬰児の小さな遺体があったので、一緒に埋葬された。(中略)
葉山百枝が一年ぶりで無事、郷里の木曾山口に帰り着くことができたのは翌昭和二十一年六月に入ってからだった。彼女は団員たちと新京を経て、奉天(瀋陽)に着き、そこの難民収容所に入れられたが、幸い大倉組出張所の日本人宅に引取られ、家事の手伝いをしながら、一冬を過ごすことができた。翌年〔昭和21〕五月末、葫廬島から駆逐艦夕風に乗って博多港に上陸した。
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- 【コメント】葉山嘉樹(1894年3月12日〜1945年)。早稲田英文科卒。プロレタリア作家。大正末年、「淫売婦」、「セメント樽の手紙」、「海に生くる人々」を引っさげて登場した。葉山の作品はドストエフスキー風の幻想に満ち、これまでの労働者文学には見られない芸術的な感性が溢れていた。葉山の出現は既成文壇の作家ばかりか、これから世に出ようとする小林多喜二や中野重治のような若いプロレタリア作家たちにも大きな影響を及ぼした。小林の代表作「蟹工船」は葉山の「海に生くる人々」の延長線上で生まれた。(大村益次郎氏)
【参考】『朝日新聞』(2006年6月19日付)
- 「旧満州引き上げ事業から六十年 中国、発の記念行事」 【瀋陽=古谷浩一】終戦の混乱の中、中国東北地方に残った日本人105万人の引き揚げが始まってから今年で60年。送還事業の拠点で、引き揚げ者には「コロ島」の名で知られる遼寧省葫廬島市で25日、その記念行事が初めて開かれる。日中関係が冷え込む中、中国側はこれまで積極的に取上げることのなかった引き揚げの歴史を通じて、国民感情を進めようとの姿勢を強めている。
行事の主催は中国人民対外友好協会など、日本からは村山富市元首相(日中友好協会名誉顧問)ら200人以上が出席予定で、引揚者も多数が参加する。式典での「平和宣言」のほか、「和平公園」の起工式や記念植樹も行われる。(中略)。
旧満州は終戦直後、共産党と国民党の支配地域が分かれた。旧ソ連軍の参戦もあり、極めて混乱した状況下で、米軍と国民党に共産党が協力して葫廬島からの残留日本人の送還事業が46年5月に始まった。その後、舞鶴港などに送還された日本人は105万人に上る。
共産党政権はこれまで、台湾の国民党が主体となった送還事業の歴史について積極的な取り組みをしてこなかった。ところが昨年、国民党の連戦首席(当時)が訪中し、胡錦涛国家主席と会談するなど、同党との和解が進んできたことを受け、引き揚げの歴史についての宣伝活動に踏み込み始めた。昨年には国営新華社を始めとした中国メディアが相次いで送還事業を取上げ、研究著書の出版が行われた。
◎ 奉天より帰国(1946.08)
【テキスト】『好色娘マリ』(1948年2月20日発行、重版。初版は1947年9月5日)
- 著者略歴:横浜市に生れ、日大文科卒后南方生活を送り、昭和十七年より大陸に移り、昭和二十一年八月、奉天より引揚げ名古屋市に現住す。(太平楽部隊)(南海少年船)(謎の曲馬団)(南風少年隊)等の少年物と(栄口号事件)(南方探偵局)(青春赤道祭)(異変潮流)(南の誘惑)(南蛮船合戦)(海底突撃艇)(東亜海綺談)(長崎丸船長)(左膳捕物帖)の他(青春遺書)(男の世界)その他あり。
(2007.01.10)
