つまり、「こういう写真を撮る」というイメージを明確にもって計画し、そのとおりに写されたものです。偶然に写ったものではありません。 こんなことを言うと夢を壊される人もいるかもしれませんが、そもそもカメラに霊的存在が写ることはありません。カメラとは、被写体から飛んできた光を取り込み、フィルムに化学反応を起こして像を焼き付ける機械です。デジタルカメラも記録する媒体が違うだけで、仕組みは同じです。 霊が写真に写るためには、霊が「物理的な光」を発光、または反射しなければなりません。しかし、物質ではない霊が、物質である光と相互作用することは、科学的にあり得ないことはもちろん、統一原理的にもあり得ないのです。 原理講論には、霊界すなわち無形実体世界について、次のような記述があります。 「我々の生理的な五官では、それ(無形実体世界)を感覚することができず、霊的五官だけでしか感覚することができない」(p82) 霊を「見る」のはあくまでも霊眼であって、肉眼でもカメラでもありません。原理講論の記述から判断しても、有形実体世界の存在であるカメラに、霊が写ることはあり得ないのです。 では、今日私が撮影した写真は何が写っているのか? これは、空中の埃(ほこり)に、ストロボの光が反射したものです。座布団を思い切り叩いた後に、埃が舞っていそうな場所を狙ってシャッターを切ったのです。写真に写るものは、必ず物質なのです。 左の図は、レンズとストロボの関係を示しています。昔のカメラ(上の図)は、レンズとストロボが離れていました。ですから、レンズの近くに浮遊する埃や水滴にストロボの光が反射しても、レンズに届くことはなく、写真に写りませんでした。 最近のカメラは小型化されたため、レンズとストロボの距離が近くなっています(下の図)。そのため、昔のカメラでは届かなかった光が、届くようになったのです。 むろん、光が届いてもピントが合わなければ写真には写りません。 ピントが合う範囲を「被写界深度」といいます。左の図のように、レンズの口径が大きい場合は、屈折して入ってきた光が、ほぼ1点で焦点を結んでいます。 しかし、レンズの口径が小さい場合は、比較的に長い範囲で3本の線が重なっていることが分かります。この線が重なっている範囲が長いほど、ピントが合う範囲も長いことになるのです。 つまり、こういうことです。最近のカメラは小型化を追及したため、ストロボとレンズが近くなり、レンズの口径も小さくなりました。ストロボの光は、レンズの近くに浮遊する埃や水滴に反射し、レンズから進入します。レンズの口径が大きければ完全にピントが外れて見えないのですが、口径が小さいために微妙にピントが合ってしまい、中途半端にぼやけて写真に写ってしまうというわけです。 いわゆる「オーブの写真」は、カメラの小型化に伴う副産物だったのです。では、霊や天使の写真はないのでしょうか? そうは思いません。 最先端の科学論では、「真の事実とは、客観的事実と主観的事実がセットになったものだ」と考えます。例えば、コップに水が半分入っているとします。これが「客観的事実」です。Aさんは「水が半分しかない…」とがっかりし、Bさんは「まだ水が半分もある!」と喜びます。この感じた有り様が「主観的事実」です。 Aさんにとっては「コップ半分の水」と「水が半分しかない…」がセット、Bさんは「コップ半分の水」と「まだ水が半分もある!」がセットになっています。主観的事実と客観的事実は分離できません。2つがセットで「真の事実」なのです。 したがって、「これは霊の写真だ」と実感すれば、客観的には埃でも、それは霊の写真です。埃の写真を通して霊が何かを伝えたいから、そう感じるのです。人間にとって大切なものは、客観的事実ではなく主観的事実(実感)なのです。 例えば、3月2日の日記「 私が出会った神様(3)」で書いたように、客観的には単なる雨であっても、私は神様の涙だと実感しました。その主観的事実の方が私にとっては重要です。同様に、客観的には埃や水滴の写真であっても、霊や天使だと実感すれば、それは霊であり天使の写真です。 ただし、人の主観は信頼性に欠けます。信頼できる主観の持ち主は、神様です。神様が「太陽は四角だ」と主観を変えれば、一瞬でそうなります。神様の主観的事実は、客観的事実をも変えてしまう絶対的なものです。 清平の天使の写真は、大母様の主観が「天使の写真」と感じていることがポイントです。大母様の霊能力は、神様と一体化した真の父母様から公認されています。つまり、絶対主観者である神様が「天使の写真」と認めていることと等しいのです。これこそ「真の心霊写真」です。 ですから、大母様が認めた霊の写真を科学者が真剣に研究すれば、霊界の秘密を科学で解明できるはずです。 注意するべき点は、絶対主観者につながっていない我々一般人が、性急に「これは霊の写真だ、天使の写真だ」と評価してはならないということです。もちろん、そう実感したのなら問題ありません。しかし、実感していないのにもかかわらず、軽々しく評価してはなりません。 これこそ、原理講論の総序で3度も繰り返し述べられている「宗教と科学とを統一された1つの課題として解決する」という態度です。 |
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