■京都に落とされた爆弾
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職人の街、京都・西陣。軒先から響く機織の音は、この60年で随分減った。
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「この辺ずっと、『ガシャコン、ガシャコン』の織り屋さんの音ばっかりやったんです」
瓦職人の磯崎幸典さん。自宅の庭先には、鉄の塊が置かれていた。60年前、この西陣を襲った爆弾の破片だ。
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1945年6月26日。磯崎さんは、当時17歳だった。7発の爆弾のうち、1発が自宅の10メートル先の民家に直撃した。外出中だった磯崎さんは、無事だった。
「イチョウの木に、吹き飛ばされた人が巻きついていた」
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死者43人、負傷者66人。京都市内最大の被害だった。
「『京都から来ました』って言うと、『あ、京都は爆弾がなかって良かったですね』と。それを言われると、私が除け者になったような気がします」
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西陣以外にも、東山区馬町・右京区太秦などに空襲はあったが、他の大都市と比べ、京都市内の被害が少なかったのも事実だ。何故か?
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観光客「落とされないというイメージが・・・。神社仏閣が多いから」
大学生「『色んな文化財を保護するため』って、聞いたことがあります」
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今も根強く残る、米軍による『文化財保護』説。その背景には、ある伝説が存在する。
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■『ウォーナー伝説』の真実
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東洋美術に造詣の深かったアメリカ人、ランドン・ウォーナー博士が、『ウォーナーリスト』と呼ばれる京都など古都の文化財のリストを作り、これを手に、アメリカ政府に「京都や奈良を爆撃しないよう進言した」とされる。
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【奈良県桜井市・安倍文殊院 東快應執事長】
「これです、ウォーナーさん。文化財に対する造詣が深く、日本のことを愛されて、そこから、日本の古都を空襲・戦災から守ろうとしたと」
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この寺では、毎年、博士の命日に法要を開き、非戦と平和を誓っている。こうした美談を伝える記念碑は、奈良の法隆寺、そして、神奈川の古都・鎌倉など、全国に少なくとも7ヵ所あるという。
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古都の文化財を救ったとされるウォーナー博士。しかし、この伝説が「全くの作り話だった」と、結論付けた歴史学者がいた。
「全くのデマであり、全くの迷信です」
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大阪樟蔭女子大学の吉田守男教授は、戦後に公開された米軍の極秘文書を入手。分析した結果、ウォーナーリストの本当の正体を突き止めた。
「文化財返還のための資料ですね。或いは、賠償のための資料」
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ナチスドイツの文化財略奪に備え、アメリカは各国の文化財リストを作っていた。これを元に、文化財の返還や賠償を求めるつもりだったのだ。
「日本が他国の文化財を盗んだり紛失した場合、日本版の文化財リストで『どれで返してもらおうか』と」
文化財の保護が目的でないならば、何故アメリカは京都の爆撃を控えたのか?
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京都は、原爆の投下目標として最有力だった。その計り知れない威力を正確に把握するために、米軍は通常の爆撃を禁止した。そこには、極めて冷静な軍事上の戦略しか存在しない。
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【大阪樟蔭女子大学 吉田守男教授】
「何もかも失って自信喪失した日本に、文化財だけが残った。『アメリカといえども、文化財だけは破壊できなかったんだ』という自尊心を持ったし、持ちたかったんでしょうね・・・」
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終戦記念日。西陣の空襲で被害に遭った磯崎さんは、空襲を記録する石碑を近くの公園に建てた。 |
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「東京の大空襲も、原爆でなくなった人も、ここで亡くなった人も、みんな同じ犠牲者です。1人の英雄を作るために、その英雄の影で、どれだけの人が亡くなり、被害があったか。その英雄だけが前に出る。こんな惨い話、僕はないと思います」
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これからも、空襲の語り部として、子どもや若い人たちに悲劇を伝えようと思う。生き残った者の務めとして・・・。 |
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