創造の芽摘む「補償金なし」

湯川 れい子


 地球温暖化その他の問題に対応するために、先頃、北海道洞爺湖サミットが開かれたが、著作権についても、このような地球規模の会議が開かれる必要性を痛感している。
 そうすれば、著作権に関する日本の先進性や、逆に対応の遅れ、自衛策などが、ユーザーである国民の目からも、もっとよく見えてくると思うからだ。
 日本は小泉政権の時に、知財立国を宣言した。にもかかわらず、ついに7月4日から解禁となった「ダビング10」は、今後も私的録音録が補償金制度についての検討を行うという条件付であるにせよ、問題の経緯もきわめて不透明なまま、議論も十分に尽くされずに始まった。消費者の混乱を回避すべく、著作権者側がやむなく譲歩したという形だった。
 このして記録音録画補償金制度というのは、消費者が、流通している著作物を、自身の私的な利用に限って、補償金を支払うことでコピーを認めているものだ。
 ユーザーは政令で指定された録音録画機器や、CD-R、DVD-Rなどの購入時に、わずかな補償金を支払えばよいという、かなりおおらかな制度だ。その補償金は各著作物の作家やアーティストに分配されてきた。しかし、今や音楽のコピーは私的利用どころか、無制限の状態で複製されて、CDの売れ行きにも影響している。
 原則10回までのコピーを可能にした「ダビング10」という新しい方式は、著作権者に適正な対価を還元するという前提の元にメーカー側も合意したはずなのに、メーカー側は補償金という形での支払いに反対している。
 劣化しない音や画像で10回ものコピーを可能にして、どうやって著作権者側に納得しろというのだろう。
 メーカー側は、今後の著作権管理技術の進化を前提に、補償金を払う必要はないと言っているのだが、外国で売っている自社商品にはちゃんと補償金を支払っているというのだからおかしな話だ。
 そういった動きに対して、何も言わない、言えない、知財立国の経済界や政界は、一体どう考えているのだろうか。
 確かに、戦後の日本経済をさせてきた電子機器の功績は大きいけれど、ハードとソフトは車の両輪なのだ。
 日本の音楽や映画が、まだビートルズやディズニーほど外貨を稼いでいないからという短絡的な計算で、もし芸術に補償金を払う必要はないと考えるとしたら、あまりにも情けない。
 グローバルなヒット商品とはいえ、ビートルズが背負っているのは英国の国旗であり、ミッキー・マウスの後には星条旗がたなびいている。歌舞伎の背後に日の丸を見ない人はいないだろう。それこそが文化なのだ。
 芸術・文化は、その国の歴史、埃であって、一旦破壊されたら、電子機器のように、まtくぁ作れるというものではない。
 「CULTURE FIRST〜始めに文化ありき」と叫ぶゆえんである。
 ソフトの作り手達が貧しく疲弊し、文化の土壌が枯れてしまえば、新しい芽は育たなくなってしまう。メーカー側も、消費者も、国も、そのことを真剣に受け止めて欲しい。