ヤマトとはヘブライ王国の神・ヤハウエの民を意味するヘブライ語‘ヤァ・ウマトゥ’が変化したものであろう
さくら

天孫族とヘブライ王国の家系図

歴史 / 2005-06-27 17:24:38
 私は予てから古事記に表されている神代の代に、物語の進行に関わりの無い多くの神々が、かくも多く登場するのかが理解できないでいる。そして天照大神以降の神々は生まれた後に物語があり、神武天皇までの関係がしっかり記述されている。古事記の編纂を支持した天武天皇の意図は何処にあるのか。記録の無い時代の、そして記憶も定かでない遥か昔の神代の物語を、稗田阿礼は何処から、誰から、どのようにして得て記述したのか。天照大神以前の神々にどんな位置づけをしたかったのか?作者の意図が読み取れない。古事記の神代の時代を尋ねると何かが見えてくるような気がする。

まず<別天つ神五柱>の章から始まる。この章では「天地が初めて開けし時・・・」で始まる。この短い一説で「天地創造」を表している。そして「五神が成り、皆独神(一人神)と成り身を隠した」と述べている。
次に<神代七代>で12柱の神が生まれる。12神の最後にイザナギの命、イザナミの命が成ります。
そしてこの二神が国(大八島国・日本)を創り、その後に10柱の神を生む。この10柱から更に12神が生まれる。この12神は更に11神を生む。
この後イザナギの命が我が子の神を切るとその血と刀から8神が生まれる。そしてイザナギの命の身に着けている物より更に12神が生まれる。そして川で身を清めたときに生まれる神が14神で、この中に我々に馴染みの天照大神、スサノオの命、月読命の三神が居る。

合計すると72柱の神が生まれている。この72の神々で以後の物語に登場するのは、天地創造の天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神の三神、イザナギ、イザナミの二神、イザナギの刀から生まれた建御雷神他‘僅かな’神々である。
何故何の物語も無く、かくも沢山の神々が登場するのだろうか!
天照大神から神武に至る神々はそれぞれ物語を持ち、自然な繋がりがある。出雲の物語に繋がる天照大神の弟・スサノオノミコト、天孫降臨する孫のニニギノ命、その子供の海彦に山彦など自然に物語が展開していく。

私はこれまで「天皇家は失われたイスラエルの支族の末裔」である事を基に、過去の事象を斜めに見てきた。その目線で考えると天武天皇はその先祖が大事にしてきたイスラエルの旧約聖書を参考にして、古事記を記したような気がする。旧約聖書の天地創造は創世記に記述されている。早速創世記を見てみよう。

「始めに神が天地を創造された。・・・」で始まる。古事記は「天地初めて開けし時・・・」で始まる。あまりに似ている。いや似過ぎている。聖書はこの後、神(ヤハウエ)が7日間で天地を創る様を記している。そして神は土からアダムを創り、アダムの肋骨からイブを創る。禁断の木の実を食べてエデンの園から追われたアダムとイブから沢山の子が生まれ繁栄する。カインは7代続く。セツからは8代続きノアに至る。大洪水によりノアとその家族8人のみが生き残る。現在の人類はノアを祖として、繁栄したとしている。そして創世記はこの後ノアの3人の子から枝分かれしていき人類の系図を綴る。ヤペテから13人、ハムの子が14人、セムの子は32人に及ぶ。セムの末裔にイスラエル民族の祖となるアブラハムが生まれる。

古事記、創世記のどちらも天地創造から始まり、天照大神とアブラハムに至る神の数はどちらも70余と成っている。そして天照大神は日本国民の祖であり、アブラハムはイスラエル民族の祖である。
天武天皇は稗田阿礼に創世記を見せ、アブラハムを天照大神として神代の物語を作るよう指示したと想像出来ないだろうか。そして「古事記に隠されたイスラエルの歴史」で述べたように天孫降臨を日向に、神武天皇の即位を紀元前660年前(皇紀元年)にするなどの指示を与えたのだろう。

高橋良典著「天皇家とイスラエル十支族の真実」の中で氏はアブラハムの系図と天照の系図は略、相似しているとしている。ここで系図は示せないがアブラハムの子イサク(諏訪大社の御頭祭)が天照の子オシホホミ、イサクの子ヤコブがニニギノ命、ヨセフがホホデミ(山彦)などなど。

次の機会にそれぞれの物語にも多くの共通点があることを紹介したい。







コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )
さくら

諏訪大社にもイスラエル王国の影が!

歴史 / 2005-06-26 19:12:59
 出雲の国は高天原から追放されたスサノオノミコトが築いた国とされている。スサノオノミコトから数えて七代後の大国主命が出雲王国を治めていた頃(古事記の中では葦原中津国)、高天原から国を譲るよう使者が来た。何度か使者が来たが話は纏まらなかった。最後の切り札として使わされた高天原のエース・建御雷神(タケミカズチノカミ)は大国主命の子・事代主神と交渉し、同じ大国主命の子・建御名方神(タケミナカタノカミ)と力比べをし、勝った方が葦原中津国を治める事と成った。結果は建御雷神が勝ち、大国主命と事代主命を厚く祭る事を条件に、出雲王国は天孫族(大和族)に国を譲った。建御名方神は出雲から追放され、信濃の国・諏訪に封印された。
諏訪に在る諏訪大社はこの建御名方神を祭る神社であり、大国主命を厚く祭ったのが出雲大社である。最近出雲大社の敷地から、直径1メートルの栗の木を3本束ねた基礎杭が発見された。大林組の技術陣が詳細に調査・検討した結果、この基礎が伝承されている高さ96メートル有ったと言われている、最初の出雲大社の基礎であると言う結論を出した。これで大国主命が如何に厚く祭られていたかが証明された。出雲族は戦わずして国を譲り、天孫族は敵将を厚く祭った事などを考えると、出雲族と天孫族は何か特別な繋がりが有った考えるのが自然である。出雲族はスサノオノミコトを祖とし、天孫族はスサノオの姉・天照大神を祖としている。私はこの古事記の表現は、出雲族も大和族と同じイスラエルの失われた支族である事を、密かに記述しているものと解釈している。この解釈の裏付けとなる史実が、諏訪大社の「御頭祭」と呼ばれる祭りの中に隠されている。
諏訪大社の初期の御祭神は裏山の守屋山であったと言われている。明治の初めまで諏訪大社では「御頭祭」(おんとうさい)と言う祭りが主であった。当時は「御柱祭」より重要な祭りであったと言う。「御頭祭」は別名「ミサクチの祭り」と言いミサクチはヘブル語で「ミ・イツァク・ティン」と思われその意味は「イサクに由来する」と解釈できる。毎年4月15日に行われていた「御頭祭」の概要を紹介する。
 「少年が「御贄柱」に縄で縛られる。神官が小刀で少年を切りつけると、使者が現れ神官を止め、少年が解き放たれる。そして鹿75頭が生贄となり、その首を神殿に捧げた。」
M・トケイヤー氏は言う。この神事は正しく聖書の中の「アブラハムのイサク奉献伝承」其の物であると!創世記で神はアブラハムに「神を信じるなら貴方の子イサクを、モリヤの地へ連れて行き、イサクを私に捧げなさい」と言う。信仰心の強いアブラハムは、神の指示に従いモリヤの地で、我が子イサクを小刀で突こうとした時、天使が彼の手を止めた。その後アブラハムはイサクの代わりに羊を生贄として神に捧げた。と物語られている。
 世の中に偶然でこれだけ似た事象が起きる事など到底考えられない。モリヤの地は守屋山を現し、羊は昔日本に居なかったので、似ている鹿を使ったのだろう。そして4/15はユダヤの過越祭の日に当たる。現在もこの祭りは形を変えて続いている。今は少年を縛ることは無くなり、鹿は剥製になっていると言う。更に諏訪大社の神官は何と守矢氏だ。
御名方神がこれら創世記の話を諏訪に持ち込んだことは想像に難くない。と言うことは御名方神の父、つまり大国主命もスサノオノミコトも同じイスラエルを祖に持つ事になる。
この事から私は次の様な歴史を考えている。
 先に日本に辿り着いた出雲族は、縄文の世を瞬く間に制圧した。あまり武力を使わず知力、技術力と権威で勢力を広げ、縄文人の信望を集めていった。そしてスサノオと大国主命(大黒様)を祭るため、前回紹介した祇園祭に関わる八坂神社が、全国津々浦々に建立された。そんな時期に日向に辿り着き九州で力を付けた天孫族(ヤマト族)は、イスラエル王国時代、出雲族より上位に有った事を理由に国譲りを要求してきた。平和を愛する出雲族は、戦わずして葦原中津の国(出雲)を天孫族に明け渡した。諏訪に封印された御名方神は、その後父・大国主命と同様、善政により信濃国と周辺の国を纏め、民に愛された。天孫族の時代になったにも拘らず、同神を祭った諏訪神社の分社もまた、津々浦々に建立された。
御柱祭のような危険な祭事で、氏子が命を掛けて御柱を山から運び出すのも、民衆の御名方神への信仰心が強いからと言える。言い換えるとそれだけ民に愛された神と言う事が出来る。現在諏訪大社の分社の数は全国で7000社近いという。
 一方高天原のエース建御雷神は茨城県にある鹿島神宮に祭られている。先日鹿島神宮へ参拝した折、宝物殿の陳列品の中に建御雷神の絵や像が展示してあった。その顔は正にヘブライ風でとても縄文人の風貌ではなかった。神宮は神社の中でも最も格式の高い神社で、天皇家に貢献した神や天皇が祭られている。例えば天照大神を祭る伊勢神宮、ニニギの命の霧島神宮、神武天皇の橿原神宮、日本武尊の熱田神宮、応神天皇の宇佐神宮、明治天皇の明治神宮など。建御雷神が如何に大和の国に貢献したかが解る。一方大社は天皇家と深い関わりのある豪族を祭っている。出雲、諏訪大社以外に春日大社、住吉大社がある。

 これで益々イスラエルの失われた10の支族が、日本に渡来したと言う物語の信憑性が高まって来たと言えないだろうか?
コメント ( 1 ) | Trackback ( 3 )
さくら

祇園祭はイスラエル王国のジオン祭

歴史 / 2005-06-22 22:29:51
 毎年7月になると京都・八坂神社で日本三大祭の一つ、祇園祭が盛大に開かれる。ある調査によると日本中で催される祇園祭と名の付く祭りは、300以上有る。祇園祭のような同一名の祭りが全国的に行われているものが他に在るだろうか?
祇園祭が行われる時期は地域により様々であるが、凡そ7月を中心に分布している。各地の祭りの主催者は、京都の八坂神社を本社とする神社が多い。次に多いのが須賀神社、須鵞神社、素驚神社である。これらの神社の祭神は皆、八坂神社の祭神と同じスサノオノミコト、大国主命である。日本神道の最高神である天照大神を祭る神明宮を中心とした祭りと比べ、圧倒的に多いのは何かを感じる。この答えは後にしたい。
京都八坂神社の祇園祭は7月1日から始まり各種の行事が続く。そして7月17日に行われる山鉾のご巡行でクライマックスを迎える。私はこの山鉾の巡行が何故7月17日に行われるのかに興味がある。国の各種の行事の日取りはそれぞれ‘それなり’のイワレがある。例えば日本の祝日の殆どが皇室行事に関係している。以下にそれらを示すと;
* 2/11 建国記念日・・皇紀元年(紀元前660年前)神武天皇が即位した日、旧紀元節
* 3/21 春分の日・・・皇室で執り行われる皇霊祭から(秋分の日も同じ)
* 4/29 みどりの日・・昭和天皇誕生日
* 5/3  憲法記念日・・明治憲法交付
* 7/** 海の日・・・・明治天皇が横浜に上陸した日
*11/3  文化の日・・・明治天皇誕生日
*11/23 勤労感謝の日・宮中新嘗祭
*12/23 平成天皇誕生日
祇園祭は祝日ではないが、先述した如く国民的祭りである。と言うことは7/17にも何らかの根拠が必要では無いだろうか。実は祇園祭以外に7/17に行われている祭りが他にもある。それは四国吉野川上流に位置する剣山で行われている。大杉博著「古代ユダヤと日本建国の秘密」によると、毎年7/13から始まる剣神社の夏祭りは、7/17になると大勢の山伏姿の信者により神輿が剣山山頂(1955M) に担ぎ上げられる。大杉氏の説では「イスラエルが滅亡した時、流浪の民となった支族がソロモン王の秘法 ‘アーク'(映画インディジョーンズの秘法のアークの事)とアークを納めた‘契約の箱'を日本迄運び、更に秘法を剣山中に隠した歴史を再現していると言う。言い伝えによると‘契約の箱'は丁度神輿の様な形だったと言われている。言い換えると神輿は契約の箱を真似て作られたと言える。そして山鉾は神輿の変化した物だと考えている。又M・トケイヤー氏は「契約の箱はヨルダン川を担いで渡りエルサレムを目指した」情景そのものだという。確かに日本の神輿は川を渡り、海に入り神社を目指している。
更に7/17はイスラエル民族にとって最も大事な、厳粛な日なのだ。旧約聖書で有名な「ノアの箱舟」の物語では、大洪水が引き、箱舟が現在のイランにあるアララテ山に漂着した日が7/17なのである。その日からノアの家族8人が地上に降り立ち、新しい生活を始めたのだ。イスラエル民族にとって忘れることが出来ない大事な日なのである。この日をイスラエル民族は「ZION・ジオン祭」として祝う。ジオン、ギオンあまりに発音が似てはいまいか。
要約すると;
1.祇園際の山鉾巡行と剣神社の神輿の神輿渡御がイスラエルのジオン祭の日7/17に行われる
2.ギオンと言う名はイスラエルのジオンから来ている
3.神輿、山鉾はソロモンの秘宝アークを納めた契約の箱を真似たもの
4.7/17はノアの箱舟がアララテ山に漂着した人類復活の日
5.神輿が海や川を渡るのは、契約の箱がヨルダン川を渡る様子を再現している
状況証拠をこれだけ集めたが、どうだろうか?祇園祭の御巡行が7/17に行われることに成った歴史の裏が取れたと考えている。

 冒頭で話した出雲王国のスサノオノミコトと大国主命を祭る神社が、何故全国規模にあるのか。ある調査では沖縄以外全ての都道府県にあったと記載されていた。
古事記でも出雲の話しがかなりのページを占めているし、出雲の神々(大黒様、恵比寿様)は今でも全国的に人気がある。私は出雲王国は天照大神率いる天孫族が渡来する以前、日本を治めていた王国であったと言う説に賛同している。そして古事記の中で天照大神とスサノオノミコトが姉、弟であるように、出雲族も失われた支族の一族であり、先に渡来し日本を治めていたが、後にイスラエル王国では本家筋、或いは上位の天孫族が渡来したため戦わずして‘国譲り'したのではないかと想像している。話が祇園祭からそれたが又の機会にこの話を紹介したい。
コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )
さくら

ヘブライ王国栄華の後は・・・

歴史 / 2005-06-22 00:35:59
 今のイスラエルとほぼ同じ地に、紀元前1200年から同900年の頃栄えた王国があった。その王国の名は「ヘブライ王国」と言う。ヘブライ王国は後に北イスラエル王国とユダヤ王国に分裂した。旧約聖書に記述されている「ノアの箱舟、ソドムとゴモラ、バベルの塔、モーゼの十戒などさまざまな物語はこのヘブライ王国の歴史を物語としたものと言われている。栄華を誇ったヘブライ王国は紀元前722年にアッシリア帝国に滅ぼされ、10の支族が奴隷となった。その後アッシリア帝国は新バビロニア帝国に滅ぼされ、イスラエルの奴隷たちは解放されたが、土地は与えられなかったため、東に新天地を求め流浪の民となった。アッシリア帝国が滅び、新バビロニア帝国が興きたのは紀元前625年とされているので、この間に移動が始まった可能性がある。その後ユダヤ王国もローマ帝国に滅ぼされ、ユダヤの民は世界中に散った。イエスはユダヤ王国の王子であり、ヒットラーに虐待されたのもこのユダヤ王国の民である。余談になるがユダヤの民が国を再興して何故イスラエルとしたのか?
このイスラエルの人々はヤハウエという神を持ち、一族はその神の民と名乗っていた。ヤハウエの神の子をヘブライ語で「ヤァ・ウマトウ」と言う。現在でもパレスチナの民族の中に「ヤマト」と名乗る族がいると言う。東へ移動した一族は新しい土地で自らを「ヤァゥマトゥ(やまと)」と名乗ったことは容易に想像できる。ユダヤのラビ(牧師)M・トケイヤーの著作に「日本・ユダヤ封印の古代史」がある。この著で氏は東アジアをくまなく調査し各地にその痕跡がある事を確認している。シルクロードの途中に天山山脈があるが、その南の麓に「ヤマト」と言う土地がある。今でも西の風俗が残っていると言う。10の支族のうちどの位の種族が日本に辿り着いたのかは定かではないが、幾つかの一族が日本に渡り、ヤマト族と名乗り、大きな影響を及ぼしたのではないかと想像している。
天孫族〜ヤマト朝廷〜今の天皇家が「失われた支族」ではないかとトケイヤー氏は言う。先に古事記の中にイスラエルの歴史が隠されているお話をした。神武天皇の名がカム・ヤマト・・・、皇紀元年は流浪の始まり、イザナギは預言者イザヤの子、などなど。
ここで私の考えを纏めたい。
倭国は和国と字を変え、国の名を大和(ダイワ)とした。しかしその読みは大王と成ったヤマト族の名を取りヤマトと読んだ。都の名もヤマト(奈良の大和)とした。何故こう言い切るかと言うと、土地の名、人の名は「名は体を現す」の諺の通り名前、又その字から地形や出身地が想像出来る。大和から地形、位置は想像できない。地形から来るヤマトは、山都、山門、山戸、山処となる。大和は一族の出目から来ていると理解出来る。
古代の漢字が輸入される前の日本語は、和語、アイヌ語、東南アジアおよび大陸からの外来語が交じり合い初期の日本語が出来つつあったと想像される。そこにヘブライ語が深く浸透してきたのではないだろうか。その後漢字、漢文が輸入されると、漢字に音読み以外に訓読みを与えた。既に改良、改善の血筋が流れている。当時該当するものが無い言葉は、漢字をそのまま日本語として使った。今の外来語をカタカナで表すのと同じ手法である。多分漢字をそのまま使う方がナウかったのは今と同じだろう。そんな事を考えながら地名、名前、言葉を見ていくと色々な事が見えてくる。音読みしかない物、当てられた漢字からは意味が解らないもの、どうしてもそうは読めない当て字などなど。大和は勿論、出雲、伯者、因幡、日向、吉備、尾張、これらは一般的な音、訓を当てても中々読めない。偶然ではあるがこれらの地は皆古事記の世界の国々である。
実はそんな神代の話ではなく身の回りの言葉、風俗、習慣などに、イスラエル・ヘブライから来ているとしか思えない類似性があるという事はご存じだろうか。
詳細はこの次にして今日はトケイヤー氏が著書で記述している‘さわり’を紹介しよう。
・ 年末年始の行事
・ 日本の祭り、特に祇園祭や諏訪大社の御柱、四国剣山の祭り、神輿
・ 神社の造り、神道の行事
・ 相撲の風習
・ 言葉の類似性、3000語も有る
次回に詳しいお話をしたい。  
コメント ( 3 ) | Trackback ( 3 )
さくら

「日ノ本の国」から「ジッポン」、そして「JAPAN」へ

歴史 / 2005-06-19 16:50:13
 オリンピックやサッカーワールドカップの応援席からは「ニッポンチャチャチャ、ニッポンチャチャチャ」の大きな声援が湧き上がります。でも選手の胸には`JAPAN'と書かれています。日本は何故ジャパンになったのでしょう?
前回‘倭国’が7世紀の頃‘日本’と成った事を紹介しました。その頃中国は隋から唐へと変わり、唐の覇権は世界に広がっていました。シルクロードを通しての人の往来は頻繁となり、中近東は勿論、西洋からの旅人も東の富を求めて来た事でしょう。唐の都・長安は西と東の文化が集まり繁栄を極めていました。日本からも遣唐使が幾度と無く派遣され、中国の文明だけでなく、景教などを通して西の文化も輸入しました。遣唐使の中で最も有名なのが空海と最澄です。空海は真言密教と一緒に景教(原始キリスト教)も持ち帰ったと言われています。空海とヤマトの繋がりは別の稿で紹介します。西の人達は長安において、中国の東の海の中に、日本と言う豊かな国があることを知ります。
日本は唐の時代以前、呉、宋や隋の時代を含め中国から色々な文化、文明を輸入しています。その大きな物が書物と一緒に入った漢字、漢文です。その漢字の読み方に訓読みと音読みが有りますが、音読みには周知の如くかなりの漢字は二つ以上の音読みを持っています。それは漢書の輸入をどの時代の国から輸入したかによって変わります。日本の南北で言葉が違うように、更に広い中国ではかなりの違いがあります。唐の時代は中国の北にある長安(今の北京)が都でした。唐以前の呉、宋と隋は南の建業・広州などが国の中心でした。最初に輸入した漢字は呉・宋・隋の南訛りでしたが、唐の時代の漢字は北訛りで輸入した事になります。日本は今日に至る迄、南北両方の漢字の音読みが受け継がれているのです。
では「日本」と言う字を南と北それぞれの訛りで読んでみると;
 「日」は南で「ひ」「にち」で、北は「じっ」、
 「本」は南が「ほん」で、北は「ぽん」
   (注)・・旺文社漢和辞典の`本'を引くと音読みにポンは無いが、事例として「原本、根本、抜本」などポンの事例がある。
この事から唐の時代の「日本」は長安の人々から「ジッポン(グ)」と呼ばれていたと想像出来ます。
シルクロードを旅して長安に来ていた西の人々は、中国の東の海に「ジッポン(或いはジパング)」と言う国が在る事を西の国々に伝えた事でしょう。
その後、西欧の英語圏で「ジッポン」が「ジャパン」に変化し、今に至ったと考えています。
余談になりますが、「にっぽん」は漢字の読み方の南訛りと北訛りの音の両方を取り入れている事になります。この辺に日本人のバランス感覚があるような気がします。「ニッポン チャチャチャ」

コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )
さくら

ヤマトは国の名を「大和」とせづ何故「日本」としたのか

歴史 / 2005-06-18 12:34:47
 ヤマト一族は「倭国」の大王となり、4世紀の頃にはその権力は安定期に入りました。宮廷を定めその地名も大和とし、大和朝廷となりました。このまま進めば国の名も「大和国」とするのが自然だと思うのですが、その後この国は日本となりました。どうして日本になったのか考察してみましょう。
7世紀の推古朝の頃、推古天皇の皇太子・聖徳太子は「隋」に対し次の様な国書を送っています。
「日の出ずる東方の天子が、挨拶状を日の沈む西方の天子に差し上げる・・・」時の世界の覇者に対し、大した‘度胸’と言う他はありません。今の日本を思うと更にその感が・・・。
この時大和朝廷は自らを‘日出国の天子'と名乗りました。隋の皇帝は「この世に天子は我のみ」と思っていたため烈しく怒ったと言いますが、その後小野妹子が遣隋使として隋を訪ねた折り、隋の使者が一緒に来朝したことから「東の天子を認めた」のではないかと解釈されます。更に推古帝は帰国する使者に国書を託しています。
そこには「東の天皇が謹んで西の皇帝に挨拶申し上げる・・・」と認(したた)めてありました。この時初めて国外に対し‘天皇’と名乗ったのです。
「日出国」、言い換えると「日の出る本の国」、ここに「日本」と言う国名が産声を上げています。
その後「壬申の乱」を経て7世紀の天武天皇の頃、大和朝廷は更に権威を増し安定しました。そして天武天皇と、持統天皇により「古事記」と「日本書紀」が編纂されました。そうです!ここに何時の間にか国の名が「日本」に成っていたのです。推古天皇から天武・持統天皇へ至る100年の間に大和朝廷は国の名を倭国から自らの一族の名「ヤマト国」とせず、より壮大な、威厳ある「日ノ本の国」としたのです。
ここで一つ疑問が起きます。日本・日本人から見ると、日出国、日ノ本の国は太平洋の更に東の国、例えばハワイになりませんか?中国側から見ると日本は日の出の国になります。隋の皇帝の怒りを買いながらも自らを主張した国が、国の名を中国から見た主体性の無い国名としたのは何故でしょうか?
ここに一つの答えがあります。
この天武朝の時代を実質支配していたのは藤原氏です。持統天皇の治世に遷都した新しい都の名は、なんと藤原京です。一豪族の名を時の天皇の住む都の名にするとは!古事記や日本書紀の編纂にもこの藤原家が大きな力を発揮したのは間違いありません。「平家にあらずんば・・・」と言われた平家以上です。その証拠には当時日本中の豪族が、姓を名乗るに際し藤原の一字‘藤’を戴いたのを見てもその影響力は計り知れません。加賀の国の加藤、伊賀の国の伊藤、遠州の遠藤、武蔵野国の武籐・・・・。
藤原氏は朝鮮の百済からの亡命貴族‘ホゼワラ’の一族であったと言われています。ホゼワラに漢字を当てたのが藤原と言われています。故郷の百済から日本を見ると正に「日ノ本の国」だったのです。国の名を「日本」とするよう進言し、天皇の指示により纏めた壮大な国の歴史書の一方の名を、「日本書紀」としたのではないでしょうか?
コメント ( 0 ) | Trackback ( 1 )
さくら

古事記に隠されたイスラエルの歴史

歴史 / 2005-06-16 20:00:11
 古事記は大和朝廷の権力が安定した頃、第四十代・天武天皇の指示により稗田阿礼が編纂した。天武天皇は編纂を指示するに際し、「諸氏所属の家々に持ち伝えられている`帝紀'と`本辞'は虚偽を加えているものが多い・・・・・それらを選録し、偽りを削り実を定めて後世に伝えよう」と仰せられたという。しかし一般的には「天皇家を神から連なる万世一系とし、神格化することにより、権威を確実にするため」が裏に隠された真の目的であると言われている。
天皇家がイスラエルから来た支族の一族であると言う説がある。それらに関する多くの本が発行されている。私もこの説に惹かれている一人だ。
天武天皇は先に記述した指示とは別に阿礼に対し、天皇家に伝わる秘められたイスラエルの話を、それとは解らないように古事記の中に、日本の物語として作るように指示したのではないだろうか。
天武天皇が阿礼に対し、「古事記に必ず記述するよう」指示したと想像される仮説の幾つかを紹介したい。
1.イザナギとイザナミ
 紀元前8世紀頃活躍したイスラエルの預言者にイザヤがいる。イザヤは「イスラエルの民は滅び、流浪の末東の海の中の島に辿り着く」と予言したと言う。日本を生んだイザナギ、イザナミはユダヤ語でイザヤの子と言う意味だと言う。ギは男、ミは女を意味すると言う。
2.高天原
 天孫族はニニギの尊が高天原から九州高千穂に降臨する。古事記の中にも数多くの「天の〜〜」が記載されている。その幾つかを紹介すると「天浮橋、天安河、天安河原、天原、」など多数ある。古事記の世界でなくても天の羽衣、天の橋立など身近にある。天にある高原なら日本語的には‘天高原’となる。どうして`高天原'としたのか?イスラエル民族の祖アブラハムの故郷は、西アジアのダガーマ・ハーランと言う街だと言う。ダガーマ・ハーラン、タカーマハーラ、タカマガハラと変化し、これに漢字を当てたのが高天原となったのではないか。一族がダガマ・ハーランから来たと言う事を、この様な形で表現したかったために、他の表現と同じ「天高原」とせずに「高天原」の字を当てたと考えるとこの謎は解ける。
3.高千穂の峰
  ニニギのミコトを何故九州高千穂の峰に降臨させたのだろう。奈良の三輪山に降臨すれば神武天皇による東征の苦労が無くなり物語りは簡単だし、邪馬台国がどこにあったかなどの議論も起きなかったかもしれない。私はイスラエルから来た支族が最初に上陸したのが宮崎(日向)の海岸であったと想像している。それを古事記の中に解らないように残す為の手段が、高千穂の峰へのニニギのミコトの`天孫降臨'であったと思っている。
4.神武天皇
 初代天皇・神武と言う名は後世におくられた名だ。古事記に記されている名は‘カム・ヤマト・イワレ・ビコ・ミコト’である。これをヘブライ語で翻訳すると「(カム)・・人の上に立つ、(ヤマト)・・ヤハウエの神の子、(イワレ)・・ユダヤ人、(ビコ)・・最初の子、(ミコト)・・高貴な人」となる。初代天皇にふさわしい名である。この中に重要な言葉がある。それは`ヤマト’だ。イスラエルの神の名は`ヤハウエ'と呼ばれヤァと略され、ヤマトはイスラエル語風に言うと「ヤァ・ウマトゥ」となりその意味は「ヤハウエの神の子」である。大和朝廷はここから生まれた名である。地名はその地形からくることが多く、地形から来るヤマトは「山戸、山都、山門」などである。奈良の大和は彼らが移住してから後に付けられた名と考えられる。
5.皇紀は2600年
 神武天皇が即位したのは紀元前660年とされ、その年が皇紀元年になる。現在考古学上実在した天皇は第十五代の応神天皇からと言われている。その時代は西暦にして400年ごろである。天武天皇はイスラエル民族がアッシリア帝国に敗れ流浪の民となった年を永遠に記録に留めるため、初代天皇の即位の年をその年にしたのではないか。そして各天皇の寿命を仙人の如く長くして、15代の天皇で1000年を綴り、実在の天皇の物語に続けたと考えられる。
コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )
さくら

皇紀は何故2600年

歴史 / 2005-06-13 17:25:28

 皇紀とは当時の日本の覇者カム・ヤマト・イワレビコノ・ミコトが倭の大王に即位した年を皇紀元年とし、それは西暦660年前としています。カム・ヤマト・イワレビコノミコトとは、後に初代天皇となった神武天皇です。神武天皇から数えて15代目の応神天皇までは実在しない天皇と言われています。確かに古事記の記載を見るとその生涯が皆100歳前後と、当時の平均寿命から考えて信じられない長寿の天皇が続いています。実在しなかった天皇たちを作り上げ、更に夫々の天皇を仙人のように長寿とし、何故皇紀元年を紀元前660年年まで遡らなければならなかったのでしょうか?

青森県新郷村にキリストの墓があります。村にはイスラエルの風習と思われる習慣や風俗が残っています。キリストには弟が居りゴルタゴの丘で処刑されたのは弟で、キリストは日本まで逃げて新郷村で死んだと説明されていました。日本で学び時の仲哀天皇に謁見したとも記述されていました。キリストかどうかは定かではありませんがユダヤの人が遥か日本まで来ていたことは想像できます。東北まで来ているのですから西日本は更に容易です。伊勢神宮の内宮と外宮を結ぶ参道の石灯籠にイスラエルの国旗の六角形の星印があるのをご存知でしょうか?日本神道のメッカにイスラエルの星とは真に奇妙としか言いようがありません。

紀元前660年頃、北イスラエル民族がアッシリア帝国に滅ぼされイスラエルの10の支族が世界各地へ散ったと言う説があります。この支族の中に流浪の末この日本にたどり着いた一族が有っても不思議はありません。時の縄文の人達に比べ圧倒的な知力と武器を持ったイスラエルの支族はたちまちのうちに縄文の支配者となって言ったと想像できます。安定期に入ったヤマト朝廷が古事記を編纂するに際し、編集者に付けた絶対条件が「初代天皇の即位の年を我が祖先がアッシリア帝国に負けて、流浪の始まった年と成るよう、あらゆる努力をしろ!」だったのではないでしょうか!

日本とユダヤの相似性について、特に神道とユダヤ教の中に多くの共通点が有る事は色々な本に出ておりますので、ここではこれらについては語りません。皇紀元年が何故紀元前660年なのかについてのみ考察してみました。

 

コメント ( 1 ) | Trackback ( 1 )
さくら

倭国と大和国

歴史 / 2005-06-13 01:27:29
 日本は古代の頃、文明の発達していた中国(唐の国以前)から倭人の国と呼ばれていました。
‘倭'と言う漢字は「小さな体の暴れ者」と言うような意味で、いつの時代の中国も中華思想から、周辺の国々の民族、国の名前などには卑しみ、蔑んだ字を当てていたと言います。その頃の倭人は(特に北九州地方)小さな舟を巧みに操る`卑しい'民族であったようです。勿論まだ日本は国として纏まっておりませんでしたが、2世紀の頃‘邪馬台国’の卑弥呼が魏の国に朝貢し、「倭国王」に任じられています。この時始めて日本は中国(魏の国)から「倭国」と言う名を与えられたことになります。自ら名乗ったわけでは在りません。
その後漢字を輸入し、自由に操れるようになった我が国の先人は「倭」と言う字の意味を知り、「倭」を使うことを避け、最も自分達の生活や性格にに合った漢字「和」を当てたと思われます。
この和に`大日本帝国'と同じ発想で‘大’を加えて「大和」としたのでしょう。
ここまではあまり反論はないと思います。では大和は「ダイワ」と読まず何故「やまと」なのでしょう?
私は時の権力者が「ヤマト」と言う名前の人達か、「ヤマト」と言う地名に関係する人達であったと想像しています。魏の国が倭国に「邪馬台国」と言う字を当てたのも、倭人が自分の国を「ヤマトくに」と名乗るのを聞いて、ヤマトと言う音にこれらの漢字を当てたと思っています。中国が周辺の蛮族に対し、蔑んだ字を当てる事は先にに述べた通りです。
ではヤマトと名乗る人達は、ヤマトという地名に関係がある民族だったのでしょうか?それともヤマトという名の民族に関係がある人達でしょうか?
 地名の一般的な付け方は地形や環境から来てる物が殆どですから、ヤマトと言う名はどうやら地形を基にして出来た地名ではないと思います。それ以外では権力者や知名人の名前を採ったり、その民族(一族)の故郷の地名を使うことが見られます。アメリカの地名は移民者たちの故郷、ヨーロッパの地名を使ったものが沢山あります。国内でも東北や北海道の開拓地にそれらが沢山見られます。私は古代の日本は現代のアメリカと同じように世界中からの移民者が移住し、自分たちに深い関係のある名(民族名や出身地)を地名にした所も数多くあったのではないかと思っています。
古代の権力者ヤマトはヤマトと言う故郷を持っていたか、ヤマトと呼ばれる何処か遠い世界の民族と関係が有るのではないでしょうか?

今日はこれで終わります。ヤマトを探す旅に出ます。
コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )