ヤマトとはヘブライ王国の神・ヤハウエの民を意味するヘブライ語‘ヤァ・ウマトゥ’が変化したものであろう
さくら

諏訪大社の御祭神・建御名方神について考える

歴史 / 2006-11-26 22:22:30
 諏訪大社の御頭祭、御柱祭について色々考えてきたが、肝心の御祭神についてあまり触れてこなかった。今回は御祭神について考えてみたい。
上社の御祭神は古事記の国譲りの物語の主役・大国主命と越(高志)の国の奴奈河姫との間に生まれた建御名方神である。大国主命には長男に事代主尊が居り、建御名方神は次男とされている。古事記に依れば天孫族が大国主命に対し出雲の国の国譲りを迫った時、長男の尊は国譲り止むなしとしたが、次男は天孫族の将軍・建御雷神に戦いを挑んだ勇猛な神と記されている。古事記は建御雷神との力比べに負けた建御名方神が、諏訪湖まで逃げ、「この地から出ませんから許して下さい」と謝り許されたと書かれている。
下社の御祭神は建御名方神の妻・八坂刀売神(ヤサカトメノカミ)が祭られている。この姫は名が示す如く八坂(信濃へ来るには何処から来るのも坂ばかりである)の神とされている。
先に引用した「神長官守矢史料館の栞」に依れば、この諏訪の地のネイティブは洩れ矢族であったとしている。大和朝廷が倭国を治める以前に建御名方神が諏訪を攻め、洩れ矢氏を破りこの地を治めるようになった。しかし建御名方神は洩れ矢族を重用し善政を敷いたため、民に慕われ諏訪の大明神として祭られるようになった。
その善政について諏訪に詳しい岡田米夫先生の説が興味深い。それはミナカタと言う音は‘水の潟’から来ているのであり、越の国で生まれ育った建御名方神は、越の国の潟の農業を熟知し、その技術を諏訪で用いたからだとしている。新潟の字が示すように越の国は昔殆どが潟であった。又諏訪も古代は諏訪湖周辺は大きな潟であったという。諏訪湖の南の茅野市は、字の示すごとく葦の野であった、言い換えると潟であった事を示している。建御名方神はそんな諏訪を実り豊かな地に変えていった、それが善政を敷いたということであろう。
古事記では国譲りの力比べがあったのは出雲の伊那佐の小浜で、負けた建御名方神が諏訪まで逃げてきたと記されているが、私は以前からこの説には疑問を呈して来た。出雲からすごすご逃げてきた神を、いくら善政の実績があるからと言って、後の民が諏訪の大明神として祭る訳が無いという考えからである。
この話を肉付けする、もう一つ岡田先生の説を紹介したい。先生は大和朝廷が倭国を統一しようとした時、最も抵抗したのが次の三つの勢力だとしている。一つが大国主命の治める出雲の国、次が畿内大和国を治めていた葛城の王・言代主の神、そして最後が越から信濃(私は関東も収めていたと考えている)を治めていた建御名方神。
古事記ではこの三つの抵抗勢力を出雲一国に纏め、更に夫々の王、事代主命と建御名方神を大国主命の子として物語をアレンジしたのではないかと述べている。そして最も手こずったのが建御名方神だったのではないかと述べ、実は建御雷神が関東から信州に攻め上ってきたが(利根川下流の鹿島神宮に建御雷神が祭られている)、建御名方神との戦いは勝負がつかず、話し合いで決着がつけられたのではないか?という考えだ。
同感である。天孫族との戦いから`スゴスゴ'逃げ帰ってきたような建御名方神を、後の源頼朝や武田信玄が武神として祭る訳がない。そして諏訪大社の氏子達が7年に一度の御柱際の祭りに、命を懸けるのも、諏訪大社の支社が何故全国に6500社も在るのかも同じ理由によるものと考えると納得がゆく。
建御名方神が出雲の神ではない事を示す資料がある。これも岡田先生が調べた事であるが、今から1200年前に編まれた`出雲風土記'と言う古文書があるが、そこには出雲にある200社余の神社の中に、一つとして建御名方神を祭る神社は無いと言う。確かに大国主命の子であれば、その痕跡が出雲の国の何処かにあってもおかしくはない。建御名方神が越の国と信濃の国の王であったのが歴史の真実であったのではないか。
そして私の仮説と繋げてみたい。イスラエルの十支族の内の数支族が、紀元前に倭国へ渡来して来た。一つが黒潮に乗り淡路島から四国を経て九州へ移動して天孫族となった。一つが隠岐の島から出雲を取り出雲族となった。一つが佐渡島に上陸し越の国を取り、信濃も治めた。一つが山陰から畿内に入って難波の国(葛城と考えても良い)を造っていた。これらの国が覇権を掛けて争ったのが、古事記の書く‘国譲りの物語’だったのではないだろうか。
記紀を読むとき、そこに何か矛盾を感じたら、別の視点から見る事が大事であるとしみじみ感じた。
次回に残りの支族の行方を追ってみたい。

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さくら

諏訪大社の奇祭、イスラエル起源論補足

歴史 / 2006-11-19 10:09:57
 諏訪大社に伝わる二つの奇祭、御頭祭と御柱祭がイスラエルの故事に由来するとする話を進めてきた。
ある出来事に対してその由来・伝承が不確かな時、仮説を立ててその答えを求める方法がある。その時に仮説の裏付けとなる事象が多ければ多いほど、その仮説は真実に近づくと考えられる。冒頭に述べた祭りについてはまだ幾つか述べていない事象がある。ここに紹介する事により、‘奇祭がイスラエルの故事に由来する’とする仮説の裏付けとしたい。
先に御頭祭について更なる裏付けを紹介する。
現在の御頭祭は祭壇に数頭の鹿の剥製が捧げられているが、昔は75頭の鹿が奉献されていたと言う話をした。しかし何故75頭かの説明をしていない。この話を読んだ人は誰でも「何故75頭なのだろうか?」と言う疑問を持ったと思う。私も「守矢史料館」の栞に75頭の鹿の頭と書かれていたが、その説明が無かったため、75と言う数字にはどんな意味があるのか気に掛かっていた。先に紹介した久保有政氏の著書「日本の中のユダヤ文化」にあった説を紹介する。
新約聖書の中に「ヨセフは人をやって、父ヤコブと75人の全親族を(エジプトに)呼び寄せました」(「使途の働き」第7章14節)と言っている。ヨセフとは御頭祭の起源となったイサク奉献伝承のイサクの孫に当たる。つまりイスラエル民族の祖となったアブラハムからイサク〜ヤコブ〜ヨセフと続いている。そして更に重要なのは‘失われたイスラエルの十支族’が使っていた「サマリア5書」(モーゼ5書とも言う)でもエジプトへ呼ばれた全親族は75人だったとしている。更にイスラエルのサマリアの地に、今でもサマリア人が300〜400人住み、毎年‘過ぎ越しの祭り’という祭りを行い、羊を捧げている。祭りの時期は諏訪大社の御頭祭とほぼ同じである。今は45頭だが昔は75頭捧げていた。
75頭の中には必ず耳が裂けた鹿が奉献されていたと言う。守矢史料館には耳裂け鹿が飾られている。諏訪大社に残る伝承では、この耳裂鹿は神の矛に(耳が)掛かった、神が供えてくれたものと信じられている。この話は聖書の中に出てくる「羊が、角を藪に引っ掛けていた」と言う話に関連している。
久保氏はこれらから「ヤコブと共にいたこの人数が、イスラエル人にとっては非常に意味のある数字であった」としている。
同感である。イサクは神に生贄に捧げられたが、神のご加護により助けられ、そのイサクから枝分かれして増えた親族が、その人数分だけの生贄の羊、75頭を捧げたと考えても可笑しくはない。いや当然かも知れない。
更にこの75と言う数字は宮地直一博士の「諏訪史」第二巻に記載されている諏訪大社・上社の年中神事の数と一致している。博士は特に75と言う数字に言及していないが、「諏訪大社の御柱と年中行事」の著者宮坂光昭氏は、全国の神社でもこれほどの神事がある神社は数少ないとしている。ここにも何か因果関係があるような気がする。
更に次の記述もあった。御頭祭は別名「ミサクチ祭り」と呼ばれている。日本語とすると意味を成さないこの言葉も、ヘブライ語としてみると次のようになる。「ミ・イツァク・ティン」、「イサクに由来する」と訳せる。
それでは御柱祭はどうであろう。
ヘブライ王国が祭ったアッシュラの神は、木の柱に彫られて祭られていた。いつの間にかアシラの神の彫られた木をアシラと訳して呼んでいた。イスラエルの失われた支族が倭国へ伝えた頃には、既に長い真直ぐな御神木をアシラと呼び、次第にハシラに変化して行ったのではないか。ハシラとは神の事だったと解釈すると、現在でも神を数える時、一柱、二柱・・・と数える事は、この話から納得出来る。
柱が神であるという話を二つ紹介したい。
一つは伊勢神宮での話、出典は先に紹介した「日本の中のユダヤ文化」から。周知の如く伊勢神宮の宝物は勿論三種の神器の一つ八咫の鏡とされているが、本殿の地下には約5メートルくらいの柱が建っていると言う。その柱の名は‘天御柱’と呼ばれている。
今一つは出雲大社の話。出雲大社は9本の柱で支えられている。しかし大社では9本の柱とは呼ばず、八本と心柱と呼ぶという。伊勢神宮の天御柱と同じように、心柱に神を感じる。日本を代表する二つの神社の要は‘柱’である。柱を神そのものと考えなければ、この話を理解する事は不可能である。
諏訪大社の奇祭、御頭祭と御柱祭の起源がイスラエルに有ると言う補足をしたが、如何であろうか。
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さくら

諏訪大社・御柱祭のイスラエル起源論

歴史 / 2006-11-11 10:29:33
 御頭祭が旧約聖書の「イサク奉献伝承」に由来すると考えた時、同じ諏訪大社で行われるいま一つの奇祭・御柱祭も同じような事に由来すると考えられないだろうか。
先に紹介した宮坂光昭氏の「諏訪大社の御柱と年中行事」の中で、その由来について`御柱起源論'と題する節で、以下のように述べている。
「御柱祭の起源について過去に30位の説が出ている。諸説が多いと言うことは、定説になるような有力な説がないということであって、色々な角度から更に検討する必要があろう。私は御柱祭が水平構造の祭りであると分析してきたが、支配者や神社が強制したり、統制のための祭りではなく、住民の自発的行為である。そのような観点から追求していく方法が、案外謎を解く鍵である。」
として沢山の説を紹介している。その内最も多い説が、「建御名方神を4本の御柱の中に閉じ込めるため」と言う説であると言う。氏は特にコメントしていないが、私は慕い・敬う神を閉じ込めるような祭りに、氏子が命を懸ける事など考えられない。
氏の言うように諸説があっても、この建御名方神の例の様に、別の見方をすると納得できない理由は、真の理由にはなりえないと言う事である。
御柱際については今更説明するまでも無いのだが、これからの話の展開上、今一度簡単に触れておきたい。
‘御柱祭’は直径1M位(3尺4寸)、長さが16M位(五丈五尺)のモミの木を神社(春宮、秋宮、前宮、本宮)ごとにそれぞれ4本、計16本切り出し、、夫々の拝殿の四方に立てるまでの祭りである。7年に一度行われ、遠いところでは神社から20Km離れた山奥から切り出される。その運搬の模様は、その都度TVで放映されているので、説明を省くが、誰もがその勇壮な、命懸けの祭りを驚きの目で見ている。前記の著書に依れば、「御柱は桓武天皇の時代に既に記録に現れているが、その遥か以前の縄文の時代の‘柱立て祭り’が源流かもしれない」と記している。
ここに‘御柱起源論'に是非とも加えたい説がある。それは久保有政氏の著書「日本の中のユダヤ文化」の中で述べられている。そのまま引用する。「この諏訪大社に伝わる`柱'信仰とは何なのか。古代イスラエルには`アシラ'信仰と言うのが有った。これはアッシリアから来た異教信仰で、女神アシラを崇拝するもので、そのシンボルは`柱'であった。」とし、`アシラ'の音が、`ハシラ'に変化したと述べている。「なるほど」と頷けるが、これだけでは説得力に欠けると思っていたが、いま一つ`御柱イスラエル起源説'を後押しする話が別の本に有った。それは小石豊氏の著書「古代出雲イスラエル王国の謎」である。同著・第2章の‘諏訪大社の御頭祭と御柱祭’に次のような記述があった。
「柱を山から滑り落とす儀式は、ユダヤ王国のソロモン王が神殿を立てるとき、(レバノンの)ツロのヒムラ王からレバノンの杉の木を買い取って、遠路エルサレムまで運んだ大事業の伝承に由来するのだろう。巨木を積んだ筏はツロの辺りから海路を下り、ヨッパから陸揚げされて、陸路を延々とエルサレムまで運ばれ、ソロモンの宮殿に建てられたのだ。「列王記I第5章2節、8〜10節」に記述」としている。
レバノン杉について調べてみた。遥か古代、中近東に広く分布していたが、乱伐により紀元前にはレバノン山地のみに残ったとされている。この杉は標高1200M以上にしか育たないとされ、今でもレバノンに残り珍重されていると言う。エジプトの‘ツタンカーメンのお棺’や、‘クフ王の太陽の船'に使われたのがこのレバノン杉であったと書かれていた。地図でレバノンのツロと言う地名を探した。見つけた。レバノン山脈が最も海に近づいた、レバノンとイスラエルの国境付近にあった。地図にはTyreと記されている。(別の地図ではチルとも記されている)イスラエルのヨッパは中々見つからなかったが、「旧約聖書イスラエル地図」という地図に「ヤッファ」と記されているのがそうであろう。エルサレムに最も近い海岸にある。
距離を調べるとツロからヤッファまでは約150Km、ヤッファからエルサレムまでは約50Km位である。当時としては長旅であったと思う。
 今一度御柱際を振り返ってみよう。山奥から切り出されたモミの木は、多くの氏子により最大40度余の斜面を滑り降り、川を渡り、その後‘御舟’の先導で神社に引かれて行く。神社に着いたモミの木は拝殿の周囲に立てられる。
一方ソロモン王の時代は、レバノン山脈が海に迫った標高1200Mの山奥から切り出された杉が、山を滑り降りてツロの海岸まで運ばれる。そこから筏でイスラエルのヤッファまで海路を移動する。ヤッファからエルサレムまで厳しい陸路を経てソロモンの神殿に辿り着き、アシラの神として神殿の周りに立てられた。
如何であろうか。諏訪大社へ運ばれる時、御船が先導するのは地中海を航海してきた事を伝えているのかもしれない。正にレバノン杉の運搬作業の再現である。
 御頭祭の話、‘アシラ’と‘柱’の話、そしてソロモン王のレバノン杉の運搬作業から、御柱起源論として、次の解釈が加えられるのではないか。「諏訪の民にはイスラエル時代のアシラ神(柱)の運搬作業が伝承されていた。神(後に建御名方神に変わった)に対する強い信仰心から、2000年に亘り命懸けの作業を続けているが、その本来の由来は伝わっていない」と解釈すると、多くの謎が一気に氷解するのではないだろうか。
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さくら

諏訪大社・御頭祭の由来

歴史 / 2006-11-05 01:25:46
 諏訪大社参拝のあと、以前から尋ねたかった「「神長官 守矢史料館」へ向かった。史料館は諏訪大社上社の前宮と本宮の丁度中程にあったが、案内板も殆ど無く、何度か土地の人に聞きながら漸く見つける事が出来た。「史料館」を尋ねた理由はそこに`御頭祭'についての資料が沢山展示されていると聞いたからである。私のブログ「諏訪大社にもイスラエル王国の影が」と題し、2005−6−26付けで諏訪大社の御頭祭について、一度紹介した事があるがもう一度お話したい。
ここに宮坂光彦氏の著「諏訪大社の御柱と年中行事」と言う本がある。宮坂氏は「諏訪大社の年中行事の多さは、他の神社と比べ物にならないほど多い」と書いている。多いだけでなく`御柱祭 'として有名な奇祭があるように、他の神社では見られない祭りが多いという。その中で御柱祭と並ぶ奇祭に、‘御頭祭’が揚げられている。御頭祭は別名‘酉の祭り’或いは`ミシャグチ祭り'とも言われ、毎年4月15日に上社・前宮の十間廊で行われている。現在は春の耕作前に神(ミシャクジの神・地母神)を迎え、豊作祈願神事を行うと簡単に記されている。本の御頭祭を示す写真には、祭壇に鹿の頭の剥製が捧げられ、祭壇の正面には何故か御杖柱と呼ばれる柱が祭られている。本の説明では「『この木の本にて神事有り』と言うように、御杖柱に鉄鐸を懸けて、ミシャクジの神を降ろして神事が行われる」としている。この神事を勤めるのは守矢家の神官である。
守矢史料館で入手した栞には、御頭祭の鹿を貢ぐ祭事、御杖柱などについて更に詳しく記されていた。それは今から220年前にこの地を訪れた菅江真澄翁(江戸時代後期の高名な文化史研究家)が御頭祭に立会った時の記述を、信濃教育出版部発行の「菅江真澄の信濃の旅」から引用し、栞に紹介している。以下がその要約である。
「十間廊には鹿の頭が75頭、真名板の上に並べられていた。その中には耳の裂けた鹿がある。・・・やがて神長が篠の束を解き、篠をバラバラにしてその上に敷く。その時長さ五尺あまり、幅は五寸ほどで先のとがった柱を押し立てる。これを御杖とも御贄柱(おにえはしら)とも言う。御神(おこう)と言って八歳くらいの子供が紅の着物を着て、この御柱に手を添えさせられ、柱ごと(子供も一緒と解釈したー筆者)人々が力を合わせてかの竹の筵(むしろ)の上に押し上げて置いた。下位の神官が待つ。そこへ裃を着た男が藤刀抜き放って神長官に渡す。(中略)・・・神楽が止んだ。例の子供を桑の木の皮を縒り合わせた縄で縛り上げる。その時男達は『まず、まず』と声を掛ける。・・・・そして長官の前宮で先の縛られた子供が解き放たれ祭りは終わった。」そして栞は次のような補足説明をしている。「・・・・神長守矢が司る祭りには遠い縄文時代のこだまが伝わっている。こうした狩猟祭祈の部分の他は、中々意味が取りずらく謎に満ちている。例えば紅の着物を着た子供を御贄柱と共に押し上げ、縛るのは何故か?かって子供は殺されたと伝えられている。」
以上が栞からの抜粋である。御贄柱とは‘生贄の柱’の意味であるから、栞の言うようにかっては子供が生贄として神に捧げられていたのであろう。守矢家の末裔にもその意味が解らない。
しかしこの謎を解いた人がいるのだ。「日本・ユダヤ封印の古代史」を書いた、ユダヤのラビ(牧師)M.トケイヤー氏である。氏はその著書の中で次のように記している。
「諏訪大社に伝わるイサク奉献伝承」と言う節で「聖書に書かれているアブラハムのイサク奉献伝承が、諏訪大社で祭りになっている。」と述べている。それではその御頭祭の基になったという聖書の話しを、氏の著書から引用しよう。
 旧約聖書の創世記22章:ある日神はアブラハムに「貴方の愛している子イサクを連れてモリヤの地に行きなさい。そして私が示す山の上で、全焼きの生贄としてイサクを私に捧げなさい」。このモリヤの地とは後のエルサレムである。アブラハムはモリヤの地でイサクを縛り、祭壇の薪の上に置いた。彼は刀を取り出してイサクをほふろうとした。その時天使が現れ、彼の手を止めた。「貴方が神を恐れることが良くわかった。貴方は自分の子さえ惜しまずに私に捧げた」と言った。アブラハムが目を開けると、そこに角を藪に引っ掛けている羊がいた。アブラハムはイサクの代わりに羊を生贄として捧げた。
以上が創世記のイサク奉献伝承である。御頭祭の菅江真澄翁の伝承とかなりの部分で共通点があることがすぐに理解できる。
M.トケイヤー氏の考察を紹介しよう。何故鹿が捧げられるかについては、古代日本には羊がいなかったので、似ていた鹿を捧げたのであろう。75頭の鹿の中に必ず耳裂け鹿が居たという伝承があるが、これは神の矛に耳が懸かった羊と関連があると思われる。アブラハムはモリヤの地に行くが、諏訪大社上社の御神体は裏の守屋山である。ユダヤ教では神ヤハウエを、モリヤの神と呼んでいる。
その他の生贄の話は説明するまでも無いほど、両方の話が酷似している。これほどまでに似た話が偶然現れるであろうか。御頭祭はその伝承の由来が伝わっていず、人々は祭りの行事が何故その様に行われるのか理解できないでいる。祭りは伝承して来たが、イサク奉献伝承の基の話しが失われ、仕種のみが残ったと考えるのが一番解り易いのではないか。
話を纏めよう。古代の倭国にイスラエルの失われた十支族の一支族が信濃に入った。彼らはアブラハムの子孫として、イサク奉献伝承を忘れずにいた。諏訪の地に落ち着いた彼らは諏訪湖のほとりに安住し、裏山の山を神ヤハウエ・モリヤの名を取り守屋山と名づけ、自らもモリヤ族と名乗った。その伝承を祭りにして残す事にし、祭りを司る長を守矢とした。現在の守矢家はその78代目である。 


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