諏訪大社の御頭祭、御柱祭について色々考えてきたが、肝心の御祭神についてあまり触れてこなかった。今回は御祭神について考えてみたい。
上社の御祭神は古事記の国譲りの物語の主役・大国主命と越(高志)の国の奴奈河姫との間に生まれた建御名方神である。大国主命には長男に事代主尊が居り、建御名方神は次男とされている。古事記に依れば天孫族が大国主命に対し出雲の国の国譲りを迫った時、長男の尊は国譲り止むなしとしたが、次男は天孫族の将軍・建御雷神に戦いを挑んだ勇猛な神と記されている。古事記は建御雷神との力比べに負けた建御名方神が、諏訪湖まで逃げ、「この地から出ませんから許して下さい」と謝り許されたと書かれている。
下社の御祭神は建御名方神の妻・八坂刀売神(ヤサカトメノカミ)が祭られている。この姫は名が示す如く八坂(信濃へ来るには何処から来るのも坂ばかりである)の神とされている。
先に引用した「神長官守矢史料館の栞」に依れば、この諏訪の地のネイティブは洩れ矢族であったとしている。大和朝廷が倭国を治める以前に建御名方神が諏訪を攻め、洩れ矢氏を破りこの地を治めるようになった。しかし建御名方神は洩れ矢族を重用し善政を敷いたため、民に慕われ諏訪の大明神として祭られるようになった。
その善政について諏訪に詳しい岡田米夫先生の説が興味深い。それはミナカタと言う音は‘水の潟’から来ているのであり、越の国で生まれ育った建御名方神は、越の国の潟の農業を熟知し、その技術を諏訪で用いたからだとしている。新潟の字が示すように越の国は昔殆どが潟であった。又諏訪も古代は諏訪湖周辺は大きな潟であったという。諏訪湖の南の茅野市は、字の示すごとく葦の野であった、言い換えると潟であった事を示している。建御名方神はそんな諏訪を実り豊かな地に変えていった、それが善政を敷いたということであろう。
古事記では国譲りの力比べがあったのは出雲の伊那佐の小浜で、負けた建御名方神が諏訪まで逃げてきたと記されているが、私は以前からこの説には疑問を呈して来た。出雲からすごすご逃げてきた神を、いくら善政の実績があるからと言って、後の民が諏訪の大明神として祭る訳が無いという考えからである。
この話を肉付けする、もう一つ岡田先生の説を紹介したい。先生は大和朝廷が倭国を統一しようとした時、最も抵抗したのが次の三つの勢力だとしている。一つが大国主命の治める出雲の国、次が畿内大和国を治めていた葛城の王・言代主の神、そして最後が越から信濃(私は関東も収めていたと考えている)を治めていた建御名方神。
古事記ではこの三つの抵抗勢力を出雲一国に纏め、更に夫々の王、事代主命と建御名方神を大国主命の子として物語をアレンジしたのではないかと述べている。そして最も手こずったのが建御名方神だったのではないかと述べ、実は建御雷神が関東から信州に攻め上ってきたが(利根川下流の鹿島神宮に建御雷神が祭られている)、建御名方神との戦いは勝負がつかず、話し合いで決着がつけられたのではないか?という考えだ。
同感である。天孫族との戦いから`スゴスゴ'逃げ帰ってきたような建御名方神を、後の源頼朝や武田信玄が武神として祭る訳がない。そして諏訪大社の氏子達が7年に一度の御柱際の祭りに、命を懸けるのも、諏訪大社の支社が何故全国に6500社も在るのかも同じ理由によるものと考えると納得がゆく。
建御名方神が出雲の神ではない事を示す資料がある。これも岡田先生が調べた事であるが、今から1200年前に編まれた`出雲風土記'と言う古文書があるが、そこには出雲にある200社余の神社の中に、一つとして建御名方神を祭る神社は無いと言う。確かに大国主命の子であれば、その痕跡が出雲の国の何処かにあってもおかしくはない。建御名方神が越の国と信濃の国の王であったのが歴史の真実であったのではないか。
そして私の仮説と繋げてみたい。イスラエルの十支族の内の数支族が、紀元前に倭国へ渡来して来た。一つが黒潮に乗り淡路島から四国を経て九州へ移動して天孫族となった。一つが隠岐の島から出雲を取り出雲族となった。一つが佐渡島に上陸し越の国を取り、信濃も治めた。一つが山陰から畿内に入って難波の国(葛城と考えても良い)を造っていた。これらの国が覇権を掛けて争ったのが、古事記の書く‘国譲りの物語’だったのではないだろうか。
記紀を読むとき、そこに何か矛盾を感じたら、別の視点から見る事が大事であるとしみじみ感じた。
次回に残りの支族の行方を追ってみたい。