2008-07-04 自称・トクホ飲料アドバイザー
■遅ればせながら「Invisible moments」展をみて - につき(はてな) 
http://d.hatena.ne.jp/kachifu/20080701/p2
末永史尚さん(http://www.k3.dion.ne.jp/~fumisue/)のはてなダイアリーより。
ご来廊ありがとうございました。
>>>「Invisible moments」@UP FIELD GALLERY(坂本政十賜 福居伸宏 湊雅博 山方伸)は昨日終了しました。
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20080630#p4
■藤芳あい「flower under flower」@ラディウム─レントゲンヴェルケ 
7月4日(金)〜7月26日(土)
http://blog.livedoor.jp/roentgenwerke/archives/2008-07.html#20080701
本日オープニングです。
しかし、残念ながら今回も所用で初日は伺えず。
藤芳さんのあのペインティングが
どんな彫刻になるのか、
とても気になるところです。
■帆苅祥太郎「Behind the Sun」@CASHI - CONTEMPORARY ART SHIMA 
7月4日(金)〜7月26日(土)
http://cashi.jp/jp/exhibition/2008/06/18/2/
本日オープニングです。
帆苅さんの作品を初めて拝見したのは、
今はなき横浜の北仲WHITEでした。
ラディウムのお隣なので、こちらもぜひ!
■「Opening Exhibition I」@TARO NASU 
開催中〜7月12日(土)
http://www.taronasugallery.com/exh/index.html
http://www.tokyoartbeat.com/event/2008/5531
ライアン・ガンダーの作品が出ていると、
どこかで読んだような気がしたんですが、
何だかウェブ上に情報が見あたりません。
7月18日(金)から「Opening Exhibition II」が開催されるようです。
■石浜寿根「瞬夢-MOMENTARY DREAM-」@FOIL GALLERY 
開催中〜7月5日(土)
http://www.foiltokyo.com/gallery/exhibitions.html
TARO NASUと同じ建物です。ラディウムやCASHIからも、ちょっと歩けば着く距離です。
しかし、レンタルスペースなみに会期が短いのは。。。
■村瀬恭子「Emerald」@Taka Ishii Gallery 
開催中〜7月26日(土)
http://www.takaishiigallery.com/exhibition/2008/07_Emerald/japanese.html
http://www.takaishiigallery.com/
これは見逃さないようにしないと。
■『appel vol.4 インタビュー特集|椹木野衣』より 
T ところで、美術大生とか、一般に意識的に美術を志す人っていうのは『美術手帖』を主な情報源にしてるわけですが、当然海外の動向に対しても敏感なわけです。で、例えば絵画を目指す人っていうのはその学習過程においてグリンバーグやフォーマリズムについての話、その実践や批判も含めてですが、そうした話をよく口にするわけですけれども、そういった態度っていうのはどこかでこう間違ってるって思われますか?
S フォーマリズムそれ自体の意義が別段間違ってるとは思わないけど、そこで語られてる「フォーマリズム」はほんとうにフォーマリズムなのか? っていう疑問がないまま絶対視しても、それは宗教みたいなもので、よくNHKホールとかで日本語で肌が黄色いことに気付かないままオペラとかやってる滑稽さと変わらないと思うんですよ。本人達は本格派を気取ってるんだけど、客観的に見たらキッチュにしか見えないっていう。それだったらそういう人たちが軽蔑している宝塚とかのほうがよっぽどオリジナルだし世界で通用すると思う。
http://www.bit-rabbit.com/p3main.html
http://www.bit-rabbit.com/p1new.html
T=高橋辰夫さん
S=椹木野衣さん
部屋を少し掃除していて発見。
2001年10月22日に行われたロング・インタビューです(つまり「原宿フラット」以後)。
何年かぶりにパラパラ目を通していて、たまたま上記箇所が目に飛び込んできました。
カギ括弧つき「フォーマリズム」(日本式形式主義絵画?)、
宗教(グリーンバーグの翻訳権を押さえながら、一向に訳出せずに引っ張って、
その理論を自説として密輸入していたとも言われている某氏によるモダニズム?)、
宝塚(ついつい宝塚歌劇団の大ファンだという横尾忠則氏を想起してしまいます)といった単語が、
散りばめられているのが、なんとも言えません。
ところで、椹木野衣さんが、アメリカの抽象表現主義絵画について
ある程度紙幅を割いて論じた文章ってあるんでしょうか。
気になるところです。
■再録(http://d.hatena.ne.jp/n-291/20080511#p2) *1 *2 
■冷戦について
以下、批評誌『REVIEW HOUSE 01』「after words」より、筒井宏樹さんの編集後記。
いま、日本の美術の状況はどうだろうか?この問いについて考えるとき、去年発表された会田誠の浅田彰・岡崎乾二郎批判の作品を思い起こす。岡崎の絵画を彷彿させるその作品は、タイトルによって名指しで批判が示されており、その露骨さからアイロニーともユーモアとも受けとめられず、もはや笑えないような不気味さだけが感じられた。あえて好意的にこの作品を受けとめるならば、現在の日本の美術界における布置に一石を投ずるものとして考えられるのかもしれない。浅田・岡崎の組み合わせは、村上隆によって企画されたイベント、原宿フラット(2000)の座談会に招かれたふたりであることを想起させる。この討議を岡崎・浅田組と村上・椹木組によるタッグマッチと考えるのは「下司の勘ぐり」であるとして浅田彰によって予め予防線が張られていたが、その後美大に入学し美術を学びはじめた者からみれば、現状はもはや対立構図どころか原宿フラットのような対話さえなく、棲み分けされた状況がいっそう加速化しているように感じられる。90年代に出版された美術の本で印象深いものが2冊ある。それは椹木野衣の著作『シミュレーショニズム』(1991)と、浅田・岡崎編集の『批評空間別冊 モダニズムのハードコア』(1995)。棲み分けされた現況下、この2冊を共に興味を抱くようになるまで少なくともぼくにはかなりの時間を要した。これらの本を跨ぐような開かれた対話の場として機能していた希有な例に美術雑誌『FRAME』(1990-1991)が挙げられるが、現在の閉塞した状況を打開するような新たな対話の場の構築を『RH』によって目指せればと考えている。
>>>批評誌『REVIEW HOUSE 01』関連
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20080227#p3
>>>大谷能生talking about 大橋可也&ダンサーズ - レビューハウスラジオ
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20080425#p4
■omolo.com/news/data : 2005/01/16 (Sun) 
今なんとなくアートの人たち界隈で思うのは、なんとなく3つの界隈がある気がする。一つとはニューアカ経由「モダニズムのハードコア」をみっちり読むような人たち、G9って今言葉があるかわからないけど六本木・新川・森ビルの界隈のような国際最先端芸術を輸入したい組の人たち、あとデザインフェスタとか何処か凡庸な?が売りの?人たち、など。
「モダニズムのハードコア」を読むような人たちは人たちでよりハーコー(ハードコアな傾向)に向かうのだけど、何処か蛸壺化。国際最先端芸術な人と、あんま「よくわからない」デザインフェスタとかの人が、何処か参加型の企画で。。。というものの何処か空振り傾向。
批評空間誌別冊「モダニズムのハードコア」は僕が大学生の頃出て良く読んで事実面白く参考になるのだけど、今何かの展覧会など(今卒業制作シーズンですね)で「クレメント・グリンバーグは・・・。」と真顔で言われると正直、何処か笑いどころかと考えてしまう。
http://omolo.com/news/data/2005/01/16.html
http://omolo.com/wiki/index.php?%C8%FE%BD%D1%BB%CB%C7%AF%C9%BD
■瞬時性と持続 Instantaneousness and Duration - Art Words - artscape 
瞬時性は、ボードレール以降、モダニズムの規範であった。瞬時にその全体が視覚的に把握できることが、媒体の自律化と純粋化をめざすモダニズム芸術において重要なのだということは、クレメント・グリーンバーグがすでに明らかにしていたが、フリードはそれを鑑賞者と時間という観点から改めて論じた。それは、絵画において純化しなければならない媒体の特性としての平面性をめぐるグリーンバーグの議論から、フリードが批判するジャッドの理論が生まれたり、グリーンバーグは認めないが、フリードは認めるフランク・ステラのような画家が登場したことに起因する。
http://www.dnp.co.jp/artscape/reference/artwords/a_j/instantaneousness.html
■トム・ウルフ『現代美術コテンパン』(晶文社) 
http://www.amazon.co.jp/dp/4794946694
http://www.amazon.co.jp/dp/4794946317
◇ 99/08/01-10 - YES EYE SEEK
『現代美術コテンパン』も、「現代美術」そのものよりは、その背景となる社会が主題と言っていい本だが、逆に、美術に対する愛は薄めなので、美術愛好家の人が読むとちょっと辛いかもしれない。
この本の切り口は、「現代美術を鑑賞するには、理論=理屈が必要である」ということである。著者の主張は、以下のようにまとめることができるだろう。
「絵画」から「文学性」「物語性」を取り除き、その純粋な部分を抽象したはずの「抽象絵画」は、実は「理論という言葉」を必要としている。つまり、「抽象絵画」は「理論で言い換えなければ理解できない代物」である。従って、アーティストは結果的に「言葉を塗っている」のであり、できたものは「塗られた言葉=Painted Word(これが本の原題)」なのである。
また、この「理論」がもたらした現象も延々と語られる。例えば、
- 理論が、いわゆる「文化人」と「大衆」を区別するものとして機能し、このシーンから「大衆」を排除することになった
- アーティストより評論家・理論家という「権威」が主役となった
- 新しい作品の提示=新しい理論(以前の理論を超えた理論)の提示であるため、新しい作品を理解するには古い理論にも通じている必要があった
- 新しい作品(=古い理論の作品を超えた作品)を所有することは、自分が古い世代の価値観ではなく新しい価値観を持つ人間であることを示すファッションと受けとられた
- 新しい理論は絵画であること自体から抜け出そうとし、表現を行為、プロセスへと移していく。しかし、それは抽象的な表現ではなく、具体的な説明を行うことと同じに見えた
などなど。
こうした主張は説得力があり、面白く読める。しかし、著者が、現代美術を鑑賞するための理論=理屈は、アーティストや評論家が作ったものが「絶対」だと考えているようで、それには違和感を感じた。私は、その理屈を鑑賞者が自分で作ってもかまわないのではないかと思し、その自由さえあれば、現代美術の見方も普通の絵画の見方も、結局は何も変わらないんじゃないかと思うんですが。
現代美術では「理論と作品が直結する」ため、新しい理論を常に求めている、という面はある。しかし、その新しい理論の実践である作品が次々と現れるのには、「作品の制作期間」自体が短くなっているのも影響しているように思える。
現代美術の作品は、「モチーフが抽象的・人工的であるため、描線が単純」なので、精緻なリアリズム作品より手間はかからないという面はあるだろう。しかしそれとは別に、「画材の進歩」「新しい手法の出現とそれをサポートするテクノロジーの存在」という、テクノロジーの発達の面も確実にあったと思う。それから、情報化が進んだことで、新しい作品・理論の紹介が世界中に急速に行われ、多くの人がその作品に触れることができるようになり、そのフィードバックから新しい理論が促されるという面もある気がする。
テクノロジーの進歩が、多くの人の創作機会を作り、作品の量・規模を増すことに貢献し、結果として理論のサイクルを速めるということは、他の分野でも起こっていることのように思う。例えば、小説で、最近、海外でも日本でも急に分厚い本が大量に出るようになったのは、ワープロの存在が必要条件であったはずである。(これは綾辻行人もエッセイに書いている)
しかし、そういうふうに理論のサイクルが速くなった結果、結局「成熟」しないまま消えていったものもあるのではないかという気がしている。例えば、art には「芸術」という以外に「技術」という側面もある。私は、成熟、熟練した「技」というものにもとてもひかれる。そうしたものが育たず、目先の理論だけが変わっているだけだったりすると、それはちょっと寂しくなってしまうのだった。
■現代美術の見方(井上雅人) - 京都精華大学オープンコースウェア 
http://sjocw.kyoto-seika.ac.jp/index.php?cul%2F2005_bunka_II%2Freport_04
◇ 「文化表現論II」 第4回講義録 現代美術の見方(2005/10/20) - 京都精華大学
例えばアメリカですと、先週のジャクソン・ポロックなんかは、ペギー・グッゲンハイムという人にほとんどパトロンのようにお金を出してもらって作品をつくっていたというかたちで、いまグッゲンハイム美術館はすごいですものね。フランチャイズみたいにしてやっています。
そういうふうに美術作品、アートをとおしてどのようなコミュニケーションがなされているのかということを考えることは、美学的にどこが美しいのであるのかということで美術作品を見ていくのと同じぐらい重要なことであると言ってもいいと思うんですね。
ついついアート、美術品を見るときに、好きか嫌いかとか、きれいかきれいじゃないかとか、そういうふうに見てしまうんだけれども、それを介してどういうコミュニケーションがあったか、どういう文化があったかと言い換えてもいいと思うんですけれども、それを考えることによって違う側面も見えてくるよということです。
http://www.kyoto-seika.ac.jp/jinbun/bunka/class/2005/bunka_2/lecture/lec_04.html
■グリーンバーグの疑惑(加治屋健司) 
1973年、美術批評家のドリー・アシュトンは、アメリカ現代美術の歴史を振り返る中で、クレメント・グリーンバーグについて次のように述べている。
自分の選んだ芸術家たちを成功させようという彼[グリーンバーグ]の野心は途方もなく大きかった。[…]この野心のおかげで、彼はポロックが「偉大」であると宣言でき(このような宣言は、他の批評家たちには赤面せずにはできなかったであろうが)、さらに、アメリカには他の場所よりも優れた何かが生まれつつあると宣言することができた。[…]グリーンバーグが「偉大」と口にするたびごとに、新聞・雑誌は「そんなことがあってたまるか」と応えた。しかし、グリーンバーグの首尾一貫した態度と自信は無視できないものだった。[…]グリーンバーグほどの知的で明敏な人物が、アメリカ文化のこの新しい発展段階を偉大だと考えている以上、彼以外の人々が、それが真実かもしれないと思うようになるのは難しくなかったのである[割註引用者。以下同]1。
アシュトンは、グリーンバーグとともに、抽象表現主義の誕生に立ち会った美術批評家の一人である。グリーンバーグを間近でよく見知っていたアシュトンにとって 強烈に印象に残っているのは、野心と自信に満ち溢れたグリーンバーグがジャクソン・ポロックの偉大さを宣言する姿であった。
http://neotrad.jp/text.kajiya/01.html
■見ることの経験/岡崎乾二郎(インタヴュー日時:2000.05.23)掲載誌:『談』no.64(2000年10月発行) - 批評空間【批評空間アーカイヴ】 
http://www.kojinkaratani.com/criticalspace/old/special/okazaki/okazaki_dan064.txt
http://www.kojinkaratani.com/criticalspace/old/special/okazaki/dan064.html
■a night of dog doys(映画・読書・その他、24) - よりぬき偽日記(古谷利裕) 
何故ここまで強引に「瞬時性」ということが言われなければならないかと言うと、それは恐らく、歴史的、地域的にある限定された範囲内の出来事であるしかない「モダニズムの芸術」は、その「瞬時性」を獲得することによってはじめて歴史的な時間も地域的な空間をも超えて「永遠」あるいは「普遍」と重なり合うのだ、ということを示したかったからだろうと思われる。瞬時性によってこそモダニズムの芸術が「芸術」と呼ぶに足りるもの、つまり「恩寵」となるのだ、と。しかしそれは、どう考えても結論を急ぎすぎ(目的論的でありすぎ)るように思えるのだ。結論を先取りしてしまっているから駄目なのだ、というのがフリードによるリテラリズムへの批判ではなかったのか。
http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/yo.24.html#Anchor5117972
■おさらい・再読・メモ 
◇ リテラル、まさにそのままということを巡る問いかけ│今村創平 - 10+1 web site
http://tenplusone.inax.co.jp/archives/2006/06/13210455.html
◇ 写真とカラー・フィールド・ペインティング ―マイケル・フリードのジェフ・ウォール論 甲斐義明 - off the gallery
http://www.pg-web.net/off_the_gallery/RE/kai/kai03.html
◇ 『カラー版 20世紀の美術』(連載)「7 抽象表現主義からミニマル・アートへ」 - 中村英樹の美術批評
http://www.alles.or.jp/~aura/articles/1999/0009.html
◇ Conceptual Art: A Critical Anthology (edited by Alexander Alberro and Blake Stimson)
http://www.amazon.co.jp/dp/0262511177
◇ Clement Greenberg - Sharecom Industries Ltd.
http://www.sharecom.ca/greenberg/
◇ モーリス・ルイスとクレメント・グリーンバーグ__往復書簡の分析を通した1950年代アメリカ美術と美術批評の再検討(加治屋健司)
http://neotrad.jp/text.kajiya/05.html
◇ 誤作動する武器__クレメント・グリーンバーグ、文化冷戦、 グローバリゼーション__(加治屋健司)
http://neotrad.jp/text.kajiya/02.html
◇ 絵画の危機、彫刻の優位 1940年代末のクレメント・グリーンバーグ(近藤學)
http://neotrad.jp/text.kondo/01.html
◇ 批評空間 ― critical space/1995 臨時増刊号 - MILBOOKS -online book seller-
[特集] モダニズムのハード・コア 現代美術批評の地平
[デザイン] 東幸央 興松良昌(写真) 渡辺總子(速記)(ブックデザイン)
[発行所] 太田出版 [シリーズ名] 批評空間
[発行年] 1995年
[構成数] 1冊
[サイズ] A5
[ページ数] 347P
[目次・構成・収録・内容(一部抜粋)]
II モダニズムの理論 グリーンバーグからクラウスまで
モダニズムの絵画 クレメント・グリーンバーグ
抽象表現主義以降 クレメント・グリーンバーグ
芸術と客体性 マイケル・フリード
モダニズムの政治学:クレメント・グリーンバーグの芸術理論 T・J・クラーク
モダニズムはいかに作動するのか T・J・クラークへの反論 マイケル・フリード
モダニズムに関する論議 マイケル・フリード T・J・クラーク
1967/1987 芸術理論の系譜学:ミニマリズムとポップ以降の美術論 マイケル・フリード/ロザリンド・クラウス/ベンジャミン・ブクロー
ディスカッション:ミニマリズムとポップ以降の美術論 マイケル・フリード+ベンジャミン・ブクロー+ハル・フォスター+ロザリンド・クラウス+ダグラス・クリンプ+ジョン・ナイト+マーサ・ロスラー+ベリー・アンダーソン+アーヴィング・サンドラー+アンドリュー・ロス
視覚的無意識 ロザリンド・クラウス
インタビュー:モダニズム以降 ジョゼフ・コスースに聞く 浅田彰
III モダニズムの再検討
経験の条件 岡崎乾二郎
「透明性」の内部丸山洋志
http://www.milbooks.com/shop/detail.php?code=BK050806
◇ 『オリジナリティと反復』R・クラウス The Originality of the Avant-Garde and Other Modernist Myths
http://www.dnp.co.jp/artscape/reference/artwords/k_t/originality_of.html
◇ 『反美学――ポストモダンの諸相』H・フォスター The Anti-Aesthetic: Essays on Postmodern Culture
http://www.dnp.co.jp/artscape/reference/artwords/k_t/anti-aesthetic.html
さて今や、フーコーの言葉づかいを借りて分析されるべき、もうひとつの監禁制度―美術館―および科学―美術史―が存在する。
それらは、われわれが近代芸術という名で知っている言説を可能にする前提条件なのである。
モダニティの意味と解体を探り、ポスト・モダンのゆくえを示す。
序文 ポストモダニズム(ハル・フォスター)
1 近代―未完のプロジェクト(ユルゲン・ハーバーマス)
2批判的地域主義に向けて(ケネス・フランプトン)
3彫刻とポストモダン―展開された場における彫刻(ロザリンド・クラウス)
4 美術館の廃墟に(ダグラス・クリンプ)
5 他者の言説―フェミニズムとポストモダニズム(クレイグ・オーウェンス)
6 ポスト批評の対象(グレゴリー・L・ウルマー)
7 ポストモダニズムと消費社会(フレドリック・ジェームソン)
8 コミュニケーションの恍惚(ジャン・ボードリヤール)
9 敵対者、聴衆、構成員、そして共同体(エドワード・W・サイード)
ハーバーマスの「近代=未完のプロジェクト」をうけ,建築,彫刻,絵画,写真,音楽,コミュニケーションの現場における変化/ポスト・モダン状況を論じる。
https://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshosea.cgi?W-ISBN=9784326151912
http://www.amazon.co.jp/dp/4480082522
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0695.html
◇ 00007:キッチュに関して見直すべき時期か…。 2008/04/08 - Ar-ban Blog.com
そういえば、日本でもキッチュ論を述べている本として石子順造氏の『マンガ芸術論−現代日本人のセンスとユーモアの功罪』や『キッチュの聖と俗−続・日本的庶民の美意識』『ガラクタ百科−身辺のことばとそのイメージ』を思い出した。グリーンバーグやマクルーハンの西洋的な例を挙げるまでもなく日本にもキッチュはあるということなのだろう。残念ながら彼は上記の人達を後期の論考の中で例に挙げていますが…。
ちなみに彼の論考では、キッチュとは、観者が見たこともない異様なものか、ありえない組み合わせのものであろうと述べている。つまり、作品に話を絞れば、個人(観者)の中にある伝統や習俗といった前近代的な呪術的な規律(こういう映画の見方はお勧めではないですけど、簡単に理解したいならナイト・シャマラン氏の『ヴィレッジ』を参照下さい)が前提となった生活に今日的なもう一面をそこに突然挿入することによって表現として見えてくるものと言える。ただし、石子氏の論考では銭湯の富士山の絵などを例に挙げているので、キッチュという言葉には作家の意図的かどうかが関わるかという意識の問題は残念ながら見えてこない。
http://kaneghoon.no-blog.jp/blog/2008/04/0000720080408_978b.html
◇ キッチュ論 石子順造著作集 第一巻 - 古書古本Totodo
http://totodo.jp/SHOP/B1-020.html
◇ 玩具・キッチュ研究:「情報キッチュ論」(1994年度学部卒業論文) - 戦後日本文化と建築意匠の相関の研究:森川嘉一郎
http://homepage1.nifty.com/straylight/main/kitch.html
◇ 限界建築論(1) - 49%-Question
超絶的に面白い石子順造の「キッチュ論ノート」「模型・模造の美学」「『芸術品のぼろ』の論理」によれば、キッチュとは「伝習的な一面と今日的な他面とを同時にあわせもちながら、生活←→表現←→文化と相互にわたる曖昧だが確かな意味・価値のカテゴリーが、この語によって、かろうじてその幅と厚みにおいて言い当てられる」ものである。例えば、銭湯に必ず描かれている富士山などの背景画や、謎めいた古い商店の看板、手書きの小絵馬などは、「大衆」の中に脈々と伝承されている民俗学的・呪術的側面(ex.柳田国男)の表出であり、それはキッチュの「伝習的な一面」である。一方で、有名女優のピンナップ写真や大衆雑誌の表紙絵、ダサい広告やテレビCMなどは、現代的なメディアの中で発展してきた表現であり、キッチュの「今日的な一面」である。彼はグリーンバーグの論文「アヴァンギャルドとキッチュ」を例に挙げながら(その他にもローゼンバーグ『新しいものの伝統』やマクルーハン『機械の花嫁』、ソンタグ『反解釈』などにおけるキッチュという用語の使用例をチラつかせながら)、「近代」の価値観を対象化し、それを乗り越える「現代」的な価値体系を生み出し得るものとして、このキッチュという言葉に注目を寄せる。
http://question49.blogspot.com/2008/04/blog-post_05.html
◇ グリーンバーグ「モダニズムの絵画」 グリーンバーグ講義ノート 1/2 - 藤川哲の授業用サイト
http://ds.cc.yamaguchi-u.ac.jp/~fujikawa/02/gr/cg/greenberg02.html
http://ds.cc.yamaguchi-u.ac.jp/~fujikawa/02/gr/cg/greenberg03.html
◇ グリーンバーグ「抽象表現主義以後」 グリーンバーグ講義ノート 1/2 - 藤川哲の授業用サイト
http://ds.cc.yamaguchi-u.ac.jp/~fujikawa/02/gr/cg/greenberg05.html
http://ds.cc.yamaguchi-u.ac.jp/~fujikawa/02/gr/cg/greenberg06.html
◇ クラウス『オリジナリティと反復』 クラウス講義ノート 1/2/3 - 藤川哲の授業用サイト
http://ds.cc.yamaguchi-u.ac.jp/~fujikawa/02/gr/rek/krauss03.html
http://ds.cc.yamaguchi-u.ac.jp/~fujikawa/02/gr/rek/krauss04.html
http://ds.cc.yamaguchi-u.ac.jp/~fujikawa/02/gr/rek/krauss05.html
◇ 第78回例会報告 アクションペインティングの変容とその政治経済的条件について 発表:神戸大学博士課程 平田思 - 広島芸術学会
まず、ローゼンバーグがアクションペインティングの概念を打ち立てた動機として、共産主義への失望によって社会的に疎外されていた同時代のアメリカの知識人やアーティストたちの救済が挙げられる。今日の一般的なアクションペインティング解釈が論拠とする1952年の論文「アメリカのアクションペインティングの画家たち」で、未だ共産思想を捨てきれずトロツキスムに希望を託していたローゼンバーグは、革命の主体をプロレタリアートから画家に置き換え、当時アメリカの美術界で台頭してきた制作プロセスを強調するアヴァンギャルドにおいて、アクションペインティングという概念を打ち立てた。氏は、こうした概念をやはり政治的文脈において読み解くことで、描くという行為性に「日々の画家の行為は革命のための出来事を引き起こす行為」であり「過去のあらゆる価値を否定する」という革命的な文脈を読み取っている。こうした解釈からは、個人の自由を保障する新しいコスモポリスとしてのアメリカの創造というユートピア思想を読み取ることが出来る。
しかし、この革命的な概念は実際的な有効性を持ちえず変容を迫られた。氏は、その政治的背景として、アメリカ型アートの売り込みによる文化におけるヨーロッパからのヘゲモニーの獲得を挙げている。こうした政治的動向から、ヨーロッパのモダニズムの影響が大きい作品は当時のアメリカの美術市場から締め出され、独自のスタイルを獲得したアーティストだけが生き残ることになった。1950年頃からアメリカ美術界に台頭した「製作過程を重視するアヴァンギャルド」もそのひとつである。このアヴァンギャルドイデオロギーの動向の中で、アーティストたちは革新的な制作に没頭するとともに必然的にアメリカの帝国主義的な動向とシンクロするという逆説的な立場に立たされることとなった。更に氏は、その理由として抽象表現主義者とWPAとの関係、抽象画の購買層である中産階級の台頭、新進アーティストが抱いた一攫千金の夢の三点を挙げて説明している。
こうした社会的な動向から、ローゼンバーグは1969年の著作『美術作品とパッケージ』において以前のアクションペインティングの概念に修正を加えている。彼自身が上述したアメリカ資本主義に同化することによって共産主義的思想を取り下げ、具体的な作家を明示してアクションペインティングと他のアートとの関連を語ることで、アクションペインティングは単に美術の領域における表現形式の問題として扱われることが可能になった。加えて、イデオロギーとしてのシュルレアリスムとの違いが明らかにされることで、アクションペインティングが持つ特色としての個人の自由が主張された。氏はさらにこのことについてデ・クーニングの《女?》とポロックの《ナンバー30:秋のリズム》といった具体的な作品を比較し、冷戦構造下のアメリカにおける個人主義の一端としてのアクションペインティングの特異性にまで考えを巡らせている。
http://www.art-hiroshima.com/LAH/kaihou92.htm