リストカットの患者がきた。午後7時10分。傷は1カ所のみ。初めてではないらしい。カルテを探しに行く。自身で歩行は可能な状態で、両親が車で連れて来た。左手首にタオルを巻いている。20代後半の小太りの女性。心配そうな両親をよそに、医師が来るまでの間、建物外にある指定された喫煙所でたばこを吸っていた。ここは、千葉県にある、総合病院の夜間救急の受付。 昨年10月、警備会社が募集していた施設警備員のアルバイトに応募して採用された。採用人員3名に対し、応募者は私のほか2人だったので、全員採用である。配属されたのは、夜間救急の受付だ。午後5時から翌日午前8時までの15時間勤務。病院職員と2人で担当し、途中、交代で4時間の仮眠が取れる。日当は14000円。 当初、病院内外の巡回等を行う警備を担当する予定だったが、夜間救急受付の担当者が事情で1カ月後に辞めるため、興味が湧いた私が希望して急遽、そちらに替えてもらった。この病院では、救急受付を病院の複数の職員と警備員2人がシフトを組んで対応している。 覚える内容が多いため、7日間の研修期間が設定された。現在の警備側の担当者Aさんに付いて業務に当たり、引き継ぎを行った。 午後5時以降にかかってくる電話はすべて、病院内にある、防災管理を集中的に行う防災センターにつながる。救急車からの連絡も同様だ。防災センターには警備員が24時間体制で常駐していて、外部からかかってくるすべての電話に応対する。急患の場合、そこから夜間救急の受付に電話を回す。 初日の急患は2件のみ。1件目は、通院中の男性が「お腹がいたい」と自身で電話してきた。奥さんと2人で15分後に来るため、Aさんと2人でカルテを探しにいく。その後、来院した患者と付添人の前に立ち、患者の歩調に合わせながら診察室まで案内。診察室前の椅子に座って待つよう声をかけた後、救急受付に行って、当直の医師に患者の到着を告げた。看護士には患者到着時点で連絡している。 診察室までの約100m。患者に合わせてゆっくりと歩く。振り返ると、患者よりずいぶんと先にいた。人気のないロビーで立ち止まって待つ。“遅いな”と声に出さずに思いながら、会釈する。「間」が持てず、キョロキョロと周囲を見回す。久しぶりに1秒が長い。 救急受付での確認事項は、●患者本人であるか ●症状、当院のかかりつけか(かかりつけの場合、診察券に記載されている番号を聞いておく) ●付添人がいるか ●来院までの交通手段は ●何分ぐらいで到着するか……など。手早く、確認するよう指示される。急患に対して症状を繰り返し確認するのは、痛みを伴っている相手の容態に配慮しない対応だ、と習う。 それらを確認した後、電話を保留状態に。そして医師に当該者の容体を報告し、診察するかどうかの判断を仰ぐ。夜間救急の当直医師は、大学病院など外部からの応援で対応している。当直体制は、内科医・外科医・看護士・検査技師・放射線技師・薬剤士……各1人である。 電話対応していたAさんが「リストカットだ」と言って立ち上がる。メモを片手にカルテを取りに行くので、付いていく。足下から目線の位置までの4段の棚にぎっしりカルテだ。70uはあるカルテ庫。50音順を頼りに探し出す。 「血を見るのはいやだな」と思いながら、Aさんの後を付いて歩く。が、両親と車でやってきた患者本人は平然としていた。医師が来たので看護士が、診察室前で待つ両親に患者の行方を尋ねたら、喫煙所にいると答えた。見ると、腕を組んでたばこを吸っていた。 県では、地域ごとに月に1回、夜間救急の当番病院を決めている。当番日になると救急隊からの連絡が増える。その日は、可能な限り急患を受け入れなければならない。急患の数は日によって異なるが、ひっきりなしに電話がかかってくることは稀だ。おおよそ日に3〜4件で、当番日に若干増える程度。 この病院では、循環器系と脳疾患等に関する診療科目が設置されていない。そのため、それらに該当する救急患者は受け入れていない。県内には、救急医療専門の病院が県によって運営されていることから、重傷・重体患者は救急隊の判断でそうした病院に搬送される。 当直医が対応できるのは、同病院に通院している患者が時間外に急変したケース(担当医に指示を仰ぐ)か、内科的には発熱、腹痛等、外傷としては整形外科程度である。しかし、急患の場合、単なる腹痛であっても内在する重要な病症の可能性は否定できない。受け入れを拒否された急患が手遅れとなり、死亡するケースが全国で相次いだのも記憶に新しいところだ。 この病院でも、私の研修期間中に救急隊からの搬送要請が重なることが数回あった。最初の患者を診ている段階で、医師に次の救急依頼を打診しても断らざるを得ないのが実状だ。そうした受け入れを拒否された患者が、次の病院を探すうちに手遅れとなりうることも十分に考えられよう。 重傷患者に対応する体制は整っている。外科であれば、常勤・非常勤医師に応援を求める際の連絡先一覧が作成されるなど、対応するためのバックアップ体制は敷かれている。現実に、私が非番の時、交通事故の救急患者が搬送され、応援チームが駆けつけた上で外科的手術が施されたという。 しかし、医師不足から夜間の救急患者すべてに対応するのは現実問題として無理な状況にある。当直医師は外部からの応援だ。すべての急患に対応するためには、人員確保や設備面などの課題が指摘されよう。 診ない医師もいる。急患対応については、医師の個性が現れる。比較的、診ない医師がいるのも事実だ。この病院の場合、B医師だ。私が研修中には、そうしたケースには遭遇しなかったものの、Aさんの話によると「かかりつけ以外はあまり診ない」ようだ。 逆に、可能な限り、診察する医師もいる。私が電話受付を担当した初日、救急隊からの依頼があった。生活保護者で酒に酔った状態。幹線道路沿いの歩道を東京方面から歩いてきたが転んで足をケガし、歩けないという。何件かの病院で断られたらしく、救急隊員の声にも期待感はないように聞こえた。 救急隊からの電話を保留にして、医師に連絡する。事前にAさんが、「生活保護者であることは先生に伝えなくてよい」と言ったことから伝えていない。生活保護者は救急搬送時、自力歩行が困難な場合、介護者が必要、と規定されている。その規定を知らなかった私は、当然、事前に確認していない。そのため、後で面倒なことになる。 当日の担当医師は、何でも“診る”タイプ。受け入れることになり、救急隊に告げると20分後に到着した。何日も風呂に入ってないらしく、隣町に住むという患者・Cさんは異臭がする。酒の臭いに混じって狭い救急車の中は強烈な臭いがした。呂律が回らない状態。身内の連絡先を訪ねると、都内にいる息子の住所と電話番号を記入したメモを財布の中から取り出して示した。 Aさんが何回か連絡するが、電話に出ない。留守番電話にも切り替わらない。管轄である役所に電話して生活保護課の担当者に照会すると、身元が確認できた。診察費は役所が負担する。この時点で役所に保護するよう、要請するべきだったのだ。 約30分で治療が終わったため、本人に自宅に帰るようにと話すと、「足が痛いので入院させてくれ」と言う。看護士が入院の必要はないので帰宅するよう促すと、どうしても入院させてくれと言い張って動こうとしない。 所持金は約2000円。タクシーに乗せることを考えたが、本人がおぼつかない状態のため、自宅にたどり着けないことを懸念して断念する。すると、本人が勝手に病棟の奥の方に向かって歩き出した。看護士と警備員で制止すると声を荒げた。車で来た次の患者が廊下で診察を待っている。持ってきた傘を振り上げて我々を威嚇したことから、Aさんと看護士が相談して警察に連絡した。 10分ほどすると車3台に分乗して、7〜8人の私服警察官がやってきた。全員がいちように若く、何人かはジーンズを履いている。ひげを生やしているのもいた。女性もひとり。テレビドラマに出てくるような精悍な顔つきもいる。かっこいい彼らと彼女に、一瞬、見とれた。 酔っぱらいCさんを取り囲んで帰るようしばらく説得していた警察は、決断して、両脇を抱えて乗ってきた警察車両に連れ込んだ。最寄り駅まで連れて行って切符を購入させ、電車に乗せるという。とにかく、管轄となる警察署管内から離れさせる処置をとることにしたらしい。管轄から追い出せば彼らの仕事ではなくなるからだ。その先で、トラブルになったとしてもそれは、管轄外の話ということのようだ。 急患との電話応対は緊張する。救急隊とのやりとりは生まれて初めての経験だった。生死の境にあるような容態ではないものの、聞き逃してはならないと相手の声に集中する結果、今までにない疲労感を覚えた。 事情があって私は、研修期間終了後に他の現場に移った。その後、夜間救急受付対応の警備員は週2人体制から4人体制に替わり、1人にかかる負担が軽減された。 |
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