原爆ドームを訪れたヒントンさん=5日午後、広島市中区、山本裕之撮影
物理学者として米国の原爆開発にかかわり、戦後中国に渡ったジョアン・ヒントンさん(86)が原爆投下から63年を前にした5日、初めて広島市を訪れ、原爆ドームを見学した。科学者の道を捨て、北京郊外で酪農を続けながら、米国への書簡などで「原爆投下は人類への犯罪」というメッセージを発し続けてきた。ヒントンさんは6日、被爆者と会い、数奇な半生を振り返り、原爆への思いを語ることにしている。
米国の大学院で物理学を研究していた1944年から、原爆開発のための「マンハッタン計画」に参加し、ニューメキシコ州の施設で研究に携わった。上司は「おもちゃを作る」と言っていたが、指紋をとられ、研究内容は口外しないよう命じられた。
広島、長崎に投下されたことは新聞で知った。地上で何が起きたかは想像できた。しばらくして、研究所内の部屋に集められ、軍が被爆地で撮影した映像や人の手の影が写った石などを見せられた。「威力を見せつけるための兵器で、まさか市民の上に落とすとは思わなかった」。研究所の同僚も怒っていた。
終戦から間もなく、仲間とともにワシントンの連邦政府を訪れ、原爆投下に抗議した。自責の念にかられ、悩んだ末に物理学者の道を断ち、48年、上海に渡った。「粗末な食事と素朴な武器で日本に勝った中国人民に興味があった」とそのわけを明かす。
米国内では中国の核開発への協力を疑われ「逃げた原爆スパイ」と話題になったこともあった。中国は64年に初の核実験に踏み切ったが、ヒントンさんは「協力を頼まれたことはない」と明確に否定している。
騒ぎをよそに中国で酪農に従事していた米国人男性と結婚。全米科学者連盟などに反戦を呼びかけながら、今は乳牛約300頭を飼って暮らす。長男(55)には「和平」という中国名をつけた。