盛夏の日差しと積乱雲が「あの日」を思い起こさせます。焼き尽くされた街の記憶は、まだ語り尽くせません。ヒロシマも、ナガサキも。
夕凪(ゆうなぎ)が終わって、風が流れ始めます。止まっていた時間が再び動きだすような、広島の夏特有の瞬間です。
涼風に誘われて元安川の左岸を下っていくと、葉桜の木陰に灯火がぼんやり揺れています。
「広島瓦斯(ガス)原爆犠牲者追憶之碑」。爆心地から約二百十メートルの距離にあった当時の社屋は、すさまじい爆風を浴びて崩壊し、屋内にいた三十五人の社員全員が亡くなりました。ガス灯をあしらったこの碑が建立されたのは、一九六七年のことでした。
校内にともし続ける火
そこに昨年八月六日、福岡県星野村から「原爆の火」が分火されました。
星野村から応召し、広島で任務に就いた一人の兵士が、被爆直後の地下壕(ごう)からカイロに移して故郷へ持ち帰り、人知れず守り続けてきた火です。
全国十四番目の分火、同じころ、NHK広島放送局前のモニュメントに分けられた火とともに、広島へは六十二年ぶり、初めての帰還になりました。
愛知県豊橋市の桜丘高校は、十四カ所中ただ一つ、星野村の「原爆の火」を校内にともし続ける学校です。
八九年、百円募金で建てた御影石の「平和の塔」に点火して、生徒が管理を続けています。
台座には「この火から遠ざかるまい/私たちの意志を未来へ放つ」と刻まれました。
この六月には、沖縄など全国二十七会場で「原爆の火」を一斉にともして平和を願うキャンドルナイトがありました。
戦争に勝ち負けなし
廃虚の小さな埋もれ火が、兵士の心を突き動かして遠くの村で消え残り、世代を超えて広がり、根付き、「平和」への道しるべになろうとしています。これが、偶然と言えるでしょうか。
八月のヒロシマには、「伝えたい」意思があふれています。
街中で目にする「戦争と平和」の展示やパフォーマンスだけではありません。
原爆のつめ跡を残す建物や被爆樹木、夕凪のあとの涼風さえも、いのちの重さや平穏な日々の尊さを無言で語りかけてきます。
昨年の平和記念式典では、小学生の代表が「途切れそうな命を必死でつないできた祖父母たちがいたから、今の私たちがいます。原子爆弾や戦争の恐ろしい事実や悲しい体験を、一人でも多くの人たちに『伝えること』は、私たちの使命です」と訴えました。そして「世界中の人々の心を『平和の灯火』でつなぐことを誓います」と結んでいます。
私たちは、ヒロシマのこの意思を受け止めなければなりません。
「戦争に勝ちも負けもない。あるのは滅びだけである」
九日の長崎平和宣言には、今年生誕百年を迎えた永井隆博士の言葉が初めて引用されています。
長崎に原爆が投下された時、永井博士は長崎医大の医師でした。妻を失い、自らも重傷を負いながら、被爆者の救護に奔走した人です。
六年後、白血病のため四十三歳で亡くなるまで、病床で二人の遺児に書き残した数々の著作を通じて、平和の大切さを説きました。
平和宣言起草委員の永井徳三郎さんは、博士の孫で、横浜で会社勤めをしたあと、長崎市にある永井隆記念館の館長を務めています。
「永井隆が忘れられても、彼の言葉が残ればいい」と徳三郎さんは考えます。
永井博士は「言葉を知っているということと、その言葉の命ずるとおり行なうということとは、大きな違いがある」(「いとし子よ」)と書いています。
大切なのは、祖父の言葉を覚えてもらうことではなく、その言葉をきっかけに、平和のために何かを始めてもらうこと。
えらい人が集まって空虚な議論を重ねても、核兵器はなくならない。平和とは、一人一人の小さな意志の積み重ねではあるまいか−。そう信じて徳三郎さんは、博士の言葉を子どもたちに伝えています。
自分自身を愛するように
私たちは、ナガサキのこの思いも語り継がねばなりません。
「如己(にょこ)愛人」。徳三郎さんが、一番伝えたい言葉。「自分自身を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」という意味の永井博士の造語です。
それは、相手のいのちをいたわる気持ち。原爆や戦争がもたらすものとは、正反対の境地です。
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