昨日から風邪をひいていて微熱がある。喉が痛くてリンパ腺が腫れていてだるい。しかも会社の薬箱に入っていた風邪薬はものすごく眠くなる。
半死半生で仕事をし、半死半生で家に帰り着く。
どさっと、重い荷物を置く。
重い荷物!? 私は今日最小限の荷物しか持っていないはずだ。
おかしい。私は慌てて財布を探る。確かに今朝入れた虎の子の一万円がない。
その代わりに、ジュンク堂カフェのドリンクチケット(一万円以上買うと貰える)が入っている。
荷物を見やる。ジュンク堂の袋だ。それもビニール袋ではなくて、紙袋。
そしてなぜか中には、吉増剛造『花火の家の入口で』(詩集)と、スティーヴン・ミルハウザー『マーティン・ドレスラーの夢』(小説)と、藤野一友=中川彩子『天使の緊縛』(画集)と、ベッティナ・ランス『I・N・R・I』(写真集)が入っている。
なんなんだ。こんなに具合が悪いのに、ジュンク堂を徘徊して本を買ってしまったのか? 生活費はどうするんだ? 先月頭に転職して初任給が入るのは今月末だというのに。
まあ、いいか。中川彩子の画集が出るなんて今世紀最初の快挙だ。以前古書店で見つけて結構なお値段だったからためらっているうちに誰かに買われてしまって悲しんでいたんだけど、新たに出版されるなんて。うれしいうれしいうれしい。
(藤野名義の絵はサンリオのディックの表紙でおなじみです。中川名義の絵は「風俗奇譚」でおなじみです。)
頭がふらふらする。熱に浮かされて見る責め絵の少女達。もうこれは夢の中なのかな。
ああ、ああ、苦しくて、懐かしくて、とってもしあわせな夢だ。
ベッドの脇の椅子に人形は腰掛けていて、ベッドから手を出せば彼女の手を握ることができる。
私の体温がうつってかすかに暖かくなるのがかなしくてすぐに手を離す。なんだか汚染してしまうような気がするから。
どうか私の愛があなたをあたたかくやわらかく呪っていくことがありませんように。
腐肉でできた私の愛にあなたが汚れませんように。
あなたの前で私は自らを律します。
ともすればどろどろとみにくく崩れ落ちていく私のこころを恥じます。
私の中の一番大事な輝かしいもの、結晶のようなもの、それをまもっていきたいと思います。
あなたよ決して私を赦さないでください。私を受け入れないでください。
美しく稀なるなにかを忘れがちになる私を。
ゆうきりん『ヴァルキュリアの機甲〜首輪の戦乙女〜』(電撃文庫 2002.4)を読む。
未知の巨大生物と戦うために造られた平均身長16メートルの巨大少女小隊<<ヴァルキュリア>>達とその隊長を主人公にしたライトノベルです。
巨大人造女性を兵器並び道具として使役するというアイディアは駕籠真太郎『輝け! 大東亜共栄圏』・『超伝脳パラタクシス』と同じなのですが、いかんせん「ヴァルキュリア」はライトノベルなので脳の摘出だとか切断及び縫合だとかギミック埋め込みだとかは致しません。不条理エログロ場面もなし。
兵器として作っておいて「女の子扱い」せよなんて。彼女達を洗脳してあげればいいのに。自由意志と苦痛と幸福感による支配は、彼女達の精神を少しずつ蝕み最後には壊してしまうでしょう。人間のために造られ人間のために死ぬのが一番の幸福と洗脳して、愛する優しい隊長の為に一丸となって戦うようにすれば、彼女達も幸せだし戦闘効率も上がるよ。ファティマみたいに。
ちなみに大好きな「バージェスの乙女たち」の世界には有機人形三原則があり、有機人形達は製造時より洗脳済み。
有機人形三原則
・ご主人さまには絶対服従
・有機人形同士仲良くする
・わたしたちは道具です
それから、「ファイブスター物語」における星団法によるファティマの規制は以下。これも製造時より洗脳済み。
主人【マスター】をもつ場合
・騎士(主人)の命令でなければ、人を傷つけたり殺してはいけない
・騎士(主人)以外の命令は受け付けない(命令でなければ人間と同じ)
・騎士(主人)以外の人間の言葉は尊重する
主人【マスター】をもたない場合
・人間に対し、いかなることがあろうと、たとえ殺されることになろうと、暴力をふるってはならない
・人間のようにふるまってはならない(アイコンタクト、クリスタルをはずしてはならない)
それにしても「わたしたちは道具です」ってすがすがしい宣言だなあ。つらいときは心の中で口ずさんでます。
表面張力が破れるように私の名前を呼ぶ。
コンビニで立ち読みしている1ページを前にして世界が急激に圧縮されるようなそんな経験をあと何度できるだろうか。
岡崎京子「へルター・スケルター 第3回」の最後のページ。私は不意に崖っぷちにいることを意識する。奈落が見えるこの縁で踊りつづけていることを。
りりこは人気絶頂のスーパーモデルにして女優。ただし情緒不安定で自己中心的で演技は下手でトークも出来ない。彼女の魅力はその完璧な美貌だけなのだ。しかし、その超絶的な美貌があればいい。それ程彼女は美しい。
そして、その身体も顔も、美しい彼女の全ては、整形によって作られたものだ。「骨と目ん玉と爪と髪と耳とアソコ」以外は完膚無きまでに切り取られ削られ盛られ縫い合わされて作られた美の化身。元々の彼女(一重まぶたで太ったブス)には何の価値もない。
りりこは、自分が皮膚一枚だけで評価されていることを知っている。美しくなければ自分には何の価値もないと知っている。彼女は自分自身から離れれば離れるほど、作り物になればなる程愛されることを知っている。
しかし、その身体は作られたときから崩壊がはじまっているのだ。整形の副作用で痣が浮かびあがり、身体が崩れる度に繰り返す再手術。不安を紛らわすためのドラッグがますます精神を崩壊させる。
*
カメラがシャッターを押すたびに空っぽになっていく気がする
いつも叫びたくなるのを
必死でおさえているのよ
いつかあたしは叫び出すだろう
その前に……ああ…なんとかしなくては…
(岡崎京子「ヘルター・スケルター 第3回」『フィール・ヤング10月号』祥伝社 2002)
そんな状況から抜け出そうとりりこは御曹司の玉の輿を狙う。交際がスクープされた頃、りりこの身体に新たな崩れが発見され、二週間の集中治療を受けることになる。
そんな時にりりこは見るのだ。御曹司と政治家令嬢の結婚記事を。
窓ガラスを割って泣き叫ぶりりこの唇から血が滴り、スタッフは凍り付く。
うつむいていたりりこは目をこすり、そして、血の染みのできたバスローブをはだけてその裸体をあらわにしポーズを取りながら笑う。血走った目をして完璧な笑顔。完璧な身体。
*
「ごめんなさいね(はあと) ちょっと ドーヨーしちゃって(はあと) さ(はあと)皆さん(はあと)
始めましょうか(はあと)」
止まっちゃいけない 進むのだ 進め!!
もう始まってしまっているのだ
(ちょっと夢見ただけよ そう いつも夢見てあきらめる)
恐れてはいけない 選択はもうすでに行われたのだ
あたしはもう選んでしまっているのだ
*
(同上 最終ページ)
このぎりぎり感。崩壊が必ず来ると知っていながら見る未来。
だって、崩壊の原因は自分自身なのだから。自分自身によって内側から浸食されつつある存在価値。
ねえ腐っていく音聞こえないですか? 私の中から腐っていく音聞こえないですか?
崩れる寸前までは完璧でいるから。崖から落ちるまでは見事に踊って見せるからね。
魂を手渡す軽やかさを私は知っている。躰を明け渡すよろこびを私は知っている。
神に近い何者かの意のままに苦痛と快楽そのものになり、何者かの意のままに満ちあふれるよろこびとかなしみそのものになることを知っている。
その時はもう私などいないのだ、存在するのはただあなたのものである魂とあなたのものである躰。あなたの意志の変化と同時に変化する存在そのもの。
なにもないなにもないなにもない。だからすべてなの。
創造者の意識のままにあらわれる世界。
(それはついさっきまで二階堂奥歯と呼ばれていた)。
あなたのものであるこの世界を今終わらせてもかまわない。
あなたのものであるこの魂をどう扱ってもかまわない。
あなたのものであるこの躰をいくら壊してもかまわない。
でもそんな瞬間はもうこないのかもしれません。
ところで、知人のメールによると、一般的なMのステロタイプとは、縄・鞭・蝋燭に加えバイブやアナルや浣腸や強制オナニーなんだそうです。
……ジャンルSMって実はすごく遠いのかも。
私にとってマゾヒズムとは例えば先に書いたようなものであり、また下の引用のようなものなのですが。
私は、苦しみなしでは一瞬も生きることができませんでした。私が苦しめば苦しむほど、私は、もっとこの愛の聖性に満足しました。そしてそれは、絶え間なく苦しんだ私の心に、三つの願望をかき立てました。その第一が苦しむこと、第二は、主を愛し、聖体を受けること、第三は、主と一致するため、死ぬことでした。
(マルガリタ・マリア・アラコク『聖マルガリタ・マリア自叙伝』鳥舞峻 聖母文庫 1998.3)
ユイスマンス『黒ミサ異聞』を読んでいたら大好きなマルグリット・マリーの記述がありました。けど、こんなの。しょんぼり。
「だが、それよりももっとひどいのがありますよ。マリー・アラコックの生涯をお読みになってごらんなさい。あれは苦行のために病人の糞便を舌でよせあつめたり、指先の傷の膿を唇で吸ったりしていますよ」とジュルタルが言葉をはさんだ。
「そうでしたね。しかし、実を申せば、そういう不潔なことには、感動するどころか私はかえってイヤな気がしますよ」
(ユイスマンス『黒ミサ異聞』松戸淳 北宋社 2001.12)
私も、そういう不潔なことには、感動するどころかかえってイヤな気がしますとも。
天野可淡展プレビュー初日。
昔むかしあるところに一人のお姫様がおりました。
お姫様は美しくそして誰よりも誇り高い方でした。
ところが、お姫様の国は隣の国とのいくさに負けてしまったのです。
お城に乗り込んだ兵隊たちは、お姫様をさらって娼館に売り飛ばしてしまいました。
宝石と刺繍を散りばめたドレスは奪われ、東洋の国からきた緋色の夜着を与えられました。
お姫様は決心しました。
「わらわの広大な王国は奪われた。それならばせめて今日からはわらわのこの身体をわらわの王国といたそうぞ。この王国を統べるのはわらわ。外つ国びとに侵入させはせぬ。」
お姫様の滑らかな肌はそのまま石になりました。
わずかに開いたその唇をこじ開けることはできません。
すらりと伸びた脚を開く者がもしあっても、その奥の入り口は閉ざされたまま溶けだすことはありません。
お姫様の王国、その身体の中には誰一人、指一本侵入することはできないのです。
お姫様は、人形になったのでした。
お姫様はこの地下室ですっくと立っています。
お姫様の王国、お姫様自身を奪おうとする者を決して許さぬ強い視線をすえて。
地上を統べるはずだったあなたが住まうのはこの薄暗い地下室。
しかし、どこにおられてもあなたは王女です。あなたの王国はあなたがおられるところにあるのですから。
わたくしはそれを知っております。
完璧な左の耳を持つ人がいた。
ウィンスロップ・コレクションに行く。
「今、ここではない場所」を探して、海を越え月にまで至った。世紀末は過ぎ二十一世紀がきたった。
でもいつもここだし、いつも今なのだ。
「今、ここではない場所」なんてどこにもない。自分でつくらない限りは。
世界の外が定義上存在しないならば、入れ子の世界を内側につくるしかない。
そうしてつくられた小さな入れ子の世界はでも入ってしまえばこの世界より広いの。
そのような世界を描いた絵が並んでいます。
完璧な左の耳。あの耳に住まいたい。
命の気配のない夜明けに
私はそっと静かな声で
喜びの歌をうたう
左の耳のために
(黒百合姉妹「左の耳のための喜びの歌」『月の蝕』SSE 1993)
秋が来たので外は寒い。
私は羽根の布団にくるまって夜明けに目が覚ます。
夜の後で朝の前の時間は暗く、静かな空で鴉が鳴く。
その声を聞くと「ひとりだ」と思う。ひとりきりだ。とてもさみしい。
そして、私は布団を身体に巻き付ける。目を閉じて、しあわせだと思う。
このひとりきりでさみしくしあわせな黎明の時間が続けばいいのに。
朝が来なければいいのに。
「みんな忘れてしまいがちなんだけど、この世界は本当はとてもうつくしいんだ。」
朝、電話でそう言った人がいた。
「ええ、そうですね。」
と私は答えた。本当にそう思ったから。
うつくしいこの世界はとてもおそろしく、さみしい時間はとてもしあわせだ。
雨が降っていて私は黙ってまだ青い鬼灯に降る雨を見ていて、見ていて、見ていて、私が見ていたものはこれだった。と思い出す、表参道を歩く私に降る緑の光。天気、晴れ。
*
くるくると精妙な螺旋を描く蔓。細い細い緑の光でできた。萌え出でたばかりの瑞々しい蔦はまだそれをつくった光を多分に含んでいるので実は淡く発光している。
繭から糸を紡ぎ取るその手付きで、陽光はたおやかな茎から緑の光を巻き上げた。
対になって描く螺旋。発条【ぜんまい】。時計の発条が園庭に落ちていた。錆びた発条を踏んで足から血を流したのは誰だったか。
雨の滴が、螺旋を辿って落ちる。落ちる。
緑の葉に。
朝顔の花弁に零れた水は、霜のような繊毛で弾かれてころころと球体になる。その硬い表面。光すらはね返して、透明に。
水晶球が花弁を滑る。滑り落ちる。緑の葉に。
光に透ける青い如雨露。中の水が重く揺れる。如雨露越しに透ける水のうごき。光と影の模様。
勢いよく揺らした途端に水のかたまりが私に向かって溢れる。蜜のようにとろりとしたひとかたまりの水の重さ。光の蜜。
昼休み、私は誰よりも早く水着に着替えてプールサイドに駆け出す。
誰もいないプールは、ひとかたまりのとろりとした光だ。
冷たく重みのある光に足を踏み出す。私を弾き出そうとするつるりとしたその表面。
それ、が、破れる。
滑り込む、透明な蜜の中。泡立つ光。目を開ける。弾けながら昇天していく泡。私が青い光をかけば、硝子の粒が指先から零れる。
プール一杯の溶けた硝子が、私の動きで揺れる。私より先に滑ってゆく波を追いかける。強い光と弱い光のゆらめく中を、結晶を生み出しながらくぐり抜ける。
真夜中過ぎの道路はとても混んでいて、私は助手席でうとうとしている。
「なーんで夜なのにこんなに混んでるかな。……明日から三連休だからか。」
「みんなで大移動してるんだね。」半分夢を見ているように私は続ける。「いつも移動している一族がいるんだよ。眠らないで車を走らせるの。」
「そりゃ大変だね。」
「うん。変わりばんこに、決してとまらずに車を走らせるの。夜に住む人だからね。朝に追いつかれないようにずっと一直線に西に向かって走ってるんだよ。もう何年も何十年も。」
そしてそのまま私は眠りに落ちる。
コノハムシのフィギュア(20cm)と、アンモナイトのフィギュア(15cm)と、聖アガタのカードと、『教会ラテン語への招き』を買いました。
コノハムシは大きい。四六判の本より大きいくらい。
お店の隣のオープンカフェでチャイを飲みながらテーブルに並べて愛でる。節足動物・外殻を持つ生物は硬くて部品の構成がはっきりしていていいな。アンモナイトは中身はやわらかいけど、触手があるからいい。
私は外骨格がほしくなるとコルセットをつけます。柔らかな肉をきちんと殻に納めて形作ります。すべすべの繻子と硬くしなやかなボーンで囲まれた流線型の身体はうれしい。
聖アガタのカードは、手枷と鉄鎖で縛められた女性が胸元を白布で隠したまま炎で焼かれている絵。
聖具売り場でこの御絵を見るたびに、ほしいなと思っていました。
でも「この人は無惨絵趣味でこの聖女のありがたい御絵を買おうとしているんだわ」とレジの人が不愉快になるかもしれない。
マゾヒズムやエロティシズムはその深みでは聖性と結び付くと確信しているわたくしではありますが、敬虔な信者の方を不愉快にさせるようなことをしたくはない。
ただ買えばいいのに、まるで買ってはいけない本を買おうとする中学生のように葛藤していたのです。自意識過剰です。
しかし、ついに買いました。『教会ラテン語への招き』と一緒に買えば真面目な意図の下に買うのだと思われるだろうと信じながら。(これではまるで買ってはいけない本を真面目な本と一緒に買う中学生のようだ)。
聖アガタおとめは、三世紀の殉教者です。美貌に恵まれた高貴なアガタを総督クィンティアヌスが愛人にしようとしました。しかしアガタは自分はキリストの花嫁であると断ります。総督は一ヶ月の間彼女を娼館に入れて辱めますが、彼女の純潔は守られました。クィンティアヌスは彼女を牢に入れ、その美しい乳房を鞭打たせ痛めつけついには切り落とさせました。しかし聖ペテロが現れて彼女の傷を癒しました。どんな責めにも改宗しなかった彼女は、灼熱した石炭と陶器や硝子の鋭い破片を撒いた上を全裸で引きずり回され殺されました。
シンボルは切り取られた乳房、一角獣の角(処女の象徴)、拷問具、松明、薪の山。
アガタやアレキサンドリアのカタリナなど、初期の殉教おとめたちは皆聡明で意志が強く凛々しく気高いのですが、マルグリット=マリーのように心の友(?)とは思えない。それはなぜかと考えました。
アガタの受苦はキリスト者である限り逃れられないものだった。アガタが望もうが望むまいが、彼女は拷問を受け死ぬしかなかった。殉教者は皆喜んで苦しみ死ぬが、その状況は彼女の意志では変えられないものだった。
それに対してマルグリット=マリーの受苦は自ら望み自ら実行したものだった。病の苦しみは体質によるにしても、身体が弱いのに病人の世話をしその分泌物を口にしたというのは自分から罹患したのだとも言えるはずだ。皆がキリスト者として生まれキリスト者として生きて死ぬ世界では、修道女は社会的に保証され、讃えられこそすれ虐げられることはない、その状況であえて苦しみを求め苦行の許しを請い求めるマルグリット=マリーの真摯な倒錯に私は惹かれるのだ。キリスト教の爛熟した倒錯の美しさ。愛する主に向かって苦しめて下さいとこいねがう聖女たち。
それにマルグリット=マリーが自ら書き残した言葉を読めるということも大きい。
私は、一度も私の苦しみが減少するのを望んだことはありませんでした。なぜなら、私の体が一層うちひしがれればそれだけ、私の霊は、もっと喜びを感じ、そしてもっと私自身に専念させ、苦しみのイエスともっと深く結びつく自由があります。
(マルガリタ・マリア・アラコク『聖マルガリタ・マリア自叙伝』鳥舞峻 聖母文庫 1998.3)
恐ろしい予感があった。わたしがぐずぐずして全てを言葉にするのを拒み続けるならば、運命はもっと悲惨な状況を用意することで、むりやり壁を越えさせようとするだろう。でもビクビクしながら、わたしはそれを待っていた。それがある意味でいちばん正しいやり方だと知っていた。
けれどその考えを理解できるのは、わたしの中のいっとう深いところのわたしであって、普段つかっている部分のわたしではない。要するにストレスは一向に減らなかった。気が弱くなって、以前のように自分を天才だなどと思えなくなっていた。単なる変わり者、言葉の通じない異端者だった。ひょっとしたら気が違っているのかもしれないと、半分本気で考えた。
わたしの言葉の中に、『のようなもの』だの、『とかいうもの』だのという単語が頻繁に出てくるようになった。文末は、『かも知れない』で締めくくられた。紙に書くと、あらゆる単語をカギカッコでくくってしまうか、あらゆる単語の前に『わたしの言う』をつけなければ不安になる。わたしの言葉で言えばわたしはわたしの言う『天才』かも知れなかった。世間一般からみればママにとってパパは『かれ』だったかも知れなかった。わたしと『まりかちゃん』は『ともだち』なのかも知れなかった。日本は『しあわせ』なのかも知れなかった。
わからない。
もうなにもわからないかも知れない。
ほんとのものはなにもない。『ほんとのもの』があるだけだ。
(木地雅映子「氷の海のガレオン」同名書所収 講談社 1994.9)
この話の主人公「わたし」こと杉子(小学6年生)は、言葉が通じない世界で生き延びていくことができただろうかと考える。この本に収められたあと2つの短編それぞれの主人公である中学3年生と高校3年生の少女達は、はたしてその後何年生き延びていかれただろうと考える。
何不自由なく満ち足りたこの世界で私はなぜだか戦場にいるような気がします。
ほんの小さな失敗でもしたら私はここにいることを許されなくなってしまうような気がします。
挨拶はきっと複雑な合図で、それを間違えれば即座に虐殺されるような気がします。
私をかこむ隣人達の中に入っていくとき、砲弾の飛び交う中を進んでいく気がします。
時限爆弾を解体するかのように息をつめて仕事をします。
世間話をしながらも銃弾が耳を掠める音が聞こえます。
私の微笑みは自然に見えますか? 口の中には恐怖の味がします。
今日も生き延びた。でももうすぐ明日が来る。明日は生きていられるのかな。
でも、この人だって生き延びているのだ、生き延びて、22歳で『氷の海のガレオン』を書いた。
木地雅映子がどのように生き延びたのか私は知りたかった。
まったく書いていないようだけど、どこかで生き延びているのなら、それを知りたかった。
その人は外国に住んでいたらしかった、昨年までは。
「昨年から、連絡がつかない状態です」。
30歳。30年生き延びたということ?
それとも、どこかでまだ生き延びているのですか。
それならどうか、その世界がそれほどおそろしくありませんように。
私はもう25年生き延びました。
私達は強くない。賢くない。悟らない。
ずっとは。ずっとのあいだは。
でも、一瞬なら。
一瞬なら強くなれる。
一瞬なら賢くなれる。
一瞬なら悟れる。
一瞬なら、水面を破ることさえも。
自分からさえ跳ね上がることができる。
そして私達は、それを思い出にする。
世界は美しくない。
ほとんど。
あるかなきかのかすかな美しさを、摘みあげて摘みあげて積み上げてきたのだ私達は。
時には、すべてが美しいと感じてしまうまでに。
世界を解釈することは、世界に講釈することだ。
世界に美しくあろうとする動機はないし、美しいままに私達を待っているわけでもない。
私達が美しさを発見するとき、それは忘れ去られていた美しさを思い出しているのではない。私達が美しさを忘れ去るとき、美しさはまた誰かが思い出してくれるのをどこかで待っているわけではない。
私達は時折、人類の夜明けの時代に想いを馳せて、最初の詩、最初の音楽、最初の一言、最初の約束について考える。
いったいこれらの魔法は、どのようにしてはじまったのか?
私達にとっての一瞬。
この一瞬。
次の一瞬。
その次の一瞬。
たとえ思い出にもならないありふれた一瞬であっても、それはすべて、もしも人類の夜明けの頃に起こっていたなら、人類史を変えてしまったであろう一瞬である。
長い長い年月を経て、私達は、魔法を日常にしたのだ。
いま行くことができるどこかのうち、もっとも遠いどこかへの旅程は、一瞬である。
生きることに意味があり、そしてその意味を理解したとしてもなお、死を択ぶ意味が消え去るわけではない。
ただ、きっと、一瞬の余命があれば、生き続ける意味はある。
そしてぼくも、次の一瞬くらいなら、生き続けることができると思うのだ。
(雪雪「水の下からの眺め」2002.9.26のメール)
物語の登場人物になりきっていた。
読み手であることを忘れていた。
もう何年も前に、この物語を読むすべを知ろうと決めたのに。
もちろん二階堂奥歯はこの世界の一登場人物に過ぎない。
しかし、そのような二階堂奥歯が、「私」であるということ、その事実によってこの物語は読まれ始めた。
そして、世界という物語は読まれることによって立ち現れるのだ。
読むことが書くことである物語。
頁をめくることが次の頁を生み出すことになる物語。
一登場人物である二階堂奥歯が物語を動かすことはほとんどできない。
でも「私」には、その物語を読むこと、読みとること、読んで解釈することができる。
読むことを忘れていた。
読みとることを。紡ぎ出すことを。
世界を。この物語を。
美しさを読みとることによってはじめてこの物語は美しいものとして立ち現れる。
そのような「読み」は常に可能なわけではない。だから、だけど。
読み手であることを忘れてはいけない。覚えておきなさい。
すぐ忘れる二階堂奥歯へ。
無根拠性。
善悪の無根拠性だとかには、人はたやすく向き合ってゆける。
おそらく、世界の無根拠性にも。
しかし、恐怖の無根拠性に対してはどうだろうか。
恐怖に浸透された日常。
恐怖は現実のものだ。それは私の身体機構とその化学組成のバランスを崩す。
物理的に影響される私の身体。そしてその身体によって測られる(アフォードされる)外界。
問題は、この恐怖には理由がないとはっきりわかっていることだ。
根本的な対策はないということを私は知っている。
その無根拠性に向きあうこと。
毎日、恐怖とたたかい生き延びること。
「ここかわいいよ」という言葉を添えてかこさとしの世界・絵本のお店だるまちゃんのHPをメールで弟に教えたら、返事が来ました。
「URL見てグロ画像かと覚悟して飛んだけど、ほんとにかわいいね。」
「だるまちゃん」でグロ画像だと思うあなたはスレ過ぎだと言ったら、お姉ちゃんからということを考慮したんだと返されました。
それで思い出しましたが今月出た氏賀Y太の新刊『デスフェイス』(ティーアイネット)は身体改変もの「マテリアル」シリーズ中心。私は「マテリアル」シリーズではない「四時間目・生物」が好きです。いじめられっ子の女子生徒が唐突に生物の時間に解剖されてしまうという、なんの救いも教訓も落ちもない話。
人間の形態をなしていない彼女の死体を手にクラスメイトが和気藹々と記念写真を撮る最終頁を見ると、学校生活や社会生活などの「生活」を生きている時の心構え(意味体系や重要性の尺度)がさっぱりとえぐりとられるような気がします。心の中にぽっかりと空間が開けるのです。