【イスタンブール トプカプ宮殿 ハーレム】
青を基調とした細かなアラベスク模様のタイルが床、壁、天井を被っている。
金糸の刺繍を施された長椅子、クッション。
さらさらと流れていたであろう噴水が殆どの部屋に設けられている。
窓には金の格子。
窓にもたれて外を眺めると、中庭。中庭の塀の下には池と噴水。その先には高い高い塀。その先はもう何も見えない。
中庭ごしに反対側の棟を見ると沢山の窓がある。あの窓一つ一つの奥には一人ずつ女人が住まっていた。
大きな大きな、生きた宝石を住まわせるための宝石箱。
【イスタンブール 空港 免税店】
ヘレナ・ルビンスタインのエクストラバガントマスカラをまとめ買いする。
このマスカラは5月に出た新作だが、私のマスカラ人生において現時点最高の品と言えるだろう。それまで愛用していたディグニータのマスカラビジュアリストも、まつげ1本1本がミシン針のようにぱきっとするので良かったが、エクストラバガントマスカラはさらにすごい。
マスカラブラシでまつげを一撫でした瞬間、「これまで私目をつぶってたんだっけ!?」というくらい目が大きくなる。いやさらに「第三の目が開いた!」くらいのショックはある。瞬きするたび風を起こしたい向きには非常におすすめのマスカラ。
【機上】
彼の指の中で、生まれてはじめて彼女は、学校でよく聞かされた宗教的陶酔というのがどのようなものであるかをさとったのだ、自分の肉体、ならびに精神の統御を放棄するすばらしさ、いまや自分に許された木の葉の軽さ。木の葉【ファーユ】と女【フィーユ】、ほとんど語呂まで同じ。枯れ葉がこちこちなのは、と彼女は考える、感覚がないからだ。やさしくたわみ、他人の偉力にすっかり自分を委ねるためには、若い生命が必要なのだ。
(A.ピエール・ド・マンディアルグ『オートバイ』生田耕作 白水uブックス 1984.6)
そうなると、もう男と女の問題ではなくなって、男のなかの蛇と女のなかの蛇とが、金属的とでもいいたい軋み音をたてて、きりきり舞いをしながら縺れあい絡みあう。二つは一つになって、性の無限級数を昇りはじめる。その極限には何があるのだろう。私はそこまで昇っていきたいのだ。辛いとも快いともけじめのつかない、錐をもみ込まれるような感覚のなかで、無限級数のずっとずっと果てに、私は神を思う。そこまで昇っていくことが、もし可能なら――。
(中略)
終わらなければどんなにかいいだろう。生涯をかけて、ますます高まっていって、無限級数の極限にたどりついた時に、命が絶えるというふうであれば、と思う。命が絶えないままに極限に至るということは、狂うということだろう。狂気のなかでしか神を見ることはできないのだろう。
(高橋たか子「失われた絵」同名書所収 河出文庫 S56.11)
ひどく揺れている飛行機がきっちり6秒間落下した。浮き上がる身体を感じる。
通路を挟んで隣の老人がひどくおびえている。
私も少し怖い。でも、それよりもふわふわして気持ちがいい。
私は、今日死んだって全然かまわないもの。
先日父が心臓の手術をした。
私はその場にいることができなかったのだが、昨今は手術の様子を撮影してリアルタイムで家族に見せてくれるらしい。
そのビデオを1人で見た。
父の胸骨が切断され、裂け目を開いて心臓を切ったり縫ったりする様子が無音で映されている。
心臓は意外と白っぽく、まるで子兎のように盛んに跳ね上がり裂け目から飛び出しそうに見えた。
妹や他の人々は途中で具合が悪くなり、外に出てぐったりしていたらしい。母が1人で見続けていたそうだ。
小学1年生の時、『はだしのゲン』を読んで一番ショックだったのは次のようなシーンだった。
ものすごい光と衝撃の後、女の子の前に、焼け爛れて皮や肉が剥けてぐちゃぐちゃになった生き物が現れて、「助けて」と言う。それに対して女の子は「あんたみたいなお化けしらない!」と言って逃げる。でも、それは女の子のお母さんだった。
小学校1年生の私はそんなのは嫌だと思った。
私の大切な人が変わり果てた姿で苦しんでいるときに、気持ち悪いと思ったり、お化け扱いしたりして助けることができないのは嫌だ。
ほんとは助けたい気持ちがあるのに、そのような見慣れない姿に嫌悪感を覚えて、助けることができないどころか、相手を傷つけてしまうのは嫌だ。
だったらどうすればいい。
見慣れればいいのだ。普通の人は大怪我や血まみれの姿を怖がったり気持ち悪がったりするけれど、お医者さんは平気で手術をする。それは慣れているからだ。
それから私は、怪我や火傷や皮膚病や、その他一般に「気持ち悪い」、「怖い」と言われる有様に慣れようと心がけることにした。
轢かれて死んでいる猫の死体が腐って蛆がわいているところを観察し、死体写真を探し(昔はインターネットも悪趣味雑誌もなかったし子供だったから大変だった)、図書館で医学書(特に法医学)を借りて写真を眺め、食事時中テレビのニュースで手術の様子が映し出されたときは目を背けず見た。自分が怪我をしたときは(よくした。今もよくする)、虫眼鏡まで出してきてじっくり眺めた。
大切な人がどうなっても助けられるようになりたいとそうしたんだという話を母にしたら、「そうだったの!? 感動したー。奥歯はそういうのが好きなんだと思ってた。」と言われてしまった。
違います。大体私は自分が痛いのはともかく、人が痛がっているのは駄目なの。
だから、外国に行くとよくある拷問博物館には一度も行ったことがありません。
開襟のパジャマの襟元からも縫い目が見える父は明日退院します。
それぞれ病気と手術で入院していた父と祖父が相次いで退院。
退院に伴うもろもろの手続きはかなり時間がかかった。そうだろうと見越して本を4冊持っていった。それでも4冊はいらないだろうと思っていたのに、読み終わってしまった。
今日読んだ本
尾崎登明『ながさきのコルベ神父』聖母文庫
鹿島茂『オール・アバウト・セックス』文芸春秋
A.P.ド・マンディアルグ『猫のムトンさま』ペヨトル工房
ピエール・ルイス『五つの恋の物語』邇生書房
多和田葉子『聖女伝説』太田出版
今泉ヒナ子『修道女の日記』日本基督教団出版局
ジャック・ケッチャム『隣の家の少女』扶桑社ミステリー
清水正二郎(胡桃沢耕史)『もっと強く打って 鞭の生涯・サド侯爵 下巻』第二書房
加えて漫画
青池保子『修道士ファルコ1・2』白泉社
良い本を汚染するような読み方をしているような気がする……。
でもねでもね!
「背徳ということはキリスト教の核心に直結していて、むしろ逆説的にキリスト教的なことであるのだ(中略)。だが私は、人間の切実な真実に関するものであるかぎり、作家の試みる探求の一切がキリスト教によって許されるのだと考えている。」(高橋たか子『人形愛』講談社 1978.9 あとがき)
……だめですね。
少なくとも『もっと強く打って』は人間の切実な真実に関するものじゃないしね……。
ただこの本は挿絵がすばらしいんですよ。内容に全然関係のない拷問図なのですが、古典的な解剖学図のような端正かつ抑制的な筆致でまったく痛々しくなく、生々しくなく描いてあるのです。でもこの本ものすごくいい加減だから、画家名も引用元も書いていない。ほかにバイロスの絵が口絵で入っていますが、それにも何も書いていない。ひどいよ第二書房ナイト・ブックス!
昨日マンディアルグ『猫のムトンさま』を読んだのには理由がある。
先日祖父の病室にお見舞いに行ったら、祖父読みさしの「ラピタ」8月号があった。
私は物欲王女だが、祖父は物欲王なのだ。よく東京に来て、鉄道模型やお洋服や時計やカメラや様々なミニチュアものを買っている。
その「ラピタ」の「ペットと暮らす」というページにスフィンクスという猫が紹介されていた。
この猫が、無毛で、目が大きくて頭が小さくて、恐竜めいていて素敵。でも頭は見るからに良さそう。おまけに人懐っこいらしい。
頭が良くて人懐っこい小さな恐竜みたいな猫と暮らすのって、どうですか!?
思わずネットでスフィンクスについて調べてしまう。
それで結構真剣に検討してしまう。
でも私は生き物好きじゃない。
敏感肌でペットアレルギーだ。(でもスフィンクスはアレルギーの人も飼えるらしい)。
生き物は嫌いでも同居者は好きになるかもしれないけど、でもその同居者は人語を解さない。
私も猫語を解さないので、コミュニケーションが十分に取れない可能性がある。
日中(夜もか)働いているので放っておくことになる。
第一、猫は私の大事な人形や骨格標本や男根像その他のオブジェや本で爪を研いだり、それらを汚したり、壊したりするだろう。
次に考えられるのは実家で飼ってもらうということだ。動物好きみたいだし。
「この猫はどうかな? 名前はムトン!」としきりに親に勧めるが、「毛がなくてこわい」と嫌がられる。しかもうちにはすでにケルビーノ(@フィガロの結婚 名付け親は妹)というミニダックスフントがいるしなあ。
だめだだめだ、物欲で生命あるものを求めちゃいけないよ!
一緒に暮らすことだけが好きなものへの態度じゃないし。
生き物としての何かを好きというのと、例えばオブジェの一種としての、あるいは象徴としての何かに惹かれるというのはまた別だし。
私、ちょっと勘違いしてました。ペット特集から入ったからです。反省。
年に一度やってくるタロット勉強期。今年のテキストは井上教子『タロット実践解釈事典』国書刊行会です。
幼稚園や小学校低学年の頃にダイアナ・ウィン・ジョーンズ『魔女集会通り26番地』とか、ルーシー・M・ボストン「グリーン・ノウ」とか、C・S・ルイス「ナルニア国物語」とか、エンデ『はてしない物語』とかを読んだので、当然のように私は魔法とか魔女に興味を持つようになりました。
小学校3年生の頃、図書館の子供の本コーナーから大人の本コーナーへ乗り出した私は、早速カードで「まほう」に関する本を調べ、ぴったりなものを見つけて司書さんに頼んで出してもらったのです。(ちなみに同時期に子供向け「少年探偵団」を読み終わり、大人向け「江戸川乱歩全集」を読み始め、エログロへの道を歩みだしたのであります)。
それが、国書刊行会の「世界魔法大全」だったのでした。
私は小学生のときにあれを全部読んだのですよ。全然わかりませんでしたが。特に、クローリーの『魔術 理論と実践』は実践と書いてあるから期待して読んだのに、箒に乗って空を飛ぶ方法が書いていなかったので憤慨したのを覚えています。(当たり前だ)。
そんなこんなでタロットカードにも手を出しました。小学生の時買ったのはの解説書と大アルカナ21枚がセットのもの。本格的に興味を持ったのは高校生になってからで、ライダー版を買って基礎からやりました。
私は別に占いには興味がありません。象徴画を並べてストーリーを読み取るということに惹かれるのです。(カルヴィーノ『宿命の交わる城』がまさにそんな話でしたが、私はあの話の通りにカードを並べてみたことがあります)。
同じテーマで、古今東西たくさんのデッキが作られているというところもいいのです。同じテーマの絵を、製作者がどのような意図を持ってどのように描くかを見比べるのは楽しい。
そして、例えば一冊の本に全世界が含まれているという考えが魅力的なように、一組のカードに全世界が含まれているという考えはたまりません。
そんなわけで、年に一度くらい集中的にタロットや関連の本を読み、何ヶ月かに一度新しいデッキを買っています。
タロットを楽しむためにはやはり最初はライダー版でしっかり身に付けることが大事だと思います。あれはこれでもかと象徴が詰め込まれた、噛めば噛むほど味がでるデッキですから。わかりやすいし、解説書も多いし。
しかし、私のように象徴画として、絵として楽しみたい向きには、あのひどい色調や絵は魅力的とは言えません。(それは古典であるマルセイユ版にも当てはまります)。
そんなわけで様々なタロットデッキに手を出すことになるのですが、やはり私はそれぞれの象徴をいかに扱うかその腕を見たいのです。だから、単に月のカードで月を描き、ソードの9で剣を9本描くというのでは不満なのです。意味を理解し、お約束を踏まえた上で独創性を振るって欲しい。そんなわけで、ギーガータロットのように作家性が強いものは、それ自体は素敵な絵かもしれないけれど、タロットとしてはぴんとこないのです。
ちなみにボッシュタロットはボッシュ風の絵なだけです。ボッシュの絵ではありません。
私が好きなのはアクエリアンタロットとゼルナーファーバータロットですが、それぞれ「このカードのここを直したい」というのがあります。
78枚全部の解釈に納得がいき、しかも美しいデッキを探す旅は続く。
今度はグランエッティラかゴッデスタロットがほしいな。
魔法が解けた。
ウロボロスの蛇が自分を飲み込み飲み込み、ついに消えてしまうところを想像する。
最終的には、口から裏返り、くるくると身体を巻き返す形になるはずだ。
その時には、内側は外側になる。
それまでの蛇の中味はなくなるが、世界が蛇の中味になる。
自分の中に潜ってゆく、どこまでも潜ってゆくと、くるんとひっくり返って、内側が外側を向く。
そうだ、私の身体は無に向かって収縮し、溢れ出したものは世界に浸透する。
しかしそれは難しいことだ。自分の内側に入っていくための扉を私はなかなか見つけることができない。
扉を教えてくれた人がいた。他の言い方をすれば、その人が扉を作ったのだ。そうされることと、そうあることが同一であるような次元の話だ。
その人は私が気づかなかった扉を教え、世界に一つしかない鍵でその扉を開き、私をその先へと送り出してくれた。
その扉をくぐることは、全ての属性を脱ぎ捨てることだった。私がなくなって、世界と隔てがなくなることだった。
しかし、ある時から鍵の持ち主は私を扉へと導くことをやめた。
私は、その人に焦がれ、その人の持つ鍵を欲した。
あの鍵でないと、あの扉は開けられないのだ。
どうにかこうにかその扉まで行き着くことがあっても、鍵穴を覗いて向こうを垣間見ることしかできなかった。
私はずっと、鍵の持ち主を求めていた。
でも、なぜだか急に気がついたのだ。
問題なのはその鍵でも鍵の持ち主でもないのだった。
どうやってあそこに辿りつくかなのだ。
そのためには例えばあの鍵を使ってあの扉を開けて、そこから入っていくという方法があった。でも、その方法はもう使えない。それなのにその鍵に固執するとは、本末転倒としか言いようがなかった。
あの鍵が使えず合鍵でも駄目なら他の扉を探せばいいし、内側に裏返るためにはもっと他の方法だってあるだろう。
気がついた。私は扉の先に行きたいのであって、鍵が欲しいのではない。
離れに行って子供の本の山から『白鳥の王子』を見つけてきた。
多分この本を読んだのは幼稚園くらいのことだが、非常にエロティックな物語と感じていた記憶がある。
その時はそんな言葉は知らなかったけれど、受苦と、近親相姦と、獣姦のおはなしだったのだこれは。
(母はそんな話ではないと言っています)。
悪い魔法使いの継母に疎まれた11人の王子は、お日様が出ている間は白鳥になるよう魔法をかけられる。王子たちの妹である王女エリザもお城を追い出され、遠い国の森の中の洞窟で暮らすことになる。
夢の中で綺麗な女の人が、お兄さんたちを助けるためにはたった一つだけ方法があると教えてくれる。
「わたしがもっている、このとげのあるいら草をごらん。これとおなじ草が、あなたのねているほらあなのまわりに、たくさんはえているでしょう。それから、おはかにもあります。
さあ、よくおきき、あなたは、それをつみとらなけらばなりません。とてもいたいのよ。手がひりひりして、火ぶくれができても、がまんしてやるのですよ。」
「はい、やってみます」
「そのつぎには、足でいら草をふみくだいて、糸をとるのです。その糸で、長そでのきものをあむのです。
きものができあがったら、白鳥になげかけてごらん。すぐ、まほうがとけますから。けれども、このしごとをはじめたら、できあがるまで、なん年かかっても、けっしてものをいってはならないのよ。」
「もし、しゃべったらどうなるの。」
「もし、ひとことでも口をきいたら、あなたの口からでたことばが、するどいきりになって、おにいさんたちのむねをつきさすのです。それっきり、おにいさんたちのいのちはなくなってしまうのです。」
こういうと、その女の人は、いら草をエリザのうでにおしつけました。すると、手は火のようにあつくなって、そのいたみで目がさめました。
(アンデルセン『白鳥の王子』野村兼嗣 ポプラ社 S41.3)
エリザは苦痛に満ちた仕事に一心に打ち込む。狩の最中の王様に見初められ、あまりの美しさと優しい様子からお妃として迎えられることになる。
一言も口をきかず、夜の墓地にいら草を摘みに出かけては怪しい編み物をしているエリザは魔女の疑いをかけられる。しかし口をきいてはならない彼女は弁明もできず、火あぶりになることになる。
刑場に曳かれていく間にもきものを編み続けたエルザは最後の瞬間、白鳥たちにきものを投げかける。
するとそこには美しい11人の王子が現れ、エルザははじめて口をきくのだった。
それで疑いが晴れたエルザと王様は美しい行列と共にお城に戻りましたとさ。めでたしめでたし。
一番下の優しいお兄さんのきものだけ片袖が間に合わなかったため、片腕は白鳥の羽根のままというところがまたいいんだ。王様より、そのお兄さんと結婚すればいいのにと私は思った。
エリザの苦難には性の匂いがした。
幼稚園に通う女の子だってエロティシズムは判るのです。性器と性交はエロスにとって二の次だということがここからもはっきりしますね。
実家に置いてあった『ヘンリー&ジューン』を読んでいる。
ジュエリー売り場に行く。ネックレス、ブレスレット、イヤリング。わくわくする。ぼうっと何かに見とれている野蛮人みたいに、私は立っている。光る石、紫水晶、トルコ石、貝殻のピンク、鮮やかな緑。冷たく透明に輝く宝石で、私の裸身を飾ってみたい。宝石と香水で。幅の広い、平らなステンレススチール製のブレスレットが二つある。手錠みたいだ。私は手錠をかけられた奴隷。すぐに、この手錠は私の手首にはまる。代金を払う。口紅とパウダーとマニキュアを買う。(中略)固い金属が巻きついた手で、日記を書く。
(アナイス・ニン『ヘンリー&ジューン』杉崎和子 角川文庫 H2.12)
アクセサリーは単に身を飾る物ではないし、香水は単に香りのついたアルコールではない。
そして買い物とは、単に物を買うだけのことではない。
アナイス・ニンはよく香水のことを書く。最初は何もつけずに本を読んでいたが、読んでいるうちに香りが欲しくなり、テュエリー・ミュグレーのエンジェルを手首につけることにした。
彼女の定番はミツコだが、おとなしすぎるという理由でヘンリー・ミラーがミツコを嫌ったので、ナルシス・ノアールも使うようになった。
ミツコをおとなしいというなんて、昔の感覚はやはりかなり違うんだなあ。
自然に毛皮や宝石を身につけることができる蠱惑的なマダムに似合う、豊かで深みのある香りなんだけど。古典的で、オリエンタルで、濃厚な。
ナルシス・ノアールはオリエンタルノートの起源となった名香で、オレンジフラワー、薔薇、麝香が絡み合うセクシーで神秘的な香り。
20世紀初めにアルデヒドという人工香料が作られ、天然香料だけで作られていた香水の世界に新たな香調が生まれた。ミツコやナルシス・ノアールはこの頃の香りで、今では非常に古典的に感じられるけれど当時はそれはそれは新鮮なものだった。アナイス・ニンはそんな香りを身に纏っていたわけですね。
スピリット・オブ・アユーラ(2001年11月4日の日記参照)をつけてアナイス・ニン『ヘンリー&ジューン』の続きを読む。
家にはあいにくミツコも、ナルシス・ノアールもないので出来ないけど、作品に出てくる香りを纏いながら読むと、登場人物の存在が空間的に感じられていい。ヘンリー・ミラーやヒューゴーが残り香でアナイスを想ったように、香りは気配だから。
よく雑誌の特集で芸能人の愛用香水を紹介しているけど、あんな風に作家や作中人物の愛用香水を紹介してくれたらおもしろいのに。
香水のミニボトル(は無理そうだから香りのついた栞でもいい)付き作品集というのはどうだろう。
そんな矢川澄子作品集とか、高橋たか子作品集を読みたいな。一人の作家でなくても、アンソロジーでもいいし。
(でも、こやしの香りつき尾崎翠『第七官界彷徨』は嫌だなあ。)
今回実家に帰るにあたり、スピリット・オブ・アユーラとエンジェルしか持ってこなかったことが悔やまれる。最愛用、コムデギャルソン・オードパルファム(2002年1月5日の日記参照)の香りが恋しい。
先日行ったレストランは、大学1年から2年にかけてつきあった人の部屋の匂いがした。
昨日洋服箪笥を整理していて、中学生の時に着ていたカットソーを着てみたら、かぶる時に本当にかすかにその頃つけていた香水が香った。
そんな時、その頃の気持ちがそのままよみがえる。思い出すのではなくて。
その時の空気をそのまま吸い込むことができるのだ。
物欲大爆発!
這い寄る混沌ナイアルラトホテップのぬいぐるみを発見しました。
うちのクトゥルーちゃんとおなじToy Vault製です。
クトゥルーちゃんにも仲間がでていたのね。うちにいるのはCthulhu Plush - Original (Large)です。Gothic Cthulhuというのは、モスラに対するバトラみたいな色合いでこれもかっこいいかも。
ナイアルラトホテップちゃんがほしいよー。というか買う。買います。11月発売だって。アメリカの子供たちはサンタクトゥルーやナイルラトホテップをクリスマスにもらうんだ。
ところで邪神の名称ですが、私は小学生の時に国書の真ク・リトル・リトル神話大系で読み、高校生の時に創元のラヴクラフト全集で読み、大学生の時に青心社のクトゥルーで読んだのでごちゃごちゃになっています。大体響きの良い名前で呼んでいます。クトゥルーちゃんをク・リトル・リトルちゃんとは呼びたくありません。
私がクトゥルー神話に求めるものは、人智を超えた大いなるものへの畏怖と、黄昏時の懐かしさです。(ベストはランドルフ・カーターもの)。ですからダーレスの怪獣大戦争的神話観は興醒めなのです。しかし私は怪獣好きでもありますから、いずれにせよ楽しんでいます。
邪神占いという動物占いのようなものがあります。私はハストゥールでした。
でも全然当たってないよ。これ。
6月17日の葉山嘉樹「セメント樽の中の手紙」からの連想で、高橋葉介「腸詰工場の少女」を読みました。
過酷な腸詰工場で働く貧しく健気な少女が、工場主の息子に遊ばれて妊娠し、実の父親に犯され、クビを言い渡され、腸詰機械に飛び込んで自殺する話。
これだけだと単に悲惨極まりない話で読んでいて辛くて仕方がありません。しかし、この漫画は少女が途中事故で機械に巻き込まれて右肩から先がソーセージになり、最後に自殺してお腹の赤ちゃんごとソーセージになるというところに眼目があるのです。
だって、右肩から先に、ソーセージが連なっているんですよ。一瞥すればその荒唐無稽さに絶句。というか、高橋葉介はソーセージの作り方を理解していないと思われます。
工場の古顔も昔の事故で右腕がソーセージになっていて、それを鞭のように振り回して「こいつ奴! トロトロ働くんじゃねえ!」などといいながら女工を打ちのめすという摩訶不思議な場面もあり、ホラー漫画なのか不条理漫画なのかギャグ漫画なのか判断がつきかねる怪作と言えましょう。
生きたままセメントとか、生きたままソーセージとか、そういう針の振れ切った話だからうっとりできるのです。あと、人間という素材が加工されるというところも肝。
こうしてあたしは
腸詰になりました
小さいピンク色した
腸詰になりました
さあ
お食べなさいな
きっと美味しいわ
さあ、あたしを
食べて……
(高橋葉介『腸詰工場の少女』朝日ソノラマ 1999.9)
しみじみうっとり。
人間加工物としては同書所収の「SCYLLA」も良いですよ。最終形態が。
東京に戻ったら、人形が届いていました。
私は人形を買いました。100cm、11歳くらいの少女の球体関節人形です。
去年の11月の個展の時惹かれて、でも私には分不相応だと思って断念し、それでも思い続けていました。
5月の個展の時、もしまだ彼女がいたら私は彼女を連れ帰ってしまうだろうと思い、初日に行きませんでした。
何日目かに訪れてみると、値札が付いていませんでした。彼女だけではなくて、すべての人形に。
私はふらふらと作家の方に近寄り尋ねました。すると、今回は販売の予定はなかったけれど、ご希望ならお譲りしますよとおっしゃるではありませんか。
それで、彼女はここにいます。私のベッドの脇の椅子に腰掛けて。
この人形作家の方は、わざと人形と目が合わないように眼球を入れているということです。彼女を見つめても、彼女は決して私を見ません。
彼女は独りで、日常を拒否しています。彼女は不全感を抱えているようですが、その不全感は誰かに(私に)よって癒されるようなものではありません。彼女が、自分の望むような存在であり続けようとすることと表裏一体であるような不全感なのです。
私は、彼女と独りで生きていこうと思います。
夜逃げする時は、彼女をトランクに詰めていきます。
私が実家に帰っている間に弟(18歳男子大学生)が人形を受け取った。150cmくらいはある大きな箱の表書きは「人形」。
宅急便のお兄さんは、非常に含みのある視線で弟を見たそうだ。弟は恥ずかしくて仕方がなかったそうだ。
シリアリちゃん(オリエント工業製ラブドール)もかわいいけど、でも、私は私を受け入れてくれる人形と暮らすことは望まない。
昨日頂いたCDを聴きながら化粧をする。ひとりでいってしまった少女の声を聴きながら化粧をする。
−−こちらもだんだん臆病になってきちゃったから、命令してくれるんでなければ行かないわよ。
−−ほんとに命令する?
−−は、はい。
−−はい。ではまいります。
−−よろこんで。
−−はい、そこまで行って、もう一度お電話します。
−−え、じゃあこれから大いそぎで、ぴょんぴょん跳ねまわって雲のくるまをさがすわ。風邪ひかないように、しっかり毛皮にくるまってね。
−−うれしい。じゃあ大いそぎで、とばして行くわね。
(矢川澄子自作朗読「夢のウサギ」『ありうべきアリス』水牛 2002.7)
でもウサギはTさんをひとめ見るだけで会わずに消えてしまうのです。『兎とよばれた女』のときも、いつでも。
化粧が終わりました。
私、これから、大いそぎでとばして行きます。
それでは。
くちうつしの問いにくちうつしで答える。
上下の唇は皮膚と粘膜にはさまれた高度に敏感な帯域があって、多くの点で陰門や膣口に似ており、そのうえなお一そう極度に鋭敏な舌の活発な動きによって強化されている。したがって、腫脹作用に有利な状況の下で、右の部位を永く、かたく結合すれば、強烈な神経刺戟の波動が生ずる。
(ハヴロック・エリス『性の心理学入門』大場正史 河出新書 S32)