親戚一同が集まる新年会。食べるものも食べて皆がまったりしている広間の隅っこでジョン・K・ノイズ『マゾヒズムの発明』(岸田秀他訳 青土社 2002)を読んでいるところを二歳下のいとこ(男子)に発見される。
コメント「奥歯ちゃんはむがしっから本ばっがり読んでだがらあだまおがしぐなったんだべ」。
妹と弟がそうだそうだとしきりにうなずく中、まったくそうだよなあと自分でも思った。
初売り。
去年一年のお洋服買いを振り返ると、クール系できちんとしたものばかりだった。仕事向け。上手くまとまりすぎ。去年は確かにそういう年だった。
でも今年は守りに入っている場合ではないと反省する。手持ちの無地物を生かすべく、インパクト柄物の導入を決意。
とりあえずヴィヴィアン・タムで「童子桃源郷ニ遊ブ図」といった趣の過剰にオリエンタルなプリントスカートを買う。5日からセールだけど、「除外品ですよ」と店員さん言ったし。信じよう。信じたい。信じさせて。
オリエンタルづいたところでうちに帰って『カーマ・スートラ バートン版』(大場正史訳 河出書房 1967)を読む。
<第七章 愛打の種類とその適切な音について>によると、愛打の苦痛によって次の8種の叫声が生じるそうだ。
「ヒンという音、とどろく音、喉を鳴らす音、泣き声、プーという音、パッという音、スーという音、プラッという音」
……プラッという音って。
「さらにかっこう、鳩、青鳩、鸚鵡、蜂、雀、フラミンゴ、家鴨、鶉などの鳴声も時折おりまねされる。」
……そんなこと、しない。
「手を使った四種類の愛打とともに、胸にくさび、頭に鋏、頬に錐、乳房と脇腹に釘抜きなどで刺激を加える方法が考えられる」けれど、それは地方的な特色で野蛮で下劣なものだそうです。
ためになるなあ。
「青年の哲学(人生の問題)、大人の哲学(社会システムの問題)、老人の哲学(死の問題)はそれぞれ、文学、思想、宗教で代用できるが、子どもの哲学(存在の問題)には代用がきかない」
永井均『子どものための哲学』(講談社現代新書 1996 引用文中の括弧は二階堂奥歯)
久しぶりに読んだ。
上記の理由から、永井均は(そして私も)子どもの哲学だけを哲学と呼び、その他をめいめい文学、思想、宗教と呼んでいる。問題意識も範囲も異なるこれらを同じ名前で呼ぶことにデメリットこそあれメリットはないからだ。
もちろん一番役に立たないのは(狭義の)哲学である。それも相対的に役に立たないのではなくて、絶対的に役に立たない。
役に立つとは何かのためになるということであるが、「何か」とか「ためになる」とかいうことを問題に出来るようになるその土台の「存在」を考えるのが哲学なのだから。
ほとんどの人は生まれつき哲学が終わったところからはじめている。(そしてもちろんやらずにいられない人以外は哲学する必要はない。なんの役にも立たないのだから)。
永井均は幸福な人でなければ哲学はできないという。なぜなら、そうでなければ幸福になるために哲学をしてしまうから。そして、目的を持ったときに哲学は終わる。
ちなみに中島義道は不幸な人だけが哲学をすることができるという。哲学をしなければ幸せになれない人だけが哲学という無為なものをやり続けることができるから。
この二人の意見は異なっている。しかし、幸福という言葉の使い方が異なっているため、単純に正反対のことを言っているわけではない。
中島義道にとって存在するとはそれだけで不幸な、なにかマイナスの価値を持つものである。まずマイナスをニュートラルにすることが幸福になることである。
それに対して永井均にとって存在とはそれ自体はプラスのものにせよマイナスのものにせよ意味をもたないものである。(むしろ存在は意味を可能にするものだから)。したがってここで言う幸福とはこれ以上バイアスをかけなくてもよいということである。
幸福な人がなんの目的もなく哲学をする、それを遊びだとか余技だとか言うのはたやすい。しかし、幸福な人がなんの役にも立たないものをやらずにいられないということくらい根が深い問題があるだろうか。その病(?)は外から治すことが出来ないのだ。
「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」(押井守監督 1984)をはじめて見た!
これをリアルタイムで見ていたら人生変わっていたと思う。同じ向きだったかもしれないけど、加速していたのは間違いない。「トップをねらえ!」(庵野秀明監督 1988)を抜いて、現在奥歯内アニメオールタイムベスト1作品。
このような作品が生み出されたことに感謝。そしてそれを私が見られたことにも。
何日も泊り込みで学園祭準備のどたばたが続く友引高校。その内彼らはどうやら自分たちが延々と「学園祭前日」という日を繰り返しているらしいということに気がつく。いち早く核心に迫った錯乱坊と温泉マークは姿を消す。今夜は高校に泊り込まず帰宅しようと試みるも、友引町から出ることは出来ずまた高校前に戻ってきてしまう。面堂の自家用飛行機で空からの脱出を図った一行が見たのは、宇宙空間に浮かぶ巨大な亀の石像と、その上でやはり巨大な石像と化した錯乱坊と温泉マークが支える友引町だった。
世界にはもはや友引町しか存在しない。それに気がついた彼らに対して開き直るかのように町は変わっていった。人々の姿が消え、廃墟と化す町の中で、なぜか諸星家ともよりのコンビニだけは電気ガス水道が使え、物資や新聞さえが供給されているのだった。
衣食住が保障された「世界の終わり」の中で毎日遊び暮らすラムたち。
しかしその内一人一人消えていくメンバー。どうやら自分たちがいるのは「いつまでもみんなと楽しく一緒にいたい」と願うラムの夢の中だと気がついたあたるは夢からの覚醒を図る。
今年はなんか幸先がいいなー。たくさん面白い物語に出会えるといいなー。
もちろん今覚めていない夢を現実と呼んでいるんだけど、ついつい夢見中だということを忘れてしまう。とてもとても面白い物語が終わって現実にかえるとき、そうだこれも夢だったと思い出すのだった。
そして、そのように世界が/に存在していることは驚異であり、畏怖の念を抱かずにはいられないことだ。私はときに世界がこのように存在していることに対しておそろしささえ感じる。
存在しないかもしれないことに対してではない。存在をやめてしまうかもしれないことに対してでもない。存在している、し続けているというありえない奇跡が今この瞬間にもおこっているということがおそろしいのだ。宗教的というのが一番近いおそろしさ。
驚異と畏怖。
セールも出揃って買い物の日。
アクアガールでスカートを二枚。
コムデギャルソンでコムデギャルソン ホワイト。
これでコムデギャルソンの初期フレグランスは全種揃ってしまった。(別にコムデギャルソンの服は好きではないのに)。
基本的にスパイシー、無機質で硬質で甘辛い香りでそのバリエーションが4つに展開しているのです。瓶はみなフラスクのような平べったい形。あまり「いい香り」ではないかもしれません。くせが強くて奇妙な香りだと思います。でも好き。
コムデギャルソン オーデパルファム
一番基本となる香り。シプレースパイシーという新しいジャンルを作った名香。
削りたてのおがくず、すこし焦げ始めた糖蜜、シナモンやジンジャーを初めとする多種のスパイス、苔。一番愛用しているのがこれ。
コムデギャルソン オーデコロン
一般にコロンやパルファムの違いは賦香率(アルコールに対するエッセンスの濃度)にあるのですが、この香りの場合は香調自体かなりアレンジされています。オレンジ、ライム、マンダリンなどの柑橘系が加えられてさわやかな印象。ただしラストノートはやはりスパイシー。
コムデギャルソン ホワイト
白鈴蘭とホワイトメイローズが加えられていて四種の中で一番やさしい香り。トップがフローラルだったのがラストは明らかにスパイシーなのでびっくりする。淡いピンクの表紙の本のはなぎれが黒いことに気がついたときのように。
コムデギャルソン 2
これだけ路線が違う。墨、お香、アンバー、パチュリなどなど。辛口な香り。コンクリートと硝子と金属で作られた現代建築のような、あるいは石庭のようなイメージ。無音の香り。
香水といえばやはり王道はフローラルノートなのだけど、私は花の香りはあまり好きではありません。花粉症だからというわけでもないけど。
水や大気をイメージさせるさわやかなオゾンノートも物足りない。
香り成分を溶けた硝子のように扱って、薄く広げ細く伸ばし、繊細な部分部分を絡み合わせて作られたような、複雑精妙な香りがよいのです。
あるいは溶けた蝋が幾重にも重なり合い襞をなすように奥行きと質感がある香り。
甘い香りも好きだけど、その場合はやはり花の甘さではなくて、お菓子の甘さ、バニラやシナモン、キャンディのようなおいしそうなグルマン系の香りが好きです。コムデギャルソンではない気分のときはお菓子っぽい香りをつけています。次の二つなど。
ロリータレンピカ(ロリータレンピカ)
リコリス、アニスシード、バニラ、トンカービーン。シナモンがきいたビスケットとキャンディのおいしそうなあまーい香り。これだけだとひたすら子どもっぽくなってしまうところにムスクを加えて大人っぽさを出している。お香もまざっているような。これも愛用。
ベルドゥミニュイ(ニナリッチ)
ビターオレンジとビターチョコ。甘い中に苦味がある濃厚な香り。2000年限定フレグランス。香りが変わってしまうから今年中には使い切りたい。意味は「真夜中の美少女」。夜あそびするときにつけたいですね。
結局、スパイスとお香が入った変な香りが好きなんだ。だからいつもおなじようなのを買ってしまうんだ……。
オンライン古書店で購入した中野栄三『珍具入門 珍具考』(雄山閣出版 昭和44年)が届いていた。
うれしさのあまりコートも脱がずに(!)書籍小包を開ける。
「貞操帯及び処女帯」という章があるのを知って注文したのだけれど、中身はどうかなとどきどきする。目次を見ると、なんとその章は9ページも(!?)ある。慌てて当該頁を開くと……。
……まあ、どうせわかってるのですよ。貞操帯についてなんていつでも同じことしか書いてないって。
しかも、貞操帯と書いてあっても、大体実際に取り上げているのは身体に絵を描くとかいった貞操を守るための風習についてだし。図版はいつも使い回しだし。
それでもついつい貞操帯という字を見ると「奇譚クラブ」とか「風俗奇譚」とか買っちゃって、見てみると1ページくらいの下らぬ艶笑譚でがっかりするのですよ。
もう思いきって風俗資料館(性文献を集めた会員制図書館)の会員になろうかな。入会金も利用料も高いからもう何年も見送っているのですが。
日夏耿之介訳のサロメ(講談社文芸文庫)を読む。日夏耿之介の文体がこんなに好きなのに、後半ほとんど暗記するほど読んでなじんでいる福田恆存訳(岩波文庫)の方がしっくりくる。しかたがない。数多の恋心、それも片想いのものだけを込めて読んだ文章の方が身に迫るのは当たり前なのです。
(純粋に恋の醍醐味が味わえるのは片想いで、他の楽しみが増えるのが両想い)。
恋い焦がれる人にくちづけをしてその罪で殺されるなんてそんな幸せはまたとない。
人間が、いやむしろ私が、幸せの絶頂で死んでしまうくらい弱いいきものだったらよかったのに。
鴨居羊子『私は驢馬に乗って下着をうりにゆきたい』(日本図書センター 1998)を読んで思わず休憩時間に下着屋に走る。
蜻蛉の羽のように薄く華奢な下着たちよ私を守って。
(なにからって、それは例えば見通しの立たない山積みの仕事にへこたれそうになることからとか)。
鴨井羊子(1925-1991) 下着ブームの火つけ役を果たした下着デザイナー。新聞記者を数年務めたあと、「なにかを創造する立場になりたい」と、当時女性の衣服の中でもっとも遅れている下着の改良を目指した。下着を通じての女性解放運動としての評価も高い。
(同書著者紹介より。)
私の体はそのころから体験的にいろんな下着、ネマキを求めて動き出し、同時に一枚ごとに母の反感を買い、喜びとケンカが交錯してすすんでいった。(中略)
もともと私は物質には全く執着がなかったから、何も下着とかネマキへの執着でケンカをしたわけではない。死んでもそれをもちたいためのケンカではない。それを一日着て捨て去るためのケンカである。タンスに青春をしまわないで、今日青春を謳歌し、明日それを捨て去るためにケンカした。(同書)
下着は白色にかぎる──ときめこんだり、ひと目につかぬようにと思ったり、チャームな下着は背徳的だと考えたり、とかく清教徒的な見方が今までの下着を支配してきたようです。こうした考え方に抵抗しながら、情緒的で機能的なデザイン、合理的カッティング──などをテーマに制作してみました。(同書)
抵抗の旗印として、よろこびのみなもととして、身体に咲いた花のような下着を作った鴨井羊子。
ヴィヴィアン・ウェストウッド(Vivienne WESTWOOD 1941-)以前に日本にこんな人がいたなんて。
しかもヴィヴィアンの服は着心地が悪い(あたりまえだ、コルセットをベースにした服が着心地がいいはずがない。そしてあの服で大切なのは着心地ではない)けれど、鴨井羊子は「毎日毎日働くこの体、この脚は毎日機能的で心地よく、そして美しくたのしくないといけない」という考えに基づいて下着をデザインしたのです。
彼女の情熱と思想、機知と戦略に溢れたこの自伝はまだ読みかけ。続きが楽しみです。
にわかにシオランを読みたくなって地元の芳林堂に買いにいく。
私は生きていることに絶望などしない。なぜなら希望を持っていないから。
それは生を悪いものとして低く評価しているということではなくて、評価をしていないということである。
生を呪うのは裏切られた者だけで、そして裏切られるのは信じていた者だけなのだ。
生自体には根拠も目的もないということを自明のものとした上で、「あー! ○○ほしい!」「××したい!」という小さな(長いスパンのものも、短いスパンのものもある)欲望に引っ張られて私は日々をすごしている。
(それらは「○○を手に入れるまでは生きていよう」「××するまでは生きていよう」ということと同義だ)。
徹底的な絶望から生まれたものは、余計な夢や望みを脱ぎすてているから遠くまでいける。
そして純粋な絶望を書いたものは少ない。
絶望はすぐに自己憐憫と結びつき、自己憐憫という甘美な夢は思考を鈍らせてしまう。
シオランの文章だって大部分はそうだ。それが鼻についてもう何年もシオランを読もうとは思わなかったのだけど。
さてそれではなぜ今シオランを読みたくなったかというと、おそらく体調が悪いからなのです。
人間はまず第一にケミカルな機械なのであって、思考の独立性など願望でしかありません。身体の調子によって簡単にバイアスがかかってしまいます。
落ち込んだらまずするべきことはお風呂に入って暖まったり、ロイヤルミルクティを飲んでなごみつつカルシウムを補給することなのです。考え事をするくらい無益なことはありません。気持ちに基礎体力がないと楽な方に楽な方に流れてしまうからです。(もちろん悲嘆にくれたりくよくよ悩んだりするのは楽な方です)。
シオランなど読んでいるひまがあったら、風邪薬を飲んで寝るべきです。
ところで装丁が一番ひどい『生誕の災厄』(紀伊国屋書店)が一番中身が鋭いのではないかと思います。
赤坂に、シングルモルト専門店にして文壇バーのような性格を持つショットバーがあります。
そのお店ですぺらのHPを作りました。見てね。
(一人で飲んでいる乙女(?)がですぺらにいたらそれは高確率で私です。)
「(前略)それじゃ始めるよ……月」
「月の光り」
「爪」
「爪で掻く金属の皮膚」
「剣、剣の上」
「剣の上に乗る裸足の脚の先」
(中略)
「裸足の人形の土で出来た十二匹の鼠」
「青く塗られた人形の前にひざまづき歌う十二人の水兵」
「水兵の青く塗られた唇に挟まれた薄荷煙草の……」
「煙草の先の炎に眼をつけ世界を見る柔らかな少年……」
「少年の海は疲れた魚の群に頭をつけて……」
(中略)
「頭から剥がれ落ちた魚の群に身を投げる女王の……」
「女王のトランプをくすねた歪んだ頭のイギリス人の尻を蹴飛ばし……」
「走るイギリス人の脚に」
「走るイギリス人の脚にもたれた眼のない兎の」
「眼のない兎の走る脚に」
「眼のない兎の走る脚に」
二人は同時に唱和し始めた。
「帰らないことを前提とした故郷に棲む兎の、眼のない兎の、月、剣、爪。シーラカンス、ブーゲンビリア」
(牧野修『MOUSE』ハヤカワ文庫)
常にドラッグを体内に摂取し続けている17歳以下の子供たち(マウス)が住む、廃棄された埋め立て地、「ネバーランド」。
全員が常にそれぞれの幻覚を見続け、「客観的現実」がないそこでの攻撃とは、言葉によって相手の見ている幻覚(=現実=世界)を変化させ屈服させることである。
そしてそこではまた、誰かと同じものを見るにはお互いの主観を重複させなければならない。引用したのはそのために自動筆記のように連想を重ね、意識を同調させていく儀式。あまりに美しいので丸ごと書いてしまいました。
世界は言葉でできているということを、「ひとつのリアリティ」を持って描いた優れて詩的な作品ではないでしょうか。
実際に、世界を認識する枠組みは世界の中から変えていくことが出来る(そして無論「世界の外」は語義矛盾だ)。何を読み、何を見、何を認識し何を考え何を感じたかがさらなる世界像を作るのだから。
この世界の読み手にして創造者にして登場人物である私には、作りたい世界像に向けて世界の中から読みとるものを取捨選択することができる。
詩が読みたい、SFが読みたい。
ということは『井辻朱美歌集』を読めばいいのかな?
私のパソコンのデスクトップは今のところベルニーニの「聖テレジアの法悦」です。
聖女とはつまり恋する乙女にしてマゾヒストの謂いなのです。
去年の7月22日の日記に、岡崎京子『pink』(マガジンハウス)から私は下記の台詞を引用した。
「シアワセ こんなシアワセでいいのかしら?」
「不安?」
「ううん全然 シアワセなんて当然じゃない? お母さんが良く言ってたわ シアワセじゃなきゃ死んだ方がましだって」
これには続きがある。
「お母さんは?」
「……そのとおりに死んだわ」
そしてユミちゃんは首つりでぐちゃぐちゃになったお母さんはちょうどこのレアステーキみたいだったと言いながらおいしいおいしいと食べるのでした。
吉屋信子『源氏物語』(上・中・下 国書刊行会)が、期待していたほど乙女心を満たしてくれなかったので、少女の生活を描いているお話がよみたくて仕方がない。
特に寄宿舎ものがいいな。ブライトン『おちゃめなふたご』とか、川端康成『乙女の港』とか、それこそ吉屋信子『花物語』とか……。
変態文献でもさらっとチェックしようと、お昼休みに某古書店へ行く。
するとそこには中村長次郎『廓讀本 竹之巻』(東京興信新報社 昭和11年)という和綴じの本が。
花柳小説や遊郭を描いたノンフィクションは沢山ありますが、これは娼妓のためのハンドブックです。
発禁本です。でも変なことはなにも書いてないと思うんだけどなー。
保健衛生や遊芸技能、日常行事、遊客の待遇などについて心がけるべきことを平易に実用的に書いた本です。
廃業した時に廓に出すお礼状の文例まで載っています。(このへん甘い夢を見させてますね)。
乙女+寄宿舎(?)+性+取説(取説とかガイドブックとか攻略本大好き)!
買いました。ほくほく。
あと、「秘蔵版風俗草紙」なんかも買った。ほくほく。
自分が拵え息を吹き込んだ偶像の前に跪き、存在しないということを知っている神に向けて、届くことのない祈りを捧げること。
信仰とは、神に向かって自分の全存在を捧げること。
自我を手放しその御手にこの身を捧げること。
自分の存在を神によって支えてもらうこと。
私は神を信じていない。キリスト教の神に代表される、意思を持つ神を信じていない。
(これが例えばスピノザの神(*1)なら納得するが、それは信仰ではない。)
神が存在するならそれは信仰されるようなものではないだろう。
信仰されなければならない神を私は信じない。
その私が、架空の神を拵えて、その前に跪かずにはいられないということ。それは弱さのあらわれなのでしょうか? それとも敬虔さ?
しかし、何に対する?
私はいわばソフィア(*2)にして、祭司、信仰者、そして供物。
私の悲鳴も、私の願いも、私の意思も、私の涙も、私の叫びも、何一つ意味など持たないと知るとき。
この苦痛が悲嘆がいかばかりであろうとも、それは神を微塵も動かしはしないと知るとき。
私には何の選択も出来ず、すべては決められた通り私はそれを受諾するしかないと知るとき。
この躰からあふれ流れるもの、それは例えば涙ではなくて、私の意思、私。
もっと溶けて流れてゆけ。私がなくなるまで。
私に意思はない。私の意思は認められていない。私に選択の余地はない。
私に自由はない。私は世界に介入できず、私は世界を変えられない。
これほどの自由が他にあろうか。
私はただひたすらそう在らしめられているところのものとして存在する。
世界は神の望むがままに。世界はあるがままで完全であり、それは赦されている。
アーメン。
唇を塞がれたまま祈る私の声などどこにも届きはしないことを私は知っているけれど。
*1 スピノザは意思も人格もない「存在」を「神」と呼んでいる。
*2 グノーシス(神話?・思想?)。ソフィアが作った、無知にして不完全な神がデミウルゴス(ヤルダバオト)。そのデミウルゴスが世界を作った。デミウルゴスは自らの出生の由来を知らないので、自分が最高神だと思っている。グノーシスではキリスト教の神はデミウルゴスだとする。
遠くを見ている歌が読みたいのです。
(遠くを見ているポーズを惰性で取って詠んだ歌ではなく、センチメンタリズムに流された歌でもなく)。
ただ一度だけ垣間みてしまった何かを詠んだ歌。
一筋の光によってラピュタのありかを指し示す小さな飛行石のように、読み手の手のひらの中から遙か遠いここではないどこかを指し示してくれる歌。
31文字で精緻に組み立てられた小さな鍵。おそらくその示す先は楽園ではないのです。身を切るような異質さに震えながら、表面温度を下げた私の皮膚が金属の光を宿すようなそんな歌。
そして、そんなどこかを感じ取った後で振り返ったとき、この世界もまた漂わせているはずの異境の気配をうたう歌。一度限りの世界に滞在している居心地の悪さと幸福感。不安、おそろしさ。美しさ。
頭の中や携帯のモニターの中に、肌身離さず持って歩けるような小さな言葉のひとまとまりを探しています。
古川日出男『アラビアの夜の種族』読みかけ。
私もその目も綾に織りなされた夢幻的な物語の虜になっていた。
でも、地下迷宮に、(自称)勇者達が集まり始めるあたりで、いきなり覚えるなじみ深さ。
RPGをやりこんだ人ならきっとわかる、あの懐かしさ。
でも、『アラビアの夜の種族』はゲーム小説では決してない。
粗製濫造いんちきファンタジー風ライトノベルでも決してない。
その見事な文体ゆえに。
文体と内容。
(この場合の文体とは、単に文章の癖ということではなくて、物語の形式や、作者がどのように事物を入力し出力するかを含む広い意味。)
同じ素材・内容をどのように扱うか。
同じ世界(?)にいて、同じ事物(?)にふれて、それをどのように見てどのように表現するか。
魅力を持つのは文体であって、内容ではない。
(私は、アニー・ディラードの主なテーマである自然や動物にほとんど興味がなく、彼女の入出力の鮮やかさと特別さをこそ愛する。『ティンカー・クリークのほとりで』は、串田孫一『山のパンセ』やソロー『森の生活』の隣に並べる本ではなく、シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』の隣に並べるべき本だと思う。)
ある文体を私が代わりに書くことはできない。
でも、書き手がその文体に適した内容に出会えるとは限らない。
私にできるのは、私がすべきことは、その文体に適した、その文体の魅力を引き出す内容を見つけること。
レズビアン文学を読んでいるのはレズビアンではない。変な小説(幻想文学など)の読者が好んで読んでいるのじゃないか。
という意味のことをですぺらでお会いする仏文学者Sさんはおっしゃいました。確かに、レズビアン文学を好んで読む私はレズビアンではない(きっぱりしているわりに曖昧な表現)。
ゲイ(ここでは男性同性愛者の意で使います)文学は、ゲイの書き手によって、ゲイの読み手を想定して書かれている。当事者の、現実の、力を持つ文学。
しかしレズビアン文学はレズビアンではない書き手(男性であることも多い)によって、レズビアンではない読者を想定して書かれているのだ。ここでのレズビアニズムはファンタジーの一部門でしかない。そこで書かれる女性は客体でありおもちゃでしかない。
書かれ読まれることで性のありかたを主体的に確認していくゲイ文学と、書かれ読まれることで性のありかたがますます客体化されていくレズビアン文学。
このようなレズビアン文学に似ているものがある。「ボーイズラブ」だ。
ボーイズラブは女性によって女性のために書かれた男性同性愛ものだ。
読み手も書き手も当事者でないため、そこで書かれる同性愛は多分に非現実的である。そこで書かれる男性は単にファンタジーを体現したものであって、萌えるシチュエーションをつくり出すための人工物に過ぎない。
男性同性愛を描いた小説には二種類ある。
ゲイ小説とボーイズラブだ。
女性同性愛を描いた小説には一種類しかない。
レズビアン文学ではなく、「ガールズラブ」だ。
乱暴にくくるとそう言えてしまうのではないだろうか。
レズビアン文学がないわけではない。ただそれはあまりに少なく力を持たない。