ドゥルーズ買いに行ったのになぜかシャネルのアンフラルージュ08を買ってしまった。
ボルドーともブラウンともつかない深い赤です。
赤口紅を買わないと冬はこないのです。
ドゥルーズは?
ヴィヴィアンのセールの開場を待つ間、十年ちょいぶりにマルキ・ド・サド『ジュリエット物語あるいは悪徳の栄え』を読む。
冒頭ではジュリエットは13歳、私がはじめてこの本を読んだ時はジュリエットより年下だった。
それを考えるとよくもこんなに健全に育ったものだ。
それとも、二度と帰らぬ少女時代を無駄に過ごしてしまったのだろうか。
アユーラの新しい香水スピリット・オブ・アユーラのサンプルをもらった。
「ああなんてなごめるいい香り、この香りのお風呂に入って、この香りのするシーツにくるまって眠りたい」と半日くらい絶賛していたけど、よくよく考えてみると、バスクリンの香りにも似ている。
単にお風呂っぽい香りだからお風呂を思い出しなごんでしまったのだろうか。
ちなみに
カモミール、ローズマリー、クラリセージといった西洋のアロマティックハーブに、東洋で古くから息づいてきたスピリチュアルな香りをブレンド。凛とした透明感ただよう「墨」、ほのかな苦味がやすらぎのひとときを与える「茶」、スパイシーな芳しさを奏でる「匂い撫子」の香りを織りこみました。
ということです。
コンセプトはコムデギャルソンのフレグランス系でいいんだけど。アユーラとオリジンズはもっと値段を高くしてもいいから良質の香料を使ってほしい。特にオリジンズは安いガムとかキャンディみたいな合成香料くさい香りをつけるのはやめてほしい。
最初は「いい香り」と思って買って、「でも安っぽい」と気がつくと、がっかりする。
ドウォーキン『ポルノグラフィ 女を所有する男たち』を読んでいたら、友成純一の初期作品(スプラッタ・バイオレンス・ポルノ)を読みたくなった。(昨日サドを読んだのもこの本のため)。
書店に友成純一『陵辱の魔界』と『獣儀式』を買いに行ったら「あかまつ」の最新号が出ていて、その特集が「戦後 セクシー雑誌大全」だったので即買う。(そして次号は奇譚クラブ特集らしいのでこれも当然即買う)。
さらに歓喜しながら『『論考』『青色本』読解』(ウィトゲンシュタイン/黒崎宏訳・解説)を買う。
それからデルヴォーの画集と美術情報誌を買って帰りました。
ポルノ小説とポルノ映画では、女は、そのような物になるよう教え込まれるのが筋書である。即ち、女は強姦され、殴られ、縛られ、使用されるが、最後に女はそれこそが自分自身の本性と目的なのだと認識し、それに従う――それも幸福に、貪欲に、もっとしてくれとせがんで従う――という筋書である。その中で女は、自分は使用されるための物だということだけを認識するまで、使用され続ける。
(アンドレア・ドウォーキン『ポルノグラフィ 女を所有する男たち』寺沢みづほ訳 青土社)
ドウォーキンによれば、性において主体的であろうとする女性は、自分が奴隷ではなく完全に自由であると錯覚するまでに徹底的な奴隷状態におかれているわけだ。ヤプーの幸福。
それは、強姦されている女性がどうしようもない悪意と暴力にさらされながら、それでも「楽しもうとする」かのような絶望的な努力なのだと彼女は言う。
選択の余地も与えられず強いられた暴力に対して出来ることは、自分が楽しんでいると思い込むか、それとも自分は人間ではなく使用されるための物体であるという事実を受け入れるかのどちらかなのである。
彼女の言説の持つリアリティと、しかしそれに感じる疑問。そしてその疑問は私自身に向けられる。
私はどこまで刷り込まれているのか。
私はどこまで自分をこのように育てたのか。
とある写真展に行く。一枚だけ(写真家の腕のためではなくて、明らかに偶然に)とてもいい。
自分の能力を超えた何かが降りてきてしまうことはあるけれど、そんな奇跡が形をもって展示されているところはそんなに見られない。
幼稚園から小学校低学年くらいまで、私はある使命感を持っていた。
地球の風景を見なければいけない。
漠然と、私が見た映像は写真のように切り取られ送り出されていつまでも取っておかれるとかそんな設定を持っていた。
異星人か神様かわからないけど、何かが、(ひょっとしたら地球がなくなってから)その風景を見て、地球はどんなところで、地球人は何を見たのかを知るのだ。
そのために風景を切り取る人が地球のあちこちにいるのだと想像していた。
ごくありふれた所で日々を送っていたけど、だからといって私の見るものの重要度が減るわけではないのだ。私にとってありふれた風景でも、異星人(?)にとっては非常に珍しくなじみのない光景に違いないのだから。
私は空を横切る電線を見た。冬の朝ペンキの剥げかけたジャングルジムが立っているのを、その下の砂の中で石英の粒が光るのを見た。
西日を浴びながら帰る自分の長い髪が金色に縁取られているのを見た。奇形魚が棲んでいるという噂の沼に投げ込んだ石が引き起こす波紋を見た。
私は真面目に役目を果たしていた。質感も温度も力場も持ったままの鮮明な映像を私は見、それを切り取った。
いつのまにか私は使命を忘れてしまった。
(他のたくさんのことを忘れたように。橋を右足で渡りきらなくても平気になったのはいつからだろう)。
あの頃のように「見る」ことは今ではまれである。
ただ、絵画や写真を見るとき、私は今もまだ地球で見えるものを切り取っている人がいることを知らされる。そして私もまた少しのサンプルを切り取り新たに送り出すのだ。
「これが地球人が見たものです。」
有休とって9時から銀座プランタン前で並ぶ。
現代創作人形展初日。焦がれてならない人形を迎えることができないかと朝から行きましたが、抽選でした。
抽選は外れました。
すぐ眼の前に座っているのに。さらって逃げたかった。
30人ほどの人形作家さんの作品が展示されていた。
みんな人形。ひとのかたちは共通している。
単に人の形をした粘土があり、その隣にこちらを射抜く存在感を持つ何かが座っている。
存在感、魂。自分が作り上げた塊にそれらを込めることができる人もいる。
渋谷の美蕾樹で行われているこやまけんいち個展「illegirl」に行く。
ロットリングの固い線は神経のように細い。
細い線で描かれた少女達の細い身体に浮かぶ赤い傷は細く、そこからは細い線を描いて血が滴る。
一見かわいらしい少女達は、しかし決してたやすく他人に入り込まれはしないだろう。
彼女達の神経は研ぎ澄まされている。彼女達の身体には見えない防壁がはられている。
彼女達は毅然として、あるいは楽しげに鋏を握るが、それは彼女自身のため、あるいは彼女の仲良しのお友達のためだ。
少女達が楽しい秘密のお遊戯をする部屋にこっそりと彼は招かれる。
(おそらく、彼の小さな女友達の一人が呼んでくれたので)。
そして彼はペンをとる。白い紙に切り傷をつけるように、固く細い線を引く。
人工的に身体の線を作りあげるような衣服はやめたほうがいいんじゃない?とか、すっぴんのほうがいいよ!とか、ある男性に言われた。
彼の真意は別として、そういった女性に対するナチュラル志向というのは、支配欲からくるものなのだろう。
彼らが欲しいのは自分好みに作り上げるための素材としての女性であって、自分の身体(容姿)を自分自身でコントロールしている者ではないのだ、おそらく。
ロリータファッションは、自分はあなたのための素材ではなく、自分自身のための素材なのだという意思の表明のように私には思われる。自分で自分を着せ替えできる人形には、御主人様なんて必要ないのだから。
「○○(女性アイドル)のような彼女がほしい」と、異性に対するアピールが今ひとつ不足しているように思われる男性が本気で言うのを聞いておどろくことがままある。
そんな「女のコ」(アイドルグラビア的表現)と付き合いたい人は何千人、何万人といる。選択権は完全に彼女にあるのだ。自分が、彼女によって何千人、何万人の中から選ばれるに足るだけの男性かどうかを、どうして考えてみないのだろう。
彼らはどうも自分は常に一方的に「見る者」であると無邪気に信じ込んでいるようだ。自分もまたコミュニケーションの場においては「見られる物」であり、見た目で判断されるのだという意識が欠けているように思われる。
あなたは、モニター越しに、なんの痛みもなく、気楽に、「女のコ」たちを顔と肉体で審判する。
それもいいだろう、彼女たちは容姿(見た目)を売るのが仕事だから。あなたは観客だから。
しかし、あなたがその選別者の視線を隣にいる私に向けようとするのなら、あなたは知らなければならない。
私は、一方的に見られているだけのものではないということ、そして私はあなたを見、あなたもまた私によって裁かれるということを。
あなたにはその覚悟があるのですか。
あなたはそれほど美しいのですか。
自由が丘武蔵野館へ石井輝男監督のあの名作傑作怪作「江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間」をついに見に行く。
……。
こんなにおもしろい映画を見たのは生まれて初めてかもしれない。
5分に一度は期待を裏切られ、信じられない展開なり演出に驚愕し思考停止を余儀なくさせられる。
しかもその間も何事もなかったかのようにドラマは続くし。
観客は100人くらいはいて、みんな笑ってました。実に一体感のある客席だった。
「パノラマ島奇譚」と「孤島の鬼」がベースで、それに「人間椅子」と「屋根裏の散歩者」が加わるという内容で、土方巽扮する裏日本の大金持ちの大旦那様が暗黒舞踏を踊り続けることで全体のトーンを統一している……というか。
石井輝男のとんでもなさが最大風速に達した作品であると言えるでしょう。
手術室に並んで立っている、内蔵が見えるように胸部を開いてある少女たちが、トレヴァー・ブラウンちっくというか、氏賀Y太ちっくでかわいらしくてよかったです。
中学生の頃好きだった香水、ロメオ ディ ロメオジリの香りが無性にほしくなって新宿高島屋のロメオジリに行く。
……だがしかし、廃盤。
最近にわかに愛用しているグロスがそろそろなくなりかけてきたので、同高島屋のクリニークに行く。
……だがしかし、廃盤。
4年くらい前に買ったけどお蔵入りしていた、グロスウェアアンドブラッシュ17 ブラックハニーという色です。
クリニークのグロスは、色は結構つくけどつやと透明感があまりありません。グロス全盛期には旬の質感じゃないなーと思ってしまっておいたのだけれど、昨今の口紅回帰の中では中々使えると復活。
グロス自体は「く、黒!?」と引いてしまうほどどす黒い赤。つけてみると血色。
血色の口紅(グロス)が好きなので同じような色ばかりたくさん持っています。
血色といっても、パープルがかった血色と、ブラウンがかった血色があって、私の場合は前者だと顔色が青白く(悪く)、後者だと色白に(澄んで)見えます。
(ということはやはりイエローベースなのだろうか)。
やっぱりグロスだと透明感があるからこういう深い色は出しにくい中、一人で健闘していたのがブラックハニーだったのに……。
ピエヌで昔出していたルージュアマリスト91も深い色みのグロスだったけど、あれは限定だったし。
シャネルでたしか似た色のグロスを出していたから、次はあれを使うしかないか。(買い置きしておいたほうがいいかな)。
カウンターでがっかりしていたら、BAさんが探してくれて一つだけ残っていたものを出してくれました。
あわてて都内クリニークカウンター数ヶ所に電話して聞いてみたけど、どこもないようです。
一つ半でいつまでもつだろうか。
ギャラリールデコで行われている、山吉由利子の人形展に行った。
彼女は決して私を見ることがない。うつむいて、ただ座っている。
その前で私は身じろぎもせず、ただ彼女を見る。私の視線が彼女のかたちをなぞって滑る。
視線はむなしく滑り落ちるだけで、彼女にはなんの跡も残さないし、彼女が私を見て視線を受け入れることはない。
彼女はもう完成されている。何者も受け入れない、何者にも所有されない。
例えば私がなにがしかのお金と引き換えに彼女を家に連れ帰ることはできるかもしれない。彼女の髪を梳かし、身体に指をはわせることはできるかもしれない。しかし、そんなことで彼女を所有することなどできるだろうか。
私は、彼女を変えることはできない。彼女の中に何かを残すことができない。彼女と私は決して交じり合わず、相互作用することはない。
絶対に私と浸透しあうことがない他者である彼女を、私が所有する、そんなことができるだろうか。
私は腐っていく。私は朽ちつつある。
彼女は変わらない。彼女は誰も見ない。
12歳の私の前に天野可淡の少女人形が立っていた。
おなじかたちをしていた私は、まるで鏡に写った像のようにその前に立ち尽くしていた。
動けなかった。あの時、あの子と私は交換可能だった。
あのまま動かなかったら、私はガラスケースに入れられていたはずだ。
でも、私は動いてしまった。変わってしまった。成長してしまった。
あなたは決して私を見ない。私に気がつかない。
もう、間にあわないのでしょうか。
2001年11月29日(木)
昨日行った山吉由利子人形展「夢の記憶」の余震が続いている。
山吉由利子の人形は写真では見ていたのだけれど、それほど惹かれてはいなかった。
それらの写真は演出過剰に思えた。人形が、イメージを伝えるための材料にすぎないように見えた。
しかし、昨日じかに見た人形はおそろしい存在感を持っていた。
世界観を表現するための部品としての人形ではなく、存在感によって自分を取り囲む世界の質を変化させてしまう人形がそこにはあった。
勿論、空間演出自体、大変優れたものだったことは確かだ。(空間演出・オブジェ:菊地拓史)。
でも、その演出の基盤になっているのはやはりあの人形の持つ存在感なのだ。
一般的に、造形的な完成度の高さ・綺麗さと、このような存在感とはあまり関係がない。
感歎するほどの造形美と、慄然とするような存在感。どちらも人形の持つ魅力だ。前者は人形ならではの、後者は人形を超えた。
恋愛・結婚・家庭・育児そしてそれらを包み込む生活に関して、岡田斗司夫の『フロン』(海拓社)ほど示唆に富みまた実践的な本があるでしょうか!
もうこれから私は澁澤龍彦『快楽主義の哲学』(理念)に加え、『フロン』(実践)を手引きとして生きていきます!
(それでいいのか?)
来春婚約するらしい妹を手はじめに私はこの本を人に貸しまくるつもりです。
ちなみに今妹は出だしの方を読みながら感心して「絶対に彼氏に読ませなくちゃ!」と言っています。
それにしても、『フロン』は、「生きるのがラクになる本」系の顔をしているけど、読者に対する要求は実はすごくシビアです。
この本で(当然のように)前提されているのは、「独りで生きていけること」なのですから。