二階堂奥歯 八本脚の蝶
←前の月へ 次の月へ→

2001年10月2日(火)

会社の先輩が貸してくれた北村薫『夜の蝉』(東京創元社)を読んでいて、ある部分でぐっと詰まった。

主人公の本好きな大学生(日文)の女の子は、短編を読んで魅かれていたソログープの長編『小悪魔』を、友達の先輩(面識はそれまでない)に借りる。読んでいて何の気なしにカバーをはずしたら表紙には!

 <<無気力と憂鬱、グロテスクとエロチシズム>>と書いてあった。
 私は瞬間、かっと全身が燃え、続いて血の気が引いた。
 信じられない罠に落ちた女狐になったような気がした。
 麗々しくそう謳ってある本を、男の人に声までかけて何がなんでも借りたことを、その瞬間私はたまらなく羞ずかしく感じたのだ。

ガーン!
いつも(?)そういう本ばかり読んでいる、むしろそういう本を友達に(本友達は男性ばかりだ)貸している、むしろそういう本の作り手でありたい、私の立場は!?

この主人公は国書の本読まないのね。きっと。読んでも叢書江戸文庫くらいだ。決してフランス世紀末叢書なんか読まないに違いない。

でもねでもね、身持ちの堅くてしっかりした真面目なお嬢さんとして近所に通ってそうな、小市民的な道徳と幸せを決して疑おうとしないこの主人公のかたくなさでは、物語のおもしろさを理解できないことも多いのではなかろうか。

グロテスクとエロチシズム取ったら私なんてさ……。
(やさぐれ気味)。
勿論私もとても真面目なのだけど、彼女の真面目さとは違う真面目さなのだった。

2001年10月7日(日)

夜中の一時にパジャマの上にダウンジャケット着て公園で花火。

2001年10月10日(火)

異世界のおそろしさ。
異なる論理のしらじらとした肌触り。

しかし、侵入してきた「他者」は、侵入している以上、何者かとして理解されている。
それは「他者」の残骸、かつて「他者」であったものにすぎない。

世界は拡大・変質するだけで、壊れることも同一性を失うこともない。
すべてを飲み込む世界に、境界は存在しない。

それでもなぜか感知される異なる論理の気配。
「他者」のなれの果ては、「どこか」からやってきたはずだ。

「どこか」に通じている、それと認識することはついぞ出来ないであろう「裂け目」を探し続けること。
それが目的ならば、描写は不要である。
なぜなら、描写によってたちあらわれる異界は、この世界の内部に過ぎないから。

世界の外部を志向することと、異界を求めることとは一見似ているが、実はまったく異なっている。(「異世界」という言葉の中の「世界」は、他の「現実」のことであり、「世界の外部」というときの「世界」は存在全体のことだから。)
私は前者を「哲学」と、後者の表われを「幻想文学」と呼ぼう。
(そして、それらは勿論両立しうる。)

2001年10月11日(木)

自由が丘武蔵野館に石井輝男監督「徳川いれずみ師 責め地獄」を見に行く。
ですぺらでよくお会いするIさんに貞操帯が出てくるし大変におもしろい映画だと教えていただいて、楽しみにしていたのだった。

……。
なんて無意味に残酷で無邪気で馬鹿馬鹿しくて愉快な映画でしょうか。
素敵すぎます。
彫物をされた女達を売り物にした娼館を舞台に、二人の彫り師が腕を競うなどとあらすじをまとめてみても無意味だ。
思わず失笑するような無残絵の連続。

この映画を皮切りに、週替わりで石井輝男連続レイトショーが行われるということです。
私は少なくとも、安部定本人が映っている(出演しているわけではない)という「明治・大正・昭和 猟奇女犯罪史」と「江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間」は見に行きます。

今はなき池袋名画座で石井輝男オールナイトをやっていた時、私は優しい親心によって同地の女子学生会館に閉じ込められて、シャッターの閉まった玄関を恨めしく見つめていたのでした。
一人暮らしする娘を女子学生会館に閉じ込めちゃ、東京に出した意味ないじゃん!

女子学生会館:門限22時30分。電話は交換台(というか受付)を通して23時まで。設備良好。部屋狭し。家賃高。オートロック、番人つき。在室を示す名札あり。そして、男子禁制!

その年の12月にはもう引っ越した。

2001年10月19日(金)

ほしいもの。
佐藤美穂の人形
チョコレート色のフレアスカート
ヴィヴィアン・ウェストウッドのコルセット

いまいちこの冬のファッションを掴みきれず、いまだ燃え上がれないまま惰性で服を着る私。
いかんです。

2001年10月20日(土)

遺書にして艶文、王位継承その他無し
(加藤郁乎『えくとぷらすま』中村書店 昭和37年)

これは加藤郁乎さんの句で私が一番好きな句です。
『後方見聞録』(学研M文庫)の見返しに、郁乎さんにこの句を書いていただきました。

座右の銘にする。

2001年10月24日(水)

自由が丘武蔵野館で石井輝男監督「明治・大正・昭和 猟奇女犯罪史」を見た。

斬首人(?)役の土方巽が嘘くさい雪の降りしきる中で立っていた。
32年前にフィルムに映されすでにもういない人の放った気迫が今私に届き、私は身が竦んで動けなくなった。

あの人になら切られてもかまわない。
なにもかもどうでもいい。今日帰り道で死んでも別にいい。

でも、無事についたけどね。

2001年10月25日(木)

昨日見た石井輝男監督「明治・大正・昭和 猟奇女犯罪史」が意外にもあとをひいている。

愛欲がらみの犯罪を立て続けに見せられると、恋愛という、一つ一つが特別で一回限りと思われるものが、実は誰にでもどこにでもいつでもあるごくごく陳腐なものだと思い知らされる。

それでもいいのだ。
うたかたの夢に狂ってほろびることになんの悔いがあるだろう。
問題は、人はそう簡単にほろびるものではないということなのだ。

映画では、もうおばあさんになった安部定がインタビューを受けていた。
定さんは、あれほどの恋の後、老いるまで生きたのだ。
酔うことも狂うこともない、素面の日常を毎日毎日何十年も積み重ねたのだ。

おそろしいのは恋のはかなさなどではない。
人生なんてたちの悪い冗談だ言えるほど私は達観できず覚悟もできない。少なくとも今はまだ。
日常はこれほど強固で、一分一秒ずつしか刻まれていかないものなのだから。
酔い続けているには人生は長すぎる。

そして、それでも酔い続けているにはこの強固な現実に対峙できる強さが必要なのだ。

ずっと覚醒し続けることができる者、甘い慰めを必要とせず、守らなければいけない「私」を持たない者にしか、全存在を投企することはできない。
「明日が来るのがこわいの」と泣きながらすがりつく夢は、日曜日のようなもの。月曜日はその後必ず来る。そのような夢は日常の中で、日常を送るために癒し手として用意されたものであり、日常の一部分に過ぎない。

目覚めなさい。
現実から目覚め、「私」から目覚めなさい。
もっと深く夢見たいのなら。

2001年10月26日(金)

渋谷のアートスペース美蕾樹に松島智里のオブジェ展Synchronicityを見に行った。

青い光の篭った箱の中で紫水晶はしんと澄んでいる。
狭い世界は充足していた。

その中に入り込んだとしても、鉱物は私に気がつかないだろう。神秘な形をなぞる透明な糸は揺らがないだろう。
静謐さを乱さないまま、私も固く固く結晶してそこでひっそりと小さくなっていたいと思った。

2001年10月28日(日)

マリアンヌ・アルコフォラード『ぽるとがるぶみ』を読みながら涙を流さんばかりに同情しかつ憤激してあばれ(イメージ的にシゲタカヨコ@「ハッピーマニア」)、笑われる。

だめだよマリアンナ。
自分の全生命をかけ常にシャミリイを思い、彼の為に自分を捧げ尽くしても、もう彼の中ではあなたのことなどただの1パーセントも占めてはいない。その1パーセントの中であなたがどれほどのことをしようとも、もはや、あなた自体が彼の中でなんの価値もないのだから。
彼は、あなたのことなど、気にもしない。
あなたの恋文を真面目にとってやっぱりいるとかいらないとかいうのではなくて、彼にとっては単に、もう、終わったことにすぎない。もう自分に関係のない人が何をしようが、関係ないのだ。

適わぬ恋にすべてを捧げ、自分を捨てた人をあたかも神であるかのように崇めまつり、全生活をかけて悲嘆にくれることはしかしあまりに甘美なので、やめれば楽になるとわかっていてもやめられないものですが。

などと心の中でさかんにマリアンナに語りかけ、さらにシャミリイを罵倒してみたりする。でもポルトガルの25歳の尼僧マリアンナが遠征中の30歳の騎士シャミリイと出会うのが1666年、次の年にシャミリイはマリアンナを捨ててフランスに戻り、マリアンナが恋文をつづったわけで、もう330年以上も前の恋する乙女に呼びかけ応援するのは変な感じですね。

でも、マリアンナは83歳まで生きた。
安部定もおばあさんになった。
そして私も日々を生きております。
過ぎればなんとかなるものよ。
そして、最初に戻って恋に身を投じるかそれともやめるかを決断できるとしても、それは勿論もう一度! と力強く言うのです。
いや、一度と言わず何度でも。
これって永劫回帰を肯定してる!? 超人的!? (いや違う)。

恋愛小説と言えばビヨンデッタほど魅力的な女はいないと言われたのでカゾットの『悪魔の恋』をこれから読みます。