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「人間は自由」という信念貫き
日本食を全米に普及した
寿司ブームの仕掛け人


共同貿易社長
金井 紀年 Noritoshi Kanai
金井 紀年 Noritoshi Kanai

 外国貿易への憧れから東京商科大学に入学するも、1943年の学徒動員で第二次世界大戦の激戦地・ビルマに出陣、上官の失踪に人間への不信感を抱く。 戦後の焼け野原でビジネスを始めるが、一生かかっても返せない額の借金を抱える。 しかしその後、自動車部品の流通で借金をすべて返済。 縁あって41歳で渡米、あるユダヤ人との出会いから全米の寿司ブームの仕掛け人となる。 年商1億ドル以上の食品商社を経営し、日本食普及の使命にかける金井氏に、その半生を振り返ってもらった。


一橋大の新自由主義に共感
  私は3男でしたので、子供の頃から自由に育ちました。 大学は外国との貿易をやりたいと思い、1941年に東京商科大学(今の一橋大学)へ入りました。 ところがほどなく戦争になり、学徒出陣で私も将校としてビルマに派遣されることに。 主計の仕事として、金銭出納や、食品・衣類・建築材料・医療品の補給や調達などを行いました。 ビルマの首都・ラングーンを死守せよという命令が上官から下った時は、「これは天皇陛下の命令、絶対だ」と思って覚悟を決めていたのですが、軍司令部に報告に行くと、中はもぬけのから。 上官らはタイに転進、つまり退却してしまったんです。 その後、私たちも転進しましたが、捕虜として1年、鉄道の仕事などを強いられ、終戦した時は負けた悔しさというより、命があることの喜びと人間に対する不信感だけが残りました。
  若かったので悩みました。 本をたくさん読んで、到達したところは「自由であることが人間の幸福である」という、一橋の学長でもあった上田貞次郎先生の言葉。 「自由というのは自分で考えて選択できること」、それを私も実践しようと決意し、自分でビジネスをすることに決めました。
  友人らが企業に就職していく中、私は自分で2、3、ビジネスを立ち上げますが、いずれも失敗。 卒業の数年後には180万円もの借金を負います。 当時、一生かかっても返せない額です。 死のうかとも思いましたが、「自由だなんて言っておいて、返せないとは情けない。 好意で貸してくれたお金だから、何が何でも返そう」と思い直し、三浦半島に沈んだ特攻部隊のモーターボートに目を付け、そのディーゼルエンジンを再生してトラックを作って売るなどして、2年で借金をすべて返しました。

寿司を食べたユダヤ人
  それから、母の知り合いで戦前にアメリカに渡り、サンタマリアでスーパーを成功させた石井さんにお会いしました。 財産は没収されてしまい日本に引き上げてきた彼でしたが、アメリカに帰り食料品のビジネスをまたやりたいと、私と一緒に1951年、共同貿易のエージェント・東京共同貿易をスタートさせました。 ロサンゼルスの共同貿易は1926年に創業した会社ですが、オーナーの星崎さんのリタイアを機に、石井さんがアメリカに渡り同社を買い取りました。 その後、私は日米間を往復していたのですが、10年ほどして石井さんが脳溢血で倒れてしまい、跡を継ぐ人がいなかったので、妻と子供2人を連れて渡米を決めました。 1964年、41歳の時です。
  当時、日本人町にグロサリーストアは4軒、日本食レストランも4、5軒。 売られていたのは、海苔などの乾物、かまぼこなどの缶詰、そして漬物やたる詰めのしょう油くらい。 日本食のマーケットは小さく、将来性などないと言われていました。 しかし、本格的な日本食はもっと美味しいものだ、美味しい日本食ならアメリカ人にも売れる、ならば可能性は無限だと私は考えたのです。 何を持ってくれば売れるか。 最初、万国共通のお菓子ならと思い、東鳩のハーベストクッキーを売り出しました。 クリスピーさがうけて売れましたが、中国や韓国の工場が安い類似品を作り、市場を壊してしまいました。 次にアメリカの家庭用品を日本に売ることを考え、シカゴの展示会に出かけたところ、あるユダヤ人に出会います。 「アメリカで成功するには、いいユダヤ人と友達になることだ」と彼。 物知りな彼をコンサルタントとして雇い、貿易のヒントを求めて一緒にアジアを旅することにしました。
  最後に日本を訪れた時、彼は神田の新之介寿司で寿司を食べ、「寿司は米国にない独創的な食べ物だ。これをやれ」と言う。 私にはない発想でした。でも、ヨーロッパでも生魚は食べるし、これは当たると彼は言うんです。 やってみようと決意しました。

第2次日本食ブームに対応
  まず、日本人町の「川福」に寿司カウンターを作ってもらい、始めたところ白人の客が来るようになりました。 2号店は栄菊、3号店の東京会館では真下さんという人がカリフォルニアロールを発明しました。 センチュリーシティーの白人専門の寿司店「王将」には俳優も集まりました。 そして、ニューヨーク、シカゴと全米へ広がっていきました。 寿司だけでも、米、酢、海苔、魚、酒、食器など、調達する食材や商品はたくさんあります。 私はそのロジスティックを整え、普及を進めていったわけです。
  1980年には映画『将軍』がヒットして日本ブームに。 日本の車や家電も進出し始め、日本に対するイメージが変わってきました。 貿易摩擦やバブル経済、バブル崩壊と時代は移りますが、寿司の人気は高まるばかりです。
  そして現在は、第2次日本食ブーム。 居酒屋スタイルの店が流行り出しました。 第1次ブームの寿司はロサンゼルス発でしたが、今度はニューヨークから。 高級居酒屋MEGUなどは、魚をすべて空輸しています。 そんな要望に応えるため、我が社ではマイナス65度の大型冷凍庫を設置しました。 地酒も100種類以上揃え、酒のソムリエを置くなど本格的な店も登場しています。
  私は40年前に来た時に会社の方針を3つ作りました。 人間は自ら立つのだから社員が自社株を持つ、病気になってはいけないので健保部門を自社で作って社員に入ってもらう、そして定年を作らず社員で利益を分け合う401Kを設けるということです。
  これからの目標は、本物の日本食を供給できるロジスティックを確立し、日本食文化をもっと広めること。 社員が自由で楽しく働ける雰囲気を作っていくこと。 そして、コミュニティーにも貢献していきたい。 これらを実現するために、日々努力していきます。


 
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