2004年 6月 1日(火)

自動車社会

昨日一昨日は夜になっても蒸し暑かったが今日は一変、雨模様で薄ら寒いくらいだった。

今読んでいる「煙が水のように流れるとき」デヴラ・デイヴィス著にこんなことが書いてあった

”1920年代初期、アメリカの自動車産業は行き詰っていた。1921年ゼネラル・モーターズ(GM)は6500万ドルの損失を出した。
その時点で事実上、アメリカ国内の人口2500人以上の全都市に独自の電鉄系統があった。乗り物での移動の10回に9回は、市電を利用したものであり
車を持っているアメリカ人は10人にひとりしかいなかったのだ。国内には1200の市電と都市間鉄道があった。軌道は四万四千マイルに及び、鉄道従業員は三十万人程度、
年間利用者は延べ150億人で、収入は十億ドルだった。1922年アルフレッド・P・スローン・ジュニアはGM内に特別チームを作り、
国内輸送に関して、市電をはじめとして各電鉄のシェアを奪うように命じた。
1974年に元アメリカ上院顧問のブラッドフォード・スネルが上院に提出した報告書は、公共輸送機関をつぶそうとする自動車産業の画策に関するもので
1930年代から何十年にも及ぶ企業コンソーシアムの独占状態が証明されていた。
それにはGM,グッドイヤー、スタンダード石油、フィリップス石油、ファイヤーストン・タイヤ、マック・トラック、その他若干の企業が、
主要都市のほとんどにダミー会社を設立し、せっせと弱小輸送系統を買収して閉鎖しては、鉄道からバスへの転換を図っていた。
これにより、1950年代半ばには、全国1200の鉄道のうち900以上が自動車産業に変わっていた。
ロサンゼルス都心部には1,042の黄色い市電を持つロサンゼルス・レールウェイ社と、四百三十七の赤い電車と1500マイルの路線を有するパシフィック・エレクトリック社という二つの企業があった。
ロサンゼルス・レールウェイズ社は、GMのダミー会社であるアメリカン・シティ・ラインズ社に買収されてひと月と経たないうちに、
市電の路線のほとんどを廃止する計画を発表し、1953年には、その多くがすでに破壊されていた。
1954年には、ロサンゼルス西部にあった旧市電車庫で盛大に火が焚かれ、かつてハリウッドを走った市電や電車が灯油をかけられ焼却された。
こうした画策がすべて気づかれずに済んだわけではなかった。1947年トルーマン政権は、アメリカの大手企業10社を、シャーマン反トラスト法に違反する陰謀罪二件で告訴した。
それらの企業は、輸送会社から競争を失くそうとする陰謀とバス市場の独占に対して、カリフォルニア大陪審から起訴された。
1947年3月12日被告側10社は、ナショナル・シティ・ラインズ・カンパニーズへのバスの販売・提供独占という一つの訴因に関して有罪判決を受けたが、罰金は5000ドルー小型車二台分の金額だった
こうした束の間の逆風や、反トラスト法違反の有罪判決による逆宣伝にもめげず、自動車企業や、石油企業、建設会社などは進撃を続けた。
カリフォルニアの諸都市から、車の流れを妨げる市電と重金属の線路が消えた。全国のトロリー電車路線のほとんどが閉鎖されて輸送ルートが中断され、何百万台という車やトラック、バスを売る市場が整った。”

ということだ。つまりアメリカの車社会は初めからそうだった訳じゃなく、鉄道が発達していたにも拘らず、
それをわざわざ自動車会社や石油会社が結託して廃止に追い込み、今の状態を作り出したということだ。
アメリカ人はなんて身勝手で強引で徹底しているのか、イラクへの戦争を仕掛けた論理と現地でのやり方もそっくりそのままの感じがした。