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2008年8月5日

◎赤羽ホール開館 ふるさとの文化創造の拠点に

 歴史のある都市には、その地にふさわしい劇場がある。ウィーンの国立歌劇場、パリの オペラ座、ミラノのスカラ座といった劇場は、豊穣な文化のエッセンスを奏でる「楽器」であり、圧倒的な存在感を放つ都市のランドマークである。そんな劇場があるのは、何も大都市だけではない。ヨーロッパには、小さな町にも居心地の良い、適度なサイズの劇場があり、地域の大切な社交場になっている。

●ランドマーク誕生

 北國新聞社は、創刊一一五年の歴史を刻むきょう五日、金沢市香林坊二丁目の本社隣接 地に、芸術文化施設「北國新聞赤羽(あかばね)ホール」をオープンする。北國新聞創刊者の赤羽萬次郎の名を冠した劇場であり、新たなランドマークの誕生といえる。

 近未来的な外観でありながら、どこか森の中にいるような安らぎを覚えるのは、緑化屋 根に小鳥が遊び、現代風にアレンジされた石垣に囲まれているからだろうか。たおやかなカーブを描くガラス張りの外壁は、豊かな木立の緑を映し込み、絵のように美しい。

 気持ちの良い吹き抜けの階段を昇り、重厚なドアを開けると、そこに非日常の空間が広 がる。五百席余のホールは手ごろな大きさで、ステージと客席が驚くほど近くにある。出演者の息づかいはもとより、鼓動や体温までが伝わってきそうな距離である。演劇やコンサートなどでは、息をのむ迫力と臨場感を楽しめるだろう。

 覚えておられる方も多いはずだ。北國新聞には以前、「北國講堂」という名のホールが あった。一九五七(昭和三十二)年から一九八八(同六十三)年まで、赤羽ホールとほぼ同じ場所にあり、音楽や演劇、映画など雑多なジャンルの催しが開催された。ここで初めて本格的な舞台や芝居を見たり、オーケストラの生の音に接した人も多かったのではないか。北國講堂は、当時の最先端の文化を受け入れる窓口であると同時に、地元の音楽家や舞踏家、演劇人たちの貴重な発表の場でもあった。

 日本がまだ貧しい時代にできた施設だったから、今にして思えば決して上質のホールで はなかったかもしれない。それでも、ふるさとの文化創造の「ゆりかご」として、北國講堂が残した功績は大きかった。わたしたちは、赤羽ホールにもう一度、そんな役割を担ってもらいたいと思っている。

●森羅万象の案内者

 新聞の黎明(れいめい)期は、近代演劇の変革期に重なる。当時の北國新聞には現在と は比較にならぬほど多くの演劇論や役者批評が掲載されていた。明治の民権ジャーナリストとして知られる赤羽萬次郎は、気鋭の演劇評論家でもあり、今でも「日本新劇理念史」(白水社)などで論文が読める。自由民権思想を訴えるには、演劇や講談が役に立ったからだろう。演説と演劇の「演」が同じ意味で使われるように、演劇と政治は極めて近い存在だったのである。

 きょう産声を上げた赤羽ホールは、北陸の森羅万象の案内者たらんと一念発起して立ち 上がった先達の思いを込めた劇場である。演劇や音楽を楽しみ、講演会や学びの場ともなる交流の広場だ。ふるさとの文化のさらなる発展と創造を願い、読者と新聞が新たな一歩を踏み出す空間にしたい。

 (論説委員長・横山朱門)


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