開幕が迫った北京五輪。どんな大会になるのでしょう。そこで考えてみました。オリンピックの成功とは、何をもって評価すべきなのでしょうか。
オリンピックはさまざまな要素を併せ持つ多面体で、単純明快にその出来栄えを評価しにくいところがあります。見る角度、五輪観によって判断ががらりと変わる場合もありそうです。ただ、最近の評価の尺度にはいささか疑問を感じないではいられません。巨大規模を誇り、豪華に飾り立てられた十七日間が表立ったトラブルもなく終了すれば、それで成功とする傾向が、国際オリンピック委員会(IOC)をはじめとする関係者に強いように思えるからです。
「より豪華に」でいいのか
オリンピックは近年、回を重ねるごとに大きく膨らみ、きらびやかな雰囲気をまとうようになってきました。それを支える収入も五輪ビジネスの発展で伸びています。そうした流れで注目度が高まったのは間違いありません。が、だからといって、より巨大に、より豪華になれば、それだけで成功と言い切れるのでしょうか。
オリンピックは本来、スポーツの祭典であり、四年に一度の大舞台にかけるアスリートたちの、素朴で純粋な情熱が主役でした。また、そこにはスポーツならではの友好の思いもこめられていて、それがまたかけがえのない独自の存在感をはぐくんできたのです。
ところが、より大きく、よりきらびやかになっていく過程で、素朴さや純粋さは失われ、大会の主役は国威発揚やビジネスやショー的な要素にとって代わられてしまいました。友好や平和の願いもかすみがちです。本来の意義が薄れていく中、規模や豪華さがいくら増しても、それで「成功」とは言いたくありません。
大会の基盤が強くなり、より注目される存在になるのは、五輪運動にとっても意味があります。しかし、何ごとも行きすぎては本質を見失うことになります。いまのオリンピックを見ていると、急角度の発展の一方で、空虚さも増しているのではないかという懸念をぬぐえません。規模や豪華さも評価すべきものではありますが、そればかりを重視する考え方はそろそろ見直したいところです。
素朴な情熱こそ神髄
では、成功の尺度に何をつけ加えるべきかといえば、それは「本来の五輪らしさをどれだけ出せたか」ではないでしょうか。
たとえば親しみやすい雰囲気。たとえば新たな可能性への挑戦。たとえば思いがけない友好親善の一ページ。もちろん、競技そのものの魅力をいかに幅広く伝えたかを忘れてはいけません。そうした五輪本来の輝き、らしさをきちんと生かしたかどうかを、もっと大事にすべきなのです。それによって選手や観客や市民の心に、長くきらめき続ける灯(あか)りをともすことができれば、「成功」と評価してもいいでしょう。
報道の立場でも心すべきことです。華やかなうわべや勝ち負けだけにとらわれず、オリンピアンのうちに秘められた思いを丹念に掘り起こしていく努力が欠かせません。その積み重ねが、オリンピックの本当の姿を描き出していきます。メディアも五輪運動の行方に責任を負っているのです。
ところで、間近に迫った北京五輪はどうなのでしょうか。
八日に開会式が行われる今大会は、二百五カ国・地域が参加するという史上最大規模で行われる見通しで、国家の総力を挙げて繰り広げられるビッグイベントの豪華さは、いまから想像がつきます。きわめて厳重な警備によって、トラブルはすべて抑え込むという構えでもあるようです。
とはいえ、今回の五輪はあまりにも国威発揚の意識が強すぎるようにみえます。そのあまり、五輪最優先の施策が市民の暮らしを圧迫することも多いと伝えられています。厳戒聖火リレーに象徴されるように、国家の威信を示そうとする姿勢が、かえって人権問題をはじめとする諸課題の深刻さを増しているとも言えるでしょう。
それでは、人々の心に灯りをともして大会を終えるわけにはいきそうにありません。表面上は成功といわれても、歴史に残る評価は果たしてどうでしょうか。
心に灯りをともせるか
それぞれの国にそれぞれの政治状況があり、それぞれの五輪観があるのはわかりますが、オリンピックのあるべき姿は共通でなければなりません。中国政府首脳と大会組織委員会には、ぜひとも五輪本来の心を思い起こしてもらいたいものです。
そして、いまからでもその精神を生かす具体策を実行してほしいと思います。たとえ小さいことでも、そのひとつひとつが灯りをともすでしょう。
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