漫画界のスターに押し上げたのは昭和37年連載開始の「おそ松くん」。6つ子とチビ太、イヤミらが繰り広げるドタバタ喜劇で、乾いた笑いとスピード感が支持された。
人気は過熱し「もーれつア太郎」の猫のニャロメは「若者の悔しさを代弁する」と「70年安保闘争」のシンボルに祭り上げられたが、本人は「おれは単なるバカ。思想には関心ない」。
理屈よりも感性を重視したギャグ漫画の原点は、終戦直後に奈良県で過ごした少年時代にさかのぼる。周囲には個性の強い子どもが大勢いて、ドタバタの風土があった。「わんぱくな連中ばかり。遊びの世界ではだれもが主人公だった」
漫画に投影された底なしのパワーと、一人のヒーローやヒロインからは生まれてこない大勢の力は、1960(昭和35)年代から70(同45)年代にかけての自由で元気な時代の気分と合致。その人気は子どもや学生だけでなくサラリーマン層にまで浸透し、この時期、少年漫画雑誌が隆盛を迎える原動力になった。
文芸春秋漫画賞、日本漫画家協会文部大臣賞などを受賞。平成10年には紫綬褒章を受章し、平成15年、東京都青梅市に「青梅赤塚不二夫会館」がオープンした。
「人間、死ぬときは死ぬんだよ。それまでは一生懸命仕事をしようと思ってね」。食道がんの手術から2年後の平成12年、赤塚不二夫さんは「目の見えない人にも楽しむ権利がある」と、点字の漫画絵本「よーいどん!」を発表し話題になった。第2弾の「ニャロメをさがせ!」も平成14年に発売された。
弥次さん喜多さんがアイヌ民族を訪ねるという珍道中の漫画の構想も温めていた。
食道がんが見つかって以降も好きな酒を手放さなかった。「がんとの闘い」といった生き方とは対極を行き、がん闘病について取材が殺到すると「うちはね、今ちょっとした『がん景気』なんだ」と周囲を笑わせた。
アルコール依存症治療のため毎月のように入院し酒を抜く「ウオッシュアウト」を繰り返した。退院してはまた飲み、「ノーメル(飲める)賞だな」とギャグを飛ばした。
14年に最後の闘病生活に入る直前はほとんど食事を受け付けず、酒ばかりの生活。栄養失調気味で車いす生活を余儀なくされた。それでも視覚障害や引きこもりをテーマにしたテレビ番組に出演するなど、タレントとしての顔は健在だった。
赤塚語録
◆漫画を見るな 「トキワ荘の連中も僕も皆、手塚(治虫)さんの影響で漫画家になった。手塚さんはよく『いい漫画を描きたいなら漫画を見るな。一流の映画、音楽、小説で勉強しろ』と言っていた。これは漫画家を志す人にとって永遠の真理だと思うよ」
◆映画大好き 「僕は映画がとても好きで、映画からアイデアが浮かんだことが多いね。『ひみつのアッコちゃん』は『奥さまは魔女』の映画版がきっかけだし、『おそ松くん』は11人兄弟を主人公にしたハリウッド映画がヒントになったんだ」
◆おふくろの影響 「父親は旧満州(現中国東北部)の憲兵で、堅い人間だった。母親は元芸者で、腕に入れ墨があったような人。僕はどっちかというと、柔軟な考えの持ち主だったおふくろの影響が強いかな」
◆もらっていいのかな 「(紫綬褒章受章で)なぜ僕みたいなバカばっかりしてきた者がもらえるの? どんな顔して伝達式に出たらいいか焦るよ」
◆まだ少年 「敬老の日だからって周りから敬ってもらって悦に入っているようじゃ駄目! 冗談じゃない。『おれは少年だ』『まだ少女よ』って言わなきゃ」