赤塚さんは長らく闘病生活を送っていた入院先の順天堂医院(東京都文京区)で2日朝、容体が急変。長女のりえ子さん(43)ら家族が見守る中、眠るように静かに息をひきとった。
関係者は「とても穏やかな表情でした」。漫画家仲間の藤子不二雄(A)さん(74)、北見けんいちさん(67)も連絡を受けて病室に駆け付けたが、臨終に間に合わなかったという。
旧満州(現中国東北部)生まれ。父親は警察官。終戦後、旧満州から引き揚げ奈良、新潟で育つ。小学生時代に手塚治虫作品に感激して漫画家を志した。
上京後の昭和31年に少女漫画「嵐をこえて」でデビュー。東京都豊島区にあったアパート「トキワ荘」で、無名時代の石ノ森章太郎さん(故人)や藤子不二雄(A)さんらと暮らし、共に腕を磨いたことは有名だ。
37年には「おそ松くん」「ひみつのアッコちゃん」が大ヒット。以降「天才バカボン」「もーれつア太郎」などのヒット作を連発した。「シェーッ」「これでいいのだ」など数々の流行語は一世を風靡(ふうび)して一躍、時代を代表する漫画家となった。
主要作品は次々とテレビアニメ化された。自由奔放な言動も人気を集め、テレビ出演も多数。タレントのタモリ(62)を“発掘”するなど多方面で活躍した。
晩年は病魔に苦しんだ。もともと酒好きだったが、全盛期のころからアルコール依存症に。平成9年12月には自宅で吐血し食道がんが判明、10年に手術を受けた。その後も入退院を繰り返し、12年には急性硬膜下血腫でも手術。それでも創作活動は続けていた。
14年4月、検査入院中に脳内出血で緊急手術。周囲への反応がほとんどない事実上の植物状態に陥った。昭和62年に再婚した妻の真知子さんの献身的看護で、呼びかけると顔を向けようとするまで回復したが、18年7月に真知子さんがくも膜下出血のため56歳で急逝する悲劇にも見舞われた。
関係者によると、りえ子さんの母親でもある前妻の登茂子さん(昭和48年に離婚)が先月30日に死去していた。破天荒な天才漫画家を支えた2人の妻の死を見送るようにして、帰らぬ人となった。
通夜などの日取りは未定
通夜、葬儀・告別式の日取りなどは未定。喪主は長女、りえ子さん。
赤塚不二夫(あかつか・ふじお)
本名・藤雄。昭和10年9月14日、旧満州生まれ。21年に引き揚げ奈良、新潟で過ごす。26年4月、中学卒業後に新潟市内の塗装店に就職し、「漫画少年」に投稿を始める。28年に上京。工員をしながら投稿を続け石森(のちに石ノ森)章太郎主宰の回覧誌「墨汁一滴」の同人に。31年8月、伝説のトキワ荘に引越し石森、藤子不二雄らと腕を磨く。37年「少年サンデー」に「おそ松くん」を連載し人気に。以後、「天才バカボン」「もーれつア太郎」「レッツラ・ゴン」などヒット作を連発しギャグマンガのパイオニアに。平成11年に紫綬褒章受章。
漫画家のちばてつやさんの話
「赤塚不二夫さんに初めて会ったのは50年ほど前。僕が手にけがをして漫画が描けなくなったとき、トキワ荘の人たちに代筆をしてもらったことがあり、そのお礼にうかがった。赤塚さんは静かでおとなしい人だった。以来何度も訪ねて、一緒に野球をしたり同人誌を出したり、思い出は山ほどある。もう一度会いに行けばよかった。大事な人を失った。とても悲しい」
映画監督の山本晋也氏の話
私を表舞台に引っ張り上げてくれた方で、足を向けて寝られない人。ただただ残念。ロマンポルノのポスターを描いてもらおうとお願いしたのが付き合いの始まりで、『おお、いいよ』と簡単に引き受けてくれた。とにかく映画が好き。一緒に飲んでいても漫画より映画の話ばかり。偉大な作品を数多く残した天才ですからね、どうあっても生きていてほしかった。赤塚先生、まだ死んじゃあいけないよ」