ウイスキーの水割りを飲みながら、がん手術後初の記者会見をする赤塚不二夫さん=1999年4月、大阪市内
赤塚不二夫さんの自宅前には報道関係者らが詰めかけた=3日午前0時4分、東京都新宿区中落合、上田幸一撮影
戦後ならではの笑いをつくり出したギャグの王様、赤塚不二夫さんが亡くなった。72歳だった。
伝説の漫画家アパート「トキワ荘」に入ったが、売れていく仲間たちのアシスタントを務めることが多かった。少女漫画しか発表できなかった初期の苦悩を振り払うように、爆発したナンセンスギャグの数々。とりわけ高度経済成長期の日本人に、忘れ難い笑いを提供した。
赤塚漫画の特徴は、キャラクターがユニークで、なぞめいている点にある。代表作「天才バカボン」のパパは、バカなのか天才なのかわからない。わき役も光った。「お出かけですか」が口ぐせの「レレレのおじさん」、父はイヌで母はウナギという「ウナギイヌ」……。「赤塚漫画はわき役こそ面白い」と評されもした。
アシスタントや編集者との共同作業でマンガのアイデアを出したり、作画を分業制にしたりするなど、プロデューサーとしての手腕も光った。広い度量を慕って才人が集まり、アシスタントから多くのヒットメーカーが輩出した。「釣りバカ日誌」の北見けんいちさん、「ダメおやじ」の古谷三敏さん、「総務部総務課山口六平太」の高井研一郎さんら、漫画界の第一線で現在活躍する漫画家が顔を並べる。
酒場などでの交友関係も多彩だった。まだ無名のころの森田一義さん(タモリ)、映画監督の山本晋也さん、“ゲージツ家”の篠原勝之さんら多彩な人物を啓発し、才能の開花を助けた。しかし、みずから「アルコール中毒患者」と呼ぶほど酒を愛し、体をこわした。
98年暮れから翌年にかけて食道がんで入院、00年8月には、硬膜下血腫で開頭手術を受けるなど入退院を繰り返した。06年7月には、フジオ・プロダクションの社長で、赤塚さんを献身的に看病した妻の真知子さんが56歳で亡くなった。