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米内光政と阿南惟幾との比較:終戦 2007
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◆米内光政と阿南惟幾との比較:終戦


図(右):TIME March 4,1940海軍大臣米内光政大将(1880年3月2日〜1948年4月20日)『タイム』1940年3月4日号 Son of a Samurai:Admiral Mitsumasa Yonai was amazed and wildly happy. He had been aloft in giddy rigging before—had climbed to power (as Admiral of the Combined Fleet, beginning in 1936) and into politics (as Navy Minister in three crucial Cabinets, 1937-39). -----Is peace likely? As long as Japanese soldiers remain on South Chinese soil, no. As long as the Japanese refuse to discuss terms with Generalissimo Chiang Kai-shek himself—not the "Chungking Government"—no. A remote chance for peace (for a time) lies in the Japanese withdrawing to the five occupied northern provinces, the Chinese conceding them.

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◆20世紀の戦争は,近著『写真・ポスターで見る戦争の百年』(青弓社)で分析しました。

1.1945年当時海軍大臣であった米内光政は、ウェブもりおか>先人記念館によれば「1937年には林銑十郎内閣の海軍大臣に就任し,三国同盟に反対した。この反戦主義の姿勢は終戦まで変わらなかった。天皇の信頼も厚く,1940年には岩手県出身者としては3人目の内閣総理大臣に就任,しかし陸軍の反対に会い半年後に退任。太平洋戦争末期には小磯内閣で4期目の海軍大臣に入閣,終戦のために尽力する」と米国での正反対の評価を考慮していない。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』では、米内光政は,「小磯・鈴木両内閣に海相として入閣した米内光政は、必死で戦争終結の道を探った。----あの時代に、戦争への流れをささやかでも抵抗した良識派軍人の居たことは特記されねばならない」と中国戦線拡大にも特攻にも触れていない。

しかし,1936年12月,米内光政は,連合艦隊司令長官に就任し,1937年2月には海軍大臣になり、巨大戦艦「大和」「武蔵」建艦計画を決定(起工は1937-38年)。1937年7月7日の盧溝橋事件とそれに続く第二次上海事変で,海軍艦艇による砲撃・中国大陸海上封鎖,さらに南京など中国の都市への戦略爆撃を実施した。

米内光政大将は,日米戦争を開戦阻止の行動はとっていない。サイパン島陥落後の1944年7月22日,小磯国昭内閣の海軍大臣に就任しても,和平交渉を提議していない。米内大臣は,人間魚雷「回天」,人間爆弾「桜花」,特攻艇「震洋」など特攻兵器を開発・量産し(1944年3-7月),特別攻撃隊を送り出した(1944年10月)。1945年4月7日,鈴木内閣で再び海軍大臣に就任,沖縄戦「菊水作戦」として,特攻機を連日出撃させた。

鈴木貫太郎内閣は,徹底抗戦を主張し,沖縄戦で戦果をあげることを期待し,一億総特攻,全軍特攻化を進めた。鈴木内閣が終戦内閣だったとか,米内大臣が終戦に尽力したという俗説は,戦後に作られた話である。終戦の決断は、大元帥昭和天皇によるほかない。1945年7月になっても、昭和天皇が終戦の聖断を下すかどうかなど、誰にも分からなかった。分かっていれば,議論が起こるはずがない。臣は、叡慮に従うのみ。

阿川弘之『米内光政』は,「米内はこの(8月14日の)時も十日の御前会議の時も、ほとんど発言しなかった。のち、小泉信三に『もう落ち着くところは分っていましたから、私はあまりしやべる必要はありませんでした』と語っているが、それが米内の流儀らしかった。…(8月15日正午の玉音)放送が終ると、米内は左隣に汗をうかべて立っている豊田軍令部総長に、『よかった』と握手を求め、真昼の夏空を見上げながら首を二、三度振って、別に重い足取りという風でもなく大臣室の方に帰って行った」という(昭和史を歩く4(終戦)引用)。

米内光政海軍大将は,長らく海軍大臣として,戦争を指導し,特攻作戦を展開した。1945年8月にも海軍大臣として終戦を積極的に公言したわけではない。終戦を他人事のように受け流したとすれば,海軍大臣としての敗戦の責任も回避しているように思われる。

2. 1945年8月14日の御前会議前に,陸軍大臣阿南惟幾大将(8月14日自決)は,昭和天皇に第二総軍司令官の畑俊六陸軍元帥、第一総軍司令官の杉山元陸軍元帥、海軍軍令部総長の永野修身海軍元帥に,意見を聴取することを提案した。開戦時の参謀総長杉山元帥は,開戦時の軍令部総長永野元帥は,昭和天皇に対して「国軍は尚余力を有し志気も旺盛なれば、なおも抗戦してアメリカ軍を断乎撃攘すべき」と徹底抗戦を奏上したという。

写真(右):大日本帝国陸軍大臣阿南惟幾大将 (あなみ これちか、1887年2月21日 - 1945年8月15日) :大分県竹田市出身。東京府に生れ。鈴木貫太郎総理大臣とは、以前に侍従長と侍従武官の関係だった。梅津美治郎参謀総長とともに本土決戦を唱えるが、昭和天皇の終戦の聖断に従う。軍事クーデターを戒め、8月14日夜、ポツダム宣言受諾の直前に陸相官邸で自刃。「大君の深き恵に浴みし身は 言ひ遺こすへき片言もなし」昭和二十年八月十四日夜 陸軍大将惟幾という辞世を紹介したwebに次のようにある。「阿南の望むこと、それはただ一つ、親愛なる天皇の身の安全、国体護持であった。---阿南は割腹の前に一枚のYシャツを出してこう語った。『これはな、自分が侍従武官をしていたころ、陛下から拝領したもので、お上が肌に付けておられたものだ。これを着用して自分は逝こうと思う。武人としてこの上ない名誉だよ。自分が死んだら、これを身体にかけてくれ。』」

1945年7月26日に発表されたポツダム宣言の受諾をめぐって,閣内の意見がわかれた。阿南惟幾陸相は、「一億玉砕を覚悟で、本土決戦をすべきである」として徹底抗戦を主張した。広島への原爆投下の3日後,8月9日の御前会議でも、8月14日の最後の御前会議でも,阿南惟幾陸相は一貫して,徹底抗戦を主張する主戦派であった。しかし,阿南惟幾大将は、侍従武官長も経験しており,皇道派として、天皇に対する忠誠心がある。(近衛上奏文の述べた皇道派による軍の一新が思い起こされる)

「阿南陸相が最後まで終戦に反対し,徹底抗戦を主張し続けたのはなぜか。」という設問がよくなされている。これに対して,「彼が,徹底交戦を主張したのは,天皇の終戦にかける堅い意思は、分かりすぎるほどわかっていたはずである。そこで疑問が生じる。」というのは,早計である。大元帥昭和天皇は,神勅と大日本帝国憲法の条文に照らしても,統治権の総覧者として,宣戦布告と和平の決定権と陸海軍の統帥権を保持する大元帥として,終戦を一人で決断できた。政府首脳(陸軍大臣と海軍大臣を含む)や軍高官(参謀総長や軍令部総長)の輔弼を受けて,天皇が統治を総覧するとはいうが,輔弼は統治の根幹には必ずしも不可欠ではない。しかし,大元帥昭和天皇は,終戦・和平というよりも,事実上の降伏を決断しなくてはならない状況に置かれていた。天皇が外国に降伏したことなど,日本の歴史始まって以来,ただの一度もない。したがって,皇祖,国体護持のためと理由をあげても,昭和天皇にとって,降伏とは恥辱そのものである。したがって,日本降伏の聖断の背景に,天皇の赤子・臣民・国民を思う大御心があるとする伝統的な保守派の理解はもっともである。

阿南惟幾陸相は、悠久の日本の歴史のなかで,初めての降伏という恥辱の決断を大元帥昭和天皇にさせるつもりはなかった,昭和天皇は,萬世一系の栄えある(降伏をしたことのない)天皇家の名誉を保持すべきであり,「終戦=降伏の聖断」を下し汚名を被るに忍びない。阿南惟幾大将は,その天皇の苦衷を察して,徹底抗戦を主張した。天皇への忠誠心の篤い皇道派の陸軍大将,元侍従武官長であるからこそ,大元帥昭和天皇の名誉のために,本土決戦を戦う覚悟だったのであろう。

それを,「本心では本土決戦を否定しながらも、陸軍の暴発(内乱、暴動など)による国家の致命傷を防ぐため、部内の強硬派に対するジェスチュアとして本土決戦を主張し続け、無血終戦をなしとげた」という阿南惟幾大将による腹芸を主張する識者がいるのには理解に苦しむ。天皇への忠誠一徹の阿南惟幾陸相が,昭和天皇の面前で,姑息とも思える交渉術や腹芸を行ってまで,終戦にこぎつけようとしたというのは,後から創作された俗説であろう。

終戦の聖断下った最後の御前会議の後(8月14日夜),阿南惟幾陸相は,他の参加者とともに終戦の詔書に副書(署名)した。「全閣僚の副書がなければ、閣議の決定は法的に成立せず,その決定は国家意思とはならない」という識者もあるが,そうではない。宣戦布告と和平の大権と陸海軍の統帥権は大元帥天皇のみが保持しており,輔弼者の意向や閣僚の副署の有無によって,掣肘されることはない。

大任を果たしたからではなく,終戦の聖断が下ったために阿南惟幾陸相は、8月15日早朝、「一死、大罪を謝し奉る」として割腹自殺した。阿南惟幾陸相の自決は、陸軍が終戦を受け入れるためではなく,天皇の苦衷の大御心を思って,敗戦という最大の汚点=戦争敗北責任を全て引き受け,国体護持の忠誠心に殉じた。阿南惟幾陸軍大将は,最も不名誉な日本の敗戦責任を引き受け,大元帥昭和天皇に対して,日本敗北という大罪を死をもって謝したのである。戦争責任を認めて引き受けたという点で,阿南惟幾陸軍大臣は,評価される。

「阿南陸相は、まさに自分の命をかけて終戦を実現させ、日本を破滅から救った立役者の一人なのである」という評価は,完全に的外れである。天皇への忠誠と戦争敗北の責任を引き受けた結果が自決となった。(⇒阿波陸相の自決については,阿南陸相と終戦【修親原稿】藤岡信勝参照。)

本庄繁陸軍大将は,枢密院顧問であり,元関東軍司令官として,活躍したため,1945年11月20日,割腹自殺した。享年68であった。また,陸軍の梅津美治郎陸軍参謀総長は東京裁判で戦争責任を引き受けた。

しかし,日本海軍の米内光政海軍大臣、豊田副武海軍軍令部総長は,戦争責任を引き受けなかったのであり,敗北の責任を謝すこともなかった。もちろん,降伏調印式への出席も理由をこじつけ断っている。彼ら海軍の戦争指導者は,戦犯追及を逃れるだけでなく,敗戦の責任も認めない。敗戦の責任を事実上,大元帥一人に負わせた。戦争の大権,軍の統帥権を文字する最高司令官に責任転嫁するのは,敗北後のドイツの将軍たちと変わらない。戦争責任を回避して,保身に勤める高級軍人たちは,大元帥昭和天皇への忠誠心,敗戦の責任・悔恨があるのかどうかも怪しくなってくる。

杉山元陸軍元帥は,1940〜1944年参謀総長,教育総監をへて1944年7月小磯内閣で陸軍大臣,1945年鈴木内閣では第一総軍司令官。1941年に対米戦争の成算を昭和天皇から「汝は支那事変勃発当時の陸相であるが、あのとき事変は3ヶ月で終わると申したのに今になっても終わっていないではないか」と詰問され,杉山が「支那は広うございますので」と釈明した。すると、昭和天皇は「太平洋は支那より広いではないか」と逆鱗に触れた逸話がある。
杉山元陸軍元帥は,敗戦後1945年9月12日拳銃自決し、夫人もそれに殉じた。戦争責任を理解していた所作であろう。参謀総長時代に会議の内容などを記した「大本営政府連絡会議議事録(杉山メモ)」を残している。杉山メモは,杉山元参謀総長が職にあった1940-1944年の「大本営政府連絡会議」「御前会議」他の筆記記録および上奏時の御下問奉答の記録である。

天皇に政策や戦略の裁可を求める「上奏」は,内閣と軍部(参謀本部と軍令部)の二通りがある。日清・日露戦争においては、当時の首脳陣が内閣と軍部を取りまとめて一括して上奏した。しかし1930年代になると軍部は統帥権の独立を理由として、単独上奏するようになった。そこで,統帥権の独立によって、議会と内閣は,軍部に制約を加えられなくなったのである。したがって,統帥権を保持する大元帥天皇のみが,軍部と直接に,軍事作戦について討議することになる。大元帥昭和天皇は,陸軍参謀総長と海軍軍令部総長に輔弼されてはいるが,議会,内閣の輔弼を受けられないまま,軍事作戦に関与せざるをえない。

杉山元陸軍元帥は,明確に徹底抗戦を徹頭徹尾貫いた点で,「意志強固な軍人」である。敗戦の責任をとっての自決することは,元帥・大将には当然であったろう。他方,米内光政海軍大将は,東京裁判(極東国際軍事裁判)の戦犯に指名されないために,東京裁判では証人席に立った。

戦後の東京裁判において,日本陸軍は大将5人、中将1人が絞首刑になったが、海軍の将官はひとりも処刑されなかった。こうして,陸軍を強硬派,主戦派とし,海軍をリベラル,反戦派・良識ある軍人とするいう伝説,すなわち「陸軍悪玉・海軍善玉神話」が創作されたようだ。(今日のぼやき:副島隆彦を囲む会三村文男(2002)『米内光政と山本五十六は愚将だった―「海軍善玉説」の虚妄を糺す』参照)

「いったい海軍というのはわたしが古巣だが、そういった点では、ずるいところがあった。たとえば陸軍は横暴で困るなどと口ではいう。で、その陸軍が、何かいいことをするときには、どうも陸軍がね、といいながら、すっかり陸軍のせいにしておいて、自分らも便乗してしまう。」(岡田啓介(1950)『岡田啓介回顧録』;日本海軍を検証する 引用)同じように「海軍はずるいところがある」と,1944年12月5日に軍令部作戦(正式には第一)部長に就任した富岡定俊少将も述べている。降伏調印式という「無残な敗北の席」に,軍令部総長も海軍大臣も出席を拒み,軍令部作戦部長という格下の部下を出席させている。

1945年8月6日に広島への原爆投下、8月9日に長崎への原爆投下とソ連の対日宣戦布告があった。この危機に直面し,海軍大臣米内光政大将は,1945年8月12日,次のように語った。
 「私は言葉は不適当と思うが原子爆弾やソ連の参戦は或る意味では天佑だ。国内情勢で戦を止めると云うことを出さなくても済む。私がかねてから時局収拾を主張する理由は敵の攻撃が恐ろしいのでもないし原子爆弾やソ連参戦でもない。一に国内情勢の憂慮すべき事態が主である。従って今日その国内情勢[国民の厭戦気分の蔓延と政府・軍首脳への反感]を表面に出さなく収拾が出来ると云うのは寧ろ幸いである。
(『海軍大将米内光政覚書』;ビックス『昭和天皇』講談社学術文庫 引用)

1945年2月14日の昭和天皇への「近衛上奏文」によって,近衛文麿は,敗戦が日本に共産革命を引き起こし,国体変革をもたらすとの危惧を表明していた。近衛公秘書官細川護貞は,ソ連の宣戦布告は終戦の「絶好の機会」とし,近衛文麿公爵自身もソ連参戦を「天佑」とするなど,宮中グループは,終戦の形式的な理由が与えられたことを嗅ぎ取った。そして,不穏な国内情勢,すなわち国民の厭戦気分の蔓延と政府・軍首脳への反感が,日本を混乱させ,国体の変革にもつながると敏感に感じ取っていた。海軍大臣米内光政大将は,鋭い政治感覚の持ち主である。

1945年8月14日の最後の御前会議では,陸軍(梅津・阿南),内閣(豊田)らの主戦派の意見を聴取した後,昭和天皇が「自分ノ非常ノ決意ニハ変リナイ。内外ノ情勢,国内ノ情態彼我国力戦力ヨリ判断シテ軽々ニ考ヘタモノデハナイ。 国体ニ就テハ敵モ認メテ居ルト思フ毛頭不安ナシ。----戦争ヲ継続スレバ 国体モ国家ノ将来モナクナル 即チモトモコモナクナル。今停戦セハ将来発展ノ根基ハ残ル……自分自ラ『ラヂオ』放送シテモヨロシイ。速ニ詔書(大東亜戦争終結ノ詔書)ヲ出シテ此ノ心持ヲ傳ヘヨ。」と終戦の聖断を下したという(御前会議引用)。

杉山元陸軍元帥は,明確に徹底抗戦を徹頭徹尾貫いた点で,「意志強固な軍人」である。敗戦の責任をとっての自決することは,元帥・大将には当然であったろう。他方,米内光政海軍大将は,東京裁判(極東国際軍事裁判)の戦犯に指名されないために,東京裁判では証人席に立った。

戦後の東京裁判において,日本陸軍は大将5人、中将1人が絞首刑になったが、海軍の将官はひとりも処刑されなかった。こうして,陸軍を強硬派,主戦派とし,海軍をリベラル,反戦派・良識ある軍人とするいう伝説,すなわち「陸軍悪玉・海軍善玉神話」が創作されたようだ。(今日のぼやき:副島隆彦を囲む会三村文男(2002)『米内光政と山本五十六は愚将だった―「海軍善玉説」の虚妄を糺す』参照)

「いったい海軍というのはわたしが古巣だが、そういった点では、ずるいところがあった。たとえば陸軍は横暴で困るなどと口ではいう。で、その陸軍が、何かいいことをするときには、どうも陸軍がね、といいながら、すっかり陸軍のせいにしておいて、自分らも便乗してしまう。」(岡田啓介(1950)『岡田啓介回顧録』;日本海軍を検証する 引用)同じように「海軍はずるいところがある」と,1944年12月5日に軍令部作戦(正式には第一)部長に就任した富岡定俊少将も述べている。降伏調印式という「無残な敗北の席」に,軍令部総長も海軍大臣も出席を拒み,軍令部作戦部長という格下の部下を出席させている。

写真(左):1945年8月30日 日本の厚木飛行場に降り立った連合軍最高司令官マッカーサー元帥:ダグラスDouglasC54輸送機「バターン」から厚木飛行場に降り立ったMajor General Joseph M. Swing, Commanding General, 11th Airborne Division, (left); Lieutenant General Richard K. Sutherland (3rd from right); General Robert L. Eichelberger (right).実は8月28日,厚木飛行場では海軍保安部隊からの派遣隊が守る日本軍将校(有末精三中将、鎌田金宣一中将、山澄忠三郎大佐)らが米先遣部隊の到着を受け入れている。C-46輸送機16機が8時28分に到着し,先遣隊(直属の部下のC.B.ジョーンズ海軍大佐、E.K.ウォーバートン第5航空軍大佐、民間技師のC.R.ハッチンソンとD.M.Dunne、SigC(通信隊)のS.S.オーチンクロス大佐とL.パーク大佐、ATISの通訳のF.バウアー少佐)を率いるチャールズ・P.テンチ大佐(GSC, of the G-3 section of GHQ)が降り立った。9時35分、15機のC-54、C-46、C-47の2番目のグループが到着,11時、15機のC-54の3番目のグループ到着。これらの飛行機は,総勢30名の将校と120名の通常装備の兵士を運んでいた。(現代文化学基礎演習2(2001年度:永井)映像で見る占領期の日本:マッカーサーレポートVol.2について参照)

しかし,「近衛日記」昭和十九年七月二日・十四日)(【国民のための大東亜戦争正統抄史;近衛上奏文解説】引用)に、次のようにある。
 「当局の言明によれば皇室に対する不敬事件は年々加速度的に増加しており、又第三インターは解散し、我国共産党も未だ結成せられざるも、左翼分子はあらゆる方面に潜在し、いずれも来るべき敗戦を機会に革命を煽動しつつあり。これに加うるにいわゆる右翼にして最強硬に戦争完遂、英米撃滅を唱う者は大部分左翼よりの転向者にして、その真意測り知るべからず。かかる輩が大混乱に乗じて如何なる策動にいづるや想像に難からず。」

「此において予は、敗戦恐るべし。然も、敗戦に伴う左翼的革命さらに怖るべし。現段階は、まさに此の方向に歩一歩、接近しつつあるものの如し。革命を思う者は何れも、その実現に、もっとも有力なる実行者たるべき軍部を狙わざるなし。故に陸軍首脳たる者は、最も識見卓抜にして皇国精神に徹底せる者たるを要するは言を俟たず。軍部中のいわゆる皇道派こそ、此の資格を具備すというを得べし。外に対しては支那事変を拡大し、さらに大東亜戦争にまで拡大して、長期にわたり、政戦両局のヘゲモニーを掌握せる立場を悪用し、内においては、しきりに左翼的革新を強行し、遂に今日の内外ともに逼迫せる皇国未曾有の一大難局を作為せし者は、実に、これ等彼の軍部中の、いわゆる統制派にあらずして誰ぞや。予は此の事を憂慮する余り、陛下に上奏せる外、木戸内府に対しても縷々説明せるも、二・二六以来、真崎、荒木両大将等をその責任者として糾弾する念先入観となりて、事態の真相を把握し得ず。皇国精神に徹せるこれ等、皇道派を起用するに傾くこと能わざるは真に遺憾なり。寺内元帥なども、いわゆる皇道派を抹殺すれば粛軍終れりとなせるも何ぞ知らん。皇道派に代りて軍部の中心となれる、いわゆる統制派は戦争を起して国内を赤化せんとしつつあり。」(引用終わり)

写真(右):1945年9月2日 戦艦「ミズーリ」Missouri(BB-63)艦上の日本降伏調印団:前列;外相重光葵Foreign Minister Mamoru Shigemitsu (wearing top hat),参謀総長梅津美治郎陸軍大将General Yoshijiro Umezu, Chief of the Army General Staff. 中列; 大本営陸軍参謀永井八津次陸軍少将Major General Yatsuji Nagai, Army; 終戦連絡中央事務局長官岡崎勝男Katsuo Okazaki; 大本営海軍部(軍令部)第一部長富岡定俊海軍少Rear Admiral Tadatoshi Tomioka, Navy; 内閣情報部第三部長加瀬俊一Toshikazu Kase; 大本営陸軍部(参謀本部)第一部長宮崎周一陸軍中将Lieutenant General Suichi Miyakazi, Army. 後列(左から右に): 海軍省副官横山一郎海軍少将Rear Admiral Ichiro Yokoyama, Navy; 終戦連絡中央事務局第三部長太田三郎Saburo Ota; 大本営海軍参謀柴勝男海軍大佐Captain Katsuo Shiba, Navy, 大本営陸軍参謀・東久邇宮総理大臣秘書官杉田一次陸軍大佐Colonel Kaziyi Sugita, Army. Naval Historical Center(現代文化学基礎演習2(2001年度:永井)映像で見る占領期の日本:ミズーリ号艦上の降伏調印式参照)

降伏文書調印にあたっての詔書:1945年9月2日降伏調印とともに交付された詔書「映像で見る占領期の日本」引用
朕は昭和二十年七月二十六日米英支各国政府の首班がポツダムに於て発し後にソ連邦が参加したる宣言の掲ぐる諸条項を受諾し、帝国政府及び大本営に対し連合国最高司令官が提示したる降伏文言に朕に代り署名し且連合国最高司令官の指示に基き陸海軍に対する一般命令を発すベきことを命じたり、
朕は朕が臣民に対し敵対行為を直に止め武器を措き且降伏文書の一切の条項並に帝国政府及び大本営の発する一般命令を誠実に履行せんことを命ず
               御名御璽

3.Japan Surrenders

降伏文書:1945年9月2日ミズリー号艦上の降伏調印式で調印された文書「映像で見る占領期の日本」引用
下名ハ茲二合衆國、中華民國及「グレート・ブリテン」國ノ政府ノ首班力千九百四十五年七月二十六日「ポツダム」ニ於テ発シ後ニ「ソヴィエト」社会主義共和國聯邦力参加シタル宣言ノ條項ヲ日本国天皇、日本國政府及日本帝國大本営ノ命二依り且之二代り受諾ス右四國ハ以下之ヲ連合國卜称ス

下名ハ茲ニ日本帝國大本営並ニ何レノ位置二在ルヲ問ハス一切ノ日本國軍隊及日本國ノ支配下二在ル一切ノ軍隊ノ連合国二対スル無條件降伏ヲ布告ス

下名ハ茲ニ何レノ位置ニ在ルヲ問ワス一切ノ日本國軍隊及日本國臣民二対シ敵対行為ヲ直二終止スルコト、一切ノ船舶、航空機並ニ軍用及非軍用財産ヲ保存シ之カ毀揖ヲ防止スルコト及連合國最高司令官又ハ其ノ指示二基キ日本國政府ノ諸機関ノ課スヘキ一切ノ要求二應スルコトヲ命ス

下名ハ茲ニ日本帝國大本営力何レノ位置ニ在ルヲ問ハス一切ノ日本國軍隊及日本國ノ支配下二在ル一切ノ軍隊ノ指揮官ニ対シ自身及其ノ支配下二在ル一切ノ軍隊カ無條件二降伏スヘキ旨ノ命令ヲ直二發スルコトヲ命ス

下名ハ茲二一切ノ官 、陸軍及海軍ノ職員二対シ連合國最高司令官カ本降伏実施ノ為適当ナリト認メテ自ラ發シ又ハ其ノ委任二基キ發セシムル一切ノ布告、命令及指示ヲ遵守シ且之ヲ施行スルコトヲ命シ並ニ右職員カ連合國最高司令官ニ依リ又ハ其ノ委任二基キ特ニ任務ヲ解カレサル限リ各自ノ地位ニ留リ且引績キ各自ノ非戦闘的任務ヲ行ウコトヲ命ス

下名ハ茲ニ「ポツダム」宣言ノ條項ヲ誠実ニ履行スルコト並ニ右宣言ヲ実施スルタメ連合國最高司令官又ハ其ノ他特定ノ連合国代表者カ要求スルコトアルヘキ一切ノ命令ヲ發シ且斯ル一切ノ措置ヲ執ルコトヲ天皇、日本國政府及其ノ後継者ノ為ニ約ス

下名ハ茲ニ日本帝國政府及日本帝國大本営二対シ現ニ日本國ノ支配下二在ル一切ノ連合國俘虜及被抑留者ヲ直ニ解放スルコト並ニ其ノ保護、手当、給養及指示セラレタル場所へノ即時輸送ノ為ノ措置ヲ執ルコトヲ命ス

天皇及日本國政府ノ國家統治ノ権限ハ本降伏條項ヲ実施スル為適当卜認ムル措置ヲ執ル連合國最高司令官ノ制限ノ下二置カルルモノトス

千九百四十五年九月二日午前九時四分日本國東京湾上二於テ署名ス
大日本帝國天皇陛下及日本國政府ノ命ニ依リ且其ノ名二於テ
        重光 葵
日本帝國大本営ノ命ニ依リ且其ノ名二於テ
       梅津 美治郎 千九百四十五年九月二日午前九時八分日本國東京湾上二於テ合衆國、中華民國、連合王國及「ソヴィエト」社曾主義共和囲連邦ノ為ニ並ニ日本國ト戦争状態ニ在ル他ノ連合諸國家ノ利益ノ為ニ受諾ス

連合國最高司令官 ダグラス・マッカーサー,合衆國代表 シー・ダブリュー・ニミッツ,中華民國代表者 徐永昌,連合王國代表者 ブルース・フレーザ,「ソヴィエト」社会主義共和國連邦代表者 クズマ・エヌ・ヂレヴィヤンコ,「オーストラリア」連邦代表者 ティー・ユー・ブレーミー,「カナダ」代表者 エル・コスグレーブ,「フランス」國代表者 ジァック・ル・クレルク,「オランダ」國代表者 シェルフ・ヘルフリッヒ,「ニュージーランド」代表者 エス・エム・イシット

加瀬俊一(1981)『加瀬俊一回想録』(下)pp.80-94は,降伏文書調印の日を次のように描写する。(「映像で見る占領期の日本−占領軍撮影フィルムを見る−降伏調印式関係史料集」引用)
---上甲板は黒山の人だった。----色とりどりの服装に、肩章・徽章・勲章が眩しく輝く。周囲には褐色の軍服を着た米軍の将官が立ち並び、燃えるような憎悪の眼―と私は思った―を光らせている。後日知ったことだが、ハルゼイ提督などは、日本全権の顔のどまんなかを泥靴で蹴飛ばしてやりたい衝動をかろうじて抑えていたのである。
甲板ばかりではない。マストの上に、砲塔の上に、煙突の上に、実に、ありとあらゆるところに、さながら曲芸の猿のように、“観衆”は鈴なりになって、我々を凝視していた。---日本全権団の動作を、その一挙一動を、追っていたのである―露骨な敵意と無限の好奇心とをもって-----生れていまだかつて、人間の視線がこれほどの苦痛を与えるものだとは知らなかった。私は歯を食いしばって屈辱感と戦いながら、冷静を失うまいと必死に努力した。
ふと見ると、傍らの壁に小さな日章旗が描かれている。幾つもある。多分、ミズリー号が撃墜・撃沈した日本の飛行機・艦船の数に相当するのではあるまいか。----花と散り急いだ特攻隊の青年たち、彼らの霊がこの旗にこもっているとすれば、今日この調印式の光景を、そも、なんと見るであろうか...。

写真(右):1945年9月2日,東京湾上で日本降伏調印式Formal Surrender of Japanを宣言する連合軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥General of the Army Douglas MacArthur:戦艦「ミズーリ」USS Missouri (BB-63)艦上で ,英国Admiral Sir Bruce Fraser; ソ連Lieutenant General Kuzma Derevyanko; 豪General Sir Thomas Blamey; 加Colonel Lawrence Moore Cosgrave; 仏General Jacques LeClerc; オランダAdmiral Conrad E.L. Helfrich; ニュージーランドAir Vice Marshall Leonard M. Isitt. 米国陸軍Lieutenant General Richard K. Sutherland; 中華民国General Hsu Yung-chang; 米海軍Fleet Admiral Chester W. Nimitz. 掲げられている星条旗はペリー提督 Commodore Matthew C. Perryが,1853年に東京湾に来航した時のもの。

足早にマッカーサー元帥がテーブルに向かって歩いて来たのである。マイクの前に立ち止まると、演説を始めた。演説はないはずだったから、意外だった。----元帥はこの演説において、理想や理念の紛争はすでに戦場において解決されたから、改めて議論する必要はない、といって、我々は猜疑や悪意や憎悪の気持に促されて今日ここに相会するのではなく、過去の流血と破壊のなかから信頼と理解にもとづく新しい世界を招来しようと切に念ずるものであると説き、自由と寛容と正義の精神を強調したのである。そして、最後に、占領軍総司令官の義務を「寛容と正義によって」履行する決意であると結んだ。私は、“tolerance and justice”という言葉が反復されるのを聞いて、我れと我が耳を疑った。
意外である。刀折れ矢尽きて無条件降伏をした敗敵を前にして、今日の場合、よもや、このような広量かつ寛厚な態度をとろうとは、まったく予期していなかった。----自制して静かに、自由と覚容と正義を説くのは、まことに立派だと思った。勇気に富むクリスチャンだと思った。そして、日本はこれで救われたと思った。そう信じた。私のみならず、艦上のすべての人は、ことごとく元帥に魅了されていた。

写真(右):1945年9月2日 戦艦「ミズーリ」Missouri(BB-63)艦上のサザーランド中将が重光葵外務大臣の降伏調印を見守る。右は,随員の外務省情報部長加瀬俊一。:Lieutentant General Richard K. Sutherland, U.S. Army, watches from the opposite side of the table. Foreign Ministry representative Toshikazu Kase(加瀬俊一) is assisting Mr. Shigemitsu(重光葵). Naval Historical Center.加瀬俊一の手記を読むと,彼ら宮中グループが,マッカーサー元帥を日本再建,国体護持の道筋を与えた人物とて,過剰といえるほどに,高く評価していることに驚かされる。東京裁判についても,同じ趣旨で,うまくいったと考えたはずだ。後になって,東京裁判は無効だというような自称保守派の意見を聞いたとき,内心,その浅はかさを感じたのであろう。

重光全権が進み出た。----「重光葵」と署名した。---続いて、梅津全権が署名し、次にマッカーサー元帥が署名した。---あとは、アメリカ、中国、イギリス、ソ連邦、オーストラリア、カナダ、フランス、オランダ、ニュージーランドの順番で戦勝国代表が次々に署名した。
これを見ながら、東海の孤島日本がよくもこれだけ多数の強国を相手にして、大戦争をしたものだと、いまさらのように、その無謀に驚く思いがした。それと同時に、これだけの政治家、外交官がいるのに、連合国側としても、なぜに日本を自暴自棄的な戦争に追いこんだのだろうか、と疑わざるを得なかった。
また、赤い軍服を着たソ連代表が胸を張って傲然と構えた際には、終戦に先だって日本政府がクレムリンに和平の仲介を依頼したにもかかわらず、中立条約を一方的に破棄して日本に宣戦した経緯を想起して、一種の不潔感を禁じ得なかった。そのようなソ連を対日参戦に誘導したアメリカ外交も愚かであるが、対日戦争と対独戦争の終了は、やがて米ソ関係を冷却せしめるに相違ないと思われた。----VJデーの乾杯が期せずして米ソ反目の開始となる。とすれば、戦勝国の祝杯も必ずしも甘露ではなかったろう。


写真(右):1945年9月2日,東京湾の戦艦「ミズーリ」艦上の日本降伏調印式の終了;降伏文書の回収を行うKatsuo Okazaki 加瀬俊一は,日米開戦時には東郷茂徳外務大臣の秘書官兼政策局六課(北米担当)課長。加瀬俊一は,Lieutenant General Richard K. Sutherlandとやり取りをして,国名と代表者氏名の一致しないことを訴えた。

----これで式は滞りなく終了し、我々一行は、往路を逆に、再びランスダウン号に乗って、横浜港に向かった。---この時、----VJデーを慶祝して、四百のB29と一千五百機の艦載機が一大ページェントを展開した。その轟音の問から、マッカーサー元帥の本国向けの放送が流れる。これが、また、流麗豪壮な演説であるが、日本についてもその将来を期待して、「日本民族の精力が平面的でなく立体的に発動し、その才能が建設的に活用されれば、必ずや現在の悲境から脱出して、尊敬に値する国際的地位を回復するであろう」と大胆に予言したのである。

私は---急いで調印式の経過、とくにマッカーサー元帥の態度と演説の意味を詳説した報告書を認めた。重光全権はこれをもって直ちに参内した。----私はこの報告書を、「もし日本が勝っていたら、果して今日マッカーサー元帥がとった態度をアメリカに対して示し得たでありましょうか」という疑問で結んだ。これには陛下も暗然たる表情で同感の意を表されたのである。

いま、敗戦によって、国民がこの事実に思い至れば、それが、とりも直さず、再起の大道に連なるのである。マッカーサー元帥は、いみじくも、この大道を展望したのであってその意味で、我々に新たな勇気をふるい起させたのだった。元帥の演説は暗黒をつらぬく一条の光明だったといってもよかろう。加瀬俊一(1981)『加瀬俊一回想録』「映像で見る占領期の日本−占領軍撮影フィルムを見る−降伏調印式関係史料集」引用終わり)

現在の保守派には,「米国への従属はけしからん」「独自外交を展開すべきだ」「戦後日本の個人主義教育が人身の荒廃をもたらした」と主張する政治家・指導者が多い。しかし,終戦後の保守派(宮中グループ)の政治家・指導者たちは,従来まで戦っていた敵国の温情を受け,親米派を主流とし,マッカーサー元帥の恩恵を肌身に感じて,彼を個人的に尊敬した。まさに,日本人を殺害してきた敵に,媚をうり追従していると錯覚してしまうほどの耽溺である。彼ら保守派の大先輩(宮中グループ)こそが,自らの身の処し方こそが,米国への従属,親米の立場を選択したのであり,それが日本再建の道であると確信していた。決して,米国の占領政策を押し付けられたとか,マッカーサー司令官の下で強要されたものではなく,日本の保守は自らの企図,すなわち国体護持と日本再建を実現してくれる政府が占領軍総司令部であり,マッカーサー元帥だったのである,保守派は,占領軍総司令部を利用して,国体護持と日本再建を図ったのである。このような米国従属を企図した親米保守派の政治的末裔が,反米,独自外交を唱えるのは,大先輩の深謀遠慮をないがしろにする行為のようにみえる。それとも,当時とは状況が変わって,国体は完全に護持された現状では,再び対米独立路線を歩むのが国威発揚につながると考えているのであろうか。

いずれにせよ,今の日本を作った,今の親米,米国追従路線を選択したのは,キュウチュウグループに代表される保守派である。その後に,大きな禍根を残したというのであれば,それは占領軍総司令部という外圧ではなく,新米保守は自らが引き起こした禍いであり,彼らがその責任を追うべきである。

大本営海軍部/軍令部作戦部長富岡定俊少将の回想(映像で見る占領期の日本:降伏調印式関係史料集引用)

降伏式の全権選定がまた一騒ぎだった。連合軍の指令で政府を代表する全権と大本営を代表する全権各一名と随員数名ということであったが、誰が行くかということになると皆いやだいやだで引き受け手がない。
重光外相の代表はまず動かんところだが、大本営はもめたあげく、梅津参謀総長が無理矢理に押しつけられた。海軍の代表の段になると、「梅津代表となれば総長だ」という者があったが、豊田総長は猪首を横に振った。「それじゃ次長(自決した大西中将の後任の高柳儀八中将)だ」と言えば「いやだ」という。とうとう「作戦に負けたのだから作戦部長行け」とのっぴきならぬ無理往生で私が海軍の主席随員にされてしまった。こういうところに、たしかに海軍はずるいところがあった。何しろ“降伏するぐらいなら死ね”と十八、九歳のころから五十歳近いその年まで長の年月たたきこまれた観念では、今から考えればおかしいぐらいだが本当に死ぬより辛かった。


写真(右):1945年9月2日(日本3日),東京湾の戦艦「ミズーリ」での降伏調印式に出席した日本代表団;重光葵(外務大臣),梅津美冶郎参謀総長(海軍の豊田副武軍令部総長は欠席) and 梅津美治郎(陸軍大将・参謀総長)Chief of the Army General Staff. 後方は,左から右に:永井八津次(陸軍少将、大本営陸軍参謀);岡崎勝男(終戦連絡中央事務局長官);富岡定俊(海軍少将、大本営海軍部第一部長);加瀬俊一(内閣情報部第三部長), 宮崎周一(陸軍中将、大本営陸軍部第一部長)。さらに,後方は左から右に:横山一郎(海軍少将、海軍省出仕);太田三郎(終戦連絡中央事務局第三部長);柴勝男(海軍大佐、大本営海軍参謀(軍令部第一部), 杉田一次(陸軍大佐、大本営陸軍参謀、東久邇宮総理大臣秘書官)。「東久邇日記」九月二日によれば,「重光代表は政府代表は近衛公がよいと申し出てきたが、私は考慮中だといって確かな返事をしなかった。梅津参謀長も大本営代表は、参謀総長と軍令部総長と二人でなければいけないと再三いって来たが、私は返事をしなかった。しまいに、梅津は、『もし参謀長一人を代表とする時には自決する覚悟である』とまでいって来たが、私はなおも返事をしなかった。梅津は私に直接交渉はしなかった。私は近衛、木戸、緒方三大臣と相談して、重光、梅津を代表とすることにし、天皇陛下のお許しを経て、終戦処理委員会で発表し、三十一日の閣議で決定してしまった。これが国政をあずかる最高責任者の態度というものであろうか。」とある。

迎えのランチででミズーリ号に向かったが、隻脚の重光全権は大兵肥満の米水兵にまるで子供でも抱くように軽々と舷梯に抱きおろされた。案内の士官も兵隊のいたわり方も昨日まで必死の戦いを続けた憎たらしい敵国人だという様子がいささかもない。周囲に集まった水兵が皆カメラでこの情景を写そうとする。大の男が赤ん坊のように抱かれている姿はあまりみっともよくはない。外務省の随員が案内将校に「済みませんが、ここの写真はやめさせてもらえませんか」と頼めば、「オーライ」と気軽に引きうけて大声で号令すると皆カメラを引っ込めてしまった。

どんな取扱いを受けるか侮辱を受けるかと心ひそかに覚悟していた私は「オヤッ、これは大分見当が違ったぞ」と、ちょっと心を打たれた。
定めの席につく間、だれ一人予期していた侮蔑的態度を示したものがない。八月十九日マニラに派遣された我が軍使が比島人から受けた非常な侮辱的取り扱いに比べてこれはまた何という違いだろう。式場の側壁には1852年、ペルリ提督来航の際の古い星条旗が掲げられていた。

どんな過酷な義務と懲罰を加せられるか、もしもの時にはと心配もし、心ひそかに覚悟するところのあった私は周囲の風物もあまり心にとまらなかった。目についたのは米軍将星の列の中で一人だけ戦闘帽をかぶったハルゼー将軍の姿であった。ブルと仇名されただけに精悍な面構え、この人ばかりは許すまじき面持でわれわれをにらみつけていた。
マッカーサー連合軍最高司令官が、マイクの前に立った。無造作な軍服姿だが堂々たる態度、声量豊かな声。「…戦は終わった、恩讐は去った。神よ!この平和を永遠に続けさせ給え!」最後の言葉を述べるとき元帥の目は空の一角に向けられその敬虔な態度と声音は、人に対して語る姿ではなかった。日に見えぬ神に捧ぐる誓いと祈りのほかの何物でもなかった。----しかし元帥のこの言葉と態度には心の底から組伏せられてしまった。恩讐の彼方にあるおおらかな気持、キリストの愛があの大きな胸に包まれている。それに引替え何と小さな島国根性であったかと心の底から打ちのめされた気持であった。不覚の涙で目尻が熱くなる。

日本の降伏が定まってから在日の外国の論調は無電で聴取していたが、峻厳そのもので、ただただ実力で押えつけて管理し変革するという線を越えたものは一つもなかった。然るにそのようなことは元帥の言葉にも態度にも微塵もうかがわれなかったのである。「ペルリ」提督の星条旗をかざったマッカーサー元帥の心が初めてわかった。

写真(右):1945年9月2日 戦艦「ミズーリ」Missouri(BB-63)艦上で日本降伏文書に署名するSupreme Commander Allied Powers (SCAP)マッカーサーDouglas MacArthur 元帥;連合軍最高司令官マッカーサー元帥の後方には,1942年にフィリピン コレヒドール島で日本軍に降伏した米国陸軍Lieutenant GeneralウェンライトJonathan M. Wainwright, とシンガポールで日本軍に降伏した英国陸軍Lieutenant General Sir パーシバルArthur E. Percivalがいる。二人とも,日本軍の捕虜収容所から解放されたばかりだった。署名に使用した金ペン軸(5本使用)は,ウェンライト中将とパーシバル中将に各1本プレゼントされた。

----次に米国代表のニミッツ提督が第三十八機動部隊司令長官マッケーン中将等を従えて米軍代表の列から出てきた。----いつも彼の写真を作戦室に掲げて今度はどういう手に出るか、どんな戦略で来るかと明暮れ睨めっこして頭を悩ました相手であった。---終始合理的な強靭無比な戦いぶりを見せた猛将で、どんな凄い風貌かと思えば、これはまた意外にも最もレファインされた紳士である。態度は鄭重謹厳で地味な様子、いつも日本海軍を馬鹿にするなと戒めていたというのももっともだと思われた。-----彼は恐らくは自分が全滅させた日本海軍の屍を踏みにじりはしないであろう。静かに花輪を置く人ではあるまいか。
ついてきたマッケーン将軍も瀟洒たる紳士でこれが日本全土を荒らし回った第三十八機動部隊の指揮官だったかと意外に思うような人柄であった。いつもこの機動部隊を目の敵にして狙っていたがついにその目的を達し得なかった私は、余人にはわからぬ感慨を覚えた。

各国代表が式場を去ったあとで、日本側が降伏文書を点検したところが、カナダ代表が署名欄を間違えていた。岡崎外務随員の要求にサザーラソド参謀長はいとも無造作に手ぎわよく訂正処理して、もし立場が逆だったらやるであろう「このまま持って帰れ、敗戦国が生意気言うな」といったようなところが微塵もないのがうれしかった。

また駆逐艦で横浜へ送られて東京へ帰る途中、行きも帰りも瓦轢の道は同じ、景色も同じ景色だが、今こそ完全に打ちひしがれた気持であった。「国亡びて山河あり」の無限の悲しみに、心はしめつけられるように苦しかった。
これなら「レジスタンスはやらないで済むな」と思い、帰ってから米内さんに報告したら「うんわかった。お前死ぬなよ」と言われた。ある先輩からも懇々とさとされて、私は古巣の海軍大学校の片すみに、みなさんのお骨折りで史料調査会を設け、今日まで戦史の研究をしている。(降伏調印式関係史料集 ・『文藝春秋』1950年9月号引用終わり)

1945年9月2日(日本3日)戦艦「ミズーリ」での降伏調印式におけるマッカーサー元帥の演説
MacArthur's Speeches: Surrender ceremony on the U.S.S. Missouri
降伏調印前
We are gathered here, representatives of the major warring powers, to conclude a solemn agreement whereby peace may be restored. The issues, involving divergent ideals and ideologies, have been determined on the battlefields of the world and hence are not for our discussion or debate. (理想とイデオロギーを巻き込んだ問題は,戦場で片がついたのであり,もはや議論の余地は無い。)Nor is it for us here to meet, representing as we do a majority of the people of the earth, in a spirit of distrust, malice or hatred. But rather it is for us, both victors and vanquished, to rise to that higher dignity which alone befits the sacred purposes we are about to serve, committing all our people unreservedly to faithful compliance with the understanding they are here formally to assume.

It is my earnest hope, and indeed the hope of all mankind, that from this solemn occasion a better world shall emerge out of the blood and carnage of the past ---a world dedicated to the dignity of man and the fulfillment of his most cherished wish for freedom, tolerance and justice.(過去の流血と大量殺戮の後に,自由,寛容,正義を重んじる威厳ある人々の前に,よりよい世界が現れることを希望する。)

降伏調印署名後の演説
Today the guns are silent. A great tragedy has ended. A great victory has been won....(今日,銃声がやんだ。大いなる悲劇が終わり,偉大な勝利が勝ち取られた。)

As I look back upon the long, tortuous trail from those grim days of Bataan and Corregidor, when an entire world lived in fear, when democracy was on the defensive everywhere, when modern civilization trembled in the balance, I thank a merciful God that he has given us the faith, the courage and the power from which to mold victory. ----We must go forward to preserve in peace what we won in war.(我々は,戦争で勝ち取った平和を,将来まで,保持しなくてはならない。)

A new era is upon us. Even the lesson of victory itself brings with it profound concern, both for our future security and the survival of civilization. The destructiveness of the war potential, through progressive advances in scientific discovery, has in fact now reached a point which revises the traditional concepts of war.(勝利の教訓は,我々の今後の安全保障,文明の生存への強い関心を引き起こす。)

----We have had our last chance. If we do not now devise some greater and more equitable system, Armageddon will be at our door. The problem basically is theological and involves a spiritual recrudescence and improvement of human character that will synchronize with our almost matchless advances in science, art, literature and all material and cultural development of the past two thousand years. It must be of the spirit if we are to save the flesh. (もしも,我々がより適切なシステムを構築できないのであれば,最終戦争ハルマゲドンはすぐやって来るであろう。問題は,基本的には,技術的ではあるが,同時に精神的再燃と人類の持つる性向の改善にも関連している。)

1945年9月3日(米国2日)の日本降伏調印式でのマッカーサー元帥の演説は,内容を吟味しても,日本の戦争責任,戦後処理,兵士の復員,政治体制,国体,占領政策の具体像は述べられていない。にもかかわらず,多くの日本政府首脳陣や軍高官に感銘を与えたようだが,これはひとつには,降伏調印式の演出と日本代表段への丁寧な応対にあった。そして,降伏調印式でのマッカーサー元帥の演説には,敵国日本とその軍隊への侮蔑的態度,政府首脳・大元帥昭和天皇への非難が無かったが,このことが,日本政府首脳陣や軍高官に,戦後日本の再建の期待を抱かせるものだったのである。

第二次大戦中,頻繁に連合国首脳会議が開催され,米英ソ仏中の対ドイツ・日本戦略が話し合われた。会談は,戦略重点の対立もあったが,無条件降伏という基本方針を貫いた。また,ドイツと日本の戦後占領統治についても議論されたが,欧州に比してアジアの戦後計画には,対日戦を担ってきた米国の影響力が強く,日本の戦後は米国に委託された形になった。

連合国首脳会談で,日本の戦後処理が明示されていない以上,戦後日本の戦争責任や政治体制は,米国の意向を具体化する占領軍総司令官マッカーサー元帥にかかっていた。日本の指導者,特に宮中グループは,マッカーサー元帥の権威の大きさを熟知して,それに積極的に協力することによって,戦後日本の再建,国体護持に尽力したようだ。つまり,敗戦後の日本は,終戦の聖断前後から,親米(米国追随)外交を展開することを決めていたといえる。


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東海大学教養学部人間環境学科社会環境課程 鳥飼 行博
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