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今夜の番組チェック

片岡都美(かたおか さとみ)

美濃カントリー倶楽部 “経営権争い”最中の追徴 ◆泥沼…実は共謀? 整理回収機構「茶番劇だ」(読売新聞中部、2003年10月5日)

ニセ有栖川宮の大スポンサーが仕組んだフジモリ元大統領・デヴィ夫人を巻き込むマルチ商法(週刊文春、2003年11月6日号)より

(略)
まず、ニセ有栖川宮殿下の自宅は京都市内にある家賃十八万円の高級マンションだが、この部屋を借りたのは『グランドキャピタル(株)(以下、グランド社)』(東京・新宿区)なる聞きなれない会社だった。(略)
また、ニセ有栖川宮は『蘇生回帰(株)』という会社の役員に就任していたが、同社の登記簿にはグランド社関係者が役員に名を連ね、グランド社は『蘇生回帰』に対し、短期貸付金として八千七百二十万七千二百九十円を融資している。蘇生回帰社は「有栖川識仁書」「宮内庁献上品」というラベルが貼られた「神機水(かんながらのみず)」という怪しげな飲料水を販売していたが、この商品はグランド社でも販売されていた。
(略)
グランド社は昨年八月、大手町に聳え立つ「野村ビル」二十二階の全フロアーを借り切って本社オフィスを構え、盛大なオープニングパーティを開催している。パーティで挨拶した顔ぶれは長嶋茂雄巨人軍終身名誉監督の夫人、亜希子さん、タレントのデヴィ夫人フジモリ元大統領、そしてニセ有栖川宮……。
しかし、この盛大なパーティからわずか三カ月後、昨年十月二十五日、グランド社は東京地裁に破産宣告を受けた。破産管財人らが大手町の豪勢なオフィスに乗り込んだ時はすでにもぬけの殻。
(略)
「オフィス・デヴィ・スカルノ」に問い合わせるとグランド社の謎のオーナー・矢澤俊治との出会いは一年半前、場所は銀座の有名クラブ。夫人は女性実業家の片岡都美氏の誕生日会に招かれ出席したというが、その席に矢澤俊治氏が来ていたという。
「“青年実業家”と紹介され、グランドキャピタル会長というお名刺を頂いた。フジモリ元大統領もいらっしゃいました。(略)」(同オフィス)
(略)

「北」へ行く「白船義士団」って何だ(Yomiuri Weekly、2003年10月19日号)より

黒船にあやかり、赤穂浪士にもちなみ(?)「白船義士団」――。こんな大時代的な名前を付けたグループが10月末、日本から北朝鮮に向かうという。テレビのパロディ番組ではない。団長は、あの元赤軍派議長の塩見孝也氏。ほかにも有名人が続々参加の予定だという。目的はずばり「拉致問題打開を目指す」。一方、拉致被害者家族らからは、「北」の謀略を警戒する声が上がっている。
本誌 北朝鮮問題取材班/撮影 吉川努

(略)
〈平和の船による朝鮮訪問団を熱烈に歓迎する〉
コピーには、そうした「伝言」とともに、確かに北朝鮮の平壌ホテルから「7月22日(午前)10時25分」にファクスで送信されたことを示す文字があった。
発信者は、康成輝(カンソンフィ)なる人物。「国際民間交流協会」代表兼事務総長という肩書と、朝鮮労働党中枢に直結するパイプを持つ在日朝鮮人だ。クリスチャンという以外は、素顔がほとんど知られていない。
塩見氏は、7月初め、その康氏に手紙を託した。金正日総書記(国防委員長)と朝鮮労働党中央委員会にあてたもので、訪朝希望をしたためた内容だった。
その返答が冒頭のファクス。
(略)
ファクスの文面をよく見ると、そこには「団長デヴィ夫人」の文字が……。当初、グループの団長はなんと、あの“ワイドショーの華”だったというのだ。
もともとデヴィ夫人は、ボランティア活動家としても有名で、今回の訪朝参加も強く希望していたが、最近になって参加が困難な状況になったという。
そこで、急きょ団長は訪朝発案者の塩見氏となり、副団長には「新右翼」一水会顧問の鈴木邦男氏が就任することに。
(略)

《ファクスのコピー(khon注:読めない文字は○にした)》
自主日本の会
代表 塩見孝也 様
(塩見さんには FAXでお伝え下さい)

PYONG YANG
HOTEL 338
KANG SONG HW

前略
7月10日(木) ○ースの為、新潟空港出発、ウラジオストーク経由、ピョンヤン到着
 ピョンヤン ホテル 338号 宿泊〉泊
7月17日(木) 片岡都美、塩見孝也 連名による手紙を責任担当者に
 正式に伝達、具体的に説明しました。
7月18日(金) 平和の船による訪朝団(9.9 朝鮮建国○周年、
 9.17 ピョンヤン宣言1周年 記念 朝鮮訪問団、団長 デビ夫人)
 歓迎、及び 事務局体制(国際民間交流協会と朝鮮側は
 明花貿易事務所をかりる○を スタートさせました

週刊新潮(2002年8月1日号)より

フジモリ元大統領が日本で見つけた「花嫁」は30歳年下の女社長

(略)
一方、元大統領から人生の伴侶と慕われている女性の気持ちはどうなのか。彼女は、都内でホテルを経営する片岡都美社長。靖国神社の移転反対運動などにも携わっているため、政界、財界にも知己が多く、いわゆる任侠の世界の大物たちにも知人を持つという広い人脈で知られている。(略)

ZAKZAK(2002年7月25日)

フジモリもメロメロの美人社長の素顔―色恋沙汰のヒマはない、とバッサリより

かつて仏社交界で“東洋の真珠”と呼ばれた、あのデヴィ夫人とも「お友達です」。今も人脈は「政財界から裏社会の紳士まで幅広い」(政界関係者)とされる。

片岡都美 著「武士道、ここに甦り―骨抜きになった日本の精神をいますぐ叩き直せ 革命は女からはじまる」(日新報道、2001年8月16日 発行)より

あとがき
これで私の言いたいことのすべてを言い尽くしたわけではありませんが、とりあえず、核心的部分は盛り込むことができたと思います。
アメリカは戦後、半世紀にわたって日本を武力による制圧ではなく、いわゆる「骨抜き政策」によって、アジアとの分断を図るとともに、日本人がふたたび「大和魂」を蘇らせることが出来ないようにすることを最大の眼目として置いてきました。
しかし、徹底した精神性の破壊が実行され、いくら表面的には日本精神を粉砕したように見えたとして血の中に流れている日本民族三千年の「底力」までは、どうにもならないのです。
日本人の血の中に流れている大和魂というDNAは靖国神社に参拝することで目覚め、甦るのです。
アメリカや中国などはそれが恐い。だから、彼等は靖国参拝に反対するのです。しかし、それに屈してはなりません。
(略)

片岡都美 著「愛して止まず―特攻の父・海軍中将大西瀧治郎との幻の恋」(日新報道、2001年8月16日 発行)より

HOTEL PRINCESS GARDEN
代表取締役社長

《序にかえて》
愛して止まず─大西瀧治郎のあと追いて
著者・片岡都美さんに贈る
作詞 竹本忠雄

ショパン作曲『ピアノ協奏曲第一番』をBGMに、どうぞ。
本書はその三つの楽章をかりて構成されております。

《16ページ》
入れ違いに、こんどは廊下で、続けざまに咳する男性の声。「なんだか、ここの廊下にはいったら、急に咳が出て咳が出て…」といいながら部屋にはいってきたのは、ライブラリーからもどった竹本忠雄氏です。フランス文学者で、わたしの師匠の一人、そして瀧澤さんはその小学校時代からの親友という間柄です。

《62ページ》
徐々に、みえない世界がみえてくる不思議は、自分に一種の霊媒的素質があるためらしいと、だんだんと気づくようになっていったわたしです。

《63ページ》
生まれ落ちた多治見の町

《64ページ》
その後、わたしは、中学を出ると、日本脱出を図りました。と、いっても両親の命ずるままにロスアンゼルスに行かされたのです。
(略)
ところが、どっこい、わたしは持ち前の反骨精神で、21歳までの6年間をロスアンゼルスで過ごしてしまいました。

《66ページ》
臭気ふんぷんの小娘で国を出て、芳紀18、9歳を―ちょと大げさかな―異境で迎え…と、まあ、もてもての春が来たというところでしょうか。
英語もどうやら身について。
カレッジでは心理学とホスピタリティのABCも学びました。これが将来の自分をつくることとなります。
(略)そんなある日、書店で、三島由紀夫の本をみつけたのです。
『憂国』でした。
表紙に、半裸の作家が日本刀を半身にかまえ、刀身が不気味に光っています。じっと視ているうちに、感動と郷愁が一時に胸にこみあげてきました。ああ、日本は素晴らしい、こんな男性がいたんだ、と。

《67〜68ページ》
この確信をふかめて、21歳で日本に帰ってきました。
25歳でホテル社長に
帰国後、ワシントンに本社のあるロビイストの会社に勤務し、かたわら、自力で通訳派遣会社を設立しました。ちょうどバブル景気のころで、外国人の出入りも多く、波に乗って繁盛しました。23歳のときです。
(略)
翌年、ある人の借金の保証人になったことが失墜の始まりでした。(略)

《69〜70ページ》
すべてに幻滅し、ひたすら自殺を思いつめるようになりました。
死を決意し、そのまえにせめて一杯のココアでもと思ったホテルのラウンジで、まったく偶然に、自分を助けてくれることとなる方と出遭いました。その方は、前から顔見知りのグループ会社の社長だった方で、信用金庫の理事だった叔父の取引相手でした。その方にどんづまりのことを打ち明けると、彼だけが理解を示してくれたのです。
そうか、そんなに困っていたのか。それならここに自分の投資先会社がある。そのための援助はするからやってみないか。死んだ気でぶつかれば立てなおせないはずはあるまい。社長としてやってみなさい、と…
それが、今の会社でした。
こうして、平成2年(1990)、25歳でホテル社長となりました。現在の「ホテル・プリンセスガーデン」です。
ホテルは以前、会員制の社交クラブを持ち、金持ちの虚栄をくすぐる高給イメージで成り立っていました。しかし、稼働率は、わずか20パーセント。それがホテル・プリンセスガーデンとなり、5年まえから成績急上昇して、いまや90パーセント以上に達しました。このほど、この方面のランキングで全国ホテル第6位に位置づけられたところです。
ところで、ホテル・プリンセスガーデンは、明治の元勲、三条実美公の屋敷跡に立っています。(略)

《72ページ》
ホテル経営を始めて2年目、バブル崩壊のため恩人の大手社長は苦境にみまわれ、このときとばかりわたしは身命を賭して恩返しにつとめ、いったんは返り咲かせたものの、そのあと、その方は急死してしまったからです。
このため、わたしは心身とも打ちのめされて、再度の再起不能に追いこまれていったのでした…

《75〜76ページ》
まして、妬みは人の判断を曇らせます。そうでなくてさえ、若き企業家として陽のあたる道をあゆみはじめた「片岡都美」を面白からずみていた一部の人々は、名のある我が恩人の死を知るや、一斉にわたしを攻撃しはじめたのです。
なかには、まるで成功が色仕掛けによるものだったように言いふらす手合いもありましたし、急死がミステリアスなもののように疑う連中まで現れました。
もはや頼りとする人は亡く、ふたたび嵐のなかの孤愁を味わうばかりでした。
そんなとき、電光のごとく頭にひらめいた方がありました。
ある任侠界の大物の会長ですが、お会いすると、驚いたことにその方は、大東亜戦争の戦犯として外地で処刑された一千数百人の御霊のために位牌をつくり、日夜、写経と読経を絶やすことなき生活を送っておられました。

《78〜79ページ》
思わず、わたしは座布団から滑り下りていました。
「会長、わたしは、日本のために身を尽します。事を起こすときは、きっと、お杯を受けて立ち上がります」
すると会長は、さらに、優しい声で、
「そのときは、わたしも、国のために決起する覚悟です…」
簡にして、直でした。

《83ページ》
私の身体には日本人の血と韓半島の血も流れています。