2008年08月03日 05:30 [Edit]
シビリアン必読 - 書評 - 戦争における「人殺し」の心理学
戦争の心理学 - レジデント初期研修用資料を見て入手したのだが....
すごい。すごすぎる。スゴ本中のスゴ本。
民と兵が分かれている国における民、すなわちcivilian(シビリアン)=有権者は必読の一冊ではないかこれは。
本書「戦争における「人殺し」の心理学」は、兵士にして心理学者である著者が、戦争、すなわち「誰かのために人を殺す」とはいったいどういうことであり、そしてそれが人の心に何をもたらすのかということを、「鬼手仏心」に書いた一冊。
目次 - 筑摩書房 戦争における「人殺し」の心理学 / デーヴ・グロスマン 著, 安原 和見 著を大幅追補
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本書を貫く姿勢は、以下のマッカーサーの言葉に集約される。
P. 35「兵士ほど平和を祈る者はほかにはいない。なぜなら、戦争の傷を最も深く身に受け、その傷痕を耐え忍ばねばならないのは兵士だから」
そんな著者は、兵士の一人である。それもとびきり優秀な。
PP. 31-32私は兵士として二十年間軍に在籍している。第八十二空挺師団で軍曹、第九(先端技術試験)師団で小隊長を務め、第七(軽)歩兵師団で参謀幕僚および中隊指揮官をつとめた。また落下傘歩兵、陸軍のレンジャーの資格ももっている。北極圏のツンドラ地帯、中米のジャングル、NATO本部、ワルシャワ条約諸国、そして無数の山々や砂漠に配置されてきた。また、第十八空挺兵団下士官学校から英国陸軍幕僚大学まで、さまざまな兵学校を卒業している。学部では歴史学を学んで卒業し、大学院では心理学を先攻し、卒業の際にはカッパ・デルタ・パイに入会を認められた。光栄にも、ウェストモブランド将軍の共同後援者として、全米ベトナム帰還兵連合本部の代表者の前にたったことがあり、全米ベトナム帰還兵連合の第六回年次大会では基調演説をさせていただいた。中学校のカウンセラーからウェスト・ポイントの大学教授まで、さまざまな教職についた経験もある。そして現在は、アーカンソー州立大学の軍事学教授であり、軍事学部の学科長をも勤めている。
しかし、この輝かしい経歴を、著者がいやみなほど長々と書いた理由は、自慢のためではなく自省のためである。
しかし、このような経歴にもかかわらず、リチャード・ホームズ、ジョン・キーガン、パディ・グリフィスなど、以前にもこの分野に足を踏み入れた人々と同じく、私は戦闘で人を殺したことがない。おそらく、みずからも心理的な重荷を背負っていたならば、研究に必要な冷静さや客観性を保つことはできなかっただろう。しかし、本書を埋め尽くす証言の語り手は、現実に人を殺したことのある人々である。
著者ほどの経歴の持ち主にして、こう言わしめるほど、戦闘で人を殺すというのは並大抵のことでないというのが本書の第一の主張である。一言で言えば、我々は生まれながらの殺し屋ではない、ということである。
その生まれながらの殺し屋でない人々を、殺し屋に変えるのが、軍隊という組織であり、戦争である。軍隊が人々をどう殺し屋にし、そして戦場において殺しの体験が兵士にどのような影響を与えるのかは、ぜひ本書で確認していただきたいが、以下の知見はここで紹介しておく価値がある。それは
遠くの敵ほど、殺しやすい
ということである。ここでいう「遠く」には、物理的な距離がまずある。ICBMのボタンを押すのは、目の前の兵士に銃剣を突き刺すよりも心理的に遥かに楽なのだ。
しかし、この「遠く」には、もう一つ心理的な距離という意味もある。「敵の兵士」を殺すのは難しいが、「標的」を殺すのはさほど難しくないのだ。そして、訓練によって「敵の兵士」を「標的」にしてしまうことが実は可能であり、そして優秀な軍隊ほどそれをやっているというのが著者の主張である。それが、著者の言う「脱感作」(desentitization)である。
著者によると、訓練においてはなるべくリアルな標的を用いるべきなのだという。紙の的ではだめで、「人形」の方が優れている。それも単に人形(ひとがた)をしているのではなく、撃てば血が出るようなものがよいのだそうな。これによって、兵士は実戦において「敵」を「人」ではなく「標的」として扱えるようになる。
しかし、このように「脱感作」されたままの兵士は、そのままでは平和な社会に戻ることが事実上不可能なほど困難であるというのが、本書の最重要な指摘であるかも知れない。そのことを最もよく描いた映画は、多分「ディア・ハンター」だろう。本書には映画も含めさまざまな作品が効果的に引用されているが、なぜかこの傑作をスルーしている。まだ観ていない人は是非この機会に。
本書が圧巻だったのは、その知見を「軍の外」にまで広げていることだ。それが「アメリカでの殺人【アメリカは子供たちになにをしているのか】」である。本書はかの国のメディアのありようを、「アメリカ社会を脱感作している」のだと糾弾した上で、修正憲法第一条、言論の自由の濫用に疑念をはさんでいる。
これは、心底びっくりした。読みようによっては「ゲーム脳の恐怖」なのだが、しかし「ゲーム脳の恐怖」にはない、本物の兵士ならではの凄みが本書にはある。
かの国に住んだ経験のない人に、いかにかの国において Bill of Rights (修正憲法1-10条)が重んじられているかを説明するのは困難なのだが、かの国には、「それを守るためなら死ぬ」と本気で語る人がいくらでもいる。右も、左もだ。実際そうやって軍隊に入る者も少なくない。著者自身、「君の命と Bill of Rights を引き換えにせねばならぬ」と言われたら、喜んで命を差し出すだろう。その、彼らにとって命よりも大切 (Larger than Life) な修正憲法、それも第一条の運用に対して異議を申し立てるというのは、戦場で生命を危険にさらす以上に勇気がいる行為ではないのか。
本書の結びに関しては、正直私はかなりの違和感を感じた。修正憲法第一条は、第二条(武器所有の自由)とは同列に扱えない。武器を制限するように言論を制限したのでは、本書すら禁書扱いになりかねないではないか。こと言論に関しては、脱感作と同時進行で再感作(resentitization)していくしかないのではないか。しかし、著者の問題意識には深く共感する。
カヴァーによると、本書は、士官学校の教科書としても採用されているそうである。しかし、本書を真に必要としているのは、彼ら兵士ではなく我々市民なのである。特に為政者は必読であろう。ましてやそれが全軍最高司令官(Commander in Chief)ともなれば。
本書が上梓されたのは1998年。イラク戦争どころか現在の大統領の前である。もし George W. や Rumsfeld が本書を通読していたら、あの愚行はあっただろうか。また、ベトナム戦争の帰還兵(Vietnam Vets)を鎮めてきた著者は、どういう思いであの戦争を見つめていたのだろうか....
Dan the Civilian