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『護教の盾』掲示板
人を愛する心を忘れないでいきたいと思います。”
キリスト者として、必ずしもおかしなセリフではないでしょ?(笑)

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363.RE: いい加減目覚めてください。  
名前:ヨゼフ・ジェンマ    日付:8月1日(金) 23時6分
> 私に謝っても意味がないです。

そう言われると思ってました。

しかし、あれから程なく、彼にも謝罪をしようとして行ったんですよ。
けれど、おっしゃるように、「ただいまコメントを受け付けていません」。
他の方法を考えます。

しかし、あなたも「謝罪、謝罪」って。。
私にとっては事はそんなには簡単ではないのです。
事がそんなに簡単だったら、初めからあんな書き込みはしていません
そうでしょ?
私は子供でも心神喪失状態にある者でもないんですよ?
「衝動的」にやったことでもないんですよ?
あなたから見ていかに「非常識」に見えようとも、私として意図と目的を持ってやったことです。
それ故に、謝罪するにしても、「どの点をどのような意味で謝罪するか」ということがあるんです。

あなたが思ってるほど簡単ではありません。

362.いい加減目覚めてください。  
名前:A FOX    日付:8月1日(金) 22時14分
アヴェマリア!
あちらのコメントが書き込みストップになっていますのでこちらに書きます。
私に謝っても意味がないです。

まず、ブログ主である方に謝罪してください。
そして、謝罪すべき方に謝罪してください。

もう2度とここには書き込みません。

361.小清水 敬 様へ  
名前:マリア・ヨハンナ    日付:8月1日(金) 13時53分
>>http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Keyaki/5429/newavemaria.htm
差し出がましいことですが
ここを参照してみてはいかがでしょう?
川崎重行氏は 今の荒んだ(言葉がきつかったら ごめんなさい)
教会に 以前から 警鐘(?)をならしていらっしゃる方です。

子羊の晩餐についても 少しだけありますよ。

360.エンデルレ書店『子羊の晩餐』  
名前:小清水 敬    日付:8月1日(金) 10時4分
エンデルレ書店から『子羊の晩餐』(スコット・ハーン著 川崎重行訳)という最新刊が出版されたとのことです。聞くところによれば、アメリカで爆発的に売れた「正統信仰の本」らしいのですが、皆さんはもうすでに読まれましたか? 
ミサの本質(=聖なるいけにえ)をヨハネの黙示録と対比させて論証しているみたいなのですが、この本をどの程度信じてよいのか知識のない自分にはわかりません。どなたかアドバイスをお願いします。

359.ロザリオ  
名前:使徒ヨハネ    日付:7月30日(水) 14時48分
ロザリオ

358.というか...  
名前:ヨゼフ・ジェンマ    日付:7月23日(水) 22時19分
というか、
今の教会で、信徒がロザリオのことを堂々と言うことのできる雰囲気はあるのでしょうかね。堂々と「運動を起こし」「団体を組む」ことのできる雰囲気はありますか?
一昔前、ロザリオのことさえLP教団と結び付けられた時期があった、と聞いていますが、今の教会では、そんなナンセンスな "イメージの暗黙的連なり" は「きれいさっぱり」なくなったでしょうか。
それとも、なんかまだ残存していますか?
(誰に訊いてる)

357.フレデリックさんへ(RE:353、355)  
名前:ヨゼフ・ジェンマ    日付:7月23日(水) 22時2分
ああ、フレデリックさん、私の言葉が足りなかったのでしょう。
私が「日本におけるロザリオのセンター、中心地」と言う時、
それに「全国的な」という意味合いを含めたつもりだったのです。
散在する小グループではなくて。

そしてまた、「活発な広報活動をする団体」という意味合いをも含めた「つもり」でした。完全に言葉不足だったけれど。
でも、その意味で、例として北米大陸における「ファチマ・クルーセーダー」を挙げたのでした。(また、聖グリニョン・ド・モンフォールの『ロザリオの信心会』も、当時としては決して小規模なものではなかったのではと思います。そして、ある時期はとても「活発」だっただろうと思います。)
つまり、私が「センター 、中心地」と言う時、「力強さ」のイメージもありました。十分に「求心力」を持った団体を考えていました。

今の日本のカトリック界に、洗礼を受けた人が教会に通うようになって程なくして自然に知るに至るような、規模が大きく、且つ活発な活動をしているロザリオの団体がありますか?
私は、「ない」と思うのですよ。決して、「ない」。

つまり、「自らロザリオに関心を持った人が知ることができる団体」では駄目なのですよ。絶対に駄目。そんなことでは状況は変わらないから。
そうではなくて、その団体が信徒のところに出掛けて行って、その存在を「知らしめる」ようでなくてはならない。つまり、「教会内布教」ですよ。

のけぞらないで下さい。だって、私が7月16日の日記「聖ピオ十世会の『ロザリオの十字軍』が更新された」を書いた時、一応はですね... (汗かきますが)「日本のカトリック界全体における明らかな変化」を求めつつ書いていたからです。

今存在し、フレデリックさんが幸いなことに (幸いなことですよ.. ) 知っている「あちこちにある」小グループは、このようなことに自覚的に向かっているでしょうか。

広報の手段は何でもいいです。口コミでも、インターネットでも、機関誌でも。
また、「その団体が信徒のところに出掛けて行って」とは言っても、実際には、“教会のホールの机の上にいつも目に付くかたちで機関誌が置いてある”というレベルでもいいと思います。
しかし、とにかくそういうものを駆使して活発に行進・行軍している団体は、今、ありますか?
私は、「ない」と思うのです。


> あえて言えば、ファチマになぞらえるなら、やはりロザリオの
> センターたる場所は、本来は秋田だったはずだと思いますが。

ああ、そう言われれば、そうかも知れませんね。。
でも、おっしゃる通り、「黙殺」された。司牧者の皆さんは、あの預言の内容-----「司教は司教に、枢機卿は枢機卿に」-----が気に入らなかったのでしょうか。


暑苦しくてすみません。
しかし、言いながら私だって汗かいてるんですから。(エイトフォー、しゅー)

356.RE: ご心配ご無用!(2)  
名前:ヨゼフ・ジェンマ    日付:7月23日(水) 20時53分
「従順」について言えば、
現在の聖職者や修道者の生活の中で、
それは実際、もはやあまり大したものではないのだろうと思います。
教会は、かなり民主的なものになってしまいましたから。
もともと「従順」は、「権威」と共にあるものです。
だから、「権威主義的」であることや「中央集権的」であることをことさら嫌う教会や修道会にあっては、当然のように「従順」というものの影は薄くなります。

極端な例かも知れませんが...
「そんなのトップじゃないんだよ。」 [参照]
「教皇様、あれ、上司とは思わんけどね。兄弟だよね。仲間だよね。」 [参照]

もはや、司祭にとっての司教、司教にとっての聖座は、
「権威」の色を落とし、「従順」というほどの従順の的ではないのかも知れません。
あまり権威とか位階とか言わず、司祭、司教、修道者、枢機卿、教皇、一般信徒、皆一丸となって、仲良く平和に、キリストの愛において「一致」して働いていきましょう、
ということになっている。
司祭にとっての司教、司教にとっての聖座の代わりに、
今や「共同体における一致」が、権威になったのではないでしょうか。
「共同体における一致」「私達の教会の自治における一致」が、
「従順」の的になったのではないでしょうか。
極端な言い方をすれば、自由が権威になった、教会がアメリカ化された、というか。

そして、その「従順」の中身は?
おそらく、大したものではない。
非常に、大したものではない。
ここでは立って下さい、ここでは坐りましょう、
その動作に気持ちよく素直に一致することが、即ち従順です。
あるいは、「とにかく文句を言わないことです」。
とても外的なこと。
簡単なこと。

聖職者でも修道者でもない一般信徒にとっては、もともと「従順」はあまり大きなものではなかった、とも言えるかも知れません。一般信徒は、信仰の基本的な規則や掟を守っていれば、それで済むのだから。また、それでいいし。
けれど、今やその「信仰の基本的な規則や掟」も、揺らいでいるのではないでしょうか。今の教会の中で、「掟」とか「罪」とかいうものは、あたかも「ない」かのようになっているのではないでしょうか。外的なことでなく「信仰」の中身そのものにおいて、何もかも、昔のようなどっしりとした重みをなくし、ハッキリとした輪郭をなくし、相対的なもの [参照] になっているのではないでしょうか。
長上に対する「従順」も、天主と教会の掟の「遵守」も、あたかも「ない」かのようであるか、あったとしても、とても簡単なことになってしまっている。
しかし、それでいて、簡単な外的なことではなく「信仰」の中身そのもののこと、特に昔ながらの信仰のことを持ち出す者が出て来ると、急に「従順」が舞い戻って来て、にわかに「権威」の力を発揮して、押さえつけにかかるのではないでしょうか。

このへんのところを、『他界からの警告』の悪魔が皮肉たっぷりに「白状」しています。

“面白いことに、従順というものがこれほど大きな声で言われた時代はかつてなかった。つまり、現在ほどに、という意味だ。今、突然、従順が『重大事』になった。〔皮肉に笑う〕(…)全く突然に、彼らは全ての人々に従うことを要求している。そうすることが容易いからだ!(…)現在、現代的な展望を持った人々、また多くの金やその類を持った人々にとっては、従うことは、ある意味で、非常に容易なことになっている。それで、今になって『従順』は、砲弾のように地平線を越え、突進しつつ戻って来たのだ。以前はもはやニュースとはならなかったものが、今や再びトップニュースとなったのだ!”「教会における従順」

355.追伸  
名前:フレデリック    日付:7月23日(水) 20時52分
あえて言えば、ファチマになぞらえるなら、やはりロザリオのセンターたる場所は、本来は秋田だったはずだと思いますが。残念ながらほぼ黙殺されていますから。

354.RE: ご心配ご無用!(1)  
名前:ヨゼフ・ジェンマ    日付:7月23日(水) 20時48分
> 気を悪くなんかしていませんよ。

よかった。。(-。-)
ありがとうです。

> でも、まだ時が来ていないのですね。

そうですね。
でもまた、
「時はただ "やって来る" ものなのかどうか」
という問題もあると思うのです。
つまり、私達が立って「川を押せば」
時の到来は少しは早まるのかも知れません。
神様より早く走ろうとすることはイケナイことだろうけれど、
私達が努力しなければならない、
ということも本当だろうと思います。
・・・・・・
ということで、「ロザリオの十字軍」への参加をお願いします (笑)
・・・・・・
いや、後で訊いたりしませんので、ご安心を (笑)

> 「信仰」について話し合いたいのに、「従順」を言われる。

はい。
何度も出してウザイでしょうが、私は 「教皇様への手紙」 の中で、
「どうか彼らに "全ての" 論争を避ける態度はご要求にならないで下さい」
とお願いしました。
このことは聖ピオ十世会の生命線そのものだからです。
でも、カストゥリヨン・ホヨス枢機卿様によって提出された提案書は、
要するに「まず、口を閉ざしなさい」と言っています。
素朴に言って「信仰について話し合いたいのに」、その提案書は、
「聖ピオ十世会の場合、話すことそれ自体が“不従順”であり、
教皇の位に対する“尊敬の欠如”であり、
教会の愛に対する“否定的な態度”であり、
教会に対する“対立的な態度”である」と言っているかのようです。

ゴーマンかましてよかですか。
聖座は次のような真理の掘り下げが足りないのです。
(これは、ほんとは「真理」と言うほどの真理ではないし、
「掘り下げ」などと言うのが大袈裟に聞こえるほど
本来素朴な人間理解であるし、
これを見ることにそれほどの困難はない筈なのに。)

“聖トマスはここで、ある高位聖職者の公的な非難が「無遠慮な高慢の気味があるように見えるであろうが、しかしある点において自らをよりよいと考えることには何ら無遠慮は存在しない。(…) われわれはまた、ある人が彼の高位聖職者を愛をもって非難するとき、彼が自分自身を何かよりよいものと考えているということは帰結しない。それは、アウグスティヌスが、上に引用した彼の規則の中で述べているように、単に彼が『あなたたちの間でより高い地位にいて、それゆえにより大きな危険のうちにいる』人に彼の助けを提供するにすぎない、ということを思い起こさなければならない」と述べている。” 「教皇の間違う可能性」

353.ロザリオ  
名前:フレデリック    日付:7月23日(水) 20時43分
ジェンマさん、日本にはロザリオのセンターが存在しないんですかね。

それはちょっと言い過ぎかと。。。

集まってロザリオをしているグループはあちこちにありますよ。
私も月一回、十数人でロザリオ+@(文語体ですよ、もちろん)してますし、さぼりぎみですが、だいたい一日一環は回してます。週一回は、未信者のホームレスの人たちとともに、一連やってます。

日本には熱心な外国人のグループもいるし・・・

でもまあ、とにかく、ジェンマさんの熱心さには共感しますよ。

352.ご心配ご無用!  
名前:アップル・パイ    日付:7月23日(水) 0時38分
 気を悪くなんかしていませんよ。どうぞ、ご心配なく・・。

 確かに難しいですね。ジェンマさんの日記 6.26 (木)「こんなことが進行中とは.. 」を読んで 、うまくいけばいいのになあ、と思っていたのです。

 でも、まだ時が来ていないのですね。

 「信仰」について話し合いたいのに、「従順」を言われる。ならば、やむをえないのかもしれません。

 昔の洗礼の秘跡の儀式書(現在の入門式の儀式書、ただし第?方式):「あなたは神の教会に何を求めますか。」「信仰を求めます。」「信仰はあなたに何を与えますか。」「永遠の生命を与えます。」「永遠の生命を得たいならばおきてを守りなさい。心を尽くし、魂をこめ、全精神を傾けて、あなたの神にまします主を愛し奉り、また、あなたの隣人をわが身のごとくに愛しなさい・・・」なのに・・・・。
 
 いろいろ、気を遣わせてしまいました。応援していますので、がんばってください!お祈りしています。
 

351.///さんへ(RE:345)  
名前:ヨゼフ・ジェンマ    日付:7月22日(火) 21時26分
///さん。了解です。

350.心配  
名前:ヨゼフ・ジェンマ    日付:7月22日(火) 21時25分
アヴェ・マリア!

アップル・パイさん、
どうか、お気を悪くなさらないで下さい。
私は、時々、無神経なもの言いをしてしまいます。
お許しを。。

あ、いえ、これに対するお返事は要りません。
またいつか、ひょっこりとお顔を出して下されば。

349.追伸。  
名前:ヨゼフ・ジェンマ    日付:7月22日(火) 7時29分
でも、私も聖ピオ十世会の明らかな応援者です。
だから、アップル・パイさんの
「何もびくびくすることはないです。正しい信仰を育てるために、すべての信者は堂々とミサに与ればいいと思います」(347)
というお言葉には、
もしそれが聖ピオ十世会の御ミサを指しているか、あるいはそれを含んでいるかするなら、
私は心から同意し、感謝します。

348.アップル・パイさんへ(RE:347)  
名前:ヨゼフ・ジェンマ    日付:7月22日(火) 7時15分
> いったい、どれだけの貴重な時間を、pipinkorori さんのために
> ささげられたことでしょう。

ありがとうございます。
けれども、一面、私は「時間」というものの貴重さをよく弁えていないからこそ、こんなことをやっていられるのかも知れません。
私のしたことは、きっと「ささげ」という表現にはそぐいません。
・・・・・・
でも、アップル・パイさん、ありがとうございます。

> 現実の教会に問題を感じ、心がついていかない方は、
> 何も我慢してしがみつくことはないです。
> 正しい信仰を育てるために、本当にキリストからの平和をいただける
> ミサや指導者を探すことが、どうして「大罪」なんでしょう。

アップル・パイさん。
私も人間ですから、いつも好意的にして下さるあなたと関係を悪くしたくないです。
けれど、少なくともその「言い方」は、全体として少し素朴過ぎるような気がします。
離教の問題も罪の問題も「当人の主観における知や無知」といつも或る種の関わりがあるものだろうから、私達が普通に思う以上に、「これは "完全な" 離教だ」「これは "大罪" だ」と断ずることは確かに「簡単ではない」のだろうけれど、しかしそれでも教会には公的な教導権があり、監督権があり、裁治権があるとされている * から、聖ピオ十世会の問題はカトリック信者にとってそんなに簡単なものではありません。ファチマのシスター・ルチアの言うような「信仰の感覚」もあり、また善意もあるカトリック信者でさえ、その多くが聖ピオ十世会のこととなると二の足も三の足も踏むのは、自然の内です。

もちろん、以上のようなことは、アップル・パイさんだって十分にご存知の筈。
でも、アップル・パイさん、少なくともその「言い方」は、すぐにも突っ込まれかねない...
(私達は単に議論の勝利を求めているのではないから、単に突っ込まれないように隙のない周到な叙述をしていさえすればそれでまずは良い、ということでもないけれど。)

* 教会には公的な教導権があり、監督権があり、裁治権があると「されている」?
私自身、ここで突っ込まれそうです (笑)
それは「あるとされている」んじゃなくて、「事実、ある」のです、と。
私も簡単にはそれら (教会の公的な... ) を否定したくありません。
事実、少なくとも「簡単に」は、否定しているつもりはありません。
しかし、ここが正に難しいところです。→ [参照]

聖ピオ十世会の問題のポイントは、正にそこなのです。
重点的に、そこなのです。
たとえ教会史の中であまり明瞭な例がないとしても、原理的にそこなのです。
(そして単純に、教会史は「過去」しか知りません。
「原理的なこと」に触れることができません。
「過去に明瞭な例はないが、あり得ること」を扱うことができません。)

確かに、それは出発点に過ぎない、とも言えます。
けれど、出発点として生かす必要があります。
この原理にまったく生命と空間を与えないという態度は、
私には少なくとも大いに「不自然」なことに思えます。
もっと言えば、それは私達の知性を殺すことに思えます。

> 聖ピオ十世会のミサに与ることが大罪だったら、
> 聖公会やルター派の礼拝に参列することは、いったい何なんでしょう。

pinpinkororiさんも、カトリック信者が「カトリック信者を名乗るままで」聖公会やルター派の礼拝に参列することには、きっと大反対してくれることでしょう。

347.pinpinkorori さんの一連の書き込みについて(他の箇所も含む)  
名前:アップル・パイ    日付:7月21日(月) 22時36分
 忍耐強く誠実に対応されたと思います。いったい、どれだけの貴重な時間を、pipinkorori さんのためにささげられたことでしょう。

 pinpinkorori さんの言いたいことは、
@聖ピオ十世会は教会の外にいる。
A破門された人は「永久に(神の裁きの庭に立つ日まで)」教会から追放され、司教であった方も、司祭ですらなくなる。
B聖ピオ十世会の叙階の秘跡は有効ではない。
C聖ピオ十世会のミサに与ることは、「大罪」である。

ということでしょうか。「連れ戻したいご友人」とは聖ピオ十世会に心を寄せている人達すべてではないかと思いました。

 @もAもBもCも、すべて、正しくないです。論外!

 現実の教会に問題を感じ、心がついていかない方は、何も我慢してしがみつくことはないです。正しい信仰を育てるために、本当にキリストからの平和をいただけるミサや指導者を探すことが、どうして「大罪」なんでしょう。

 聖伝のミサに与りたいと思っても、現実に日本の小教区や修道院では、与れるところはないです。少なくとも、私達には知らされていないです。ならば、仕方がないではありませんか。(フランスでは、毎主日、聖伝のミサに与りたい方のために情報がインターネットで公開されているようです。すでに、洗礼式などは、1970年以前の方法、つまり、トリエント公会議議定書に基づく方法で執り行われたそうです。)

 何もびくびくすることはないです。正しい信仰を育てるために、すべての信者は堂々とミサに与ればいいと思います。

 聖ピオ十世会のミサに与ることが大罪だったら、聖公会やルター派の礼拝に参列することは、いったい何なんでしょう。

346.pinpinkororiさんへ  
名前:ヨゼフ・ジェンマ    日付:7月21日(月) 1時5分
pinpinkororiさん。

メールはやはり届いていません。

あなたは、
私の「削除された日記」との関連で私に言いたかったことは
「他のひとは読んでほしくない性質のもの」
であると言っていますから、
こんなことをしてもどうなのか分かりませんが、
一応、2007.07.28の日記を復活させておきました。
http://www.aa.alpha-net.ne.jp/poppyoil/diary2007/d-2007-07-28.html
(大したことにならなければ、近日中に再び削除します。)

その日記の内容について私自身から言えば、
破門というものが「懲罰」であることを知らなかった時なので
(後に私にその知識を与えてくれることになった或る方に感謝します)、
前半は、厳密に言えば、お馬鹿な感じがします。
けれど、それは話の本筋、私の言いたかったことには
さほど影響しない、とも思います。
(しかし、長いな。)

pinpinkororiさん、私が日記を復活させた、
このこともあなたに投げたボールではあるわけですが、
しかし今回は、あなたがそれに反応して何かを書かなければ
ならないということはありません、としておきます。

pinpinkororiさん、
あなたは荒らしではない、
あなたの主観に悪意はない、
けれど、
私はあなたとの対話を諦めます。

345.聖職にあるかたの苦労がわかる気がしました。  
名前:///    日付:7月21日(月) 0時2分
別に深い意味はないです。なんとなくそんな気がしただけです。

344.追伸:今日のみことばのようにおわりましょう。  
名前:pinpinkorori    日付:7月20日(日) 22時45分
毒麦もよい麦も「刈入れまで両方とも育つままにしておきなさい」16主日。


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