アヴェ・マリア!
愛する兄弟姉妹の皆様、
暑い日が続いていますが、いかがお過ごしでしょうか。もうすぐ8月9日ですね。
軍部(関東軍)は満州での事件(南満州鉄道の線路爆破)を切っ掛けに、天皇陛下に上奏することなく1931年に満州事件をおこしました。天皇陛下はこの報告を聞いて激怒しました。林銑十郎中将の率いる朝鮮駐屯軍が、大命(宣戦の詔勅)を待たずに独断で越境し満州に侵攻したからです。関東軍参謀は、政府の決定を無視して、自衛のためと称して戦線を拡大し、関東軍は5ヶ月の間に満州全土を占領しました。
【因みに「マオ(上)」(ユン・チアン著 土屋京子訳)によると、1928年6月4日の「日本による侵略の第一歩」とされる「(満州事変のきっかけとなった)張作霖爆殺は一般的には日本軍が実行したとされているが、ソ連情報機関の資料から最近明らかになったところによると、実際にはスターリンの命令にもとづいてナウム・エイティンゴン(のちにトロツキー暗殺に関与した人物)が計画し、日本軍の仕業に見せかけたもの」(301頁)となっています。「GRU(ソ連赤軍情報総局)帝国(第一巻)」(アレキサンドル・コルパキディとドミトリー・プロコロフ共著)によると、エイティンゴンと共に張作霖の爆殺に「主要な役割を果たしたのは、ゾルゲの前任者であったサルニンであった」と書かれています。】
更に血迷った軍部は、遂にアメリカと戦う決定を下しました。天皇陛下は東条英機にどんな犠牲を払ってもアメリカとの戦争は避けるべきとの旨を伝えましたが、菊の紋を戴く天皇陛下は、真冬の風を真っ向から受けた菊の花のように無力な存在でした。
重村智計の義理の祖父である寺島健(てらじま けん)、日本海軍軍人で最後は海軍中将で退役し、日米開戦を決めた御前会議に東條英機内閣の逓信大臣として参列しました。寺島健は、戦後「天皇陛下に悪いことをした」と語り続け、「東条英機首相が嫌がる陛下に日米戦争の印を押させた」と明らかにし、「陛下は、最後まで日米戦争に反対だった」と語り続け、死ぬまで東条英機を激しく非難し続けました。寺島は、東條内閣の閣議に於いて開戦が決定された際に、昭和天皇の大御心があくまで開戦に反対である事を知る寺島は、此の決定に対し気を失いかけんばかりに愕然としたそうです。だから、東条英機らが靖国神社に祭られた後は、天皇陛下は靖国参拝をしなくなったのです。
日本軍は必死に戦いましたが、その甲斐もなくタラワ、ビアク空港、サイパン、テニアン、グアムなどが強力なアメリカ軍のもとに陥落しました。
サイパン島は1944年6月、三万人の日本兵と二万二千人の一般人を死に追いやった末、占領されました。巨大な空軍と海軍に支援されたアメリカ海兵隊もまた一万四千人以上の兵士を失ったのです。6月13日にアメリカ軍艦載機1,100機によるサイパン島に対する空襲。戦艦8隻、巡洋艦11隻含む上陸船団を伴った艦隊が砲弾合計18万発もの艦砲射撃がまずありました。16日の夜から17日にかけて、日本軍は戦車第9連隊(44輌)含む約8000名が総攻撃を開始しましたが、1時間に野戦砲800発、機銃1万発という米軍の圧倒的火力によりほぼ全滅しました。7月には、日本軍は完全に追い詰められ、残存部隊約3000名の総攻撃によるバンザイ突撃が行われました。多く者が自決していきました。
1944年8月14日には、一般動員条例が通過し、13歳から60歳までの全ての女子は侵略してくるアメリカ人と戦おうと竹槍訓練の義務が課せられました。
1945年2月、アメリカ海兵隊が映画でも最近話題になった
硫黄島への上陸が開始されました。3月17日米軍が島を制圧して、日本軍の部隊が多数玉砕しました。3月21日になって、大本営は17日に玉砕したと発表します。
「17日夜半ヲ期シ最高指導官ヲ陣頭ニ皇国ノ必勝ト安泰トヲ祈念シツツ全員壮烈ナル総攻撃ヲ敢行ストノ打電アリ。通爾後通信絶ユ。
コノ硫黄島守備隊ノ玉砕ヲ、一億国民ハ模範トスヘシ。」
3月26日、硫黄島では栗林忠道大将以下300名余りが最後の攻撃を仕掛けて玉砕し、日本軍は2万933名の守備兵力のうち2万129名までが戦死しました。
次に、アメリカ軍は
沖縄の島を軍艦で包囲し(機動部隊、戦艦、上陸用舟艇、病院船などふくめて約1.300隻にも上った)、思う存分に艦砲射撃しましたが、占領するのに3ヶ月かかり1万2500人の犠牲者を出していました。
もしも戦争が続いていたならば、アメリカ軍は出来る限り日本の大都市を取り巻いて海から艦砲射撃を浴びせたでしょうし、もしもアメリカ軍が沿岸の平地に上陸したなら、国民は山から山へと後退するでしょうし、アメリカ軍も何年も戦い続けたでしょう。幾百万の死者が出ることも予想されました。その当時、日本人であれば、自決をしてでもたとえ民族が滅亡しようとも、天皇陛下の処刑という不敬きわまる事態による日本全面降伏を避けようとしたことでしょう。
長崎に原爆が投下された1945年8月9日の真夜中ごろ、長崎大学病院放射線科の小笹富子看護婦たちは、
ラテン語で聖歌を歌っている女声合唱を聞きました。小笹富子看護婦たちはその時、疲労のために誰が歌っているか確かめることが出来なかったのですが、翌朝歌声が聞こえたあたりを通りかかると、常清(じょうせい)修道院の27名の修道女たちの半裸の死体がありました。(常清修道院はフランス系の「幼きイエズス会」の女子修道院で、常清高等実践女学校を運営していました。修道院は、浦上天主堂近くの上野町にありました。)
「苦悶の中で絶命したに違いない27人の修道女たちは、近くを流れる小川のほとりで身を寄せ合い、歌いながらこの世から去っていったのでした。」(ポール・グリン『長崎の歌』260ページ)
「その夜、一晩中美しいラテン語の讃美歌の合唱がとぎれとぎれに聞こえてきました。夜が明けてみると、学園の運動場の草むらの中に、7、8人の修道女がひとかたまりになって、手を取り合い冷たくなっていた」(瓊浦女学校『白夾竹桃の下』田崎光枝)。
永井博士の妻である緑さんがかつて教えていた純心女子学園の女性徒たちの多くは、1945年8月9日の朝は時津や三ッ山にある工場に学徒動員で働きに行っていました。
長崎純心聖母会の初代学園長であるシスター江角ヤスは、空襲が激しくなったころから毎日校内全員に聖歌を合唱させていたそうです。
忌まわしい原爆で、ある生徒は即死し、生き残った者も裂傷を受けたり赤外線で大火傷を負ったり苦しんでしました。ほとんどの者が酷い怪我をしており、多くの者はそれから数日後には躯となる身でした。しかし、
彼女たちは歌い慣れた聖歌「み母マリア 身も心も とこしなえに 献げまつる」を一節一節歌いながら励ましあい続けて死んでいったのです。
(純心学園と永井隆博士については、
純心学園と永井隆博士のウェッブ・サイトの記事をご覧下さい。)
みははマリア(#305)
1 み母マリア 身も心も
とこしなえに 献げまつる
朝な 夕な 真心もて
君をのぞみ 慕いまつる
みめぐみこそは きよき慰め
輝かしき 君がかむり
うるわしき 君がえまい
ああ我ら深く 慕いまつる
永井博士は、8月9日の雨と太陽の黒とこれらの童貞女たちの歌声と、ヨハネの黙示録の太陽の黒と「百衣の童貞女たちの歌声」を思い出し、こう詠ったのでした。
燔祭の焔の中にうたひつつ
白百合おとめ燃えにけるかも
Vierge comme le lys blanc,
Consumées dans les flammes
En sacrifice d'holocauste
Elles chantaient.
(From Requiem pour Nagasaki, pages 215-216, traduit de l'anglais par Jean-Marie Wallet)
(この歌は、
長崎市文教町に1949年5月30日建立された「慈悲の聖母」像の足台に刻まれています。)
9日、宮中において開かれた最高戦争指導会議が午前10時から断続的に開催されました。
10日午前0時から宮城内御文庫地下の防空壕において、鈴木首相は天皇臨席の御前会議として再度、最高指導者会議を招集し、この御前会議の席上で、首相からの「聖断」要請を受けた昭和天皇は外務大臣の意見に賛成し、これによりポツダム宣言の受諾が決定されました。
しかし、御前会議での決定を知らされた陸軍省では、徹底抗戦を主張していた多数の将校から激しい反発が巻き起こりました。
8月12日、午前0時過ぎ、不満を持つ将校達は多く、阿南陸相の義弟でもあった竹下正彦中佐は、阿南に終戦阻止を求め、更にそれが無理であれば切腹せよと迫っていました。
陸相の6名の将校(軍事課長荒尾興功大佐、同課員稲葉正夫中佐、同課員井田正孝中佐、軍務課員竹下正彦中佐、同課員椎崎二郎中佐、同課員畑中健二少佐)はクーデター計画し、東部軍及び近衛第一師団を用いて宮城を隔離、鈴木首相、木戸幸一内大臣、東郷外相、米内海相らの政府要人を捕らえて戒厳令を発布し、国体護持を連合国側が承認するまで戦争を継続すること目ざしていました。
8月14日、鈴木首相は陸軍の妨害を排するため、天皇出席の上での御前会議開催を思い付き、全閣僚および軍民の要人数名を加えた会議を招集しました。会議において鈴木首相から再度聖断の要請を受けた昭和天皇は、連合国の回答受諾を是認し、必要であれば自身が国民へ語りかけると述べて会議は散会されたのです。
昭和天皇による終戦の玉音放送の録音は午後11時30分から宮内省政務室において行われ、録音盤は徳川義寛侍従に渡されて皇后宮職事務室内の軽金庫に保管されました。
しかし、戦争を継続しようとする一部の軍人たちは、玉音放送の実行を防ぐ為に、日比谷の放送会館へも近衛歩兵第一連隊第一中隊を派遣し、クーデターを起こそうとします。午前11時30分過ぎ、放送会館のスタジオ前で突如1人の憲兵将校が軍刀を抜き、放送阻止の為にスタジオに乱入しようとしましたが、幸いにも、すぐに取り押さえられ憲兵に連行されました。そして正午過ぎ、ラジオから下村総裁による予告と君が代が流れた後に玉音放送が行われ、戦争は終結しのです。
1939年に中国において全面戦争が始まってから、1945年8月15日に平和が訪れるまでの間に、247万人の日本人が亡くなっていました。167万人が軍隊で、28万9000人の民間人が満州、朝鮮、沖縄などで、50万9000人が本土空襲で亡くなったのです。
ほとんどの日本人が、家族、親戚、友人の死の苦しみに遭い、負傷や家の焼失、財産や生計の当てを失うなどは、いちいち挙げるまでもありませんでした。前途は荒涼たるもので、モラルは地に落ちました。そのような状況の中で、多くを失いつつも、なお人生を楽観視しようとした人物、永井隆がいたのです。永井博士、感謝します。
日本と世界の平和のために、天主の御母聖マリア様に、敵を赦しつつ、1945年8月9日の夜、ラテン語のグレゴリオ聖歌とカトリック聖歌を歌って亡くなっていった童貞様(シスター)たち、女学生の乙女たちに、感謝します。
私たちも、日本と世界の平和を作った、このラテン語のグレゴリオ聖歌とカトリック聖歌とを大切に歌い継ぐことを約束します。
天主の御母聖マリアよ、我らのために祈り給え!
聖母マリアよ、ああ我ら深く慕いまつる!
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【関連記事】
神父様に主の平和。(*^_^*)
興味深い記事を読ませて頂きありがとうございます。
ご存知かもしれませんが7月8日は、「暁の星の聖母への祈り」が教皇様によって認可された記念日でした。
この祈りは、日本国民のカトリックへの改宗を願って、暁の星の聖母の取り成しを祈願するために作られたもので、1909年7月8日、教皇聖ピオ十世によって承認されました。
これを唱える者には300日の贖宥が与えられます。
この「暁の星の聖母への祈り」は、山本信次郎海軍少将によって広く普及され、奨励されたそうです。
以下のページの【4.「聖心の旗」の奉献】に参考になることが書かれてあります。
http://www.catholickandachurch.org/html_data/numakura/seishin(0506).html
神父様の「ロザリオの十字軍」の意向の一つ、「日本が国として回心し、イエズス・キリストをまことの天主と認め礼拝し、日本がまことの天主イエズス・キリストの創立した母なるカトリック教会の愛する子となりますように」も、とても善い意向ですね。
きっと暁の星のマリア様の優しい御心をお慰めすることと思います。
永井隆博士も同じようなことを祈念しておられたことと信じます。
主日ミサ後の感謝のうちに皆さんで、「暁の星の聖母への祈り」を唱えておられることと思いますが、日本の多くの教会においてもこの祈りの意向と精神が、ロザリオの祈りに併せて広められ大切にされますように。
"ああ輝ける暁の星なる聖マリアよ、御身はかつてさきがけとして地上に現われ、正義と真理との太陽なるイエズスの御出現近きを示し給いしものなれば、願わくは、御身の温和なる光をもって日本国民を照らし、速かにかれらの心の暗をひらきて、永遠の光明なる御子、われらの主イエズス・キリストを正しく認むるにいたらしめ給え。アーメン。"
神父様のご健康をお祈り致します。(*^_^*)
現在、サイトが見当たらないので確認はできませんでしたが、確か「エクレジア・デイ」を持ち出して教皇への従順がどうたらこうたらと。
あのときの管理人さん?
侍者2さん
あなたが どのぐらい偉い方なのかは分かりませんが、
以前ピオ10世会を批判した人は、此処に書いたり読んだりしてはいけないのでしょうか?
たとえそれが もし間違った批判だとしても(内容を読んでいないので解らないけれど)、それに対して 門戸を閉ざすのではなく
いつも開いているぐらいの度量があってもいいのではないでしょうか(?)
たくさんの誹謗中傷があることは解りますが、その中だけで
固まらないでほしい!。
250人に増えるようにとの祈りを行おうとしている時、
引いてしまうのは私だけでしょうか?
意図が違っていたらごめんなさい。
何を根拠にそういう言いがかりをつけるのでしょうか。
A FOX です。
べつに、
侍者2さんほか、
みなさんのコメント読んでも不愉快になりませんよ。
あの時のあの人ですか!と驚いているだけです。(笑)
HPのあのアップを読んでいれば、誰だって驚きます。(爆笑)
お願いだからここには書かないでくださいね。(超爆笑)
3度の食事よりロザリオ好きなめでたし団さんもロザリオの十字軍に参加してください。
あなたを尊敬します。(嘘でない)
けれど、言いたいことあり。
私は「春告げとり」さんの気持ちがわかるのです。
「でしたっけ?」「どうたらこうたら」
これからして、あまり感じ良くないです。
最初の書き込みをした「めでたし団」の人は、
何がどうあれ、あなたにとって見も知らぬ
「他者」ではありませんか。
「他者にそういう言い方をするのか」というのが一点。
そして、ハタから見れば、
あなたは「昔聖ピオ十世会を批判していた筈の人」
に呼びかけている、そういう図だから、
そこに何とはなしにトゲを感じてしまうのは
ある程度は自然なことなのではないかと思います。
私もネットの世界で時々無神経になって失敗してしまうけれど、
でも、私達は時々はそのような "電脳世界" 特有の風潮を
よく考えてみなければならないのではないか、
と思ったりします。
という奴です。
その二つが「相俟って」、ハタから見るとそう見えてしまうのです。
これは「何を根拠に」という問題でもないんですよ。
理屈でない。議論の対象じゃないんですよ。
生きた人間の心における "感じ方" の問題なのです。
私達は "感じ方" も相手にしなきゃなりませんよ。
宗教人なんだから。
あの・・・すみません根本的にズレてます。
なんでお2人が意見するんですか?
別に”めでたし団”さんが、そういわれるならまだわかるけど・・・関係ないあなた方がなんで意見するのでしょうか?
だって、侍者2さんのそのレスは、めでたし団さんに向けて書かれてますよね。
それから、ヨゼフジェンマさん
せっかく、フォローしているのに、無駄な論争にしないでください。
あなたの感じ方に問題あり
また、今回のコメントが当人によるものかも私には判りません。ですから、厳密には「呼びかけて」もいません。確かにどうとでも取れる書き方ではありますが。
そして、もし実際に批判したことがあったとしても、当人が釈明できるだけの余地は十分残しています。それを受け容れる用意もありました。
私にしてみれば、勝手に話をややこしくされて迷惑だとしか言いようがありません。私のこの "感じ方" はどうしてくれるのでしょうか。
私は 今の教会で行われていることに、疲れたときなど あなたのHPも時々アクセスして、勉強させてもらって居ます。
さて、
>そういう言いがかりをつけるのでしょうか。
私は 自分の文の末尾に
>意図が違っていたらごめんなさい。と書いております。
ただ 普通に読んで
>聖ピオ十世会に対する批判を書いていませんでしたっけ?
>確か「エクレジア・デイ」を持ち出して教皇への従順がどうたらこうたらと。
これは 私の中では、私自身が素直でないのかもしれませんが
「批判をしておいて、今さら何を」と言う風に読みとれたのです。
そして私が懸念するのは、信者だけがこの神父様のブログを見ているのではないでしょう。普通の感覚ならばということで 私の感想を述べただけですよ。
>この "感じ方" はどうしてくれるのでしょうか。
ここに祈りが出るのではないでしょうか?
A FOXさんへ
よく文を読んで下さいね。
私は問いをして、希望を書いたつもりですよ。
>お願いだからここには書かないでくださいね。(超爆笑)
なぜ、あなたはこのように言えるのでしょうか?
此処は小野田神父様のブログであって、あなたのブログでは
ないのでは?
お願いですから、此処にちょっとでも違う意見を書いたら
嵐だと決めつけないで下さいね。
ピオ10世会の隠れシンパは 結構いることを知っておいて下さいね。
?
(超爆笑)の意味は、笑って流そうって意味ですよ。
めでたし団さんは、そのようなジョークを理解してくださる方だと思いますけど・・・・笑
彼のHPはいつもそんなどぎつい(?)ジョークが飛び交っていました。・・・ねっ!(謎)
だから、3度の食事よりロザリオが好きなめでたし団さんもロザリオの十字軍に参加してね!と書きました。
社交辞令は要りません。
>私は 自分の文の末尾に
>>意図が違っていたらごめんなさい。と書いております。
そうですね。言いがかりの後に、付け足しで書いてますね。
>普通の感覚ならばということで 私の感想を述べただけですよ。
私だって自分の疑問を述べただけです。
>ここに祈りが出るのではないでしょうか?
意味不明です。
よく読みました。
>>お願いだからここには書かないでくださいね。(超爆笑)
なぜ、あなたはこのように言えるのでしょうか?
もし、本物の”めでたし団さん”ならこのジョークを理解してくれると”希望”を持って書きました。
>此処は小野田神父様のブログであって、あなたのブログではないのでは?
そうですよ。
>お願いですから、此処にちょっとでも違う意見を書いたら
嵐だと決めつけないで下さいね。
決め付けてません!
本物かどうかの確認すればよかったですね。
失礼しました。
>ピオ10世会の隠れシンパは 結構いることを知っておいて下さいね。
私もそのうちの一人ですけど・・・・
これで納得していただけましたでしょうか?
> というのは、今のところ、私の記憶の中にある未確定情報です。
> 勝手に「批判していた筈」などとしてほしくないです。
なるほど。厳密なんですね。
確かにあなたが「めでたし団の管理人さんは、2年ぐらい前に聖ピオ十世会に
対する批判を書いていませんでしたっけ?」と書いたとしても、それを見た私が
「侍者2さんはこの人のことをその『管理人さん』当人だと、『昔聖ピオ十世会を批判していた筈の人』当人だと思っているのだ」と思ったとしたら、それは確かに私の行き過ぎでしょう。
しかし、私が言いたかったことの〈重点〉は、きっと私の言葉が足りなかったのでしょうが、そういうことではなかったのです。「あなたは書き込みをしてくれた人のことを特定的に『その管理人さん当人だ、そうに違いない』と考えて何事かを言っている。それが問題なのだ」というようなことを言いたかったのではありません。そういうことではなくて、とにかくあなたの中には「昔聖ピオ十世会に批判を加えた者」(個人であれ、団体であれ) に対するある種の反感があるのではないか、ハタから見ればそのように見える、あなたの言葉に何とはなしにトゲを感じてしまう、ということだったのです。
そして、もし (仮定) 今あなたが、「反感があるのは当然ではありませんか」と思ったとしても、私は、「どうかそう簡単に言わないで、思わないで下さい」と言いたいです。
> 勝手に
しかし侍者2さん、人の受け取り方・感じ方っていうものは、ある意味いつも「勝手な」ものですよ。ある意味で、ですよ?
だから私達は自分の言葉を選ばなきゃならない。
> 言いようがありません。
「ややこしく」?
それは私の言葉自体ではなく、私が話を持って行った方向のことですよね。
しかし私は、あなたと初めに書き込んでくれた人との関係に「口を差し挟ん」で「話をあらぬ方向に持って行った」のではなくて、確かにそれをキッカケにはしても、それとは〈別個に〉、あなたの前に、あるいはあなたと私の間に、私の考えたこと・感じたことを置いたのです。それが私達が考えるべき大事なことだと思ったからです。
そう考えて下されば、いたってシンプルなことだと思うのだけれど。
こういうことは、人間同士の間であってはならないのでしょうか。この程度のことが。
あなたは「迷惑」を感じやすいのかな。。
> 私のこの "感じ方" はどうしてくれるのでしょうか。
そういう切り返しか。。
>> 私は 今の教会で行われていることに、疲れたときなど
>> あなたのHPも時々アクセスして、勉強させてもらって居ます。
>
> 社交辞令は要りません。
これは、何なのですか。
素直なものの受け取り方でしょうか。
あなたは「勝手な」受け取り方が嫌いなのでは?
聖ピオ十世会の人達は「聖伝」に結びついているのだから、
他のカトリック信者にとって「長兄」や「長姉」であって欲しい
ということです。
小さい弟がですね、理解があまり進んでいないために
お兄ちゃんのしていることが分からなくて、
お兄ちゃんを誤解して腹を立て、
お兄ちゃんの膝のあたりを (なにせ小さいんですから)
ボンボン叩いて来たとします。
私達がそのお兄ちゃんだった場合、本気で怒りますか?
私は聖ピオ十世会の人達にそうなってもらいたいのです。
来た人に、何かこう、いつも市民的平等観のようなところに
おいてばかりで対応するんじゃなくて。
「そうは言うけど、それなら私 (達) の○○のことは
どうしてくれるんですか。
あなただってそれを弁えていないじゃないですか」
とばかり言うんじゃなくて。
本当に、いつまでそんなことを?
A FOXです。
貴方の文章をよく読んでいるうちに、色々気がついたので・・・もう1つのBBSの書き込みもじっくり読ませていただきました。
たぶん、貴方は若い方かもしくは、ブログの書き込みが不慣れなのかと思います。
隠れシンパといった俗語を悪気なく使っているのもわかります。
そんなこと気にしませんけど。
自分の考えや思ったことをうまく文章に表現できなくて、気ばかりあせっているようにも受け取れます。
私を理解してほしいといった意図は伝わってきました。すくなくても私には・・・
自分で、自分の書いている文章をもう一度最初から読んでみてください。
祈りのうちに・・・
侍者2さんが、”いいがかりをつけている”と判断した理由がわかります。
>・・・の数を思えば、原子爆弾で死んだシスターなど大した損失ではないという現実
突然、炎天下の空から、原爆が投下され、想像を絶する酷い火傷を負い、病院に運ばれ手当てを受けることもなく、肉体的には壮絶な苦痛がありながら、敵を赦そうと聖歌を歌いつつ亡くなられたであろう修道女の方々・・。
カトリックの強靭な信仰によって、彼女らは、この世での最期において、このような行動をとることができたのでしょう。コルベ神父様然り、多くの殉教者然り、です。
このような、信仰において立派な方々が、もし、生きておられたら、あるいは、生還されていたなら、地上でもっと大きなはたらき(お祈り、人を育てること、人によい影響を与えること、天に宝をつむこと)をされたでしょう。やはり、はかりしれない大きな損失だと思います。
にもかかわらず、信仰は彼女らの死をも「意味」あることとしたことが、大切なのではないでしょうか。
この聖歌はうれしいことに現在でも教会でよく歌われています。昔の『公教聖歌集』にも、このままの歌詞でのっていたのですね。永井博士のご葬儀で「やさしきみ母(♯442)」が歌われたようです。現在の歌詞と同じだったようです。これも美しい。
私はこの曲「みははマリア」のメロディーにフランスの香りを感じます。ドイツ・コラールの流れではないですね。(違っていたりして・・・)みははマリアの「ア」、とこしなえにの「に」、ささげまつるの「る」、などのばす音(以下同様、6箇所)が多いので、その部分にバス(最低音)で対旋律をいれ、楽しんで(遊んで?)います。
『カトリック聖歌集』は、大好きです。小さなお子さんをお持ちのお父さん、お母さん、子守唄に歌ってあげてください。ただし、「小児」とついているもの(♯481〜)、あれはダメです。論外。
これこそ、第2バチカン公会議投下後の、聖伝のカトリック教会やルフェーブル大司教様の姿ではないでしょうか。
この曲大好きなんです。
確か、合唱バージョンで、高いパートがあるみたいなのですが、聖歌集の伴奏本には出ていないです。
ずっと探しています。
A FOXさん。
>貴方は若い方かもしくは、ブログの書き込みが不慣れなのかと思います。
面白い方ですね。ピオ10世会における書き込みだけをみて、そのように判断できることに、ある種感動ものですね。
ブログだから、ネットだから、軽く書いていいとは思っていません。このような大切なことに対しては、きちんと書き込みたいそれが 私のポリシーです。
ただ、おっしゃる通り、PCは98年から始めましたが、HP関係は03年からですので、 なれていないのでしょうね。
残念覆?蕁ー磴?呂△蠅泙擦鵑佑─
小さい時にトリエントミサを経験していますし、1962年ミサで
育ったとしたら、ね、若くはないでしょ?
侍者(2)さんへ
どうして素直に人の言葉を受け入れることが出来ないのでしょう。
>社交辞令は要りません。
>そうですね。言いがかりの後に、付け足しで書いてますね。
顔と顔を合わせての話ではないので、仕方がないなと思っても
気の毒な人、私はそうとしか受け取れない。
>ここに祈りが出るのではないでしょうか?
あなたは 意味不明だとおかきになった。
>この "感じ方" はどうしてくれるのでしょうか。
こういうときこそ、祈りがあるのではないでしょうか?
中学生でも分かる英語です。
これは去年回勅のなかに書かれている言葉です。
When no one listens to me any more, God still listens to me.
When I can no longer talk to anyone or call upon anyone, I can always talk to God.
When there is no longer anyone to help me deal with a need or expectation that goes beyond the human capacity for hope, he can help me.
When I have been plunged into complete solitude ...; if I pray I am never totally alone.
昨年の今頃、掲示板にお互いが書き込みをして、最終的に
神父様に矛を収めていただいたことがあります。
もうたくさん、神父様のお手を煩わせる前に、この論争からおります。
最後に めでたし団が あの管理人なら 私は彼の信仰の深さに
以前私が習った公教要理そのものを身に付けている人と感じます。
私の知らなかったある片田舎の 隠れキリシタンの弾圧を教えてくれた人でもあります。
やっとわかってくださいましたか?
>ピオ10世会における書き込みだけをみて、そのように判断できることに、ある種感動ものですね。
感動してくださってうれしいです。
私は負けず嫌いではありません。
無駄な論争にならないようにフォローしてるつもりですが・・・
「浦上を愛し給うが故に、浦上に苦しみを与え給い、
永遠の生命に入らしめるためにこの世で短き( )を与え給い、
しかし絶えず恵みの雨をこの教会の上に降らし給う天主に感謝を捧げるものでございます。」
彼のこのような考え方を学びたいと思います。立派だと思います。カトリック教会の教える信仰が、彼を、このように育てたのでしょう。
突然、身にふりかかった苦しみ、不条理な災いを、どう受け止めるか・・。自分自身が問われますね。恨みをもたないで・・、感謝する、赦す、と心から毅然と言えるようになり、そのように態度と行いで示すことは、崇高であると思います。
おっしゃっていること、よくわかります。
トリエント・ミサが、普通にどこの教会でも捧げられていた頃の雰囲気をご存知なのですね。とてもうらやましいです。
祭壇が昔のままの教会に行くたび、「ここで小野田神父様がごミサを捧げることができたらなあ……」と思うことしきりです。
小野田神父様だけでなく、すべての神父様が……とも。
ロザリオ十字軍の意向に合わせて、私もお祈りします。
愛する兄弟の皆様、書き込みを感謝しております。
「めでたし団」さん、コメントをありがとうございます。おひさしぶりです。ナルさんでしょう?
春告げ鳥さん、ヨゼフ・ジェンマさん、コメントをありがたく頂戴しております。
実は「めでたし団」さんのことは、侍者2さんもFoX さんも、私もよく知っている兄弟なのです。
春告げ鳥さんがどこにお住まいか、どのような方か私には分かっているので、私は安心しています。
ただインターネットでは、対話において誤解を生じさせやすいので、ちょっとしたことが気にさわるような事態が生じてしまいます。
天主の御母聖マリアよ、我らのために祈り給え!
>聖ピオ十世会の人達は「聖伝」に結びついているのだから、
>他のカトリック信者にとって「長兄」や「長姉」であって欲しい
>ということです。
勝手な理想像を造り上げ、それを人に押しつけるのは止めて下さい。
>そして、もし (仮定) 今あなたが、「反感があるのは当然ではありませんか」と思ったとしても、私は、「どうかそう簡単に言わないで、思わないで下さい」と言いたいです。
人の感じ方まで指図するのは止めて下さい。世界最悪の人権抑圧国家だってそんなことしないでしょう。
>あなたは「迷惑」を感じやすいのかな。。
自分が迷惑を掛けたのではないか、と考えてみることすら嫌ですか。
>「そうは言うけど、それなら私 (達) の○○のことは
>どうしてくれるんですか。
>あなただってそれを弁えていないじゃないですか」
>とばかり言うんじゃなくて。
やれやれ、あなたに対しては言い返すことも許されないのですか。
>小さい弟がですね、
誰が小さい弟なのでしょうか。春告げとりさんですか?
目をつぶると、献香を思い出し、告白の祈りで「これ我が過ちなり
我が過ちなり,わがいと大いなるあやまちなり」この時胸を三回たたきますが,あの十字架の意味が 解ったような気がしました。
ただ、このミサを知っていることよりも、このミサにいたる
教えを十分に受けることができたことが、良かったと思っています。
対面式のミサで,手での拝領の中で、私一人が口でいただく拝領
。司祭のところにいくまでの間、十字架の道行きを黙想し拝領します。
昨年教皇様の教令が出たとき、心躍りましたが、無理なのでしょうね。
> 勝手な理想像を造り上げ、それを人に押しつける
> のは止めて下さい。
「押し付けた」のではなく、
ただ「私としての希望を述べさせて頂いた」のです。
> 人の感じ方まで指図するのは止めて下さい。
> 世界最悪の人権抑圧国家だってそんなことしないでしょう。
これも「指図した」のではなくて、
ただ「私としての希望を述べさせて頂いた」のです。
この程度のことが、どうして「人権抑圧国家」と関係あるのでしょうか?
あなたの表現はかなり「大袈裟」ではないかなぁ。
ご自分でそう思いませんか?
> 自分が迷惑を掛けたのではないか、と考えてみることすら嫌ですか。
いや、嫌じゃありません。
きっとあなたにとっては迷惑なんだろうな、とは思ってます。
だから、「人権」 の観点からは、私もこのへんで退場した方がいいのかも知れません。
でもね、侍者2さん、
何がどうあれ、ここに来た訪問者の口から
「もう少し度量があってもいいのでは? 不愉快です」
という言葉が出るということには、それなりの意味があるんですよ?
それくらいは考えて下さい。
> やれやれ、あなたに対しては言い返すことも許されないのですか。
いいえ、そんなことはありません。
「許されない」などということはちっともありません。
ただ私は、そのような「人権における自由」みたいな方面から
お話していたのではなかったのでした。
それから、
こういう時に人に「やれやれ」などという言葉を投げるのは、
あまり気持ちの良いものではありませんよ?
それは「私はあなたに呆れています」という意味です。
少なくとも相手を「軽んずる」ものですよ?
あなたはあなた自身、ネット上で「軽んじられた」ことはありませんか?
冷笑・嘲笑の言葉を投げつけられた経験はありませんか?
「いやはや、あの御仁は」と笑われたことはないですか?
「いやはや」であれ「やれやれ」であれ、
あまりいい感じがしないものですよ?
> 誰が小さい弟なのでしょうか。春告げとりさんですか?
基本的に、
「聖ピオ十世会を理解しない全てのカトリック信者」です。
JGさんはよき隣人様(お会いしたこともありますし。)ユニークな方だと理解しておりますが、ここの書き込みにおいてだけ確認させてもらいます。
何が目的で書き込みされているのでしょうか?
と書きましたが、
最初から、貴方のレスを読んでみましたが、
”侍者2さんだけ”にしかアプローチしていないみたいです。
侍者2さんのブログに書いたらいかがですか?
>「もう少し度量があってもいいのでは? 不愉快です」
>という言葉が出るということには、それなりの意味があるんですよ?
>それくらいは考えて下さい。
要するに、誰かが私に対して言ったことは、感じの良くないものでも、誤解に基づいているものでも、「何がどうあれ」、「軽んずる」ことにもならず、それなりの意味づけがなされ、肯定されるわけですよね。
かつて、あなたは私の書き込みを「条件反射」だと、まるで私がものごとを考えていないかのように表現しました。私は黙ってましたが、ものすごい不快感を覚えました。でも、あたなに言わせれば、「それなりの意味がある」わけですよね。
かつて、春告げとりさんは私に対して「カルト」という言葉を投げつけました。新旧BBSとブログを通じて、これ以上酷い表現はまず見当たらないのではないかと思いますが、これも、「それなりの意味がある」わけですよね。
それでいて、私が「やれやれ」と言おうものなら、あなたは「それなりの意味」を考えることなく、自分の不快感を存分に表現していいわけですよね。いい身分ですよね。もはやダブルスタンダードを通り越してますね。
1.侍者2こと私は、今後このブログおよび FSSPX JAPAN BBS に一切コメントしません。資料として参照する場合を除いて閲覧もしません。私のRSSリーダーからも削除しました。
2.私が作ったウェブポータルも不愉快でしょうから削除しました。もう存在しません。
3.東京の聖ピオ十世会巡回聖堂における私の役割のうち、侍者でもトランクルームの管理でもその他何でも、ヨゼフ・ジェンマさんと春告げとりさんが望むならば私は降ります。何を辞めればよいか、後でお知らせ下さい。
最後に、と言っても、最初からこういう心持ちでしたが、めでたし団さんについて言えば、私の記憶が間違っていればそれでよし、正しかったとしても何がどうしたのかちょっとばかり説明してほしい、というところです。それでは。
私は教区のミサに出ていたとき、拝領のための列に、「どうか舌で受けるのを拒否されませんように……」と祈りながら並んでいましたっけ。
自発教令が出て一年、日本ではさっばり盛り上がらない様子ですが、忍耐強く待ち望みたいものです。
終結宣言撤回して戻ってきて下さいと言え。
さらりと書かれていますが、いろいろなお役目、大変なことだと思いました。
私は、過去のことも、今起こっていることも、よく理解できていないと思います。特に過去の「やりとり」は、全く知りません。
分かっていることは、このブログで、「侍者2」さんの存在とコメントの内容はとても貴重だったということです。
関連する神父様の過去の記事を紹介されたり、動画を紹介されたり・・・。
このようなナビゲーターの役目は、記事の内容に精通し、インターネットで海外の情報を収集する力があり、
そして、何よりも、「聖ピオ十世会」を心から大切に思い、小野田神父様をしっかり支えようというお気持ちがなければ、できないことだったと思います。
どうか、今までどおりの「侍者2」さんとして、コメントしてくださることを、私は希望します。
そして、「聖ピオ十世会 ウェブポータル」も、どうぞ復活させてください。とても便利で、私は活用させていただいていました。
もう一度、考えていただけませんか?
よろしくお願いいたします。
なるほど・・・。お気持ちは、わかりました。
でも、なお、お願いします。
考え直してくださいませんか?
せめて、「聖ピオ十世会 ウェブポータル」は、残しておいてくださいませんか?
この書き込みで、これからおりました。
そして今回もまた,2008-07-28 22:11:56 の書き込みで
お忙しい神父様の手を煩わせてしまいました。
終わったと思ったら,その後 また私のHNここで見つけました。
最終的に
>春告げとりさんは私に対して「カルト」という言葉を投げつけました とか着込まれています。
私は名指しでカルトと書いたことはないと思います。
一応張っておきます。 そして これで終止符を打ちます。
ただこの文は張りたくなかった。何故なら 新たな論争を巻き起こしかねないからです。
>2007/07/21 (Sat) 13:30:45
最初に,変換ミスをしていました。(失礼しました)
指示---支持に変換です。
ピオ10世会の皆さんの語学力はプロなので,私の読解力が不足しているのでしょう。......と文が続きます。
「聖職者と信奉者(信者)はルフェーブル大司教の分裂を支持しないように、警告される。そうでなければ,彼らは破門と言う大変重大な罰を被るだろう」
と読みました。が違っているのでしょうか?
XXXさんが...だったのかどうか,私にはわかりません。ただ、この文書を目にしただけでも良かったと思います。
そして、どんなことがあっても,ずーっと保持してきたピオ10世会には尊敬の年を抱きます。
でも、ここにつらなる信者の方には,ここ何回かの書込みをして,ハッキリ言って 引きます。
残念ですが、私にはカルト的にしか見えなかった。 以上。
もっとほかにもひどいものを見つけていますよ。
・・・・彼はそれを忍耐されています。
侍者2さん負けないでください。
侍者2さんは、もっとたくさん聖ピオ十世会を影で支えてくださっています。
それ以外でも・・・
これ以上は本人の了解がないので書きません。
の意味は、このような”出来事”に負けないでください。の意味です。
広い意味で。
ここまで書かないとまた論争になりそうなので。
> 要するに、誰かが私に対して言ったことは、感じの良くないものでも、
> 誤解に基づいているものでも、「何がどうあれ」、「軽んずる」ことに
> もならず、それなりの意味づけがなされ、肯定されるわけですよね。
そんなことはないですよ。
「あなたが誰かに感じの良くないことを言った場合」と
「誰かがあなたに感じの良くないことを言った場合」とで、
私はもちろん基本的には差別するつもりはありません。
不公平であっていいと思わないし、
また「心の奥では」実際そうでないつもりではいるんです。
でも、「表現では」となると、私は確かに公平ではありません。
「ダブルスタンダードを通り越したもの」とは何を意味するかよく分かりませんが、確かにある種の「ダブルスタンダード」であることは認めます。
というか、初めからそうと知っています。
「ある種の」という意味を説明します。
それは、一言で言えば、私の中に聖ピオ十世会に対する「身内意識」みたいなものがあるからなんです。
実際は、私は、聖ピオ十世会のメンバーの人達と (特に、侍者2さん、あなたのような古くから頑張ってくれているメンバーの人達と) 苦労を共にして来たわけではないから、このへんはあんまり堂々と「身内だ」などと威張って言える立場ではないのだけれど、とにかく私の中には、そういう思いがあります。
そして、言ってみれば、「よその人」と「うちの人」に対する私の「関心の持ち方の度合」が違って来てしまうのです。(それは、一般の家庭生活でもよくあるようにです。)
私は「身内」として、聖ピオ十世会に期待します。
そして、あなたには迷惑なのだろうけれど、私が思う「聖ピオ十世会」の中に、あなたも当然入っています。私が思う「身内」の中に、あなたも当然入っています。
「期待するからこそ言いたくなる」という心理が確かにあります。
過剰になってしまってはいけないのだろうけれど。
また、次のようにも思います。
「神父様のこのブログのコメント欄では、聖ピオ十世会のメンバーはいわば『ホスト』で、聖ピオ十世会ではない外から来る人達はいわば『お客様』である。」
思うに、このへんからしてあなたとは違っているのでしょう。
あなたにとっては、このブログの「ホスト」はあくまで小野田神父様で、小野田神父様ただお一人で、他の、あなたも、A FOXさんも、私も、春次げ鳥さんも、めでたし団の方も、みんな平等な立場、みんな並列的な位置にある「ただの訪問者達同士」であるわけでしょう。
限りなく平等な位置にわるわけですよね。
でも、私は思うのです、「ここだって聖伝の宣教の場だ」と。
ここには「宣教しなければならない側に立っている人達」と「宣教される側に立っている人達」がいるのだ、と。(他の人達にはごめんなさい... )
だって、ここは日本のインターネットの世界で、聖ピオ十世会の「大看板」の一つですよ?
その意味で、どうして、ある意味で、上の意味で、聖ピオ十世会のメンバーたる人達とここを訪問して来る人達が「平等」であることができるのでしょうか。
(これは、ある程度は、「司祭にはより多くの責任が問われる」ということと似たようなことです。ある程度は、ですが。)
私は「人権」のことを言っているのではないんですよ?
人権では平等です。
けれど、上のような意味合いからは、いつもそんなこ とばかり言ってられないと思うのです。
(私はかつて他宗教で、布教のために毎日のように街頭に立っていたことがあります。時にどんなに心ない汚い言葉を浴びせられるか分かりますか? しかしそれでも、そのような言葉にそれと同様の悪感情をもって言い返したりすることはできませんでした。それでは第一にそもそも自分の内面において『布教』が成り立たないのでした。『布教精神』が "崩れる" のでした。教えられたのは、「そんな時こそ神に感謝しなさい」ということでした。自分の経験を誇るわけではないけれど、いい勉強になったと思っています。)
> まるで私がものごとを考えていないかのように表現しました。
> 私は黙ってましたが、ものすごい不快感を覚えました。
> でも、あたなに言わせれば、「それなりの意味がある」わけですよね。
「条件反射」とは、あくまで人間のある種の「感情反応」について言ったものなのです。それ故、あなたの「思考生活」の質を云々したものではありません。
私は、あなたが「ものごとを考えていない人」だなどとは露ほども思っていません。その反対に、あなたは頭の良い人であり、私より博識で勉強家であると思っています。(社交辞令ではありません)
ただ私は、普通にいう「頭が良い」ということと「自分の感情を理解する」ということは別のことだと思っています。
普通にいう頭脳機能の良い人でも、自分の感情の「本当の理由」を洞察できないことが多々あるものです。トラウマへの理解がそれです。
私が「条件反射」という言葉を使った時、「思考の不在」を意味してしていたのではなく、「聖ピオ十世会の人々には〈被迫害のトラウマ〉のようなものがあるのではないか」と思っていたのです。そこから条件反射的な「感情反応」が出ているのではないか、と思ったのです。
聖ピオ十世会の「すべての人達」ではないに違いありません。
また、宗教的な被迫害の経験によるトラウマではなくて、もっと個人的なものなのかも知れません。
しかしとにかく、私はそこにそれを見たような気がしたのでした。
以上が「私なりの意味」だったのです。
> かつて、春告げとりさんは私に対して「カルト」という言葉を
> 投げつけました。新旧BBSとブログを通じて、これ以上酷い表現は
> まず見当たらないのではないかと思いますが、これも、「それなり
> の意味がある」わけですよね。
春告げ鳥さんは「カルトである」と言ったのではなく、
「カルトのように感じてしまう」と言ったのでした。
これはかなり感覚的な、主観的なものの言い方です。
春告げ鳥さんは何も学術的厳密を踏まえたところからこの語を使ったわけではないのです。
そして、このようなことはよくあるわけですよ。人間同士の会話の一般の情景の中で。
私は、春告げ鳥さんの発言にはもちろん「それなりの意味」があるし、それに対する私達の「それなりの理解」も可能だと思います。
(私が春告げ鳥さんと同じモノの見方をし言葉の選び方をするという意味ではありません。)
侍者2さん。このようなことは、「言葉」や「論理」や「表現倫理」や「人権」やという問題とはちょっと違った、「人間理解」の問題なのですよ。「主観の理解」「感情の理解」の問題です。
春告げ鳥さんは確かに「カルト」という言葉を使いましたが、これは春告げ鳥さんの主観において、それほど「酷い」「これ以上ないほどに酷い」と称されるべき《悪意のこもった》ものだったのでしょうか?
私達の中にはそのような問いがあるべきです。
もう一度言います。私達の中にはそのような問いがあるべきです。
(そしてこの「べき」は「人への押し付け」を意味していません。)
つまり、私達の中にはひたすら「現に私がそれをどう受け取るかか」という問題ばかりがあるべきではなく、「その相手の人がその人自身の主観においてどのような意味 − 思い − でこのようなことを言っているのか」を読む、読み取る、ということがあるべきです。
それが「人間理解」ですから。
私の理解では、春告げ鳥さんの発言は、かつて或る人が或る人に向けて投げつけた「砂に頭を」云々という表現などよりは、明らかに、人の素朴な心として基本的に、よほど善意的なものです。その差は比較にならないほどのものですよ? (あなたにはそれが「見えない」のか?)
それはそれ自体、あなたや聖ピオ十世会のことを特別に「侮蔑する」言葉でもなければ、「軽んずる」言葉でもないのです。
春告げ鳥さんの「主観」における話ですよ?
「言葉の見かけの裏にあるもの」の話ですよ?
「人権」や「表現倫理」とはひとつ別の話ですよ?
侍者2さん。
私は「ベイサイド」や「他界からの警告」を自分のサイトで扱っています。そして私の管理する掲示板で、何人かの人が「カルト」という言葉を置いていったものです。確か「オカルト」と言った人もいます(笑)
しかし、私はそのように言う人達の感じていることがそれなりには分かるので、私自身にとってあまり大きな問題にはなりません。
また、私にとって問題なのは「現に自分がカルトかどうか」ということであって、「人がどう言ったか」ではありません。
これがあなたの「人間理解」なのか?
私は上で「あなたを尊敬します。(嘘でない)」と言ったではないか。
あなたはこれを信じないのか?
あなたのような人に〈直球〉を投げ続けていいのかどうか、分からない。
けれど、あなたの自己洞察力に期待して、言うことにする。
あなたの「終結宣言」は、私には (私の主観には)
かなり「子供っぽい報復行動」のようなものに見える。
色んなものを削除したことを、ここで「発表」しなくてもよろしい。
削除するなら、黙って削除すれば良い。
あなたの〈心〉が言っているのは、
「見なさい。私はこうなりました。私がこうなったのは、あなた方のせいです。見なさい。事はこんなに『おおごと』に発展しました。こうなったのは、あなた方のせいです。あなた方は、私が今まで人知れず努力し続けて来た役割や仕事から手を引くことで、自分達が何を失ったかを知ればいいのです」
ということではないか?
あなたは子供っぽく「ブンむくれて」いるのではないか?
あなたはあなたの「信」をどこに置いているのか?
私が「私にとって問題なのは『現に自分がカルトかどうか』ということであって、『人がどう言ったか』ではない」と言ったように、もし私が言ったことがあなたの実態に合っていないと思うならば、あなたは今まで通りの形であなたの信を貫けば良いではないか。
そしてもしそうでなく、私の言ったことに少しか当たっているところがあると思うならば、それはそれであなたの中で消化すれば良い。
本当はそれだけの話ではないか。
> 侍者でもトランクルームの管理でもその他何でも、
> ヨゼフ・ジェンマさんと春告げとりさんが望むならば私は降ります。
> 何を辞めればよいか、後でお知らせ下さい。
いつも「厳密」である筈のあなたが、どうして私 (達) の言葉をこのような事柄と結び付けるのか。
誰が、「あなたは侍者に値しない」と言ったか。
誰が、「あなたは聖ピオ十世会の発展のために邪魔だ」と言ったか。
何故、私があなたに聖ピオ十世会の仕事を辞めるように指示する権限があるかのように言うのか。
あなたはもっと厳密な人ではなかったのか。
私が言って来たのは、一言で言えば、
「あなたにも人間的成長が必要であろう」ということだ。
人間的な側面での成長。それはあなたに必要であり、私にも必要だ。
何故、このような本来平易なことをすんなりと、それ自体として受け入れてくれないのか。
あなたは「人間の価値」というものについて、どう考えているのか?
私はこれに関し、次の言葉を愛する者だ。
「人間は完全なる存在ではないのだ。不完全さをいつも背負っている。人間の存在価値は完全であることにあるのではなく、不完全でありその不完全さを克服しようとするところにあるのだ。人間は未熟なのである。個々の人間のもつ不完全さはいろいろあるにしても、人間がその不完全さを克服しようとする時点では、それぞれの人間は同じ価値をもつ。そこには生命の発露があるのだ。」(高野悦子『二十歳の原点』)
A FOXです。
もう宛名は書きません。
このレスを読まれた方ご自分で判断してください。
少なくても貴方の書き込みで、1人の人間が傷つけられた事実には目をむけてください。
なぜ、侍者2さんを理解してあげないのでしょうか?
○○○と言う言葉が彼にとてつもない傷をおわせているとは感じないのですか?
謝罪の言葉があってもいいのでは?
祈りのうちに。
カトリック教会にウザい人がいても、離教するという選択肢は我々カトリック信者にはありえません。
よって、どんなに喧嘩しても大した問題ではないという前提の下での喧嘩なので気にしないでください。
いいから、オナゴはちょっと黙ってろ。
いい年なんだから、大人になりなさい。
春告げ鳥さんは、自分が引くことをえらびました。大人ですね。
めでたし団さん
やっぱりここに書き込みしなくて正解です。
無駄な論争に巻き込まれなくてよかったです。
私は初めから "戦闘気分" でいるわけではないんだよ。
いわゆる「我を張ってる」わけではないの。
子供みたい♪
侍者2さんも引きました。
ヨゼフジェンマさん1人でどうします?
疲れました。おやすみなさい。
私がいわゆる「意地になってる」とか、「やっきになってる」とか、
「自論を通そうとしている」とか、「勝とうとしている」とか、
ある程度そのように思われるのは仕方がないと思ってる。
でも、私が「喧嘩口調」で話していると思うか?(心の中でも。)
ただ、「思いのたけを話したい」というのは、ある。
実に、ある。
> ヨゼフジェンマさん1人でどうします?
「どうします?」じゃないんだよ。
私は彼の最後の書き込みから、もう彼は来ないだろうと知ってるよ。
三つの大量書き込みは私としても最後のものだった。
安い謝罪はしないけど、彼のために祈ってると言っといてくれ。
口調はお許しを。姐御さん。
「暴言」は、ほどほどに・・。foxさんに対しても・・。夫にさえ、言われたことありません。(思っているかもしれないけれど・・)「たまには」でも、公開されているし、相手が特定されています。大切にすべき「他者」(隣人)ではありませんか?
にもかかわらず、あまり悲観はしていません。みなさん(JGさんも)、しっかり、「正しい信仰」を求めておられ、よく祈られる方々だと思うので・・、安心しています。
お気持ちのほんの一部しか理解できていないかもしれませんが、「小舟」に「やっかいなもの」を乗せて、川から大海に流してはいただけませんか?
今までのような役割をしていただくことを、私は希望します。
昨夜はあなたに対しておふざけが過ぎました。
ごめんなさい。
(と、謝ろうと思って来たのです。
すると、1さんの書き込みが。
1さん、その通りです。)