2008年07月28日
コミュニケあれやこれや その3 〜 水準を異にする やりとりの2相 〜
*最後に追記(7/29)を加えました。
こういう「同じような言葉を繰り返す終わりそうもない挨拶」の類は、お互いにケーブルをつなぎ合わせるような行為ですよね。
何らかの情報を伝達するやりとりというわけではなくて、むしろそういう「伝達するやりとり」を可能にするための「前提」を醸成していくような感じ。
コミュニケーションには、とりあえずこのような水準の違う2つの層があって、「メッセージが行き来すること」と、「メッセージが行き来する回路を切り開くこと」とは、別の水準の出来事だというわけです。
内田氏が「師」と仰いでいる、哲学者でありタルムード学者であるエマニュエル・レヴィナスは、この2種類のコミュニケーションのあり方を「語られたこと」と「語ること」というふうに言い換えたんだそうです。
「語ること」というのは、そこに起こりつつある「運動」そのものを指します。
一方「語られたこと」というのは、その運動が完了したあとの「結果」を指しているんです。
ちょっとこれだけでは分かりにくいかと思いますが、「語ること」に焦点が合った「曝露(自らをさらけ出す)としてのコミュニケーション」と、「語られたこと」に焦点が合った「メッセージの伝達としてのコミュニケーション」とは、水準を異にしているということらしい。
レヴィナスは、この2つの差異についてこう書いているそうです。
〜「語ること」、それは、隣人に近づくこと、「意味生成を贈ること」である。
それは「語られたこと」のうちに(物語として)表示される「記号の授与」には尽くされない。
他者に贈られる意味生成は、あらゆる対象化作用に先行している。
その語の厳密な意味における「語ること」は記号の手渡しではない。
「記号の手渡し」が行われるというのは、あらかじめ記号が表象されているということである。
〜
(「あらかじめ記号が表象されている」というのは、要するに、喋る側のアタマの中ですでに「パッケージ化」されている、すでに「語られてしまっている」というようなことだと思います。多分)
「語ること」と「語られたこと」。
「語ること」はメッセージが行き来する回路を切り開きはするけれども、それ自体はメッセージの行き来を目的とはしていない。
そういう「言葉を贈る」ような行為。
「語ること」というよりは、むしろ「語りかけること」と言った方がいいような気もします。
「贈りもの」が相手に届かず、あるいは届いても黙殺されて、こちらは傷つくかもしれません。
そういう「相手から傷つけられ得る」リスクをあらかじめ引き受けつつ「贈る」。
だからこそ、「曝露(自らをさらけ出す)としてのコミュニケーション」という言い方がされるわけです。
語りかけ 言葉を贈り、幸運にも相手がそれに応えて 言葉を贈り返し、それをまたこちらがう受けとる。
そのようなやりとりの回路が開いて初めて、「語られたこと」(メッセージ)の水準は 息づくことを許されるわけですね。
内田氏は、ひそかに惹かれ合っている平一郎と節子とが、映画の最後に駅で出会ったときの会話を紹介します。
「やあ おはよう」
「おはよう。ゆうべはどうも」
「いやあ」
「どちらへ」
「ちょいと 西銀座まで」
「あ それじゃ ご一緒に」
「ああ いい天気ですね」
「ほんと、いいお天気」
「この分じゃ、二三日続きそうですね」
「そうね、続きそうですわね」
「ああ あの雲、おもしろい形ですね」
「ああ ほんとにおもしろい形」
「何かに似てるな」
「そう、何かに似てるわ」
「いいお天気ですね」
「ほんとにいいお天気」
〜もし コミュニケーションの本質が情報のやり取りにあるのだとすれば、これはコミュニケーションとは言えない。
節子は平一郎の言葉をただ繰り返しているだけで、情報として分かったのは「平一郎が西銀座方面に出かける」ということだけである。
しかし それにも関わらず、いや それゆえにこそ、ここには 子どもたちが「まだ」理解していないこと、言葉を贈り、贈り返すことを通じて「共同体(気持ちの通じ合い)をたちあげる」というコミュニケーションの本質が見てとれる〜
と、内田氏は言います。
まさにそうだなぁと思いました。
この2人は言葉を贈り合うことで、「私たちの間にはコンタクトが成立している」ということを、ひたすらに確認し続けている。
もどかしいくらいに互いを求め合う、彼らの「渇望」の激しさが感じられます。
小津監督の『お早よう』は以前に一度観たことがあるのですが、こういうことをそのときは全然感じませんでした。
これらのエピソードのほかにも、「善ちゃんのお父さんとお母さんの“おならから葛餅(くずもち)”コミュニケーション」など、青二才には気がつけないような 大人の機微や醍醐味満載の映画のようです。 (^o^)
「語られたこと」と「語りかけること」。
「メッセージが行き来すること」と「メッセージが行き来する回路を切り開くこと」。
コミュニケーションの機微をじっくり味わいながら、『お早よう』をもう一度観てみたいな と思いました。
〜 この括り おしまい(けど つづく) 〜
*追記(7/29)
南郷力丸さんから「その2」の方に、トラックバックをいただきました。
僕が切りとったのとはまた少し違う角度で、コミュニケーションの考察がなされています。(と、僕は思った)
彼の挙げる『「位置確認」のためのコミュニケーション』というのは、おんなじことのようなのだけれど、やはりまた少し角度が違うと感じます。
その意味では、僕の記事を読んだ皆さまには、南郷力丸さんの記事も是非読んでいただきたいと思って、追記として挙げました。
相変わらずまとまり具合が非常に秀逸で、感服しきりです。
これは南郷力丸さんだけの話ではないですけれど、コンピューターの世界とか、論理学の世界とか、そういうことを詳しく知っていると、考えがより拡がるというか深まるというか、そういう感じがあっていいなぁとうらやましく思います。 (^_^;)
せっかくですから 少し付け加えるなら、「ねぇねぇ わたしを見てー!」という『「存在確認」のためのコミュニケーション』というか、純粋に『単なる「存在の主張」でしかないような言論?』も意外と多いと思うので、そのへんはそのへんでまた 括りがちょっと別になるかな、とも。
南郷力丸さんの記事の中で、彼がよく使っている「納得力」という言葉の意味合いが説明されていたので、そこだけこちらに引用させていただきます。
「つまり、コミュニケーションのプロトコルを確立しない相手と、ただただ趣味について語るだけで、連帯感を得ている例だった。
このような例にいいサンプルになってくれたのが、2年半ほど前に話題になった「伊勢崎のドンキホーテ」だった。
コミュニケーションのためなら「説得力」に対応して、相応の「納得力」が期待できるはずが、「自分の位置」を確認したいだけのコミュニケーションだから、相手と自分の位置が優先で、その位置次第で「納得力」が大きく変わるということだった。
位置を知りたいだけだから、違うと全く「納得力」を発揮しないから、いかに「説得力」があっても無駄であり、逆だと全く「説得力」がなくていい。 」
記事全体も、ちゃんと目を通してくださいね〜。 (^o^)
*前後のエントリーは左上の「過去の記事とシリーズ」からとべます♪
「語ること」はメッセージが行き来する回路を切り開きはするけれども、それ自体はメッセージの行き来を目的とはしていない。
そういう「言葉を贈る」ような行為。
「語ること」というよりは、むしろ「語りかけること」と言った方がいいような気もします。
「贈りもの」が相手に届かず、あるいは届いても黙殺されて、こちらは傷つくかもしれません。
そういう「相手から傷つけられ得る」リスクをあらかじめ引き受けつつ「贈る」。
だからこそ、「曝露(自らをさらけ出す)としてのコミュニケーション」という言い方がされるわけです。
語りかけ 言葉を贈り、幸運にも相手がそれに応えて 言葉を贈り返し、それをまたこちらがう受けとる。
そのようなやりとりの回路が開いて初めて、「語られたこと」(メッセージ)の水準は 息づくことを許されるわけですね。
内田氏は、ひそかに惹かれ合っている平一郎と節子とが、映画の最後に駅で出会ったときの会話を紹介します。
「やあ おはよう」
「おはよう。ゆうべはどうも」
「いやあ」
「どちらへ」
「ちょいと 西銀座まで」
「あ それじゃ ご一緒に」
「ああ いい天気ですね」
「ほんと、いいお天気」
「この分じゃ、二三日続きそうですね」
「そうね、続きそうですわね」
「ああ あの雲、おもしろい形ですね」
「ああ ほんとにおもしろい形」
「何かに似てるな」
「そう、何かに似てるわ」
「いいお天気ですね」
「ほんとにいいお天気」
〜もし コミュニケーションの本質が情報のやり取りにあるのだとすれば、これはコミュニケーションとは言えない。
節子は平一郎の言葉をただ繰り返しているだけで、情報として分かったのは「平一郎が西銀座方面に出かける」ということだけである。
しかし それにも関わらず、いや それゆえにこそ、ここには 子どもたちが「まだ」理解していないこと、言葉を贈り、贈り返すことを通じて「共同体(気持ちの通じ合い)をたちあげる」というコミュニケーションの本質が見てとれる〜
と、内田氏は言います。
まさにそうだなぁと思いました。
この2人は言葉を贈り合うことで、「私たちの間にはコンタクトが成立している」ということを、ひたすらに確認し続けている。
もどかしいくらいに互いを求め合う、彼らの「渇望」の激しさが感じられます。
小津監督の『お早よう』は以前に一度観たことがあるのですが、こういうことをそのときは全然感じませんでした。
これらのエピソードのほかにも、「善ちゃんのお父さんとお母さんの“おならから葛餅(くずもち)”コミュニケーション」など、青二才には気がつけないような 大人の機微や醍醐味満載の映画のようです。 (^o^)
「語られたこと」と「語りかけること」。
「メッセージが行き来すること」と「メッセージが行き来する回路を切り開くこと」。
コミュニケーションの機微をじっくり味わいながら、『お早よう』をもう一度観てみたいな と思いました。
〜 この括り おしまい(けど つづく) 〜
*追記(7/29)
南郷力丸さんから「その2」の方に、トラックバックをいただきました。
僕が切りとったのとはまた少し違う角度で、コミュニケーションの考察がなされています。(と、僕は思った)
彼の挙げる『「位置確認」のためのコミュニケーション』というのは、おんなじことのようなのだけれど、やはりまた少し角度が違うと感じます。
その意味では、僕の記事を読んだ皆さまには、南郷力丸さんの記事も是非読んでいただきたいと思って、追記として挙げました。
相変わらずまとまり具合が非常に秀逸で、感服しきりです。
これは南郷力丸さんだけの話ではないですけれど、コンピューターの世界とか、論理学の世界とか、そういうことを詳しく知っていると、考えがより拡がるというか深まるというか、そういう感じがあっていいなぁとうらやましく思います。 (^_^;)
せっかくですから 少し付け加えるなら、「ねぇねぇ わたしを見てー!」という『「存在確認」のためのコミュニケーション』というか、純粋に『単なる「存在の主張」でしかないような言論?』も意外と多いと思うので、そのへんはそのへんでまた 括りがちょっと別になるかな、とも。
南郷力丸さんの記事の中で、彼がよく使っている「納得力」という言葉の意味合いが説明されていたので、そこだけこちらに引用させていただきます。
「つまり、コミュニケーションのプロトコルを確立しない相手と、ただただ趣味について語るだけで、連帯感を得ている例だった。
このような例にいいサンプルになってくれたのが、2年半ほど前に話題になった「伊勢崎のドンキホーテ」だった。
コミュニケーションのためなら「説得力」に対応して、相応の「納得力」が期待できるはずが、「自分の位置」を確認したいだけのコミュニケーションだから、相手と自分の位置が優先で、その位置次第で「納得力」が大きく変わるということだった。
位置を知りたいだけだから、違うと全く「納得力」を発揮しないから、いかに「説得力」があっても無駄であり、逆だと全く「説得力」がなくていい。 」
記事全体も、ちゃんと目を通してくださいね〜。 (^o^)
*前後のエントリーは左上の「過去の記事とシリーズ」からとべます♪
Posted by appie_happie at 10:40
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2008/7/26 J-SASTニュース (資料)
水よりもお湯の方が早く氷になる――。NHKがこんな氷の早作り技を番組で紹介したところ、早大の大槻義彦名誉教授がブログで「物理学で未解明」などと激しく批判。一方、NHKでは、「実際に実験で確認しており、番組に問題はない」と反論し...
「水よりお湯の方が早く凍る!」 「ためしてガッテン」実験は本当か【逝きし世の面影】at 2008年07月28日 16:57
この記事へのコメント
すみません。某所の議論で勝手にアキラさんを引き合いに出してしまいました。ご迷惑をおかけしました。
申し訳ない。
ともかく、立場の対立する者同士の論争も、互いの悪意を払拭できれば、多少はまともに話が出来るのではないかという感触だけは得て(それだけか?!)終わりました。
ところで、『整体からみる気と身体』は、面白すぎです。いろいろ忙しくてまだ半分ですが、ほんの数ページだけ読んでも、興味深い示唆が多く、さらに言えば、不思議な‘癒し’を感じる本でもあります。こんな言い方をすると?かもしれませんが、本を開いたとき、文面から独特の穏やかな気を感じるんです。
実は今までも、多少気については学んできたのですが、その中で自分なりに考察してきたことと、かなり重なっていて、さらに的確に表現されている感じです。
アキラさんがいなければ、野口整体に興味を持つこともなかったと思います。
感謝です。
では。
申し訳ない。
ともかく、立場の対立する者同士の論争も、互いの悪意を払拭できれば、多少はまともに話が出来るのではないかという感触だけは得て(それだけか?!)終わりました。
ところで、『整体からみる気と身体』は、面白すぎです。いろいろ忙しくてまだ半分ですが、ほんの数ページだけ読んでも、興味深い示唆が多く、さらに言えば、不思議な‘癒し’を感じる本でもあります。こんな言い方をすると?かもしれませんが、本を開いたとき、文面から独特の穏やかな気を感じるんです。
実は今までも、多少気については学んできたのですが、その中で自分なりに考察してきたことと、かなり重なっていて、さらに的確に表現されている感じです。
アキラさんがいなければ、野口整体に興味を持つこともなかったと思います。
感謝です。
では。
Posted by naoko
at 2008年07月30日 04:48
・naokoさん
うーん、なんか せせら嗤われまくってる気配が感じられてたんですが、どっかでミョーなことが起こってたんですね?
いや、それはいいんですよ。naokoさん非難してるわけじゃないですからね。 (^o^)
>ところで、『整体からみる気と身体』は、面白すぎです。
<
そうですか、面白いですか。僕も読んでみようかなぁ。
知り合いが、以前片山さんのところに少し行っていたことがあったらしく、ちょっとだけそのときの話を聞いたことはあるのですが・・・。
確かに、片山さんは「不思議な‘癒し’」感があるようですよ。
>実は今までも、多少気については学んできたのですが、
<
おぉ、そうなのですか。
それではコミュニケ・シリーズの次の括りのお話(その4〜)は、naokoさんにはけっこう面白がってもらえるかも。 (^o^)
請う ご期待!
うーん、なんか せせら嗤われまくってる気配が感じられてたんですが、どっかでミョーなことが起こってたんですね?
いや、それはいいんですよ。naokoさん非難してるわけじゃないですからね。 (^o^)
>ところで、『整体からみる気と身体』は、面白すぎです。
<
そうですか、面白いですか。僕も読んでみようかなぁ。
知り合いが、以前片山さんのところに少し行っていたことがあったらしく、ちょっとだけそのときの話を聞いたことはあるのですが・・・。
確かに、片山さんは「不思議な‘癒し’」感があるようですよ。
>実は今までも、多少気については学んできたのですが、
<
おぉ、そうなのですか。
それではコミュニケ・シリーズの次の括りのお話(その4〜)は、naokoさんにはけっこう面白がってもらえるかも。 (^o^)
請う ご期待!
Posted by アキラ@naokoさん
at 2008年07月30日 09:58
他者をせせら笑う自分の醜悪さが、かけらも気づけない人ばかりではないということです。
たぶん…。ごく一部でしょうが。
それよりも、おそろしく巧妙な悪意というのもあって、これが元凶かなあ、と思いました。
たぶん…。ごく一部でしょうが。
それよりも、おそろしく巧妙な悪意というのもあって、これが元凶かなあ、と思いました。
Posted by naoko
at 2008年07月30日 14:31
naokoさん
本当に一部の人は気づいているのでしょうか。
アキラさんや南郷力丸さんが言われているような、ただただ自分の気分をよくするための、意味なしクロージング用コミュニケーションをしているのではないだろうか、と、ひねくれものの私は邪推してしまいます。
まぁ少なくとも「なんか自分すごい感情的になってたみたい」ぐらいは、感情に火をつける追加コメントさえ投下されなければ、いずれ感じてくるものです。
今日はひねくれalice(いつもか?)
本当に一部の人は気づいているのでしょうか。
アキラさんや南郷力丸さんが言われているような、ただただ自分の気分をよくするための、意味なしクロージング用コミュニケーションをしているのではないだろうか、と、ひねくれものの私は邪推してしまいます。
まぁ少なくとも「なんか自分すごい感情的になってたみたい」ぐらいは、感情に火をつける追加コメントさえ投下されなければ、いずれ感じてくるものです。
今日はひねくれalice(いつもか?)
Posted by
alice
at 2008年07月30日 17:24
・naokoさん
先ほど ちょちょんまげさんのところの「後記」を、サラサラッと見てきました。
大変なことになっていたのですね。
お疲れさまでした。
しかし、非常に有意義な議論だと感じました。
naokoさん、またあの場に参加されていた方々、そうして特に うまく交通整理をしながら仕切っていたちょちょんまげさんに、深い敬意を表したい。
枝葉にむやみに反応せず、きちんとお互いが向き合えば、それなりの結末というものがあり得ると思います。
「お互い」じゃないと、でもムリですよね。
このへんの有無が、「おそろしく巧妙な悪意」と絡んでくる話かもしれません。
先ほど ちょちょんまげさんのところの「後記」を、サラサラッと見てきました。
大変なことになっていたのですね。
お疲れさまでした。
しかし、非常に有意義な議論だと感じました。
naokoさん、またあの場に参加されていた方々、そうして特に うまく交通整理をしながら仕切っていたちょちょんまげさんに、深い敬意を表したい。
枝葉にむやみに反応せず、きちんとお互いが向き合えば、それなりの結末というものがあり得ると思います。
「お互い」じゃないと、でもムリですよね。
このへんの有無が、「おそろしく巧妙な悪意」と絡んでくる話かもしれません。
Posted by アキラ@naokoさん
at 2008年07月30日 20:31
・aliceさん
naokoさん、横レス失礼。
自分と気の合う同士の「内輪」では、そりゃあ「ただただ自分の気分をよくするための 意味なしクロージング用コミュニケーション」をすると思いますよ。
僕らを含めて。
そういうもんでしょう?
そういうの、楽しいですし♪
というわけで aliceさん、今日はひねくれてると思います。(笑)
(一応 今日限定♪)
naokoさん、横レス失礼。
自分と気の合う同士の「内輪」では、そりゃあ「ただただ自分の気分をよくするための 意味なしクロージング用コミュニケーション」をすると思いますよ。
僕らを含めて。
そういうもんでしょう?
そういうの、楽しいですし♪
というわけで aliceさん、今日はひねくれてると思います。(笑)
(一応 今日限定♪)
Posted by アキラ@aliceさん@横レス
at 2008年07月30日 20:36
う〜ん。。。
確認しますけれど、師匠の言う『言葉を贈る』の、『言葉』と『贈る』は一般的な意味で良いのですよね?
だとすると、『あなたのことなんか別に好きじゃないんだからね!(実は好き)』の、ツンデレはどう言う解釈になるのでしょうか。。。
私はもっぱら幼児といちゃいちゃしていますが、言語外のコミュニケーションで『コミュニケーションのプロトコルを確立し』ています。
新しい職場に就任した時も、また言葉のみでは、プロトコル(この人、ちゃんと大人の立ち位置で仕事する人)を確立出来ません。
もちろん『言葉を贈』りますが。
現状では『言葉を贈る』は、素数的なピンポイントでは合点がいきますが、最大公約数を示せてはいない気もします。
でも続くのですものね。
その辺りも含めて、楽しみにしています。
確認しますけれど、師匠の言う『言葉を贈る』の、『言葉』と『贈る』は一般的な意味で良いのですよね?
だとすると、『あなたのことなんか別に好きじゃないんだからね!(実は好き)』の、ツンデレはどう言う解釈になるのでしょうか。。。
私はもっぱら幼児といちゃいちゃしていますが、言語外のコミュニケーションで『コミュニケーションのプロトコルを確立し』ています。
新しい職場に就任した時も、また言葉のみでは、プロトコル(この人、ちゃんと大人の立ち位置で仕事する人)を確立出来ません。
もちろん『言葉を贈』りますが。
現状では『言葉を贈る』は、素数的なピンポイントでは合点がいきますが、最大公約数を示せてはいない気もします。
でも続くのですものね。
その辺りも含めて、楽しみにしています。
Posted by ぺこぽこ
at 2008年07月31日 00:46
・ぺこぽこさん
お久しぶりです♪
ぺこさんのそういう捻れ的な切り込み方、好きですよ。 (^o^)
>師匠の言う『言葉を贈る』の、『言葉』と『贈る』は一般的な意味で良いのですよね?
<
はい、よいです。
>だとすると、『あなたのことなんか別に好きじゃないんだからね!(実は好き)』の、ツンデレはどう言う解釈になるのでしょうか。。。
<
それは基本的に、メッセージが行き来する回路が切り開かれたあと、の話ですよね?
それがないうちに そういう投げかけがなされるのだとすると、「はぁぁ〜?」で終わりだと思います。
回路の確保後であれば、それは「メッセージの行き来」という水準になるかとは思いますが、
回路が確保されてない状態であれば、少なくとも「贈りもの」にはならないと思います。
>私はもっぱら幼児といちゃいちゃしていますが、言語外のコミュニケーションで『コミュニケーションのプロトコルを確立し』ています。
<
ご理解していただけてないようですが、これは「言葉によるコミュニケーション」ということが前提になっている話です。
ですから、そういう話になるということで。
その意味で「最大公約数」が何の最大公約数なのかが、逆によく分かりません。
お久しぶりです♪
ぺこさんのそういう捻れ的な切り込み方、好きですよ。 (^o^)
>師匠の言う『言葉を贈る』の、『言葉』と『贈る』は一般的な意味で良いのですよね?
<
はい、よいです。
>だとすると、『あなたのことなんか別に好きじゃないんだからね!(実は好き)』の、ツンデレはどう言う解釈になるのでしょうか。。。
<
それは基本的に、メッセージが行き来する回路が切り開かれたあと、の話ですよね?
それがないうちに そういう投げかけがなされるのだとすると、「はぁぁ〜?」で終わりだと思います。
回路の確保後であれば、それは「メッセージの行き来」という水準になるかとは思いますが、
回路が確保されてない状態であれば、少なくとも「贈りもの」にはならないと思います。
>私はもっぱら幼児といちゃいちゃしていますが、言語外のコミュニケーションで『コミュニケーションのプロトコルを確立し』ています。
<
ご理解していただけてないようですが、これは「言葉によるコミュニケーション」ということが前提になっている話です。
ですから、そういう話になるということで。
その意味で「最大公約数」が何の最大公約数なのかが、逆によく分かりません。
Posted by アキラ@ぺこぽこさん
at 2008年07月31日 01:44
aliceさん、アキラさんへ
今回、感じたことですが、相手方の多くに対して、「現代の社会に『過剰適応(←これ、片山さんの言葉です)』している者の屈折と哀愁」を感じたんですね。
それを理解できない者からの反論に対しては、無意識の反発から、過剰に反応してしまうという感じです。
しかし、そういう自分の内面をしっかり意識して話す論者の言葉は、やはりそれなりの重みと説得力があります。今回強く感じたことです。
逆にそういう自分の内面の‘捩れ’に無自覚だったり、あるいはあまりに防衛的な場合は、話になりません。
さらに、多少、適応不良ぎみなわたしの言葉などは、相手にとって、相当な苦痛や反発を呼ぶようです。
これは、気や共鳴の話にかなり近いです。
だからこそ、根源的な反発を感じる者同士の尊重や理解、つまり『共感』は、なかなか深い価値ある体験をもたらすのだと思います。
今回、感じたことですが、相手方の多くに対して、「現代の社会に『過剰適応(←これ、片山さんの言葉です)』している者の屈折と哀愁」を感じたんですね。
それを理解できない者からの反論に対しては、無意識の反発から、過剰に反応してしまうという感じです。
しかし、そういう自分の内面をしっかり意識して話す論者の言葉は、やはりそれなりの重みと説得力があります。今回強く感じたことです。
逆にそういう自分の内面の‘捩れ’に無自覚だったり、あるいはあまりに防衛的な場合は、話になりません。
さらに、多少、適応不良ぎみなわたしの言葉などは、相手にとって、相当な苦痛や反発を呼ぶようです。
これは、気や共鳴の話にかなり近いです。
だからこそ、根源的な反発を感じる者同士の尊重や理解、つまり『共感』は、なかなか深い価値ある体験をもたらすのだと思います。
Posted by naoko
at 2008年07月31日 02:38
アキラ様、はじめまして。
ちょちょんまげと申します。
突然お邪魔しての、この様な不躾な行為をお許しください。
場所をお借りしたく、お願い申し上げます。
>naokoさん
わざわざ人様の軒先まで追いかけてきて声をかけるような無作法をお許しください。
>「現代の社会に『過剰適応(←これ、片山さんの言葉です)』している者の屈折と哀愁」を感じたんですね。
それを理解できない者からの反論に対しては、無意識の反発から、過剰に反応してしまうという感じです。
「論拠を示していない」ので、意味不明です。また、単なる印象論にすぎません。
>あるいはあまりに防衛的な場合は、話になりません。
こういう「断言」についてもあちらで話をしました。
>これは、気や共鳴の話にかなり近いです。
この断言も意味不明です。
このあたり、私のところで話をしてご同意いただけたことかと、了解していました。
アキラ様
このような内容で、こちらの皆様には意味が通じているのでしたら、全ては私の無教養、無作法ゆえの行いです。
ご批判ください。
大変に失礼いたしました。
ちょちょんまげと申します。
突然お邪魔しての、この様な不躾な行為をお許しください。
場所をお借りしたく、お願い申し上げます。
>naokoさん
わざわざ人様の軒先まで追いかけてきて声をかけるような無作法をお許しください。
>「現代の社会に『過剰適応(←これ、片山さんの言葉です)』している者の屈折と哀愁」を感じたんですね。
それを理解できない者からの反論に対しては、無意識の反発から、過剰に反応してしまうという感じです。
「論拠を示していない」ので、意味不明です。また、単なる印象論にすぎません。
>あるいはあまりに防衛的な場合は、話になりません。
こういう「断言」についてもあちらで話をしました。
>これは、気や共鳴の話にかなり近いです。
この断言も意味不明です。
このあたり、私のところで話をしてご同意いただけたことかと、了解していました。
アキラ様
このような内容で、こちらの皆様には意味が通じているのでしたら、全ては私の無教養、無作法ゆえの行いです。
ご批判ください。
大変に失礼いたしました。
Posted by ちょちょんまげ
at 2008年07月31日 05:47
うお!
師匠のクレームが…。
はい、全部『印象論』ではあります。
そうか…、この断言口調が、いかんのか…。
しかし…、ちょちょんまげ師匠もまめですね。
ちょっと、びっくりしましたよ。
そんなに鼻につきます?
この断言口調?
う〜む。
師匠のクレームが…。
はい、全部『印象論』ではあります。
そうか…、この断言口調が、いかんのか…。
しかし…、ちょちょんまげ師匠もまめですね。
ちょっと、びっくりしましたよ。
そんなに鼻につきます?
この断言口調?
う〜む。
Posted by naoko
at 2008年07月31日 07:20
アキラ様
何度も申し訳ありません。
>naokoさん
断言口調もそうなんだけど、私のところで、議論へのお礼とか謝罪とかしといて、そのすぐあとで他所で
>「現代の社会に『過剰適応(←これ、片山さんの言葉です)』している者の屈折と哀愁」を感じたんですね。
とか書かれて、怒らない人がいたらお目にかかりたい。
極めて失礼な行為です。
だったら、最初からお礼も謝罪もなしで突っぱねれば良いこと。
大体、「片山さん」ってのがどこのどなたか存じ上げませんけど、どこかの誰かが言ってたことが、たまたまどこかの誰かに当てはまって見えたところで、それを持って「現代の社会に「『過剰適応』している者の屈折と哀愁」などと決め付けるような、どっかの騙り評論家のような行為が私は反吐が出るほどキライなんです。
まぁ、例によって懲りないところは感心するけどね(でも、今回はどっちかというとあきれてる)
アキラ様
本当にお目汚しで申し訳ない。
お哄いください。
何度も申し訳ありません。
>naokoさん
断言口調もそうなんだけど、私のところで、議論へのお礼とか謝罪とかしといて、そのすぐあとで他所で
>「現代の社会に『過剰適応(←これ、片山さんの言葉です)』している者の屈折と哀愁」を感じたんですね。
とか書かれて、怒らない人がいたらお目にかかりたい。
極めて失礼な行為です。
だったら、最初からお礼も謝罪もなしで突っぱねれば良いこと。
大体、「片山さん」ってのがどこのどなたか存じ上げませんけど、どこかの誰かが言ってたことが、たまたまどこかの誰かに当てはまって見えたところで、それを持って「現代の社会に「『過剰適応』している者の屈折と哀愁」などと決め付けるような、どっかの騙り評論家のような行為が私は反吐が出るほどキライなんです。
まぁ、例によって懲りないところは感心するけどね(でも、今回はどっちかというとあきれてる)
アキラ様
本当にお目汚しで申し訳ない。
お哄いください。
Posted by ちょちょんまげ
at 2008年07月31日 08:48
・ちょちょんまげさん
ようこそ、はじめまして。
あちらでのやりとりは、じっくりとではありませんが拝見させていただきました。
熱い激情の中での冷静な対応、非常に感服しました。
「蒔いた種は刈らねばならない」
僕はこれに尽きると思っています。
naokoさんの蒔いた種、naokoさん自身が刈らねばならないでしょう。
ですから、まぁどうぞ。
今度は違うギャラリーも多いでしょうし、僕も口を出します。
お二人とも、ミョーなしこりが残らないように お互いにしっかり向き合ってくださいね。
もちろん「悪意」を取り払って。
ようこそ、はじめまして。
あちらでのやりとりは、じっくりとではありませんが拝見させていただきました。
熱い激情の中での冷静な対応、非常に感服しました。
「蒔いた種は刈らねばならない」
僕はこれに尽きると思っています。
naokoさんの蒔いた種、naokoさん自身が刈らねばならないでしょう。
ですから、まぁどうぞ。
今度は違うギャラリーも多いでしょうし、僕も口を出します。
お二人とも、ミョーなしこりが残らないように お互いにしっかり向き合ってくださいね。
もちろん「悪意」を取り払って。
Posted by アキラ@ちょちょんまげさん
at 2008年07月31日 09:20
・naokoさん
さて、僕からの感想も。
naokoさんが実際にはこのように感じたという「純粋な主観、感想」として、ここへのコメントを書いたのだろうということは理解できます。
しかし、いわゆるメールのやりとりと違うのですから、
(一般的な意味で。naokoさんとメールのやりとりをしてるわけではありません)
オープンなコメント欄に書けば、当然相手の方々も目にする可能性が高いわけです。
naokoさんは、そこまで鑑みてここへのコメントを書きましたか?
重々踏まえた上で 敢えて書いたのだとしたら、そこには僕はかなりの「悪意」を感じますよ。
あんまり鑑みてなかったのだとしたら、それは「やりとり以前」の問題になってしまうでしょう。
さて、僕からの感想も。
naokoさんが実際にはこのように感じたという「純粋な主観、感想」として、ここへのコメントを書いたのだろうということは理解できます。
しかし、いわゆるメールのやりとりと違うのですから、
(一般的な意味で。naokoさんとメールのやりとりをしてるわけではありません)
オープンなコメント欄に書けば、当然相手の方々も目にする可能性が高いわけです。
naokoさんは、そこまで鑑みてここへのコメントを書きましたか?
重々踏まえた上で 敢えて書いたのだとしたら、そこには僕はかなりの「悪意」を感じますよ。
あんまり鑑みてなかったのだとしたら、それは「やりとり以前」の問題になってしまうでしょう。
Posted by アキラ@naokoさん
at 2008年07月31日 09:21
それともう一点。
それはそれとして横に置いた上で、naokoさんのコメントをサラサラッと読んでいると、「そういうあなたはどうなのだ?」と常にツッコんでしまう僕がいます。
自分の内面をしっかり意識して話せているの? と。
そうしてそれは、誰にとってもなかなか難しいことであるとも思います。
もちろん僕自身にとっても。
ですから「出来ていなければならない」という話ではありません。
しかし、自分もまた 自らの内面をしっかり意識して話せてないという自覚があるのであれば、
もうすこし表現の仕方が変わってくるんではないかなぁ?とも思います。
相手の無自覚は批判や反発の対象になるけど、自分の「適応不良」は(自らの内において)オッケーだというのも、ちょっと都合がよすぎるような気もしますよ。 (^_^;)
そういうものが、新たな「種」になってしまうのではないでしょうか。
それはそれとして横に置いた上で、naokoさんのコメントをサラサラッと読んでいると、「そういうあなたはどうなのだ?」と常にツッコんでしまう僕がいます。
自分の内面をしっかり意識して話せているの? と。
そうしてそれは、誰にとってもなかなか難しいことであるとも思います。
もちろん僕自身にとっても。
ですから「出来ていなければならない」という話ではありません。
しかし、自分もまた 自らの内面をしっかり意識して話せてないという自覚があるのであれば、
もうすこし表現の仕方が変わってくるんではないかなぁ?とも思います。
相手の無自覚は批判や反発の対象になるけど、自分の「適応不良」は(自らの内において)オッケーだというのも、ちょっと都合がよすぎるような気もしますよ。 (^_^;)
そういうものが、新たな「種」になってしまうのではないでしょうか。
Posted by アキラ@naokoさん2
at 2008年07月31日 09:21
ちょちょんまげさん、アキラさん
夜、じっくり考えてコメントします。
アキラさんのおっしゃるように、自分の『適応不良』が、最大の問題です。
これは、非常にこまったことです。かなりの『自己愛』傾向が反映した書き方をしてしまっている。
相手を『過剰適応』と言い切り、自分は『適応不良気味』では、そりゃ、「あんた何様だ!」となりますね。
ちょちょんまげさん、すみません。
お怒りは、ごもっともです。
しかし、同時に、なんだかわたしは、自分がこの騒動を象徴する人物という気がしてきましたよ。
ここは、しっかり分析しとおさないといけない気がしています。
では。
夜、じっくり考えてコメントします。
アキラさんのおっしゃるように、自分の『適応不良』が、最大の問題です。
これは、非常にこまったことです。かなりの『自己愛』傾向が反映した書き方をしてしまっている。
相手を『過剰適応』と言い切り、自分は『適応不良気味』では、そりゃ、「あんた何様だ!」となりますね。
ちょちょんまげさん、すみません。
お怒りは、ごもっともです。
しかし、同時に、なんだかわたしは、自分がこの騒動を象徴する人物という気がしてきましたよ。
ここは、しっかり分析しとおさないといけない気がしています。
では。
Posted by naoko
at 2008年07月31日 13:10
naokoさんは思い込みが激しいのかなぁ。
「自分がこの騒動を象徴する人物という気がしてきましたよ」
という言い方なんかでも、“おいおい、勝手に自分を象徴にするなよ”とつっこんでしまいたくなる。
後は、big word*を使いすぎるのもいけないんじゃないかなぁ。
印象論は、多少言ったって言いと思います。ふつうなら聞いた相手が「それどういうこと?」と聞けばいいのですから。
ただ残念ながらnaokoさんとちょちょんまげさんの場合、そのやりとりができないぐらいの状態に陥ってしまってるようですね。だとすると、ちょちょんまげさんところの議論についてnaokoさんがオープンな場で何か書く時は、相当覚悟を決めて、慎重に言葉を選ぶ必要がありますね。しばらくは書かない方がいいかも知れないです。
*難解な言葉、大げさな言葉、大言壮語、意味不明な語、もったいぶった言葉
「自分がこの騒動を象徴する人物という気がしてきましたよ」
という言い方なんかでも、“おいおい、勝手に自分を象徴にするなよ”とつっこんでしまいたくなる。
後は、big word*を使いすぎるのもいけないんじゃないかなぁ。
印象論は、多少言ったって言いと思います。ふつうなら聞いた相手が「それどういうこと?」と聞けばいいのですから。
ただ残念ながらnaokoさんとちょちょんまげさんの場合、そのやりとりができないぐらいの状態に陥ってしまってるようですね。だとすると、ちょちょんまげさんところの議論についてnaokoさんがオープンな場で何か書く時は、相当覚悟を決めて、慎重に言葉を選ぶ必要がありますね。しばらくは書かない方がいいかも知れないです。
*難解な言葉、大げさな言葉、大言壮語、意味不明な語、もったいぶった言葉
Posted by
alice
at 2008年07月31日 15:57
議論の流れの中で、受任できない言説というのは、ひとつの問題に対して、見解が対立しているケースばかりではありません。もっとメタレベルで「ここでの議論でこの言説が意味を持つのか」という視点からのものもあります。
私のnaokoさんへの印象は、Lightさんの所から出発しています。あそこでの議論では「水伝はデタラメ」ということには意見の対立はありませんし、コミュニケーション手法に関する議論であったはずで、naokoさんの仰りたいことは、あそこでの論議に意義があるとは思えなかったわけです。つまり、同意するか否定するかという以前の「ノイズ」と解釈いたしました。
論理的に考えるというテーマの所で、幸いというか、naokoさんが論理的に意見を構築することが苦手でしたので、naokoさんの論理としての破綻をことさらに指摘したわけですね。
つまり、理解できないというよりも、理解するよりも、理解しない方が、議論が拡散しないと判断したわけです。
私のnaokoさんへの印象は、Lightさんの所から出発しています。あそこでの議論では「水伝はデタラメ」ということには意見の対立はありませんし、コミュニケーション手法に関する議論であったはずで、naokoさんの仰りたいことは、あそこでの論議に意義があるとは思えなかったわけです。つまり、同意するか否定するかという以前の「ノイズ」と解釈いたしました。
論理的に考えるというテーマの所で、幸いというか、naokoさんが論理的に意見を構築することが苦手でしたので、naokoさんの論理としての破綻をことさらに指摘したわけですね。
つまり、理解できないというよりも、理解するよりも、理解しない方が、議論が拡散しないと判断したわけです。
Posted by
南郷力丸
at 2008年08月01日 03:25
その上で、naokoさんについては、「他人に伝えたいことがある」「しかしnaokoさん自身が、それを体系化できていずに、断片のままの部分も多い」「例えクリアーな部分があったとしても、言語化できない」という印象を持っています。「言語化できていない」ということについては、ちょちょんまげさんの所で、かなり指摘されていましたね。自身での言語化が不十分だから、著名人が同じことを言っていると借りてきても、実はその解釈がnaokoさんの恣意的な解釈だから、伝わらないということも言われてました。
つまり、naokoさんの伝えたい概念は、受け手が相当の努力を行わないと伝わらないということです。悪意がなければ伝わるのではなく、よほどの善意がないと伝わらないのです。
つまり、naokoさんの伝えたい概念は、受け手が相当の努力を行わないと伝わらないということです。悪意がなければ伝わるのではなく、よほどの善意がないと伝わらないのです。
Posted by
南郷力丸
at 2008年08月01日 03:32
もうひとつの問題としては、最初にあげたように、naokoさんが伝えたいことが、そのシーンで意味を持つのか、持たないのかという問題があるわけです。おそらく「タコ焼きの楊枝の考察」よりも一般性はあるとは思いますが。
このような、「自分の概念を体系化する」「自分の概念を言語化する」「伝えて意味のあるシーンで伝える」ということは、共通体験というものが喪失された現代社会には、自身の概念を伝えるには不可欠なのです。
つまり、伝えようとする限り「現代社会への適応」が必要で、共通体験の喪失によって伝わらない概念を否定することを「過剰適応」と表現しているのならば、そもそも、naokoさんの伝えたいという意思を自己否定していることになります。
このような、「自分の概念を体系化する」「自分の概念を言語化する」「伝えて意味のあるシーンで伝える」ということは、共通体験というものが喪失された現代社会には、自身の概念を伝えるには不可欠なのです。
つまり、伝えようとする限り「現代社会への適応」が必要で、共通体験の喪失によって伝わらない概念を否定することを「過剰適応」と表現しているのならば、そもそも、naokoさんの伝えたいという意思を自己否定していることになります。
Posted by
南郷力丸
at 2008年08月01日 03:33
以上のようなnaokoさんへの認識が当たっているかどうかはわかりませんが。
その上で、その行為の評価とは別次元の問題として、naokoさんがgonさんに共感を感じるというのは理解できます。彼も伝えたいことがあるだろうし、それを言語化することが極めて苦手ですね。(けれども、ニケさんに共感を感じるというのは理解しがたいことです。)
いずれにせよ、「伝えたいことがある」そして、それを「伝えようとする」というのなら、受け手の過剰な善意に頼っているだけでは限度があり、単純に「技術」が必要です。
つまり、このエントリーのテーマにもなっている「伝えることがない」コミュニケーションとか、ただ、自分をいい人と思って欲しいとかのためにコミュニケーションとは、伝えるため「技術」が必要ということが徹底的に違うところです。ちょちょんまげ師匠からの批判によって、「技術」を磨くしかないと思いますよ。
その上で、その行為の評価とは別次元の問題として、naokoさんがgonさんに共感を感じるというのは理解できます。彼も伝えたいことがあるだろうし、それを言語化することが極めて苦手ですね。(けれども、ニケさんに共感を感じるというのは理解しがたいことです。)
いずれにせよ、「伝えたいことがある」そして、それを「伝えようとする」というのなら、受け手の過剰な善意に頼っているだけでは限度があり、単純に「技術」が必要です。
つまり、このエントリーのテーマにもなっている「伝えることがない」コミュニケーションとか、ただ、自分をいい人と思って欲しいとかのためにコミュニケーションとは、伝えるため「技術」が必要ということが徹底的に違うところです。ちょちょんまげ師匠からの批判によって、「技術」を磨くしかないと思いますよ。
Posted by
南郷力丸
at 2008年08月01日 03:33
本筋が見えにくくなるから、黙っててくれないかな。
naokoさん謝ってんじゃん。
長ったらしく人の言論にけちつけて、
(「悪意」でないんなら何が言いたいの、てか聞かないよ)
>技術がない人とコミュニケーションしたくない人間は、このコメント欄にくるべきでにゃあよ
崇高な技術論で
アキラさんの熱のこもった記事を
汚さないでくださいね。
Posted by
ごん
at 2008年08月01日 08:46
まあまあ、ごんさん。 (^_^;)
南郷力丸さんも責めてるわけじゃぁなくて、naokoさんがご自分のことを考えるのにいい機会だと思うから、自分が彼女に対して感じていることをちゃんと伝えているわけですから。
ごんさんのお気持ちは、嬉しく感じてます。
僕の記事は汚されてないから、だいじょぶですよ♪
というか、なんかこういうやりとりを通じて(自分のことでという意味で)分かってきたのは、僕は「議論する」ためにやりとりしてるわけじゃないんだなぁ、ということ。
だから、「PING言論」とか「意味ありげな意味なしコミュニケーション」とかも、何だかなぁとは思うけど、まぁいいもんだなぁとも思っちゃうんでしょう。
南郷力丸さんも責めてるわけじゃぁなくて、naokoさんがご自分のことを考えるのにいい機会だと思うから、自分が彼女に対して感じていることをちゃんと伝えているわけですから。
ごんさんのお気持ちは、嬉しく感じてます。
僕の記事は汚されてないから、だいじょぶですよ♪
というか、なんかこういうやりとりを通じて(自分のことでという意味で)分かってきたのは、僕は「議論する」ためにやりとりしてるわけじゃないんだなぁ、ということ。
だから、「PING言論」とか「意味ありげな意味なしコミュニケーション」とかも、何だかなぁとは思うけど、まぁいいもんだなぁとも思っちゃうんでしょう。
Posted by アキラ@ごんさん
at 2008年08月01日 09:16
>naokoさんがご自分のことを考えるのにいい機会だと思うから、自分が彼女に対して感じていることをちゃんと伝えているわけですから。
アキラさん(善意の短ぽっぽ変換)アリガト。
でもね、ぶっちゃけ、それだけのためにあんな長い文章読みたくないよ。実にくだらない。それに何であたしの名前がああいうふうに出てくるわけ?
いい加減バカ< naokoさんでも他の誰でもなく、あたし(=gon)のこと >をいたぶって悦に入るご自分の高潔さ加減にはやく気付いて欲しいな。と、「たんぽぽ変換して」思ってるのよ。
確かにそちらが「コミュニケーションのスキルがある」ということでスルーしている方々は
「少女的でナイーブな心情を吐露したりするから自殺するんだ」
とか
「専業主夫をしたいんだったらごちゃごちゃ言うんじゃない」
とか
「薄汚いヤツは楽園に行けないけど、あたしは行けるよね」
とか
こんなふうに非常にわかりやすくスマートな議論を展開させるお方がたくさんいらっしゃる。そりゃ、理路整然とこんなことを言われたら、みんな黙っちゃいます。ぐうの音も出ない。よほどの物好きじゃなけりゃ。
あたしらは、もう少し「分かりにくいもの」を、話のネタにしようとしてるのよ。
だから必然「わかってる」方々には「わかりにくい」というか「見えない」のね。心では響き合ってる部分が確かにあるんだけど、見えないの。彼らには、あたしらのやりとりが「裸踊り」にしか。
アキラさん
いつも、楽しく拝見させていただいてます。聞いてみたいのは、自分の本心とか性格、生活「指数」、みたいのを「知りたくない」から、アキラさんの記事、ちょっとこわいっていう人、多いですか。実は、あたしがそうなんだけど。 ヾ(^-^;)
Posted by
ごん
at 2008年08月01日 11:34