2008-07-28
今生でのカルマ
詣子です 今日もありがとうございます
先週の土曜日、知人の結婚式でした
しかし残念な事に、披露宴には出席できず欠席しました。
すると、有り難いことに当日、披露宴に出席した大館の友人が
せっかくこちらに来て顔を見ずには帰れないと連絡を頂いたので
昔よく友人と顔を出だしていたお店で落ち合う事に・・・
久し振りの再会と、久し振りのお店、一気に昔へタイムスリップです
すると、そこへ、その日の主役の新郎新婦が偶然に流れ込み
当日会ってお祝いを言えるハプニング(必然)にお店も周りも和気藹々
楽しく近況などを話していると、ある女性が連れだってお店に入ってきたのです。
その人は、昔、自分の愛欲の為に
私と私の周りの大切な人達に酷い仕打ちをした方だったのです。
その当時は、そういう人間が存在する事すら信じがたく、それゆえ、大変な怒りををもって恨みました
それから時が流れ、もしも偶然、彼女と出会ったらと決めていた事がありました。
そのチャンスが巡ってきたと彼女を見て確信し、お店の外へ彼女を呼び出したのです。
そして私は彼女に言いました
「貴方に会ったら言おうと決めていた事があります。
あの当時、私は貴方が大嫌いでした・・・
でも、今は、貴方を通して沢山の事を勉強させて頂いたと思ってます
沢山の事を教えて下さって、ありがとうございました。」
彼女は「大嫌いでした」と話すと、言葉に被せて「お互い様」と開き直ったのですが
「ありがとう」と言われると、見当違いだったのか言葉を無くしていた様子でした。
帰りがけ、彼女は私に声をかけ「今度、二人でゆっくり話そうよ」と言ってくれましたが
今の彼女と私は、昔のように波長が合うはずもなく
「ありがとうございます、そうですね」と言って次の約束もなく別れたのでした
いまなら分るのです
彼女の愛欲は、母を求める愛欲
誰から愛されるよりも、求めた母から愛されなければ癒されない彼女のトラウマ
満たされなかった母性性を満たす為に、人間の愛を穏やかに見つめる事に落ち着きを欠き
悲劇のヒロインに自らを仕立てることで歪んだ愛と情という鎖で人を繋ぐ
愛には形がないから、情という鎖で人をつなぎ止める事が彼女の愛の形だったんだと・・・
そして彼女は愛に対する恐怖心ゆえに、私を友情という鎖で疲れ果てるまで振り回し
全てを粉々に砕いた挙句、踏みつけたのです。。。
私は、その砕け散った自分のピースを拾う度に、彼女や自分と向き合う事をしなければならず
本当に七転八倒しました
人は動くことによってのみ成長するように出来ています
着実に一歩一歩、丁寧に歩いて進む道の燃料が「真心・信念・希望」であれば
排気音を響かせターボで駆け抜ける道も少なからずあり、その燃料は「怒り・妬み・嫉み」です
その時の怒りは、自らの価値観をベースにしている事を当事者は知りません
その訴えている価値観にこそ自分の生き癖の付箋がついており
自分を知るチャンスであり、更なる強い自分を生み出すチャンスなのです。
一ついうなら「怒り」については、決して一概に悪い感情ともいえないのです
「怒り」という燃料は、時に「希望」に向い猛チャージをかける燃料に成りうるからです
私はその怒りの「お陰様」でかろうじて立っている事ができたのですから
そして、その出来事は今では小さな出来事で、今起こっている自分の思考パターンを生み出す
「きっかけ」を創ってくれたのだと思っています。
お役目を負ってくれた彼女に今は心底感謝です。
きっかけに気付かされて以来、彼女を思い出す時「お陰様で ありがとうございます。」と言葉を唱えていて良かった、本当に、その通りになりました。
今度は、天に向い「お陰様で、ありがとうございます」
今日のフォーカス : 今嫌いな人いますか?貴方はその人の何が嫌いですか?
嫌いな人がいない人の方が少ないかもしれませんね
嫌いな人は、もしかすると直視できない自分の嫌いな自分・・・合わせ鏡なのかも
嫌いでスルーしていると、それを学ぶまで天から形を変え同じテーマが与えられます
先週の土曜日、知人の結婚式でした
しかし残念な事に、披露宴には出席できず欠席しました。
すると、有り難いことに当日、披露宴に出席した大館の友人が
せっかくこちらに来て顔を見ずには帰れないと連絡を頂いたので
昔よく友人と顔を出だしていたお店で落ち合う事に・・・
久し振りの再会と、久し振りのお店、一気に昔へタイムスリップです
すると、そこへ、その日の主役の新郎新婦が偶然に流れ込み
当日会ってお祝いを言えるハプニング(必然)にお店も周りも和気藹々
楽しく近況などを話していると、ある女性が連れだってお店に入ってきたのです。
その人は、昔、自分の愛欲の為に
私と私の周りの大切な人達に酷い仕打ちをした方だったのです。
その当時は、そういう人間が存在する事すら信じがたく、それゆえ、大変な怒りををもって恨みました
それから時が流れ、もしも偶然、彼女と出会ったらと決めていた事がありました。
そのチャンスが巡ってきたと彼女を見て確信し、お店の外へ彼女を呼び出したのです。
そして私は彼女に言いました
「貴方に会ったら言おうと決めていた事があります。
あの当時、私は貴方が大嫌いでした・・・
でも、今は、貴方を通して沢山の事を勉強させて頂いたと思ってます
沢山の事を教えて下さって、ありがとうございました。」
彼女は「大嫌いでした」と話すと、言葉に被せて「お互い様」と開き直ったのですが
「ありがとう」と言われると、見当違いだったのか言葉を無くしていた様子でした。
帰りがけ、彼女は私に声をかけ「今度、二人でゆっくり話そうよ」と言ってくれましたが
今の彼女と私は、昔のように波長が合うはずもなく
「ありがとうございます、そうですね」と言って次の約束もなく別れたのでした
いまなら分るのです
彼女の愛欲は、母を求める愛欲
誰から愛されるよりも、求めた母から愛されなければ癒されない彼女のトラウマ
満たされなかった母性性を満たす為に、人間の愛を穏やかに見つめる事に落ち着きを欠き
悲劇のヒロインに自らを仕立てることで歪んだ愛と情という鎖で人を繋ぐ
愛には形がないから、情という鎖で人をつなぎ止める事が彼女の愛の形だったんだと・・・
そして彼女は愛に対する恐怖心ゆえに、私を友情という鎖で疲れ果てるまで振り回し
全てを粉々に砕いた挙句、踏みつけたのです。。。
私は、その砕け散った自分のピースを拾う度に、彼女や自分と向き合う事をしなければならず
本当に七転八倒しました
人は動くことによってのみ成長するように出来ています
着実に一歩一歩、丁寧に歩いて進む道の燃料が「真心・信念・希望」であれば
排気音を響かせターボで駆け抜ける道も少なからずあり、その燃料は「怒り・妬み・嫉み」です
その時の怒りは、自らの価値観をベースにしている事を当事者は知りません
その訴えている価値観にこそ自分の生き癖の付箋がついており
自分を知るチャンスであり、更なる強い自分を生み出すチャンスなのです。
一ついうなら「怒り」については、決して一概に悪い感情ともいえないのです
「怒り」という燃料は、時に「希望」に向い猛チャージをかける燃料に成りうるからです
私はその怒りの「お陰様」でかろうじて立っている事ができたのですから
そして、その出来事は今では小さな出来事で、今起こっている自分の思考パターンを生み出す
「きっかけ」を創ってくれたのだと思っています。
お役目を負ってくれた彼女に今は心底感謝です。
きっかけに気付かされて以来、彼女を思い出す時「お陰様で ありがとうございます。」と言葉を唱えていて良かった、本当に、その通りになりました。
今度は、天に向い「お陰様で、ありがとうございます」
今日のフォーカス : 今嫌いな人いますか?貴方はその人の何が嫌いですか?
嫌いな人がいない人の方が少ないかもしれませんね
嫌いな人は、もしかすると直視できない自分の嫌いな自分・・・合わせ鏡なのかも
嫌いでスルーしていると、それを学ぶまで天から形を変え同じテーマが与えられます