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太平洋戦争:フィリピン激戦から63年 虐殺の記憶、今も 元日本軍医、続く償い

 太平洋戦争で日米が戦略上の重要拠点と位置づけ、激戦が繰り広げられたフィリピン。米国の植民地だったこの地に日本軍が開戦直後に進攻、再び米軍が制圧するなど終戦までの3年半に100万人もの住民が犠牲となった。住民への戦争犯罪に問われ、死刑宣告された日本兵たちは一部を除き、帰還を果たす。それから半世紀。彼らの多くはこの世を去った。存命兵士たちが遺(のこ)す言葉を聞く前に現地から報告する。【マニラで林哲平】

 マニラ中心部から南へ高速道を走って50分。郊外の高台へ続く坂道の先に、夕日を浴びた白い城塞(じょうさい)が姿を見せた。フィリピン最大規模のモンテンルパ・ニュービリビッド刑務所だ。約5メートルの塀に囲まれ、銃を持った監視員が目を光らせる。

 住民虐殺などに問われ有罪となった日本人戦犯が収容された。フィリピンによる裁判で死刑判決を受けた79人のうち17人はここで処刑された。裏手の300メートルほど離れた丘の上にあった13階段の処刑台の跡地は、荒れた草地となり、牛が草をはむ。大統領特赦で、死刑囚を含めて残る108人が帰国を果たしたのは53年7月だ。

 死刑判決79人のうち、14人が問われたのがインファンタでの事件だ。マニラから車で東へ約3時間。ジャングルを貫く山道を抜けた、太平洋沿岸にある町だ。45年4月から5月にかけ、日本兵が住民200人以上を殺害したとされる。

 太平洋戦争開戦後、ロザリオ・オーメンタドさん(90)の自宅前の小学校を日本軍が兵舎として占拠した。「見よ東海の空あけて~」。オーメンタドさんのタガログまじりの英語が突然、日本語に変わった。兵士らの歌を聞いて覚えた「愛国行進曲」だ。当時、日本軍と住民との関係は悪くなく、兵士と恋仲になる女性もいた。

 だが、米軍の本格的反攻が始まると、関係は急速に冷える。45年2月、上陸した米軍と日本軍との戦闘でマニラ市街で住民10万人以上が犠牲に。敗走する日本軍にとっての脅威は米軍支援を受けた住民ゲリラだった。オーメンタドさんの夫と弟はゲリラに、彼女も協力者になった。インファンタ事件では、両親や兄、妹を日本兵に殺された。

 ホビータ・ポブレテさん(76)一家も、被害者だ。兵士約50人に囲まれ、山を歩いていると、銃剣が次々に繰り出された。死んだふりをして倒れると、その上に、父や母が折り重なった。左肩や両腕に今も傷跡が残る。

 今春、孫のワレン君(16)がマニラの大学に入った。学資の一部は、インファンタ周辺で軍医を務めた医師の移川(うつしかわ)仁郎(じろう)さん(90)=宮城県気仙沼市=による奨学金から出る。90年に始めた奨学金の利用者は106人に上る。

 戦後63年たっても現地に残る痛ましい事件の記憶、そして日本からの「償い」は今も続いている。ニュースキャスターになるのが夢というワレン君は言う。「歴史を学ぶことは大事だ。しかし、本当に重要なのは今何が起きているかを知り、これから何をするかだと思う」

毎日新聞 2008年7月28日 東京朝刊

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