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2007年12月10日

絆をもたない人々

先日の「孤児と施設と里親」のエントリに関連して、まりねこさんが読みごたえのあるテキストをUPされました。それに対する私信めいた感想を。
まりねこさんのブログにコメント書こうと思ったんですが、ちょっと長いし、自分語り入って迷惑なので、エントリにしたててみました。
あらためて施設問題について、あるいは自分の生い立ちや人生観についても考えさせられました。


私にとって親とは、巨大な温室でした。今もそうかもしれません。
高校生のとき、子供の誘拐事件がありました。家族でそのニュースを見ていたとき、父が、
「おまえがもし誘拐されたら、どこまででも、世界の果てまででも駆けずり回って、
絶対に探し出してやるからな。よく覚えとけよ」
そう言いました。今の父にそれだけの力があるかは知りませんが、当時は、
その言葉が実現されることを、まったく疑いもしませんでした。
(お父さんなら、そうしてくれる)
空気を吸い込むように、当たり前に、とくに感謝するでなく、愛情とはそういうものだと、
私は刷り込まれて生きてきたわけです。


施設で育った子供の心象風景というのは、まがりなりにも家庭で育ったわたしにとっても一種「ファンタジー」ではあるのだが、逆に、こういう台詞を空気のように子供に与えられる父親というのもファンタジーだ。それに対して当たり前のように父の愛情を確信できる関係性も。
だから施設育ちの子たちの「無愛着」という感覚も、半分くらいならわかる。わたしは子供の頃はずっと、「父がいなくなったのだから母もいずれはいなくなる。そうならないという保障は何もない。絶対的なものなどこの世には何もない」と思い込んで生きていたからだ。(*1)



実際に両親のどちらとも引き離されて育った時期もあったので、こういうことはまたいずれ起こるのだろう、と思って(ある意味観念して)いたし、引っ越しと転校のくり返しで、中学くらいまでは、大勢の友達と濃密で長期的な関係を構築するという発想自体が無かった。
今でも友人は信頼できる少数だけで、たくさんの人と連絡を密にして長期的な繋がりを保つことが苦手なのは、この生い立ちに起因しているのだろう、と我ながら思っている。
(人生でいちばん友達が多かったのは大学時代くらい)
姓も小学校の頃に二度変わっている。つまり、生まれたときに与えられた「帰属感」=アイデンティティを子供時代に何度も破壊されて、今、名乗っている苗字は(結婚してもいないのに)3つめだということ。
だから苗字にも特に執着がない。記号としか思えず、「この家系(家族)に属している」という感覚があまりない。



だが、わたしはたまたま運悪くそういう環境で育ってしまっただけだ。それに対して養護施設というのは、あらかじめ「絆を遮断する」システムとして機能している。


Mariaさんいわく、


心を通わせる相手がいない世界で、心を通わせることを学ばなかったから、
心を通わせる発想もない。


そして、一人で生きていくことが当然となり、誰とも何の絆も持とうとしない・・・
そんな子供が「手がかからない」と賞賛され、社会に出ると、「一人ではできない」
周囲とのコミュニケーションや、結婚、子育てなどで混乱する。
こんな施設教育が、子供の発達にいいわけがない。


このシステムがあくまでも施設(ハード)を維持するためのものであり、人間の精神面(ソフト)を置き去りにしたものである以上は、やはり「施設は子供に悪影響を与える」と言わざるを得ないのだろう。
ここで相対主義者を気取るならば、「一人で生きていくことが不健康という考え自体が偏っている。何がほんとうの幸せかは誰にもわからない」とぶちあげることもできるし、実際、「施設育ちということに負い目を感じたくない」と思っている人は、そういうやりかたで自らの人生を肯定しようとするのではないかと思う。
しかし、人間が社会的動物である以上、誰にも愛着を持てない人間がこの世の中で生きにくいことは事実なのだ。普通に育った後で「誰も愛さない」ことを自ら選ぶのと、「誰も愛せない」ように、システムによって「育てられてしまう」こととは別なのだから。



それとは完全に別問題として、だったら里親制度ならば問題解決するのだろうか?という点をわたしは疑問視している。わたしも親族ながら「里親」に預けられた経験を持つし、その経験も相まって「この世に絶対的なことなど何もない」という世界観が構築されたと言っていい。
親といえども子供を捨てる。捨てる気がなくても手放してしまう。まして里親なら・・・、という「見捨てられ不安」に始終苛まれて生きる子供。
どうすればもう二度と「親」に見捨てられずに済むのか。
その不安と葛藤とに、とにかく莫大なエネルギーを消耗するので、他の人間関係がおろそかになってしまう。その不安や人間不信が里親との関係性をも乱す。そういうこともありうるのだ。


愛着・執着を感じるからこその弊害もまたそこにはあるのではないか、と、自身の経験から考えずにはいられない。


追記:この問題に関しては、MK2さんのこちらのエントリも合わせて読んでいただきたいです。



*1: これが決定的な厭世観に繋がらず、辛くも自分をひきとめたのは、その後の母親の方の愛情だったと思っている



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投稿者 : ナツ at 2007/12/10 | カテゴリー : 心理
コメント

投稿者 : marineko at 2007年12月10日 23:53

私の文章を読んでくれてありがとう。コメント欄、べつに書き込みが長くても私は気にしないんだけどね。でも、こうして、わざわざエントリにしてくれてありがとう。
MK2さんのエントリ読みました。彼がああいう怒りを持っている人だとは知らなかった・・・うーん。
自分語りの入った、私の今度の文章を書いているときに思っていたんだけど、きっといろんな人にいろんなふうに思われるだろうなって(まあ、それでも私は書くんだけれども、最終的には)。それだけ、家庭、親、生い立ちというテーマは「自分が無力で何も選べない子供時代のこと」だから、自分の責任じゃないところから始まることだから、いつまでもいつまでも重いんだろうと・・・肌の色や国籍が、いつまでも根深い差別につながるみたいに・・・
うまくまとまらないけれど、最後の、「里親制度」に関しては、里親と里子のマッチングを慎重に試すなど、いろいろ手立てがあるような気がします。何事にも完全な解決法というのはありませんけれどね。


投稿者 : ナツ at 2007年12月11日 23:33

●marinekoさん
詳しいことはメールの方でお返事しました。よろしくお願いします。

このエントリの意図について。
これはまりねこさんにコメントしようと思った文章を途中で万人向けに書き換えたものなので、意図が不明瞭になったかもしれませんが、批判しようとか反論しようとかいうつもりはないんです。
強いて主旨を言えば、「施設の子・わたし・まりねこさん」というグラデーションがあって、それぞれがそれぞれの生い立ちを「ファンタジー」だと感じている。
ただ、わたしは母親の愛情を父親に置き換えてまりねこさんの家庭を想像することができるし、「両親のどちらにも見放された」(と感じた)あの夏の日の経験から、親に捨てられた子の「根無し草のような」気持ちも半分はわかる。
「里親」の元で感じた身の置き所のない不安、自分は異物であるという身体の芯に突き通るような自覚、「家族」の中に放り込まれてしまったからこその疎外感も、はっきり覚えています。苛められはしなくても疎まれていたことも。

そして、その経験から主観的に語れば、里親制度というものにどれだけの効果があるのかと疑問に思わざるを得ない。
施設制度がダメだから里親制度に変えろ。システムが変わればうまく行く。本当にそうなのか?
システムがどう変わっても「親に捨てられた」という根本的な問題は絶対に解決しない。
そんな風に悲観的にならざるを得ないんです。
Mariaさんは、里親に育てられた子が、「お母さん(里親)の本当の子に生まれたかった」と言うのを見て驚愕したと書いています。「自分は里親の元で育てばそれで十分だと思っているのに、小さい頃から里親の元にいると、そこまで求めてしまうのか」と。
でも、彼女が里親の元で育ったとしても、きっと、同じ問題に直面する。どこまでいってもこの疎外感から解放されることはないと思う。
こんなこと、Mariaさんには直接は言えないけれど。思ったことをそのまま書いてみました。

最初から「すがりつく相手」がいなければ求めなくて済む。そういう相手がいるからこそ、ほんとうに欲しいものが与えられなかったときは恨んでしまう。妄執。それを抱えて生きることは、恨む相手すら与えられない「絆のない世界(施設)」で育つことより、果たして幸福なのだろうか。

「じゃあどうすればいいんだ」といわれても代替案が提示できない以上は、悲観論者の話なんか無視されて当然だし、そうすべきなんですけども。
関係ないけど、わたしも大学時代に教育実習経験がありまして。どう考えても、わたしのような教師は嫌です生徒の立場から見れば。まりねこさんの教え子の方がいい。


(どーも重たい話続きで我ながらアレですね・・・。シムピープル日記書こうと思っていたのに最近起動してないし。そろそろ呑気なお遊び記事も書きたいです。
あ、あとMK2さんへ。はてなブクマで思いっきりリンクされていたからいまさらだと思って文中で紹介しちゃったけど、いきなりでごめんなさい)


投稿者 : えむけーつー at 2007年12月12日 13:11

>ナツさん
お気になさらずー。
しかしあれですね。これだけ長くネットでテキスト書いてるんだから、いいかげん自分のテキストにリンク貼られることに慣れてもいいようなもんなんだけど、いまだにびっくりします。
で、以下になんとなくコメントが続く予定だったんですが、笑えるくらい長文になったので、自分のところにあげときます。

>marinekoさん
あー、そうそう。俺わりとまじめな人だったりするんです。変態なのがちょっと困ったところですけど。


投稿者 : marineko at 2007年12月13日 10:18

>ナツさん
>それぞれがそれぞれの生い立ちを「ファンタジー」だと感じている。

こういうのが、わりと簡単にさらけ出されるのが、良くも悪くもネットの特性だと思いますね。
その受け取り方とか、接した時期、というのも案外、大事かもしれません。人の気持ちや考えは、変わっていきますから。

>そろそろ呑気なお遊び記事も書きたいです。

書いてください(笑
私も、マジでここんとこ疲れました。緊張ばかりじゃ続けていけないですから。

>MK2さん
あなた、ただのうさぎ好きのM男ではなかったのね?びっくりー。昨日、過去記事にアクセスして、おたくのカウンターを一番くるくる回したのは私です、きっと。
何か「これが自分の代表作」みたいなのはないのですか?あれば読みたいので、いつでも連絡ください。


投稿者 : 山中馬のすけ at 2007年12月13日 23:04

>愛着・執着を感じるからこその弊害もまたそこにはあるのではないか

知らずに期待するのと知っているからこそ失う恐怖に苛まれるのはまったく別物ですよね。
仮に子供が欲しくて里親を申し出る養父母がいたとしてそこで実の子のように可愛がられたとしても後から実子が生まれれば施設で赤の他人に絶望してた頃には感じたこともなかったような恐怖や不安が出てくるのは想像に難くないですし、里子になったがゆえに背負い込むことになる不安要素も山ほどあると思います。
ただmariaさん自身が言ってる通り両方経験してる人でもない限りこれを比較することはできないし施設に絶望し尽くした経験があるからこそ「里親も完全ではないだろうけど施設よりは絶対にマシなはずだ」っていう考えで里親に期待する心情はよくわかる気がします。
ブログに出てくる施設の話は明らかに暴力的な悪意に晒されてるわけで環境から自分が感じ取る(というか感じ取らざるをえない)疎外感といったものよりはるかに残酷な状況だと思うから


投稿者 : ナツ at 2007年12月14日 00:48

●marinekoさん
メルしましたのでよろしくですー。

●山中馬のすけさん
>両方経験してる人でもない限りこれを比較することはできない
そうですね。この話は、誰が正しいかということではなく、結局のところ自分の主観で語るしかないところに問題の複雑さがあると思います。

>ブログに出てくる施設の話は明らかに暴力的な悪意に晒されてるわけで
>環境から自分が感じ取る(というか感じ取らざるをえない)疎外感といったものよりはるかに残酷な状況
そういう暴力とかいじめとか、物理的かつ客観視できる短所を問題にすると、「そういう施設ばかりとは限らない」「里親だって善意の人ばかりとは限らないし、最初は善意のつもりでもうまく行くとは限らない」という話にループすると思うんです。
だからこそMariaさんも「絆のない世界」「無愛着」という、レゾンデートルな側面から問題提起しようとしているんだと思うんですね。殴る蹴るみたいな単純な話じゃない・・・施設でのみ育つと、人として重大な部分が欠け落ちたまま成長してしまうんだ、ということ。

そしてわたしは、「実の親に捨てられた時点で、重大な部分は欠け落ちている」と、ここでちゃぶ台返ししてしまったわけです。それを埋められるとすれば、上から与えられた「親」「家族」なんかではなく、自分の意志と「力」で得た家族ないし伴侶でしかないのではないかと。
他人のことまでは決めつけられない。でも、少なくとも自分についてはそう思っています。

というわけでMK2さんに同意。もうとにかく早めに自活・自立して自分が「見捨てない人」になることが、「欠けたものを取り戻す」いちばんの早道なんじゃないかと。少なくとも「見捨てない人」を探すよりはずっと早い。
たとえ奇跡が起こって「見捨てない人」と出会ったとしても、自分が「無愛着」の人間のままではそれに気づかず、相手を信頼できず、手放してしまう可能性が高いからです。


投稿者 : 山中馬のすけ at 2007年12月15日 01:45

>そういう暴力とかいじめとか、物理的かつ客観視できる短所を問題にすると、「そういう施設ばかりとは限らない」「里親だって善意の人ばかりとは限らないし、最初は善意のつもりでもうまく行くとは限らない」という話にループすると思うんです。
確かに庇護者からの虐待は施設固有の問題ではないし主観で書くしかない以上堂々巡りになるのは明らかですね。
Mariaさんの里親肯定も希望的観測にすぎないわけで施設より里親のほうが健全だという証拠はないわけだし。。

>だからこそMariaさんも「絆のない世界」「無愛着」という、レゾンデートルな側面から問題提起しようとしているんだと思うんですね。
俺はmariaさんの主旨は内的な問題もあるけどそれ以上に「児童養護施設内での虐待行為とその影響がひどすぎることを知ってもらい、一人でも多くの子供を里親に出すべき」っていうことだと感じました。
きっとmariaさん自身も里親に送り出すことが根本的な解決につながるとは思ってないだろうけど施設に現在いる子供たちやこれから入るであろう子たちを「最悪の環境」から救う手段として里親を奨励してるように見えます。
エントリを読んでそう感じたんで、施設の現状と較べて期待する気持ちが分かる気がすると書きました。

>それを埋められるとすれば、上から与えられた「親」「家族」なんかではなく、自分の意志と「力」で得た家族ないし伴侶でしかないのではないかと。
確かに他人にないものねだりするよりはそのほうがずっと前向きで建設的な気がする
子供のうちはともかく大人になれば自力で解決していくことができるわけだし。
過去に原因を求めてあれこれ悩むよりも未来の自分のための意志と力を養うほうが大事なのは納得です


投稿者 : ナツ at 2007年12月17日 00:55

●山中馬のすけさん
>「児童養護施設内での虐待行為とその影響がひどすぎることを知ってもらい、一人でも多くの子供を里親に出すべき」

養護施設が「福祉=善意の施設」であるという社会的認識が、問題を隠蔽しやすくしているという山中さんの指摘(別コメント欄)は正しいと思います。神父による児童虐待問題が長年隠蔽されてきたのと同じ。その意味でMariaさん達の活動も意味があるでしょうね。
ただ、「社会問題として認知させ、施設を改善しよう」ではなく、「里親に預ければよい」という結論に至るのは、何度も書いているようにわたしは疑問です。それは彼女とわたしの生い立ちの差から来るどうしようもない認識の差なんでしょう。

あとは性格の差もあるかもしれない。わたしは
「本物が手に入らないなら偽物は要らない」
「拾い上げておいて捨てられるなら最初から放っておいてほしい」
「期待させておいてそれを裏切るのはもっとも残酷だ。『お前の期待通りのものは与えられない』と最初から言われる方がいい」
こういう性分なので。親とか里親に期待しすぎることは、良いことだとは思えないんですよ。「運不運」のみに左右されるような不確実な存在への期待は、慢性的な欲求不満を生み、心を蝕むだけだと思っています。

子供は親を選べない。それは里親であっても同じ。だから早く大人になって一緒に生きる人を自分で選んだ方がいいです。
まあ、一人で生きることも選択のひとつですが。


投稿者 : イカフライ at 2007年12月18日 14:13

もう話がひと段落してしまっているところにごめんなさい。ずっと、なにかコメントを書こうと思って、けれど、なにを書いてよいのか解らずにいました。
 皆さんの話を聞いていて思ったこと、いろいろありますが。私は形としては一応平凡な家庭(両親揃って子供は二人)に育ちまして、地父親の失業や借金、母親のメンヘルとかはありましたが、まあ、その程度です。
 ですが、私の感じる家庭観、家族観はMK2さんにすっごく近いです。逆にまりねこさんの書かれているお父様の話はファンタジーに近い。今の年齢なら「ああ、そういう良い親子関係もあるだろうし、本来はそうあるべきものかも知れないなあ」と思えますが、10代から20代初めの頃にまりねこさんのお話を読んだら
「はあ?この女バカじゃねえの。こんな大人だけに都合の良い話でっちあげて親って人種ドモに媚びてんじゃねえよ、このアホが」(失礼、あくまで昔の私です)と感じただろうと思います。その位、親とか家族という類に心がささくれ立ちました。
 今でも、両親の話はあまり触れたくありません。
 無意識の信頼感、相手の為の無条件の愛嬌というものがこの世界に本当に存在する、少なくとも自分がそういう心を持てると信じられるようになったのは、結婚してからでした、もっと言えば、この相手にならそう思える、と思えたからこそ、入籍したのですが。

 と、うざい自分語りになってしまいましたが、そんな風に親や家族と言うのものが良いばかりではない、美しいばかりではなく、どろどろとしな部分があることすら、施設と言う場に育った人には知ることが出来ない。極端な話し、親に酷い目に合わされることすら、実感できない事が、施設育ちの不幸と言う事が「里親への希望」という形になってしまうのかも知れない、とも思ったりします。


投稿者 : ナツ at 2007年12月18日 23:41

●イカフライさん
わたしも恋愛したりなんだりで成長過程で多少の変化はありましたが、親とか家族とかに関する認識は幼児期に形成されて、もうほとんど変動しようがないんですよね。
「恋愛して相手にまるごと自分を承認してもらえば世界は劇的に変わる」とかいうドリームを、たまに非モテ系のブログで見かけるんですが、それはありえない。「恋愛の相手」個人と、生まれてはじめてこういう関係を構築できた、という感慨はあるかもしれないけど、もっと奥深い部分で人生の初期に形成された、暗くてドロドロしたものは一生ものだと思う。それをコントロールしつつ付き合っていくしかない。
MK2さんも実の親元で育って「無愛着」に似た感性を持ってしまったと書いてるし、わたしもそこまでひどくはないけど、執着する人は今までの人生で少数しかいなかった。何としてでも失いたくないという気持ちは、めったなことでは湧いてこない。失うことを予測して自己防衛が働くから。

(リアルにおける人間関係とはまた別の)こうした内的な関係性の希薄さは、施設育ちとか親元育ちなどはあまり関係ないような気がします。
ただ、施設問題は目に見える問題も大きいので、改善のためにもっと多くの出身者・関係者の生の声が必要だと思うけど。


投稿者 : えむけーつー at 2007年12月19日 18:17

>無条件の愛嬌
あー、これはいい言葉ですね。確かにこれを持ってる人はいます。人なつっこさですよね。



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Tracked on 2007年12月13日 00:46