カンボジアこどもの家
栗本英世氏の活動を紹介いたします。



2001-3-12
3月9日高田記念学校開校しました

日本の春、いいでしょうね・・・、若葉が芽を吹き、温かな日差しの中で憩う・・・

カンボジアには四季がありません。年中暖かく区切りのない日を送っていますとこどもの頃の日本の四季を懐かしく思い出します。

3月9日、文民警察官の高田警視の殉職された場所に、高田記念学校『ハル小学校』を開設いたしました。学校名の『ハル』は、高田晴行さんの「ハル」をいただいて命名しました。開校日にコミューン長、村長、校長、村人にお集まりいただき『ハル』の名前を使わせていただくことを了解していただきました。

高田さんが国際貢献にお役に立ちたいと、日本からカンボジアに来られ殉職されたことをこどもたちに教えていこうと思っています。

そして、小学校では、授業の中に国際理解の時間を持ち、世界中の出来事を知らせて行こうと思っております。将来『ハル』小学校から、高田さんのような国際貢献に役立つ人材が生まれますことを願っています。

『ハル小学校』は、一年生39名、二年生25名、先生2名、校長1名でスタートしました。当初は、一年生 二年生のみのクー村小学校分校として開校しましたが来年には『ハル村小学校』として六年生まで受け入れます。

小学校の敷地は二万平方メートル以上ありますので、高田警視の慰霊碑や記念公園も作っていきたいと願っております。

2001-2-22
『カンボジアこどもの家』の今年の目標は『平和』

 カンボジアの内戦が終わって2年・・・弾の音は消えたが、平和になったのだろうか・・・。『平和』この語を見つめていて『平ら』な『和』が語源ではないか?と思いました。上下の無い、平等な世界・・・『平和』

仕事や社会の中で、上に立つ人が居り、下で働く人が居る。上に立つ人が「高い人」のように勘違いし、下の人たちを「低い人」と思い何時の間にか『平和』が失われ上下関係が出来てしまう。上に立つ者が心して『平和』を求めなければ、一瞬のうちに消え去る『平和』

『カンボジアこどもの家』の活動は現地の人達の手で動き始めています。『寺子屋』は通称お父さん(ロング・チョムルアン氏53歳)を中心に5人のスタッフが一丸となって25人の先生達と村人たちを巻き込み活動しています。『難民支援』は「新鮮な水」を求め井戸掘り工事を継続しています。『孤児の支援』はクラッチェのお母さん(ロングさんの奥さん)が中心に活動しています。 感謝・・・感謝・・・感謝・・・

『カンボジアこどもの家』

『寺子屋』                     2001年2月現在

     寺子屋名    1年生 2年生 3年生 4年生 合計 教師数 教室数

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ツールボンロー   105  61  46       212   3   2
--------------------------------------------------------------------------------
オルセイ・ルウ    367  96  78       541   6   4
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オルセイクラオム  186  29  10       225   3   3
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サンタピァップ    137  71  25   30  263   3   3
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ツールプラサート   134  48  31       213   3   2
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プレイコップ      165  60  32   32  289   4   2
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オーニエン       215  55  18       288   3   3
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 合計        1309 420 240  62  2031  25  19

 寺子屋には毎日のように新入生が増え、寺子屋の教室が足りません。それで2部授業(午前、午後)、3部授業(午前、午後、夕方)を続けています。また、ひとりの先生方が2クラスから3クラスの責任を持っています。寺子屋の建設や営繕、椅子机、黒板その他寺子屋に関することはお父さん(ロング・チョムルアン氏)をリーダーに5人のスタッフがお世話しています。

『孤児の支援』
5カ所の『こどもの家』で16名の孤児のお世話をしています。クラッチェ2名、ボーレーオ3名、カンダール5名、オルセイ3名、ボンロー3名
責任者のお母さんと4人の方がお世話をしています。

『井戸工事支援』
ここ難民村には『水』が有りません。雨季には雨水を貯め飲料水として利用することも出来ますが、乾季には全く水が無くなり川や池の水を利用しています。伝染病が流行ると、村全体に広がって行き、幼い命を奪っていきます。昨年の7月、難民村を訪れた『カンボジアこどもの家』横浜支部の人たちが、難民の人たちの生活に触れ『新鮮な水』の支援を開始しました。そして、手製の井戸掘り機械が昨年の暮れ完成しました。今年の一月から、この機械を使用して井戸工事を始めています。新年を迎えた一月の終わり、キャンプ場に待望の井戸が完成いたしました。

『カンボジアこどもの家』は、栗本(オカ)個人の活動から離れ、カンボジア支援を志す皆さんの活動となってきました。また、皆様に支援していただいています支援金がガラス張りの見える形になるようにと『支援メニュー』を作成いたしました。

 無理なく喜んで支援していただけますように1回限りの一時支援と、一年にわたる継続支援に分類いたしました。お預かりいたしました支援金は何処に使われたのか明確にするため名前を付けさせていただきます。

『寺子屋里親制度』寺子屋の隅に支援者(グループ)の看板を掲示いたします。『机椅子、黒板、』名前を書き入れます。『教科書、文房具、手提げカバン』1クラス全員分を1口とし、クラスの名前と寺子屋名を明記してご報告いたします。『寺子屋建設』支援者(グループ)の名前を掘り込んで礎石に致します。『煉瓦造りの校舎』石版に支援者(グループ)の名前を入れはめ込みます。『図書館作り』支援者(グループ)の名前の図書館に致します。
『井戸工事』完成した井戸端に支援者(グループ)の名前を彫りこみます。
『孤児の支援』支援する孤児のプロフィールと活動記録をお送りいたします。

どうぞご遠慮なくお問い合わせ下さい。『カンボジアこどもの家』 栗本 英世

P.O.BOX 466 Phnom Penh CAMBODIA c.c.home
P.O.BOX 25 Aranyaprateet THAILAND c.c.home
TEL: 855-12-850098 FAX: 855-23-880820
Eメール: cchome@bigpond.com.kh cchome@a-net.net.th
ホームページ: http://cambodiakids.to

『カンボジアこどもの家』 支援メニュー

継続支援             2001年3月1日現在

『寺子屋里親制度』 毎月 

寺子屋名称     生徒数  経費+教師給料×教師数     支援金合計
ツールボンロー村   212名  10,000円×3人=   30.000円
オルセイ・ルウ村   541名  10,000円×6人=   60.000円
オルセイ・クラオム村 225名  10,000円×3人=   30.000円
サンタピィアップ村  263名  10,000円×3人=   30.000円
ツールプラサート村  213名  10,000円×3人=   30.000円
プレイコップ村    289名  10,000円×4人=   40.000円
オーニエン村     288名  10,000円×4人=   40.000円

『孤児の里親制度』 毎月
1人の孤児の支援金は                      2.000円
              現在5ヶ所の『こどもの家』で16名の孤児を預かっております。    

1回支援

『寺子屋』
教室  1教室                        20.000円  「8教室不足しております。」
机椅子 1セット2人掛け                    2.000円  「150セット不足しています。」
黒板  1セット                        1.000円  「10セット不足しています。」
教科書 1人200円 1口40人分               8.000円  「2,000人分不足しています。」
文房具 1人100円 1口40人分               4.000円  「1,000人分不足しています。
手提げカバン1人200円1口40人分              8.000円  「1,000人分不足しています。」
『寺子屋開設』費用は一ヶ所 3教室             200.000円  現在100以上の村から依頼を受けています。
『煉瓦造りの校舎』は建設費 一ヶ所 5教室       3,000.000円
寺子屋の建物は茅葺ですので2年ぐらいしか持ちません。耐久性のある校舎作りを願っております。
『図書館作り』一ヶ所 2教室              1,000.000円  全ての寺子屋に図書館を開設したく願っています。
図書の保管と安全性を考慮いたしますと煉瓦造りになります。
『井戸工事』一ヶ所                     100.000円  水が無く多くのこどもが病に倒れます、新鮮な水を求め井戸を掘ります。

2001-1-1
「カンボジア新年」

 こちらカンボジアには紅白歌合戦も除夜の鐘もなく正月気分は全く有りません、各商店も平常どおり店を開け、働きに行く人達もいつもどうりです。ポイペットの日本人達はさすがに寂しいらしく、お雑煮、お節料理、お餅の話が出ます。今日1月1日、私一人でプノンペンに来ました。帰りにはお持ちを買って帰りお雑煮をご馳走するつもりです(プノンペンで売っているお餅は日本からの 輸入品、さとうの切り餅です。)

昨日31日『カンボジアこどもの家』に新しい住人が来ました。4ヶ月になる女の子でまだ名前もついていません。この子の母親は一昨日の30日午後3時に亡くなりました。

この子の母親はプノンペンに住んでいましたが病気が思わしくなく、生後3ヶ月のこどもを連れ、難民村のおばあちゃんの家に帰ってきていたのです。このおばあちゃんの家も極度に貧しく、食べるものも着る物も家財道具とて有りません。この家に3人の孤児を預かっていただき『カンボジアこどもの家』でお世話をしています。

29日から様態が悪化し、30日の朝『カンボジアこどもの家』のスタッフが病院に連れて行きましたがすでに手遅れで、30日の午後3時息を引き取りました。

私はこの事件の時、ネパールからの帰り道でタイに滞在しておりポイペットに居なかったのですが、全ての采配は『カンボジアこどもの家』のカンボジア人スタッフが行いました。もう私が居なくてもカンボジア人だけで支援が続けられると思い、悲しい事件の傍らスタッフの行動を喜んでいました。

私は31日の朝、タイ国境に迎えに来てくれていたスタッフから話を聞き、残された幼いこどものことが気がかりでした。31日は朝早くから寺子屋の先生全員が出席する「寺子屋全体会議」が行われ、その会議をほって行くことはできず、会議の後直ぐに残されたこどもの様子を見に行きたかったのですが、10日間以上ポイペットを離れていましたので雑用が重なり気持ちばかりあせっていましたが直ぐには行けず、午後ようやく開放されて残されたこどもに会いに出かけました。

こどもは物置小屋の中にハンモックに寝かされ誰も顧みる人がいません。母親の様態が急変した3日前から母乳ももらえず何も飲んでいません。時々テレビやユニセフのパンフレットで見る飢餓状態のこどもの姿そっくりにやつれはて、まぶたを開ける力も無く薄目を開けています。か細い泣き声が精一杯で喉の奥からヒイヒイと搾り出すような泣き声を少し立てると死んだようになります。皮膚はカサカサで弛み皺だらけです。頭から全身にかけて吹き出物と膿がはびこり、後数時間放置しておけば命の火が消えてしまいます。

こどもの姿を見たときは手が出せず呆然としていましたが、わたしの取る行動は一つしかなく、こどもを引き取る決心をしました。こどもを抱きかかえて外に出ますと、おじいさんは連れて行け連れて行けと手で示します。13歳になる孤児の女の子に抱いてもらい『こどもの家』に帰ってきました。

『こどもの家』では、孤児のこどもを迎えてんやわんや、湯を沸かしぬるま湯で沐浴をさせる人、哺乳瓶と粉ミルクを買いに街まで出かける人、着替えを用意する人、清潔なバスタオルが必要だったので呼びかけると、今町から帰ってきたばかりの日本人ボランティアの人が惜しげも無く自分のために買ったばかりのバスタオルを提供してくれました。

今、この孤児のこどもに必要なのは、愛情豊かな母親と滋養たっぷりの乳、オルセイクラオムの寺子屋で先生をしている「ぺェア」先生が母親代わりとなり養育することとなりました。思えばちょうど一年前、難民村から引き取った「アキちゃん、マイちゃん」の姉妹をお世話したのもこの先生。こどもが大好きで本当の母親以上にお世話してくださる先生です。感謝!感謝!

お正月早々大変悲しいニュースで申し訳ありません。カンボジアは昨年まで聞こえた銃の音も無く、平和な新年を迎えました。
今世紀こそは平和なカンボジアが回復しますことを祈りつつ。

2000-12-1
「事故の後・・・」

 事故の後、急いでけが人の訪問をしたかったのですが、どうしても時間がとれず、5日ほどして出かけました。しかし、その時は全員退院した後で一人も病院にいませんでした。病院の職員やら入院患者さんに聞いて回りましたが、どこにも居ません???

全員退院していたようです。あれだけの大けがなのに・・・眼球が飛び出るの大けがだったこども・・・右足がぶらぶらで助けを求めていた女性・・・右半身がえぐれたように傷だらけだった小さな女の子・・・

どこへ行ったのでしょう・・・誰が見ても 2〜3日で退院できる状態にはならないはずなのに・・・

病院代が払えず、追い出されたようです。もう少し私が早く来ていれば・・・支払いの約束をしっかりしておけば・・・追い出されなかったかもしれない。

自分自身の判断の甘さに腹が立ちます。でもあの時、全額支払いをします! とはいえませんでした。しなくても良い投薬、水増し料金、いろんな事が考えられました。ここ、カンボジアの病院では、取れる人からいっぱいとろうとする病院が多くあります。そんな考えが起こり、ハッキリとした支払い約束をしなかったのが貧しい病人の追い出しにつながったようです。

事故の時、別れ別れになった母と子、再び出会えたのでしょうか?

悲しいカンボジアの人々・・・。

2000-11-26
「何とか開校してあげたい」

 ここ、カンボジアのポイペットで、今年の五月発生した難民村に、ようやく寺子屋を作ることとなりました。永いことかかりました。何度も何度も村長や村人達と話し合い、決定した学校建設用地が、色々な欲に振り回され、何回も何回も流れました。こどもたちには10月から学校がオープンするよ〜と言っていたのに、何度も約束を破ることになってしまいました。

でも、やっと学校用地が決定しました。

しかし、この用地には、ちょっと問題があります。いいや!大きな問題です。こどもたちが毎日過ごす学校敷地に地雷が埋まっているのです。でも、私はワクワクしているのです。大いばりで地雷処理ができるかもしれないと・・・今までは隠れるように肩身の狭い思いをしながら地雷処理をしていました。今度の地雷は違います。私の〈村の〉学校敷地に地雷があるのです。大手を振って、大義名分をぶら下げ、地雷処理できるのです。学校に地雷があるのですから誰にも文句は言わせません。

ちょうど良いことに、カンボジアの地雷処理CMACは、今、隊員に給料が払えず開店休業です。

と、思っていたのですが・・・・・・邪魔が入りました。ヨーロッパの支援で地雷処理をすることに決まってしまったのです。

今日泣く泣く現場を見に行きますと、地雷処理隊員60人がかりで1ヶ月もかかるという・・・何とも気の長くなるようなお話・・・。私と村人に任せてくれれば・・・2〜3人で1ヶ月も有ればきれいに片づけてしまう・・・・・・・。

この村の地雷処理が数日前から始まりましたが、対人地雷が三個発見されました。

私が地雷処理する楽しみはなくなりましたが、やっと学校が開校します!
 
このオーニエン村は約900世帯、6.000人、こどもの数3.500人、就学適齢時児童1.500人、この内、開校と同時に学校に来れるこどもの数500人。

また「カンボジアこどもの家」の生徒数が増えます。現在、1.700名。この地雷原の村が開校しますと2.200名となります。何とか今年中にオープンしたいと願っています。こどもたちが首をキリンのように長くして待っていてくれますから・・・。

そんな時、またまた問題が持ち上がってきました。1年以上前から寺子屋を建設したかったが、村を管理している農業開発委員会から良い返事がもらえず、学校建設用地が決まらなかった村「プームツマイ」から学校建設依頼を受けました。この村は昨年の五月開村しましたが1年以上学校がなかったのです。隣村のNPA学校に入りたくてもNPA村では入学を拒否されていました。

この村の管理が農業開発委員会から村人の管理に移管し、新たな村が発足したのです。新しく任命された村長は、学校教育に手をつけ、私の所に申し込んできたのです。でも、一時に500人以上の生徒を抱える村二つは開校難しいです。多くのお金もか借りますが一挙に10人の先生が増えます。でも、こどものことを考えますと、何とか開校してあげたいです。お金が足りなければ、日本に出稼ぎに行ってでも開校したいです・・・・・・。

なんとも、楽しい悩みが増えてきました。

2000-11-26
「事故の現場と悲しい人々」

 11月16日、クラッチェ「カンボジアこどもの家」の帰り道、コンポンチャムから車を運転してプノンペンに向かっていた。運転をはじめて1時間位すぎた頃、バイクの事故現場に通りかかった・・・。車をゆっくり徐行させながら、野次馬根性むき出しで、眺めつつ通り過ぎた。

その時見た光景は、ガラスが散乱し、バイクが倒れ、ぼろ切れの固まりが投げ出されている。いや、よく見ると、人が倒れているようにも見える。じっと見つめても動かない。その先にも、もう一つ、少し動いているようにも見えるが・・・もう少し先に目を転じると、ハッキリと見える。女の人が倒れている上に、枯れ枝が掛けられている。事故現場にいる人達の優しさか?

少し車を止めてゆっくり眺め、野次馬根性を満足させたい、とも思ったが、プノンペンでの急ぎの用事を思い出すと、車を止めるわけにも行かない、今日は金曜日でタイの大使館にビザ申請しなければならない、遅れると月曜日まで待たなければならない、大使館のビザ業務は午前12時で閉まってしまう、今の時間は午前10時過ぎ、急いでいっても11時過ぎになってしまう、とても道草を食っているわけに行かない。

そんなことを考えながら通り過ぎた、しかし、数百メートルもいかない間、走馬燈の様に、若いとき読んだ聖書の一節が迫ってきた。それは、キリストのたとえ話で「良きサマリア人」の話。キリストは、ヘブル人の指導者達のことを非難して、たとえ話を話した。

「ある時、人々を指導している律法学者が道を歩いていく先に病人が倒れているのを見た。関わり合いになるのをおそれ、別の道を通り行ってしまった。その後、人々からさげすまれているサマリア人が通りかかった。倒れている病人を哀れみ、助け起こすと病院まで連れて行った。そしてお医者さんに言付けた。この人を助けてあげてください。必要な金は私が支払いますと・・・・・・」

私は、支援のためにカンボジアに来ている。でも、自分の都合のためにけが人をほって行こうとしている。自分の心と格闘し、自責の念にかられながら、車をUターンさせていた。

まだ生きている。と、思える女の人の近くに車を止め、車から身を乗り出し、近くにいる人々に話しかけた。

「誰か手伝ってください!この人を病院に運びます!」

直ぐ、4、5人の人々が駆け寄り、抱え上げ、車に運び込んだ。病院に着いてからのことを考え、事故の様子を知っている人に同行を求めた。村人2人が真剣な顔つきをしながら乗り込んできた。
全員車に乗り込むのを見届けると、静かに発進させた。その時、全身傷だらけのお母さんが、左半分血に染めた2〜3歳の女の子を抱えながら叫びつつやってくる!、その後ろに、左目の眼球が飛び出し、血に染まった10歳位の男の子が歩いてくる!、座席に乗り切れないので後ろの荷台を明け乗ってもらう、また、その近くには片足のない中年の人が〈地雷の被害者たろうか?〉血に滴った手で、血だらけの幼子を抱えながら、哀れみを乞うようにこちらを見ている!

正に、その場は地獄のようだった!車で通り過ぎようとしていたときにはこんなに多くのけが人が居るとも思っていなかった。けが人6人と、付き添い2人で車はいっぱいになり、全員乗り込むのを見届けると大急ぎに病院へ急いだ。内心、ポケットにある数百ドルは全部投げ出す覚悟をしていた。

車の中で村人から事故の様子を聞いていた。村人の話では、もうすでに事故から1時間以上も経っている。とのことだった。けが人を見ると、どの人の血も乾き掛けている、時間の経過を感じさせる。この1時間あまり、警察に連絡し、救護を要請していたが誰も来てくれなかった。通りかかる車も物珍しそうに眺めていくが、誰も救護をしてくれる車は無かった。どうして早く病院に運ばなかったのか? と、村人に聞いてみたが、誰も答えてくれない。でも、私は薄々察していた。貧乏な村人に、病院の敷居は高い事を。

病院に着くと直ぐ手当を求めたが、誰も手当をしてくれない!医者や看護婦が居るのに誰も手助けしてくれない!左目の眼球を飛び出させている男の子が荷台の上から、泣きながら小さな声で話て
いる。

「チュアイポーン! マエ! オッ クーン ムー」〈お母さん助けてー 何も見えないよー〉

病院側の人は金を持っているか?と、言っている。それに、簡単なけが人は看られるが、死にかけている女の人や足を折っている人の治療はできない。ここより、プノンペンの大きな病院へ連れ
て行くように、と言っている。〈このまま1時間あまりも治療されなければ、数人は死んでしまうと思える。〉何とか応急処置だけでも直ぐしてくれるよう頼んでみるが、らちがあかない。私
は我慢できずに、病院の責任者を呼ぶよう要求した。しばらくすると恰幅の良い責任者らしい人が現れた。私は興奮気味に話しかけた。私は日本からこどもの支援でカンボジアにきており、今日たまたま事故現場に通りかかったのだが、何とか手当してもらえないか?と、責任者と思える人は、しばらく考えていたが、顔を上げると近くにいる病院の職員にテキパキ指示を出してくれた。酸素吸入器が運び込まれ、点滴も始まった。お母さんに抱きかかえられていたこどもは治療室に連れて行かれ、目をけがしたこどもはタンカーで運ばれていった。

何とか助かった!と言う思いと、責任を果たしたような安堵感で少し余裕を取り戻した私は病院の中を見て回った。

 ベッドも無く、地べたにむしろを敷いただけで寝かされた病人。
 病室に入ることができず、外に寝かされている病人。
 若いお母さんが、殆ど裸の状態でこどもを抱え気を失っている。

付き添いに来ていただいた村人を乗せ、早々に病院を後にした。帰り道、村人に事故の経過と病院の対応を聞いてみた。

「事故は、乗り合いトラックとバイクの接触により引き起こされた。乗り合いトラックはノーブレーキのまま、バイクを車体に巻き込み急停車をした。バイクに乗っていた3人はトラックにひかれ、一人は即死、一人は1時間後死亡、もう一人は病院に運び込んだ女性。その弾みで、トラックの荷台に載っていた乗客が降り落とされ、大けがをした。こどもを抱いていたお母さんにはもう一人こどもが居たが、事故を起こしたトラック運転手は、事故の重大さに恐れ、乗客を掘り出したまま逃げてしまい、その車の中に取り残されたこどもは母親と生き別れとなってしまった。」

村人達は病院の対応に対して驚いていない。何故だろう?この事故のことをいろんな人と話し合ってみて少しカンボジアの内部事情がわかってきた。

 お金がなければ病院に行けない・・・、
 貧しい村人達がけが人を連れて行っても、病院では 見てくれない・・・
 
外国人の私が車で病人を助けようとした時、みんな出てきて手を貸してくれた。村人達は、死にかけ、苦しんでいる人々を、何もできなくて諦めていた・・・。でも、どんなに苦しかったか? あまりにも長い年月、耐えることだけを学んできた人々・・・。
病気になっても、医者に診てもらうこともなく『死』を迎える人々

『悲しいカンボジアの人々』 諦めないで! 生きて! と、励ましてあげたいが・・・・・・・、言葉より・・・行動で示していくほか内容に思える。

2000-10-25
「大洪水の惨禍、そして・・・」

 今、カンボジアは毎日のように雨が降り続いています。例年ですと10月半ばで雨期が明けますか今年は未だに続いています。メコン川沿いの村々では大洪水で確認されただけでも二百人以上の人々が亡くなりました。また、コレラをはじめとする伝染病〈チフス、赤痢、デング熱〉による被害患者は一千名を超え、ますます広がっています。

クラッチェ、コンポンチャム、コンポントム、ストントレーン、スバイリエン、プレイベン、の被害は大きく、メコン川、トレンサップ川流域は農作物が全滅しています。国道一号、二号、三号、四号、五号、六号と道路が灌水し、不通となっている所もあります。陸の孤島とかした村では食料が底をつき餓えに喘いでいます。

農作物を亡くした農家は借金だけが残ります。おまけに病気になれば・・・・・・また、今年も多くの子どもが売られていきます・・・・・・プノンペンでは住む家のないストリートチルドレンが目立ってきました。

先日、身近なところで12歳になるこどもが売られようとしていました・・・・・・一時的な援助は意味がない!と言う事は重々承知していますが・・・・我慢できず250ドルで助けました。この金額がその子の値段でした。

今、赤ん坊は20ドルから売られています。12歳ぐらいのおんなのこどもで100ドルから200ドル、12歳から15歳で300ドル前後です。売られていった殆どのこどもは、二十歳になる前、命の火を消していきます。

日本では想像できない世界が、ここ カンボジアでは行われています。何とか・・・こどもの人権を守ってあげたいのですが・・・・・・「急がば回れ」の諺のように、基礎教育に力を注いでいます。

今、寺子屋の生徒数は一千六百名を超えました。毎日数十人単位で生徒が増えていきます。先生の数も20名を超えました。

外国人に頼らず、海外からの援助ではなく、カンボジア人の手で、カンボジア人自身が国造りをしていくお手伝いが寺子屋作りです。20年〜30年かかる仕事ですが続けていきたいと願っています。

2000-5-1
「カンボジアニュース No.5 〜生活、孤児、三口の子〜」

難民村の生活

 今年の3月終わりごろ、降ってわいたように現れたテント村。多くの人々の利害が入り混じり、難民となった人々・・・。その数は450世帯2.500人にもなった。

 4月に入りやっと落ち着き先が決まったが、移住させられた村には水がない、トイレも無ければ学校もない・・・。短い期間なら学校やトイレは無くても過ごせるが?水のない生活は何日ももたない。

 4月はじめ、ヨーロッパのNGOが井戸工事をはじめた。これで何とか水問題も解決するかに見えたが、4月10日より工事が中止してしまった??? 理由は、カンボジア正月で工事人が田舎に帰ってしまったから、の様だった。5月に入った今でも、工事は再開されていない・・・

そのNGO職員が「カンボジアこどもの家」に尋ねて来た。住民の窮状を訴え、「住民に緊急支援の水を供給してくれるように」との要請だった。

 私は話を聞き終わると、すぐその日からトラックによる水支援を開始した。お正月も休まず続けた。でも、請け負っていたトラック運転手が4日ほど無断で休んでしまった。どうすることも出来ず困っていたときに、季節はずれの大雨が連日続き難民を救った。正月が終わると、雨が止だが給水トラックが動き始めた。

 でも、何時までも給水を続けるわけに行かない、トラック一杯6ドル、1日3回配布を続けているので 6×3=18ドル(1日)もう一ヶ月続けているので18×30=540ドルにもなる。このまま待っていても、水無し生活が何時まで続くか判らないので「カンボジアこどもの家」でも井戸工事をはじめた。しかし、村全体が高台盆地に有るためか?三箇所、40メートル以上掘っても水が出てこない?

難民村の孤児

 給水活動を続けている村を視察しているとき三人姉弟の孤児に出会った。十二歳と紹介された孤児はとても身体が小さく、八歳以上には見えなかった。話し掛けても笑顔がない! 

 こどもたちの両親が亡くなって三年の月日が過ていた、栄養不良が目に見えて判る。こどもの面倒を見ているおばあさんに話し掛けると見開いた目に力がなく、どこを見ているのか?定かではない。
 
 私が孤児の家を訪問すると、私の正体を確認するかのごとく、近所の人々が集まりはじめた、その中の一人に聞いてみると、どうやらおばあさんの目にはほとんど視力がないようだ!視力がないのは栄養が足りない様に思えたので、毎日何を食べているのか? 聞いてみた。
 
 返事は予想通りだった。お金が無いので充分な米も買えず、お湯に米の浮いたオモユが主食で、おかずは1バーツ(3.5円)で買える「プラホック」(醗酵した魚)だった。たまにおかずらしい物が有るとすれば、原野に広がる笹の芽を摘み取り煮た物。タンパク質は、バッタ、コオロギ、カエル、ネズミ、・・・・・・

 小さなこども達三人がおかず探しに出かけても、たまにしかタンパク質が手に入らない。こども達は食べられる野草を摘んできて食べる。あまりにも貧しい食生活を目の当たりにして、支援をはじめるか迷いながら長女の子に質問していた。

 「この近くに学校が出来たら、勉強しに学校へ来ますか?」

 こどもの返事として当然 「行きます!」 と云う返事を期待していたが、こどもの返事はそっけなく、にらみつけるようにしながら云った。

 「行かない!」

 私はこどもの答えにショックを受けていた。そして、そのショックをごまかすかのように引きつった笑顔を浮かべ、引き上げてきた。その日から、どこに居てもこどもの顔が離れず、いつもこどもの気持ちを考えていた。何とかこどもの顔に笑顔を取り戻してあげたい!と、・・・・・・・

 こどもの置かれた生活環境を考え、どのように支援をしていけばよいのか?考えつづけた。こどものことがもっと知りたくて、たびたび会いに出かけた。そのうち、こどもが何故「行かない!」 と云ったのか分かってきた。

 この小さなこどもが一家の大黒柱で、学校に行っている余裕も無い事が・・・・・・

 ある日、私は決心してこどもを呼び出した。一緒にお店に出かけ、食糧を買い込み一か月分の米を買った。そして、静かに話し掛けた。

 「今まで一人で頑張ってきて大変だったね!これからは私が頑張るから心配要らないよ!」

 こどもは笑顔を忘れた顔で小さくうなずいた・・・・・・

 

三口の子 (口蓋破裂)

 寺子屋をはじめた所に三つ口の小さなこどもが居た。話し掛けると逃げていくが、遠くからこちらを見ている目がかわいい、だが、三つ口だけが小さな子のかわいさを邪魔していた。何とかしてあげたいと思っていたが、何の方法も見つけられなかった。また、ポイペットの事務所から5軒はなれた家には十四歳になる三つ口の女の子が居た。

 ある日ポイペットに来られた友人の小味さんが 「三つ口は直るわよ!」 と、云ってくださった。いつも気にしていたことなので、その方法を事細かに聞き出していた。小味さんは直ぐ友人の女性に電話をかけて下さり治療の時期を聞き出してくださった。運良く、ちょうど日本から外科医の先生が二週間の後に来られることを知り、早速治療を申し込んだ。

 ただ、この時はこども達二人の了解ももらわず申し込んでいたので、翌日二人の子に話した十四歳になるこどもは、一も二もなく手術を希望した。この子のお母さんを事務所に呼び詳しく説明したが、お母さんの返事は頼りない! ハッキリと手術させたいとは言わない!原因は貧しさにあった。1日30バーツの収入で細々とした生活を営んでいる家族にとって手術代はとても手の出る金額ではなかった。

 そのことは直ぐに理解できたので治療費は全額無料です! と云ったが? まだ母親の態度がハッキリしない。理由はポイペットからプノンペンまでの旅費が無いためだった。旅費や滞在費も全額心配要らないことを伝えやっと母親の承諾をいただく事が出来た。二人が帰っていく姿を見ながら、喜びとも悲しみともつかない複雑な気持ちで見送っていた。

 五月一日、念願の手術の日が来た。こどもたち二人を伴いプノンペンのノロドム病院の門をくぐった。この日は、日本から二人の外科医が来られ、1日6人の患者さんの手術をしておられた。つれてきた子の番になると、いたたまれず、バイク修理にかこつけ、病院を逃げ出していた。

 一時間後帰ってくると、ちょうど手術室を出てきた子に出会った。はは親に支えられ、回復室に向かい横になった子の口元を見つめ、ただ、良かったね! 良かったね!と繰り返していた。

2000-3-25
「カンボジア 寺子屋だより 
〜栗本氏の力作です。〜

はじめに   

 カンボジアは三十年わたる内戦のため、教育システムが破壊され、学校教育が立ち遅れています。特に農村部では就学率が低く、35%にも満たないようです。そのため、識字率は更に低く、20%以下であろうと思われます。文字が読めず、教育を受けられないために起きる問題は多く、カンボジア内外部に社会問題を引き起こしています。こどもたちの人身売買、不当労働、児童労働、少女売春、ストリートチルドレン、と、数え上げたらきりがありません。
先日、タイの新聞で報道されていた内容を、タイに住む日本人の友人が知らせてくれました。最近タイの各地で、置き引きや、万引きが頻繁に行われているらしい? 警察が捕まえてみると、カンボジアから連れてこられたこどもたちが犯人だったようです! このこどもたちは、カンボジアで買われ、タイに売られて来たとの事。

「カンボジアこどもの家」では、このような、人権が無視されたこどもたちを、少しでも少なくして行きたいと願い、どのようにすればこどもたちが教育を受け、識字率を上げられるか? 全国各地を回り、聞き取り調査を続けてきました。また、こどもたちに、文字の楽しさを知ってもらおうと、紙芝居や絵本の朗読を続け、識字ポスターを配布し、識字教育を続けてきたが、継続した識字教育にまではいたりませんでした。ある日の夜、村人と座り込み話し合っている内、村人の思い出話がはじまりました。その話の中で非常に興味深い内容の話がなされました。「内戦のはじまる前までのカンボジアでは、どこに行っても寺子屋があり、どんなに貧しいこどもでも入学できた。少し大きくなってからも、希望すれば寺に住み込み、生活費を稼ぎながら勉強を続けることができた。」
これは特別なことではなく、ごくあたりまえのこととして、村人たちに受け入れられていたようです。その当時の寺子屋は、大人でも、こどもでも、好きなときに勉強することができた。との事。この話を村人から聞いたときには、感激しながら、大きな喜びのショックを受け、まるで夢の中にいるような思いでした。

「念願の識字教育が可能かもしれない。」

もう一度、その時のような寺子屋が復興できないものだろうか? これが私の願いとなり、目標となり、活力となっていきました。

第一章 寺子屋開設の夢

 寺子屋を開設したくても、どのようにはじめたら良いのだろうか? また、はじめるのはよいが、継続し続けることが出来るのだろうか? 私には継続する力も、勇気も無い! 一度はじめれば、自分の都合で止めることが出来ない。自分の能力を超えた仕事のように思えた。それでも、十五歳以下が50%を超えている若者の国カンボジア、この国の将来はこどもたちの教育にかかっている。と、いっても過言ではないように思える。それなのに、村には学校が無い、先生もいない。国の学校建設を待っていても、何時できるか分からない。外国からの国際支援も、都市部には積極的に協力しているが、道もない、車も走れない田舎には、
なかなか来られない。それなら、特別な援助を受けなくとも、村人たちの手で出来ると思える寺子屋が開設できないだろうか?「文字の読める村人が、こどもたちに教え、こどもたちに教える先生の生活は、村人たちが助け合う!」
 そんな寺子屋が出来ないものだろうか? なんとか寺子屋を再開したい。この思いは私の中で膨らみ燃え上がっていった。その時から、村を回るたびに寺子屋の話をして回った。でも、村人の反応は今ひとつしっくり来ない。村人たちは、「自分たちでは出来ないもの!」と、思い込み、ただ、こちらがはじめるのを待っている。村人たちで作る学校なのだから、村人たちの積極的な参加が無ければ、続けられないだろう。村を回るたびに話し合いを続けるが、村人は受け身の態勢で、こちらが動くのを待っている。外国から来た私には、責任を負いつづけることなんてできっこない、責任を持つのは村人達なのだと思う? 私がはじめたのでは、私が来なくなった時、寺子屋がなくなってしまうように思える。

 決断がつかないまま数ヶ月が過ぎるうちに、私は体調を壊した。どこが、と云うことも無いが、なぜか疲れやすい、元気が出ない、気力も衰えてくる。歳をとったのかな〜とも思ってみるが、どうやら病気のようだ、一度プノンペンに戻って精密検査をした方が良いかもしれない、とも思うが、それも怖い。ここ四年間で四回も入院生活をしている、病気はすべて感染症。四年前、はじめて倒れたときは、もうダメか? と、思った。視力を失い、徐々に気が遠くなり、気が付いたときには病院のICU(救急治療室)に入院させられていた。医師の話しでは、バクテリアによる感染症のショック症状で、50/30まで血圧が下がり意識を失ったようだ。入院してしまえば一人NGOのつらさで、代わりの人が居ない。今、活動を止めるわけには行かない。やっと人脈も出来、村人の気持ちもつかめるようになってきたのに・・・・・これから先も続けていこうと思えば、現地カンボジア人の、協力者を求めるしかない。でも、食べるのに精一杯の人々に、無給での支援活動は難しい、と、思える。カンボジアの人々が育つまで、しばらくは、私が、がんばるか、日本人のボランティアを募るしかない。そのためには、日本に行かなければならない。タイ、カンボジアと、こどもの支援活動を十二年間続けてきた中で、日本に帰ったのはたったの三ヶ月に満たない。日本に帰りたくはないが、帰って、協力者を求めなければ、活動が停止してしまう。

1998年の冬、意を決して日本に帰った。しかし、4〜5日も経たないうちに、四十度を超える高熱で倒れた。高熱が出始めた時には、てっきりマラリアだと思っていた。それは、日本に帰る前まで、マラリアが猛威を振るっている汚染地域で活動していたからだった。日本ではマラリアが無くなって久しいので、普通の病院では発見できないかもしれない、と思い、感染症専門医の居る聖路加病院に入院することになった。でも、マラリアだと思ったのは私の思い違いで、検査の結果(パラチフス)と診断された。日本では、パラチフスを法定伝染病に指定しており、危険な病気らしい。日本に帰ってくるのがもう少し遅く、カンボジアに滞在中発病していれば、間違いなく死んでいただろう。私の活動地域から病院のあるところまでは2〜3日かかる、四十一度の高熱で移動するのも難しく、たとえ病院に行けたとしても、十分な検査器具もなく、正しい診断が下せなかっただろうと思える。医師の話しでは、もう少し治療が遅ければ、脾臓が破裂し、腹膜炎を起こしていたらしい。この時はすでに、脾臓に膿が溜まって腫れ上がり、破裂寸前だったようだ。胸に胸水が溜まり、肺が圧迫され、呼吸するのもつらく、おなかには腹水が溜まり腹部を圧迫する。一ヶ月に及ぶ入院生活の中で、いろいろな事を考えつづけた。もし、この病気で死んでいたと思えば、何でも出来るのではないだろうか? そう考えると、今までの不安も消え去り、寺子屋作りを病院のベッドの上で決心していた。

 幸い、入院期間中、カンボジアでの私の活動が、新聞、テレビ、ラジオ、で紹介され、多くの支援と、励ましの連絡を受けた。また、退院してからは、東京YMCAで写真展が開かれ、「カンボジアこどもの家」支援の会ができた。しかし、私自身の体調が心配なので、正式な発足を半年先に持ち越し、了解をいただく。このとき集まったメンバーが中心になり、翌年の6月、正式に支援の会ネットワークが発足となる。
 
カンボジアに帰ると、直ぐに寺子屋開設に向け積極的に動き出した。寺子屋の候補地として、カンボジア人の友人から、強く要請のあったポイペットで開設することにした。ここポイペットでは全国から経済難民が集まりはじめ、昨年五千人程度の町であったが、一年間で十倍の人口に膨れ上がり二千年の今年は五万人以上の人口に膨れ上がっている。この難民の人たちは、もともとタイの難民キャンプにいた人たちがおもで、国内に落ち着き場所も無く、タイ国境に帰って来た人たちだった。長く難民として落ち着き場も無く流されてきている人々。しかし、ようやく落ち着いた村には、学校も無く、先生もいなかった。

 私をここポイペットに誘ったカンボジア人の友人も、元は同じ難民。カンボジア難民としてタイのカオイダンキャンプにいる時、幸いにして日本が難民として受け入れてくれた。今では群馬県の大泉町で機械技師として元気に働いている(オク・ビチャイ)さん。彼は、難民生活時代の苦労が忘れられず、チャンスがあれば、カンボジア難民を支援したいと、願いつづけてきた。一生懸命働き、お金を蓄えてきた。彼と、彼が難民キャンプにいたとき出会い、結婚した奥さんとが、心をあわせ、力をあわせ、十数年間働いて貯めたお金で、ポイペットに念願の農地を手に入れた。彼の願いは、平和が訪れたカンボジアを、農業で復興することだった。

古くからカンボジア人は「ネアック・スラエ」(ネアック=人)(スラエ=田)「田の人」と、呼ばれていた。いまでもカンボジア人の90%は農村に住み、農業に従事している。

農地の開拓がはじまると、難民が仕事を求めて入植してきた。彼は喜んで難民を受け入れはじめた。しかし、難民のこどもたちが通うべき学校も、先生も、いなかった。彼は熱心に、難民のための学校設立を要請してきた。彼の民族愛と熱意に動かされ、寺子屋解説をすることとなった。

ポイペットの地で、寺子屋活動をはじめたのには、もう一つの理由がある。今までの活動地域(クラッチェ、ストントレイン、モンドルキリ、ラッタナキリ)では、支援者の方々が支援に来ることが出来ない。カンボジアに着いてから、現地の支援地にたどり着くまで、三日も四日もかかり、道も無く、車も走れない所では、支援する方々も不安になるだろう。これからの支援は、自分一人で楽しむ支援ではなく、日本に居られる支援者の方々たちと、一緒になり、考え、計画を立て、行動しなければ長続きしないと思われる。支援者の便利も考慮する必要がある。

第二章 地雷とこども

「先生 ! 地雷が有ったよ ! 僕も見たよ ! 」

  朝、いつものように寺子屋に行くと、数人のこどもたちが走りよって来た。そして、得意になって話す。昨日寺子屋のこどもたちと、地雷について考え、地雷の危険について教えたばかりだった。その時、寺子屋のこどもたちに、地雷を見つけたら、触らないで先生に教えてくれるように言ったばかりだった。しかし、こんなに早く知らせが有るとは、思ってもいなかった。

[こどもたちの身近に、危険が潜んでいる! こどもたちの生活圏に地雷がある!]

カンボジア語では地雷源の事を「チョムカー・ミン」と言う、「チョムカー」は畑で、「ミン」は地雷。「地雷畑」と云う意味になる。この言葉は、カンボジアの現地新聞や雑誌に使われている。初めてこの文字を見た時は、少し大袈裟だな 〜 と、思ったが、現実に地雷原で地雷処理活動を行った時は、まさに「地雷畑」だった。三十分ほどの作業で、三十六個の地雷を撤去した。掘り出されたあとを見てみると、四〜五メートル置きに埋められているのが確認できる。文字どおり「地雷畑」だ!授業が終わると、こどもたちが話してくれた地雷源に出かけた。こどもたちを連れていくのは危険なので、村の大人たちに道案内をお願いした。
しかし、こどもたちが教えてくれた地雷は、既に爆破されていて、残り破片しか見つけられなかった。私はその破片を珍しそうに眺めながら、恐る恐る手を伸ばし拾い上げてみた。爆破された後なのだから、何も恐れる事はないが、何故か、妙な緊張感が走り、厳粛な気持ちにさせられる。

これが「悪魔の兵器」と呼ばれている地雷なのだ !  無抵抗な人々を傷つけ、何の罪も無い農民の命を奪い、平和を乱す兵器。怒りのような思いが込み上げ、金縛りに遭ったように、しばらくは動けなかった。

道案内をしてくれた大人たちは、地雷の破片を見ても、何事も無かったかのように、いつもの出来事だ、と、云わんばかりに、平然としている。私は、はじめて地雷源に入り、地雷を目の前にして、破壊された地雷の破片を見て、いくらか興奮している様だ。でも、私は心の中で叫んでいた。

(地雷に無感動になってはいけない!)と、
この地雷からこどもたちを守らなければ、でも、どうやって ・・・・・・・・・・

考えても答えは出ない、まず地雷について知ろう、そうすれば答えが見つかるかもしれない。そんな思いにとらわれている時も、一緒に来た人たちは、日常の事のように前を歩いていく。その後ろを歩きながら、いつ爆発が起こるか ? 誰かが間違って地雷を踏むのではないか?事故を待っているのではないが、恐怖と恐れが身を包み込む。少し森に入ると、激戦区だったと思われる場所に出た。所々バズーカ砲の破片や、機関銃の薬炬が散乱している。そして、この地域一帯に地雷が埋設されている。と言う。しかし案内人は、森の散歩を楽しむかのように、気軽に歩いて行く。後ろに続く私たちは、地雷を間違って踏まないように、前の人の足跡を確認しながら、恐る恐る、進む。そんな時、森の中から話し声が聞こえてきた。誰かいるらしい、こんな危険な地雷源に誰がいるのだろう、声のするほうに進んでいくと、ジャングルを抜けたところが広く大地になっている。そこに木こりたちがたむろしていた。案内人たちと木こりたちが、親しそうに話し合っている。どうやら同じ村の人たちのようだ。

「今、カンボジアは木材の伐採が禁止され、輸送も制限されている。しかし、ポイペットのこの地域では、木こりたちが木を伐採している。」

これは法律違反では ? 不思議に思ったので、案内人に聞いてみると、
「警官に金を払えば平気さ」
と、いとも簡単な答えが帰ってきた。なんとも納得できない。
木こりたちはこの地雷源で仕事をしている。地雷や不発弾の埋設地域を、木こりたちは知っているかもしれない。と思い、木こりたちに聞いてみると、案の定、実によく知っている。生命と背中合わせの中で、生きている人々にとって、当然の事かもしれない。今度は木こりを先頭に歩み始める。数十メートルも進まないうちにロケット弾が見つかった。地雷処理のためシムリアップから来ていただいた「アキラ」に、不発弾の処理をお願いする。
「アキラは地雷処理の専門家で、シムリアップに地雷博物館を経営し、地雷の処理にカンボジアの村々を回っている。」
そんなベテランのアキラでも、すぐに触ろうとはしない。じっくり睨みつけるように見ている。しばらくすると、ロケット弾の周囲を慎重に眺めはじめ、手を伸ばそうともしない。腰のベルトから、おもむろにナイフを抜き出すと、慎重な手つきでナイフを持ち直し、慎重にロケット弾の方へ動かし始める。ナイフの先端が静かにロケット弾の周囲を一周する。行き詰まる一瞬、「アキラ」は、ゆっくりとナイフを腰ベルトのナイフケースに収め、やっとロケット弾に手を伸ばし、持ち上げた。見ている私が緊張して、手に汗を握っている。「アキラ」は周囲の緊張を解すように、笑顔を向け微笑みかける。そして恐ろしい内容を、いとも簡単な口調で話し始めた。

「このロケット弾は少しの衝撃で爆発します! 安全のためこの場で処理をします!」

話し終わると、バイクに積んできた「万力台」と「スパナ」を取り出し、ロケット弾を万力で固定する。スパナを片手に持つと、ロケット弾の弾頭部分を締め付け、ゆっくり慎重に廻しはじめる。緊張で息詰まる中、静かに取り外された弾頭は、なおも危険で持ち運びができない。その場で爆破処理をすることにする。しかし、この時は爆薬と導火線を持ってきていなかった。仕方なく、落ち葉や小枝を集め、弾頭を包み込むようにすると、向こう側の、くぼ地の中に収め、更に落ち葉をかけ、火をつける。

「導火線での爆発では、何分後に爆発するか分かる様だが、焚き火での爆破誘導では、時間が分からない。」

火をつけた焚き火は、勢いよく燃え上がるが、なかなか爆発しない。そのうち火の粉が私たちの方に飛んでくるようになり、危険なので全員退避しょうとしたところ、突然、弾頭は鋭い音を立て、爆発した。はじめてみる爆発に私は興奮気味となる。ロケット弾本体に残された、TNT火薬は、すべて抜き取られ、後はただの鉄の塊と化し、無造作に袋に収められた。これで、この不発弾での事故が防げたのではないだろうか? と思うと、うれしい気持ちになった。しかし、安心するのもつかの間、木こりたちはこの先に地雷源が広がっている! と、言っている。木こりたちの踏みなした道を、しっかりたどるかのように、安全を確かめつつ移動をはじめた。少しばかり行くと、焼き払われた大地の上に、野焼きの炎で自爆した地雷や、まだ焼けずに命を残したままの地雷が、数個、目で確認できる。今度は、先ほどより冷静に見る事が出来る。黒い色の地雷が点在している。でも、肉眼で見る事が出来ない土の中には、はるかに多くの地雷が眠っているのだろう。

木こりたちは、危険を承知で森に入り、木を切る。危険と背中合わせの毎日の中で、家族を養うために、生活のために地雷源で仕事をする。私たちのように地雷とは無縁の生活をしている者にとっては想像をはるかに越えた、命懸けの仕事だと思える。そうして、命がけで切り出した木も、警官や木材業者に搾取され、わずかなお金しか残らない。一生懸命働いても、その日の家族の食費にも満たない。そしてひとたび事故が起きれば、地雷によって命を落とす。たとえ命が助かったとしても、一生不具の身で生活しなければならない。ますます貧しい生活を余儀なくされてしまう。

命を落とすのは、何も大人ばかりとは限らない。こどもたちもその犠牲になる。男の子は、柴や薪の材料を取りに、地雷源に入り込み、事故に遭う。女の子は、家の建築に使う萱を刈りに地雷源に入り込む。地雷源は危険である事を知ってはいるが、地雷源に入り込まなければ、良い材料の物を、大量に取ることが出来ない。地雷の無い安全な所はみんな刈り取ってしまっている。何もそこまでしなくても……と、思うかもしれないが、その日その日の食事にも事欠く生活の中では、どうすることもできない。カンボジアのこどもたちと、同じ生活をしなければ、彼らの気持ちが見えてこないだろう……。

第三章 カンボジアの学校とこどもたち

こどもたちは屈託無く走りまわり、飽くこともなく遊びまわっている。どのような将来が待っているのか? 考えてもいない。
でも、こどもたちはそれで良いのかもしれない。こどもたちの将来の事を考えてあげるのは、大人の責任だと思う。国を代表する政治家は将来の国益を考え、国の将来をこどもたちに託し、こどもの教育に力を注ぐ。こどもの両親は、こどもの将来が幸せなものとなるように考え、勉強に力を注ぐ。この考え方は間違いではない。
 しかし、この考え方が通るのは、平和であり、安定している国の話なのだと思われる。ここカンボジアでは、国も親もこどもの教育に何が一番よいのか ? 考える余裕すらないように思われる、その日その日の食物を探すのに精一杯だ。都市部を除いた田舎では、学校が無い、たとえ学校の建物が有っても先生がいない、先生がいても生徒に教える時間も無く「ローク・シー」に励む。(ローク=探す)(シー=食べ物)教師の給料は月4万リエル〜7万リェル(10ドル〜18ドル)この給料では家族も養えず、自分一人の生活もままならない。都市部で住む人たちは現金収入が有り、教師も副業が成り立つが、農村部では現金収入が無く、先生の副収入も無い。当然生活できないので、教育省から派遣を命じられてもおいそれとは行けない。赴任先の学校にお金を払い、あたかも赴任しているかの様に見せかける。でも、都市で仕事をしていて、田舎には住まない。クラッチェ州のある村では、教師定員3人の学校で、毎日学校に来られる先生は一人だけだった。生徒の数は200人もいるのに、先生一人という有り様だった。一人の先生では全員教えられず三部授業(朝、昼、夕、)が実施されていた。これでも無理が有るのに一年生から5年生まで一教室に詰められており、高学年になると学校を辞めてしまう生徒の数が後を断たない。

今、海外支援で建てられた学校や公立学校にも問題が山積みだ、できあがった建物に教師をむかい入れる。生徒200名の学校なら、単純計算で一クラス40名、5人の教師で可能だろう。ところが、蓋を開けてみると、とんでもない問題が発生する。雇われたはずの先生が来ない、出席する先生の数は平均して一日2名、その他の先生はアルバイトに精を出す。給料だけでは食べて行けないからです。生徒たちは先生の来ないむなしい登校に嫌気がさし、登校しなくなる。
また、貧困家庭でも登校しなくなる。先生たちのアルバイトは家庭塾が多く、大切な勉強を学校では教えず家庭塾で教える。塾に通えないこどもは勉強が後れ理解できなくなる。家庭塾の相場は、一日300〜500リェル。一ヶ月9000〜15000リェル。貧困家庭や兄弟の多い家庭では、とても負担できない。兄弟が多いと、一年目は学校に行けても、二年目は弟、妹、に譲って、学校を辞めざるを得ない。また、ユニセフから無料配布で作られたはずの教科書が有料で売られている。ほとんどのこどもは教科書も買えない。
 新世紀に入った二千年の二月、プノンペンの公立学校に「カンボジアこどもの家」の孤児二名を入学させた。授業がはじまると担任の先生は毎日300リェルを支払うように命じた。もし支払えなければ、孤児は学校にも通えない。

以下はある学校の実数です。

一年生250名、二年生150名、三年生50名、四年生0名。小さなこどもは家の仕事も充分できないので学校へ行かされるが、体が大きくなり仕事が手伝えるようになると、金のかかる学校は辞めさせられる。それに、先生も高学年を教えられない。田舎に住む多くのこどもは教育を受けられる環境にいない。

今、就学適齢時児童を持つお父さんお母さんは、学校に行くチャンスを失ってしまい、学校に行っていない人々が多い。1970年ロンノル将軍によって始まった内戦は、全国規模に及び、学校教育がストップしてしまった。当時5歳以下だったこどもが、今のこどもたちのお父さんお母さんたちであるため、こどもに学校教育が大切だと思っていない。また、高等教育を受けた先生は、民間NGO団体か、高級公務員を目指す。通常教師の十倍以上の収入が見込めるからだ。学校のある地域でも、貧困家庭は学校に行けない。こどもは家族の働き手であり、働けない小さなこどもは、お母さんに代わって妹弟の面倒を見る。
国連児童基金(UNICEF)ユニセフが1997年に発表した『世界子供白書』では、小学校5年生まで学校に通うこどもは、学校に入学した児童全体の40%未満、高校を卒業するこどもは2%にも満たない。運良く小学校に入れたこども一千人の内中学校に進学できる確立は5%、48名で無事卒業できるこどもは12名でしかない。その後高等学校に進学できるこどもは6名で、無事高校を卒業できる生徒は、たったの2名。それでもまだ学校に行けるこどもは恵まれている方で、就学適齢時児童の60%は、学校にも行けない。お父さんお母さんも文字を知らないため教えられない。カンボジアの将来を担うこどもたちが教育を受けられないのでは、カンボジアの将来が心配になってくる。

1998年3月に行われたカンボジアの国勢調査では、全人口1.140万人であり、人口増加率は2.4%である。このままの増加率で推移すると、20年後の2020年には全人口1.900万人を超えると予想される。現在でも全人口の50%が15才未満のこどもた
ちで、こどもたちの教育が、カンボジアの人的資源開発に欠かせないものとなっている。

第四章 寺子屋開設

1999年8月3日、寺子屋第一号が難民村にオープンした。当初の寺子屋は、簡素なつくりで、先生の家のヒサシを借り教室とした。生徒の座る椅子は、板を並べただけのものだった。開校にこぎつけるまでの思いが嘘のように、アッ気ない授業の開始だった。先生は若くて元気な二十歳で、文字通り元気いっぱいにオープンした。当時は40名の生徒だったが、直ぐに100名を超え、新たな教室が必要となった。寺子屋が村人たちに受け入れられたのは嬉しい悲鳴だが、生徒が教室に入りきれない。午前、午後と二部授業にしたが間に合わない。村人たちや父兄と相談しながら、校舎用地を、難民村を管理するANAD「カンボジア農業開発協会」に依頼する。協会のリーダーは心よく引き受けてくれ一安心。その間に材料の丸太を村人に依頼する。2〜3日すると丸太も集まり、協会のリーダーに、どこに建てたらよいか確認に行くと、もう少し待ってくれ、との返事。その後、何度も何度も話し合いが続いたが、半年経っても学校建設用地が確定しない。
 
初めての寺子屋が開校して一ヶ月が過ぎるころ、隣村のツールボンロー村から村人が尋ねてきた。この村にも学校がなく、村の集会場を借りて有料塾が少人数で開かれていた。その時から毎日のように寺子屋建設についての話し合いが、村びとたちを中心に開かれた。その話し合いの中で、村から30000平米「100mX300m」の学校用地の提供が決定した。ちょうどその頃、難民村での学校建設用地が決まらず、難民村での寺子屋建設が行き詰まり、建設用の丸太や、その他の建設材料もそろっていたので、隣村の校舎を優先し、建設する運びとなった。そして、村人たち総出で整地がはじまった。


しかし、十月のこの時期は、雨が降ればバイクも馬車も走れない。ただひたすら歩くだけである。幸いこの日は雨も降らず、道も乾燥していたので、バイクでも走ることができた。でも、普通のバイクでは無理だろう? 250ccのオフロードバイクにまたがり颯爽と出かける。ツールボンロー村に着くまで、何度も何度も立ち往生、そのたびにオフロードバイクの高い荷台から降りていただく、そして安全な地域まで歩いてもらう。それでも途中で道が見えなくなり、少し不安になる。何度もきている道なのだが、雨が降るたび、人々は固い土のところを探しながら通るため、来るたびに道の位置が替わっている。想像をはるかに越えた悪路を、ようやくの思いで寺子屋にたどり着いた。ちょうどその時、寺子屋では小学校一年生の授業中。さっそく、日本から来られたお客さんを紹介する。寺子屋に来るとき生徒に配ろうと、持参してきた教科書を、生徒一人一人の名前を呼び上げ手渡す。ようやく呼ばれたこども全員に配り終わると
、最前列にいた男の子が、悲しそうにうつむき、泣き出した。よく見ると、その子だけ名前が呼ばれなかったようだ! 現状にいち早く気がつき

「ゴメンネ!ゴメンネ!」

と、謝りながら教科書を手渡そうとするが、その子は悔しさと、恥ずかしさが、入り混じったようなか顔をして、うつむいたまま、受け取ろうとしない。みんなでなだめ手渡すと、恥ずかしそうに照れながら、小さく手をあわせる。その動作がなんともかわいく、こんなにこどもたちに喜んでもらえるのなら、寺子屋ができて、本当に良かったと感謝していた。

寺子屋作りは、村人たちで出来る学校作りの方法なので、金をかけたり、機械を使ったりしないで建設したかった。機械を使う力も、金もない人々が、力を合わせ、村びとだけで出来るやり方で作りたいと、願っていた。そして、村人総出で草を刈り取り、草が乾いた所で火を放った。

「このやり方は、カンボジアの開拓農家が昔から受け継いでいる方法で、カンボジア中ごく普通に行われている焼畑農のやり方だった。」

しかし、大きな木の根っこを引き抜くのは並大抵ではなく、多くの日時を費やす。そうしてとうとうブルドーザーの登場! 人々が一生懸命がんばっても木の根を引き抜くのに何日も費やす。それに引き換え機械の威力はすごく、一日で一万平米の土地を耕してしまった。
 それを見ていて、その日の報告に私の感想を書いている。

「機械にガソリンを食べさせるより、村人にお腹いっぱい食べてもらいたいな〜」

その日から、村人の参加が目立って少なくなった。私も機械の威力にいまさらながら驚いたが、村人の驚きもすごく、やる気をなくさせてしまったようだ! 村人たちの気持ちを人一倍よく理解しているつもりだったが、大きなミスを犯してしまった。取り返しのつかない結果をもたらせたようだ。どうも私は急ぎすぎたようだ、こどもたちが学校の出来るのを待っているのを思い、早く作ろうとしたのがまずかった。学校の建物が出来ることより、みんなで作る学校が大切なのに! その日から学校建設に機械の参加を求めなかった。

「文明の象徴のような機械が、人々の協力と助け合いを奪い、冷たい、速さだけを競う社会を形成していく。その力はすばらしいが、使いこなせなければ、冷たい社会を作り出すようにさえ思える。」

カンボジア人自身の力で、カンボジアの国を復興していくのに、海外から圧倒的な機械や、お金を持ち込めば、カンボジアの人々はやる気を無くし、努力をしなくなるのではないだろうか? そしてただ、援助を求めるだけの国になってしまう。

私自身、ブルドーザーが活動しているときは、ただ見ているだけで、なにも出来なかった。まして長い内戦の中で、その日その日の食物を探し、生きることだけに精一杯だった人々に、思いも及ばない力を見せ付けるなら、それは支援ではなく、ただの自慢だけのように思える。カンボジアの人々と同じ土台に立ち、同じ高さの目線で見ていかなければ間違いを犯す。カンボジアの人々が、自分たちで機械を使いこなせるようになるまで、自分たちの力で買えるようになるまで、ゆっくり、ゆっくりと、カンボジアの人々と一緒になって、カンボジア時間で、お付き合いしていこうと決心する。
 
気持ちを新たにして、もう一度、村びとたちを呼び集め、寺子屋作りの協力をお願いする。それからの仕事は、すべて人力で工事をした。土地の整地、寺子屋教室の建設、トイレ工事、寺子屋のこどもたちには、学校教育だけではなく、村びとたちとの協力や、衛生についても学んでもらいたかった。幸いカンボジアには、人格を阻害する受験競争は無い。まして困難な中を通り抜けてきた人々は、人々の協力なくしては生きていけない。更に私は、寺子屋のこどもたちに伝えたいメッセージがある。

「一人一人、自尊心を持ってもらいたい!」

自分を敬い、命を尊ぶなら、こどもたちは自分の体を傷つけたりしない。自分を不潔な環境に置こうとしない。自分から売春婦になる子もいなくなるだろう。まして泥棒や盗みをすることを忌み嫌うようになると思う。大人になった時、不正を嫌い、ワイロを受け取らなくなると思える。今まで、事件を起こしたこどものお世話したが、多くのこどもは自分を捨てている。

「自分なんかどうなったってかまうものかー」

と、云うように、やけを起こしているものが多い。売春に身を染めている少女は、

「私が我慢すれば兄弟が助かるのー」

と、自分を犠牲にしている。もっと、自分を大切にしてほしい。ほかの生き方で、家族を助けることが出来るのではないだろうか? このこどもたちを助けることが出来るのは、こどものときの教育にかかってくるのではないだろうか? そんなことを考えながら、寺子屋作りに取り組んでいる。

また、今回建設する寺子屋は、こどもたちの伝染病を少しでもなくすため、衛生教育の一環としてトイレの建設も決めた。深さ2.5m、長さ5m、幅3mの穴を手で掘り、土管壷を埋め込んだ。

トイレ一口メモ「カンボジアやタイでは、トイレの底が開いており、自然浄化で地中に流れ込むように出来ている。大便はバクテリアが処理してくれる。」

今度の工事は機械を使わず、手仕事だけで済ますことが出来た。一ヶ月過ぎる頃には、藁葺きの校舎が完成し、トイレも使えるようになった。衛生のため、トイレは水洗としたが、肝心の水がない。しばらくは少しはなれた井戸に汲みに行くとしても、近いうち井戸を掘り、水を確保する必要が出てきた。さっそく井戸掘り工
事業者の方を、事務所に呼び、工事代金の値段交渉していた。しかし、そのための財源は一ドルも無かった。でも、何とかしなければ、と、出来るだけ安く出来るように、業者の方と交渉していた。業者の方も、「支払いは水が出てからの後払いでいい。」と、また、破格の価格を提示してくれた。私も何とか金を準備して、この業者の方に工事をお願いしたいと思っている頃、ちょうどその時、日本から電話が入り、北海道の柴野さんが、「寺子屋のために使ってください。」と、二箇所の井戸工事代金分のお金を寄付してくださったことが知らされた。願ったり叶ったりのグッドタイミング。北海道の柴野さんに感謝しつつ、業者の方にOKと伝えた。

そうして井戸工事がはじまった。しかし、掘り進むにしたがって、31m付近に岩盤があることが分かった。硬い岩盤繰り抜き工事は、思うように進まない。やっと1m以上に及ぶ岩を繰り抜き掘り進むと、地上より42m付近から、毎時650リットルの水が湧き出してきた。水を待っていた村人と、心配で見ていた私たちは、一緒になり飛び上がって喜んでいた。

水が確保できると、トイレだけではなく、花や木の栽培も授業に加えたいと思うようになっ
た。
「本当に人の欲には限りない・・・・」(自分だけかな〜)

すると申し合わせたように、奈良県五条市の小学6年生の生徒が、カンボジアのこどもたちのためにと、寄付金を集め届けてくれた。このようにして、色々な人々の協力と村びとたちの力で、第二校目の寺子屋ツールボンロー小学校は完成した。

第五章 周囲に波紋を広げる寺子屋

 第二校目の寺子屋が完成した頃、周囲の村々からの見学者や、問い合わせが相次いだ、でも、どの村も道が悪く、雨の後、数日は身動きが取れなかった。やつと晴れた日に、ツールボンローの先生に連れられ、隣村のツールプラサート村に出かけた。この村にも学校はなく、支援を求めていた。学びたい生徒はあふれているが、学ぶ教室も、先生もいなかった。こどもたちが学びたくて待っているなら、なんとしても寺子屋を開設したかったが、まったく予想もしない問題が持ち上がってきた。オランダのNGOが、道と井戸の開発計画を持っており、学校建設もするらしいとの情報だった。さっそく村人に聞いてみると、校舎のための材料と机を支援してくれるらしい、でも、先生への支援は無いという。先生の支援は私たちが引き受け、校舎や机はその人たちにしてもらおうと腹を決め、先生の支援と、教科書の提供をはじめた。
 こどもたちは、飢えていたかのごとく集まり、1ヶ月をたたないうちに100名を超え、6ヶ月すぎた現在、150名に達している。先生への支援も、一人ではじめたが間に合わず、現在では3名となっている。こうして第三校目の寺子屋が動き出した。

 3校併せて寺子屋の生徒が300名を超えるなかで、色々な問題が表面に出始めてきた。外国人の私一人では、どうしても解決できない問題もあった。一人NGOに限界を感じ始め、どうしてもカンボジア人のスタッフが必要になり、三年前からお世話になっていたクラッチェの大家さんにお願いすると、自分のことのように心を痛め、800キロの道のりを、直ぐに駆けつけてくださった。本当の家族のように、イヤそれ以上に親身になって活動してくださる姿を見て、ボランティア精神では、私など、とても足元にも及ばないと感じていた。今では、カンボジアで一番尊敬する人となっている。

しかし、問題は多岐にわたり、簡単ではなかった。

一つは、郡役場の教育委員会から連絡があり、寺子屋の先生を師範学校で訓練するように、との事だった。ところが、寺子屋の先生は、村の人たちばかりなので、高等教育を受けた人は少なく、小学5年生から中学2年生ぐらいの学歴しかない。とても師範学校に入学できる学歴ではなかった。でも、村人から選ばれて先生をしているので、誇りと自信をもち、元気に活躍している。そんな先生たちを、学歴社会の苦しみにさらしたくなかった。寺子屋の先生たちは、こどもたちを愛し、教えることに喜びを持ち、こどもたちと一緒に、村人たちと一つになって村の再建を考え、カンボジアが良くなることを夢見ながら、希望に燃えている。この問題は、外国人の私の出る幕は無く、お父さん(大家さん)に頼むしかなかった。
 
二つ目の問題は、ヨーロッパのNGOが、一緒に協力していこう、と、云ってきた。この問題はもっと怖かった。私も大きな組織の福祉団体で仕事をしてきたこともあり、その内容は理解していた。そのときの経験から、もつとも恐れるのは一方的な「してあげる」支援だった。困っている人たちを、援助をしてあげている人たちを、低いものとして、貧しい人たちとして、迷える子羊を導くように、いつでも引っ張っていこうとする。一見やさしそうに見えるが、実は、いつでも自分たちが上位にいて、助けようとする。困っている人たちを自分たちの方法で導こうとする。自分たちだけが知っていて、あなた方は知らないだろう、と、・・・
このような人間関係では、平等は生まれてこない。信頼関係も築けない。なぜなら、いつもして上げていると、思っているから・・・
 支援する人と、支援を受ける人が、同じ高さで話し合い、語り合えなければ、何も生まれてこない。

それでも、会って話し合うことは無駄ではなく、お互いの活動を確認し合い、認め合うことは必要だと感じたので、一抹の不安を感じながらも会うことにした。お互いの時間を調整し合い、会ったときは「やっぱりそうか・・・」と、落胆していた。

彼らは会話の中でこう伝えてきた。

「私たちはカンボジアの人々の援助に真剣であり、援助プログラムを数多く持っています。」

と話した。でも、そのプログラムはどこで作られたのだろう? カンボジアの貧しい人々の援助計画を、カンボジア以外の地域で作成したものなら、成功は難しいだろうと思える? カンボジア人以外の人々が考えたものなら、なおさら難しいだろう。たとえカンボジア人が考えたとしても、本当の貧しさを知らないエリートのカンボジア人が計画したものなら、同じ結果が待っている。なぜなら、海外NGO団体で働けるカンボジア人は、高等教育を受けたエリートで英語を流暢に話せなければならないから、お金がなく、本当に貧しい生活をしていた人は、英語を学ぶことも出来なかっただろう? 

私の不安をよそに、現状に合わない二つの要求をしてきた。

一、「寺子屋の先生たちの給料を、月500バーツにしてください。」
二、「先生たちの向上を図る、教師養成講座に参加してください。」

一つ目の問題は、彼らがこれから進めようとしている職業訓練プロジェクトの推進に、村人たちの格差が生まれ、障害となるからだそうだ。でも、この発想は、まったく現状に合っていないと思える。先生の給料を500バーツにすれば、先生は給料だけで生活が出来ずアルバイトをはじめるか、寺子屋の生徒からお金を徴収
するだろう、そうすれば先生は毎日寺子屋に来ることが出来なくなり、真剣に生徒と向き合うこともなくなるだろう。500バーツという金額は日本円の1400円ぐらいに相当し、一人暮らしの生活でも食べていけない。一人分の食費だけでも、一ヶ月600バーツは必要だ。日本のことわざに「衣食足りて礼節を知る。」という言葉があるが、食費もない先生がこどもの教育に当たること自体不安になってくる。

バッタンバンで農業開発を進めておられるカンボジア人、メアス・ニーさんは、その著書でカンボジアの汚職のことを、こう書いておられる

「汚職の芽は、兵士や警官、公務員が、きちんと給料をもらえなくなったときから生まれていた。」
 
こどもたちが勉強できる環境作りにはじめた寺子屋が、先生の給料問題で最悪の教育機関に変わってしまう。また寺子屋教育とは、読み書き算数が出来るだけのことではなく、地域社会のかかわりや、思いやり、人としてのやさしさを培う所にしたいと願っている。その指導者である先生の生活を脅かすことは、こどもの教育にとって、最悪であると思える。ちなみに寺子屋の先生たちに支払っている給料は、周囲の村人たちから妬みや、嫉妬を引き起こさないように、現金1000バーツ、その他、毎月洗剤や、お米などの家庭生活用品をお届けしている。また、ひとたび先生の家庭で事故が起きれば、全力でお手伝いしている。先生の生活を守ることが、寺子屋生徒の生活を守ることになると信じている。

二つ目の問題は、寺子屋の先生たちの再教育をさしている。これは明らかに、寺子屋先生たちの質が低いと見ての提言だろう? 確かに先生たちの修学年数は短く、教えるテクニックの低いだろう、でも、寺子屋の先生として必要なことは何だろう、私が希望している理想の先生は、こどもを愛し、こどものために一生懸命尽くしてくださる人、また、村人から信頼され、好感をもたれている人。テクニックは幼稚でも、真剣に取り組めば、テクニックを凌駕すると思っている。先生になれる質とは、外側の学歴でもなく、見場やスタイルでもない、人の中身だと思う。せっかく村人たちから選ばれ、喜び、一生懸命こどもと向き合っている先生の、自信を無くさせるような環境に入れたくはない。先生たちが、先生としての自覚と、自信が出来るまで、格差のある現実に直面させたくはない。また、自分たちが高い位置で、他の人々を低い位置において、教えてやろうとする態度は、寺子屋に持ち込みたくない。知識をもっていることが偉いことではなく、知識を、社会に役立てることによって価値が出てくる。知識量が優先になって、心が忘れられるなら、思いや
りややさしさの欠けた、住みずらい世界が出来ると思う。
 多くの知識をも経済的な豊かさも、人の良し悪しお決定しない。お金も知識も、人々に役立ててこそ価値が出てくる。
 
カンボジアに住んでいて、時々思うことがある。今私は支援する側に回っているが、もしカンボジアの片田舎に生まれていれば、支援を受ける側になっていたことだろう・・・・・と、日本に生まれていたとしても、五十年も昔に生まれていれば、支援を受ける側だったのではないだろうか? 私が偉いわけでもなく努力したからでもない、たまたまいい時代の日本に生まれ、高い教育を受けるチャンスを得たに過ぎない。

「これからも、カンボジアの人々と同じ高さの目線で、カンボジアの支援を考えていきたい。」

第六章 寺子屋に来ることが出来ないこどもたち

 村に寺子屋が出来ても、勉強に来ることが出来ないこどもたちが大勢いた。こどもが学校に行くのが普通の国日本では、考えられないことだろうと思う。カンボジアのこどもたちは、一家の働き手であり、こどもたちが仕事をしないで寺子屋にくれば、たちまちその日の食物にも事欠いた。家族のために仕事をするのは、こどもたちの誇りともなっていた。小さなこどもが更に小さな弟や妹の世話をするのが普通で、小さなこどもが、更に小さなこどもを腰車に乗せ遊びまわっている姿を良く見かける。少しからだが大きくなると、大人といっしょになって働く。何歳から、という規定はない。仕事があれば何歳でも働く。
寺子屋がある村の仕事はほとんどが林業。といっても、植林しているわけではなく、野生の雑木を切り倒し、自分の住む家に使用する。また、小枝を小さくまとめ柴、薪、として町に売りに行く。その他、土嚢を作り、その中に木を積み重ね、炭を焼き、売りに行く。森に入り木を切り、運び出し、炭を作り、売りに行くのもこどもたちの仕事。一日も休むひまがない。休めばその日の食事にありつけない。

一口メモ、「カンボジアの一般家庭で消費する燃料は、95%が炭や薪に頼っている。ガスは都市部にしかない。」

村の近くに材木がなくなってきたので、地雷があることを承知しながら、地雷源に入り事故に遭う。村を回るとほとんどの場所は木がなくなっている。たまに木の生い茂っているところは、間違いなく地雷源。今地雷源を探すのは難しくない。自然木の生い茂っているところが、地雷源だから。
家を作るのに欠かせないのが「材木と萱」その二つとも地雷源にある。女の子は重い仕事が出来ないので、萱を刈り取り編む。一メートル幅の萱で2バーツになる。一日10枚から20枚作れる。大きな現金収入となる。危険を承知で地雷源に入るこどもたちを守る方法はない。こどもたちの生活圏から地雷を除去する以外に・・・・・
 また、今カンボジアは、木材の伐採を禁止しており、村の生活はますます苦しくなってきている。村のこどもたちは新たな仕事を求め、国境を越えタイ領内に入り労働者として働く。タイとしても安い料金で一生懸命働くカンボジア人のこどもをありがたがり、仕事に使う。さとうきび畑、キャッサバ畑、運搬人、その他、タイ人の嫌う仕事をさせられる。それでも毎日現金収入がある仕事を求め、密出入国を繰り返す。国境警備にあたる警察官は、ワイロを受け取り、見て見ぬ振りをする。村人みんなが貧しく必死に生きているから警官も目をつぶる。

また、タイ、カンボジア国境ボーダーには多くの外国人が通過する。その荷物運びや物乞いをするこどもの姿が目立つ。かわいそうだと油断していると、荷物を持ったまま逃げられてしまう。追いかけても捕まらない。不用意に荷物を下に降ろすと、置き引きに会う。こどもたちはその日その日の生活にも事欠くのに、見たこともない贅沢なものを身に付け、優雅に旅行している人々を見ると、だんだん悪い気持ちが育っていく。どんなに努力して働いても生活は楽にならず、ひとたび家族に病人でもでようなら、こどもたちが売られていく。

タイとカンボジアとの国境ボーダーポイペットには、新たに三つのカジノが出現し、快楽と欲の世界が作り出されている。この先ここボーダーには、合計七つのカジノ計画があり、ナイトクラブやディスコ酒場が出現している。その国境ボーダーで働くこどもたちは、時間が経つごと正常な考え方が出来なくなり、泥棒、置き引き、詐欺師、売春婦に身を落としていく。

昨年の四月、アセアン加盟を果たしたカンボジアは、大きく変わろうとしている。否応なしに「物社会」が動き出す。良い方向に変わるだけなら良いが、長い内戦の中、流れ流されてきたカンボジア人は、文字も読めず、何の技能も身につけていない。自分の身を守る力もない人々にとっての「物社会」は混乱だけを撒き散らす。

こどもたちを守る方法はない。あるとすれば、時間が必要だが、教育以外にないと思える。知識とやさしさを身に付け「物社会」の中で生きていかなければならない。ただの読み書き算数ではなく、自尊心を育て養うこと以外にないと思う。

公立の小学校でも悩みは一緒で、一年生が多いのに、四年生になるとほとんど来なくなる。中学まで進めるこどもはまれで、まして高校まで進むとなると学校に通うことの出来るこどものうち2%にも満たない。こども全体で考えると、2000人に1人の割合となる。普通の人々が、大学まで進学できることはほとんどない。プノンペンに住む華僑の息子娘か、高級官僚の子息で、一般のカンボジア人が仕事をしないで勉強だけしている姿は珍しい。
 
田舎には高校がないところが珍しくない。少し町に出ないと中学校すらない。バッティミエンチャイ州の州庁所在地の高校から、校舎の建設を依頼された。あいにくお金もないので実現しなかったが、500人の生徒に教室が4教室。3交代入れ替えで授業しても追いつかず、校長先生は頭を悩ませていた。

弟七章 寺子屋こぼれ話

 第四校目の寺子屋が開校したとき一人の女の子が入学希望で新入生の群れに混じっていた。14歳になるこの子は、体も大きく、誰も小学校一年生だと思わなかった。そして、いつのまにか誰からも忘れられ、自分の入学手続きも出来ないまま、時間だけが過ぎていった。一時間が過ぎ二時間が過ぎようとする時、新入生の群れの中からこの子の姿が消えていた。この子は、自分が見捨てられたように思い、泣きながら家に帰って行った。たまたま、その姿を見ていた人が、私に伝えてくれた。私は大急ぎで、その子の家を尋ね、走り出していた。その家の前までくると、女の子がたたずみながら泣いている。その姿を認めた私はゆっくりゆっくりと近づき、静かに声をかけた。

「ゴメンネ気が付かなくて! いっしょに勉強しょうネ!」

私の声を聞きつけ、お母さんが家の中から出てきて説得をはじめた。私に背を向けうつむいていた子は、母親の声にしぶしぶ顔を上げ、手を合せ、お辞儀をする。

その頃、寺子屋ではもうひとつの事件が発生していた。寺子屋をはじめる前に入学希望者を募ったところ、85名の希望者があったので、90人分の教科書文房具を用意して入学者一人一人に配っていたが、途中から教科書や文房具をもらえない子が泣きながら帰っていった。先ほどのこどもを連れ寺子屋に帰る途中泣いているこどもに出会ったので聞いてみると

「ともだちは教科書や文房具をもらったのに、僕はもらえなかった!」

と泣いている。

 私はこの二つの事件を通し、猛烈に腹が立っていた。教科書や文房具をもらえなかった子や、忘れられた子の悔しい気持ちを思うと、一人でも悲しむこどもが出るのなら

「寺子屋なんか止めてしまえ!」

と、腹の中で叫んでいた。一人でも多くのこどもにチャンスを上げたくてはじめた寺子屋なのに、悲しみ泣くこどもが出るのなら、何にもならない、こどもの中に格差が出来、悲しむ子がいるなら意味が無くなる。見捨てられた小さな子に心を向けられないなら・・・・・・考えるだけで腹が立ち、我慢の限度を超えていた。

でも、生徒や父兄が二百人以上ひしめき合っている中で、叱ることもならず、入学受付の終わるのを待った。しかし、その場にはいたたまれず、寺子屋を離れ、一人家に帰ってくると、どのように話したら理解してもらえるのか?一人のこどもが忘れられる教育なら、弱いこどもを守って上げられないなら、しないほうが良いと伝えたかった。怒鳴り声を上げず、静かに、みんなが理解できるように話してみようと思ってはいるがどのように話せば良いのか考えがまとまらなかった。考えれば考えるほど腹が立ち、怒りが湧き上がる。自分で要求できない子が虐げられているのを、黙って見過ごすことが出来なかった。 

夕方になると、開校式に参列したスタッフ全員が何事も無かったかのようにニコニコしながら帰ってきた。

「ご苦労さん!」

と声をかけながら、全員座るように命じた。静かに話すつもりでいたが、私の感情の綱が切れ、ぶちまけるように、大声を張り上げていた。

「一人の小さな子が忘れられるような寺子屋なら、止めてしまえ!」

と、怒鳴っていた。怒鳴ると言う以外に、そのときの気持ちを、みんなに伝えることが出来なかった。座っていたみんなは、突然振って沸いたように怒鳴り出す私を見て、何故怒っているのか、分からなかったようだ。私は大声で怒鳴ると落ち着きを取り戻し、今日起きた出来事の説明をはじめた。説明が終わると、全員うつむき申し合わせたように

「すみませんでした」

と、反省の言葉が返ってきた。このときほど寺子屋スタッフを頼もしく思い。良いスタッフに出会ったと感謝したことはなかった。このとき以外、後にも先にも、怒鳴ったことはなかった。寺子屋の先生たちも信頼関係で結ばれ、喜びながらこどもたちに教えている。

第八章 支援について考える

ボランティアとして長い年月を過ごしながら、最近よく考える。ボランティアの文字を辞書で引いてみると「自発的に志願する」と出ている。この言葉の中には

「見返りを求めない」

と言う意味も、含まれているように思える。でも、見返りを求めないボランティアに出会ったことは少ない。若いとき読んだ聖書の中に

「あなたの右の手のしていることを、左の手に知らせるな」

と言う一節がある。施しをするときに、人々に見せる目的でしていることは無いだろうか?人々から賞賛を受ける目的で、している事が多いように感じる。支援活動を続けていく中で、お金が必要となってくる。お金を集めるためには、どのような活動をしているのか、知らせる必要がある。多く集めようとすれば、援助活動を実態より大きく見せる必要がある。援助金が集まり始めると、活動が認められたと勘違いして、更に多くの資金を集めようとする。あたかも、ビジネス(仕事)をしているかのように? その時から、活動を続けることが重要になり、何のためにしているのか? 何故しているのか? は、問題にならなくなってくる。
 
海外で活躍しているNGOでは、ボランティア職員と呼び、給料を支払っている。ボランティア職員は待遇が悪いと文句を言うようになる? 本筋から外れているようにさえ感じる。

「何をなさっておられますか?」

と、人に聞かれたとき、返事に困る。

「ボランティアをしています。」

と、答えたとき、いい格好をしているような、気恥ずかしさをおぼえる。「援助活動で困っている人々を助けています。」と、答えるならば、偽善者、詐欺しになったような気になる。

こんな気持ちになるのは、何も私一人ではないだろうと思う? 支援活動を続けていく中で、時々疑問を感じる時がある、援助を受けている人たちは、どんな気持ちなのだろうと? 本当に喜んでいるのか? 良かれと思いつづけていることが、援助を受けている人々に受け入れられているのだろうか? 
 こんな思いになっても、援助団体に属しているならば、次々と押し寄せてくる日々の雑務の中で忘れられていく・・今年度の計画を実行するのに精一杯で、疑問を感じているひまも無い。支援者の気に入る内容の報告書を作成しなければならない。報告書の中に疑問をはさもうなら、よく年度の支援金にさしさわりが出てくる。

「心が忘れられ、相手の気持ちを無視した援助が続く」

今、多くの援助活動は援助団体の都合で進められているように思える? 援助を受ける側の状態は無視され軽視されているように思われる。
 では、何のための支援なのだろうか? 問題を抱えている人々が、助けを求めているので、支援しているのではないだろうか? 支援者の都合で行われている支援。心もなく冷たい支援。援助者の利益のため行われているのが現状ではないだろうか? 援助団体を維持するために行われる援助。

「援助活動をしています」

と、答えるとき。偽善を感じるのはそのためではないだろうか?
 
タイで活動している時、奨学金援助を受けているこどもに尋ねたことがある。その子はハッキリと言った。

「僕は奨学金などほしくない!たとえ学校にいけなくなったとしても、あんな恥ずかしいことは二度としたくない! でも、受け取らないと母親が悲しむので我慢しています・・・・・」

この後、奨学金を受け取ったこどもたち全員に聞いてみると、この子だけが感じていたのではなかった。奨学金を受け取っているすべての子が、多かれ少なかれ、同じ思いを持っていた。ある時、援助物資の中古衣料を配布した。お送りいただいた日本の方たちに、無事こどもたちの手に渡ったことをお知らせするため、記念撮影をすることになった。小さなこどもたちや親御さんは喜んでいるように見受けられたが、少し大きなこどもたちは、無理やり着せられたこどもたちは泣いていた。

「支援を受けている人たちを、惨めな気持ちにさせるものが、支援なのだろうか?」   

 この二つの出来事から、何を学び取ることが出来るだろう? 

「支援は、支援者の都合でするものではなく、支援を受けている人たちの立場にたって、行わ
れなければならない。」
 
ここに、カンボジア難民が、タイの難民キャンプ「サイト2」にいたときのことをつづった手記がある。

「タイ国境の難民キャンプでは、誰か他人の家の軒下で暮らしているような気分だった。」

「僕は何かあるとすぐに救援団体の外国人スタッフに体面を傷つけられたように感じた。それはまるで酸素マスクをつけてくれたようなものだった。外国人はいつでも僕の酸素マスクのチューブを握っていて、好きなときに閉めて僕を苦しめているような感じだった。」 
「僕たちの生命が完全に他人の手中にあることを。これが難民であるということなのだと。食糧を与えられれば食べ、止まるように言われればと止まり、歩くように命令されれば歩く。人生設計を立てることも出来ない。付属物なのだ。」
「僕たちの命の価値ってなんだろう?」
「僕たちは、人間以下だと言うことを何度も何度も思い知らされた。」

また、同じ人物が書き綴っている。

「金のある人が、心底貧しい人を助けようと思っても、援助することには問題がある。貧困のどん底にある家庭でも、助けてもらえば負い目を感じる。」
「貧しいものは、できることなら何でもして、何とか自分の力で食べられれば、それで幸せだこれがカンボジア人の誇りある生きかただ。」
 
カンボジアに住み、カンボジアの人々のお役に立ちたいと願う時、思いめぐらすことがある。
支援は、あたかも、こどもがはじめて歩き始めたときと似ている。

「こどもが立ち上がり、歩き始めると転ぶ、かわいそうだと抱き上げれば、転ぶたびに抱き上げてもらうため、助けを求め泣き出す。」
「こどもが転んでも、抱き上げなけれ、自分の力で立ち上がり歩み始める。」

私たちのお手伝いは、こどもの歩みを妨げる、石や、木切れ、障害物を取り除いてあげる事ではないだろうか? また、こどもを育てていく過程で、必要以上のお金を与えるだろうか?
 お金さえあれば充分だと思うだろうか? それよりも、こどもが自分の力で生きていけるように、教育に力を注ぎ、技能を身に付けるよう指導するだろう。
 カンボジアは長い内戦が終わり、ようやく自分の力で立ち上がろうとしている。私たちの支援がお金を与えるだけのものであってはいけない。使いこなせないものや、努力しても手に入らないものを見せびらかすのもよくない。少しずつ、少しずつ、ゆっくりと力がつくのを待ち、親がこどもを愛するように、見返りを求めないで、成長を見守っていきたい。支援する側の都合で見せる援助をするのではなく。カンボジア人の立場にたって、支援を続けていきたい。
 
それでは具体的にどうすればよいのだろうか? カンボジア支援を、日本で考えるのはよくない、カンボジア人の九十%が住む農村地区の支援を、都市で考えるのもよくない。難民支援を、快適な住まいに住みながら考えるのも間違いだと思われる。貧しい人々の支援を、貧しさを知らない高等教育を受けたカンボジア人に任せるのも解決にならない。
 支援を求めている人々の中に入り、同じ高さで充分話し合い。支援を求めている人がしている事を見つけ、それがうまく出来るように、一緒に考え行動しながらお手伝いするのが一番良い方法だと思う。支援する人が、支援を受ける人の長所を見つけて協力するなら、支援を受ける人々は自信を深め、自分の力で出来るようになることだろう。何かの都合で支援者が離れていっても、そのことはつぶれないで育っていくことだと思える。
 また、かわいそうだから助けてあげましょう、と、云うのも良くない結果をもたらす。誰も哀れみを求めてはいない。哀れみの目で見てもらいたくない。誰にでも自尊心があるのだから。ダダであげるのはもっと良くない。ただで受けていると、自信も責任感も育たない。もらうたびに自尊心を無くし、何時の間にか心まで乞食になってしまう。誰が愛する息子娘を乞食にしたがる人がいるだろうか。
 その国の文化、宗教、音楽、伝統を尊重しなければ、その国の人々に受け入れてもらえない。日本の文化を持ち込み、カンボジアの文化を否定するようなことは断じていけない。支援を受けている人々の人格を認め、尊重することによって仲間と認めてもらえる。私たちがしょうとしていることは、カンボジアの人々が力をづけ、自力で立ち上がるお手伝いなのだから。

また、援助団体の維持管理の都合で援助をしてはいけない。援助ビジネスの手段に使ってはいけない。援助活動を続けることに意味があり。受けている人々がないがしろにされるから。貧しい人々を助けてやろうと言うような傲慢な気持ちがあったら即座に引き上げてもらいたい、日本の面汚しだ。私は支援活動を続けていく中で、ひとつ胆に銘じていることがある。

「どんな事があっても、苦しんでいる人を無視したり、悲しんでいる人を笑ったりしない。と」

私たちが、良いと思っている援助をすることにも問題がある。そこに住む人々に、結果悪を招くことがある。その国の現状と、人々の生活を良く知らなければならない。カンボジア国境の町、ポイペットの農村部で発生した出来事は、その顕著な例かもしれない。

それは、ヨーロッパのNGO団体が、町から村に、新しい大きな道を作った。私たちも行動が楽になり喜んでいたが・・・
大きな問題が発生した。それは私たちの寺子屋のある村から広がり出し、五つの村を飲み込んでいった。村に、バブルが訪れたのである。道が良くなり運行がスムーズになったため、土地の価値が上がり、町に住む金持ちや華僑たちが、村の農地を買いあさり始めた。長い内戦の中、流れ、流されてきた難民たちは、せっかく
手に入れた土地の価値も判らず、云われるまま金と交換し、わずかばかりの金を手に入れはじめた。まとまった物を買えばなくなる程度の金で、新品のバイクを買うほども価値のない金で、土地を手放した。農地を手放した当時は、それまで見たこともない大金を手に入れ喜んでいたが、しばらくするとその金もなくなり、生活の手段を無くしてしまった。土地なし農民が発生し始めた。土地なし農民の生活は惨めで、人様の土地を借りて農作しなければならず、ひとたび天災に出
会うと、借金だけを背負い込む。借金を返すために我が子を売りに出す家庭もある。
 私がクラッチェの事務所にいるとき、尋ねてきた親子は、そんな土地なし農民だった。私の住んでいるクラッチェ州は1998年の米の収穫が半減してしまった。稲の病気か?天候災害か分からないが、稲の中の米が成長していない。籾殻だけになってしまった。1999年に入って、クラッチェの市内に乞食が増えた。町外れにスラムが出現している。稲の全滅した家族が職(食)を求めてきている。物乞いとなって徘徊している。日本からこどもの支援にきている事務所だと聞いて、私の事務所を尋ねて来る人が、後を絶たない。疲れて行き場のない親がこどもの手を引きやって来る。哀れだが、私には何も出来ない。話を聞きながらこどもの顔
を見るのがつらい。
先日尋ねて来たこどもは不憫すぎて・・・男泣きに泣いた・・・・・・・お父さん、お母さんと、四人のこどもの六人家族。しかし、この家族に土地が無い。他人の土地を借りて農業をしていたが、今年は稲が育たず借金だけが残った。お金も無く村に住むことも出来なくなった家族は、こどもを売ることにした。その他に一時をしのぐお金も無い。そして、12歳の女の子が売られていく・・・何とかしてあげたいが、私に何が出来るのだろうか?
親のいない孤児なら、親代わりになることも出来るが・・・しかし、元気で健康な両親がそろっている。紹介してあげたくても、紹介する仕事も無い。私の所は孤児の支援をしているので、両親そろった家庭の支援は出来ないことを伝えると、静かに手を合わせ帰っていった。残酷な仕打ちにも、何事も無かったかのように耐えている。帰る家とて無いのに今夜どこで過ごすのだろう? 私は、売られていくこどものことを思い、悲しくつらい夜を過ごす。何時の間にか私のベッドは涙で濡れている。

第九章 カンボジアのこどもと孤児の支援

 カンボジアのこどもたちが、何を考え、何を思い。何が好きで、何が嫌いなのか? 何でもいいから知りたかった。こどもたちの生活、環境、教育、それらのすべてが・・・・・・そんな気持ちから、カンボジア全土をオフロードバイクにまたがり駆け回った。どこに行っても笑顔に出会う、別れるときも笑顔で送ってくれる。そんなカンボジア人のこどもたちと接しているうちに、カンボジアに居ることだけで幸せを感じるようになっていった。笑顔で迎えてくれるこどもたちに怖い顔もできず、つい、笑顔になる。そんなカンボジアが心地よく、カンボジアのこどもたちと過ごすことが楽しくなる。でも、カンボジアのこどもたちの生活は最悪だった。簡単な風邪程度の病気でも死んでいく。食中毒による下痢で亡くなっていくこどもの後が絶たない。雨季の季節にはマラリアが猛威を振るう。高熱でうなされ、悪寒に苦しめられ、痩せ細ろえ、亡くなって行くこどもに、何もしてあげられない自分がもどかしい。何時の間にか? 亡くなっていくこどもに声をかけていた。

「やっと楽になれたネ・・・・・」 

日本に居るならば理解できない感情かもしれない。ここカンボジアでは病気になっても病院には行かない。理由は簡単だ、「お金がないから」カンボジアの病院は、貧乏人はいけない。お金が無ければ見てもらえない。医療を受けることも無く、体力の無いこどもは死んでいく。何人ものこどもたちの死に場所に居合わせ、命の尊さと、空しさを知った。私はただ、なにも出来ず亡くなっていくこどもの手を必死で握っている。ほかに出来ることも無い。今日も難民村で人知れず亡くなっていくこどもが居ることだろう。私には助ける力も、慰める言葉も無く、一生懸命手を握る。

また、村を回っていると、多くの孤児に出会う。お父さんが兵士のため戦場で亡くなり、孤児となった子もいれば、貧困ゆえに夫婦が別れ、孤児となった子もいる。でも、カンボジアの村社会は、孤児を独りぼっちにしない。孤児がいると、村中で面倒を見る。カンボジア中に孤児の数は数十万人いると見られるが、村社会では、孤独な孤児、孤立した孤児は、ほとんどいないのではないか、と思える。

でも、そんな孤児に悪魔の手が伸びてくる。なにも知らない村人や孤児をそそのかし、言葉巧みに誘惑する人々がいる。そんな人々の犠牲となって売られていく孤児は誰も守る人がいない。村を回っているとき、そんな話を聞くといたたまれない。クラッチェ州の村を回っているとき、一人の女の子が売られようとしているのに出会った。お父さんが長いこと病に倒れ、とうとう亡くなった。長い闘病生活のため、農地を手放し、家も人手に渡り、お父さんが亡くなったときには借金だけが残っていた。お母さんは疲れ果て、何をする気力も失い、精神的に病んでしまった。後に残された13才の女の子が、一家を支え働いていた。しかし、わずかばかりの稼ぎではおばあさんをはじめ、5人兄弟の食費にも満たない。そのうち、気の触れた母親は蒸発してしまった。
当初は、亡くなったお父さんの兄弟たちが助けてくれていたが、それも長くは続か無かった。そんな時、村役の勧めで長女は働きに出ることとなった。しかし、その働き先は、男のおもちゃだった。散々弄ばれた挙句、置屋に売られる。その行き先を聞かされた私は、見知らぬ顔をして通り過ぎることが出来ず、女の子の職場に出向いた。その時、女の子は近くの製材所で、焚き付けに使用する薪の整理をしていた。

チュムリアップ・スオー「こんにちは!」

と、声をかけても振り向かず、周囲の人々がなだめすかして私の前につれてくる。製材所の同僚たちは、彼女をかわいそうに思い、私に助けを求めてきたのである。あたかも、拷問にかけられるこどものように、苦しい表情で顔をそむける。ゆっくり時間をかけ、私が来た目的を話すが、表情が動かない。この子に会うまでは支援をする決心がつかなかったが、深く傷ついた子を見ているうち自分自身で自問自答し始めた。「私は何のためにカンボジアにきているのか? この子一人助けられないのか?」でも、支援をはじめればこの子一人ではすまなかった。病で寝ているおばあさんと、5人の兄弟姉妹がいる。
しばらくすると自分の不安とは別のことを口走っていた。

「よく今まで一人でがんばったネ! もう一人でがんばるのは終わったヨ! あとは私に任せなさい! あなたと、あなたの兄弟姉妹全員、私が責任持ちます!」

言いおわると、重かった私の気持ちは軽くなっていた。こうして五人の孤児の親となり、今では私の生活に欠かせない家族になっている。

また、昨年の八月、寺子屋をはじめた村で、小さなこどもを持つ母親が病気で亡くなった。「カンボジアこどもの家」では、後に残された五才と七才の二人姉妹の支援をはじめた。そして、在宅孤児院を目指す「カンボジアこどもの家」では、親身になって世話をしてくださる孤児の親戚を探した。幸い、亡くなった母親のお姉さんが見つかり、相談したところ、快く引き受けてくださったので喜んでいたが……事件が起きた……。                 
 叔母さんの嫁ぎ先の家は六畳間ほどの広さに十人家族。母親を亡くしたこどもは、不安のためか、夜泣きする。叔母さんの、義理の母親に当るおばあさんは、叱り付け、容赦なく、叩く。こどもは恐れ脅え、人を見ると反射的に逃げる。おばあさんが近づくと縁の下に逃げ込む。私が呼びかけても近寄ってこない、数ヶ月前はひざの上に抱き上げると喜んでいたのに……。
                                  
 そんなこどもの姿を不憫に思い、二人を引き取る決心をする。 しかし、女手が必要なので「ポイペットこどもの家」のスタッフの協力を取り付ける。同居人であり、良き協力者でもある寺子屋の先生 (ニム、モム、ピィァ)の女性三名は、一も二もなく大賛成。そして、1月3日にやってきた子の名前を「舞 」マイちゃん、と、命名する。この子は7才のお姉さんのほうで、5才の妹も引き取ることにする。 マイちゃんが、ポイペットのこどもの家に迎えられた夜、マイちゃんの寝顔を見ると、目に涙を一杯あふれさせ、泣いている。
                           
「マイちゃんの顔を、笑顔であふれるようにしてあげたい。」と、ひそかに決心する。辛く、苦しい夜となり、眠れぬ夜を過ごす。                   

1月10日マイの妹キィア、こどもの家に来る!
マイちゃんを連れて妹のキィアを迎えに行くが、近づくと物陰や床下に隠れ出てこない。それでも飽きずに、毎日会いに行く、姉のマイちゃんとは楽しそうに遊んでいるが、私が近づくと逃げてしまう。心を閉ざしてしまうと、お姉ちゃんが呼びかけても来ない。そんな日が何日か続いたが、ある日おねえちゃんが帰りかけると離れようとしないでついて来る。                                    
 こうして一月十日キィアちゃんも「こどもの家」にやって来た。名前が呼びにくいので、亜紀(アキ)と名づける。身体を丸め上目遣いに人を見る。近寄ろうとすると床下に逃げ込む。5歳にもならない小さなこどもの心に何があったのだろうか? 恐怖心がこの子を怯えさせている。まるで自閉症のこどものように隠れてしまう。何を話し掛けても表情が動かない?育てていくことに一抹の不安がよぎる。この子が苦しんだ何倍かの時間が必要だろう、ゆっくりゆっくりアキちゃんの心を解していこう。
                                

今,私のベッドは二人の子に占領され、私は隅っこのほうで小さくなって眠る。今日は寝違えたせいか首が痛い、隣に寝ているこどもの事を想い寝就かれない。こどもの寝顔を見ていると一日の疲れも取れるが、こどもの将来に不安を感じる。それでも引き取ったことを後悔しないようにしている。

こうして、今では十七人の孤児の親となり、カンボジア生活を楽しんでいる。
              

しかし、カンボジアの生活も楽しいことばかりではない。先日悲しい場面に出くわした。リヤカーで病院に担ぎ込まれた人が、看護婦さんから治療できないと言われていた。事故で手を切り落とし、血を滴らせながら担ぎ込まれてきたのだが、お金を持っていなかった。身なりも貧素で治療費を支払えそうもない様に見受けられた。今、手が切り落とされ血を流しているのに、

「お金をもってきてから来なさい」

と、云われていた。私は見るに見かねて、声をかけていた。

「私が払いますから! 見てあげてください!」

この病院が悪いのでも看護婦さんが冷たいのでも無かった。もし無差別に診療していたら、一ヶ月もしないうちに病院は潰れてしまうだろう? カンボジア人の75%は医療を受けられる環境に住んでいない。病院があったとしても貧困のため治療は受けられない。また、全土の50%以上の村には病院も無く医者も居ない。病にかかれば死を待つのみ・・・

一口メモ、「カンボジア人の死について」

何回かカンボジアの人々の死に際に付き添うことが許されたが、その死に際は本当に幸せそうだった。死を迎えようとする人の知人友人家族が枕もとに集まり、何日も何日も看病する。病人が目を覚ませば、そこに懐かしい顔がある。右を向いても左を向いても微笑みかける。そして一番親しい人がいつも手を握っている。病人を一人にすることも無い。死んでいくのが当然のように見送る。死から逃げないで、見送る。見送る人も、見送られる人も、微笑みながら、死を当然の出来事のように受け入れる。亡くなった後、家族や友人は友のいないさびしさで泣く。しかし、数日もすると何事も無かったように過ごしている。

 
第九章 カンボジア雑事
 
 都会に住む人々は、追われているごとく、忙しそうにしている人々が多く、難しそうな顔をしている。それにひきかえ田舎の人々は目がキラキラ輝き、笑顔で楽しそうに生活している。今日が何日で、何曜日なのかも意識せず、時間の止まってしまったような錯覚をおぼえる。

カンボジアの国土

概要:日本の約半分、十八万平方キロメートル。中央カンボジアは、海抜五〜三十五メートの平坦な大地が続く。周辺には、モンドルキリ、カンダモール、ダンレック山脈が連なる。右上のほうから国中央を通り左下のほうへに、横断する形でメコン川が流れている。このメコン川の中流付近クラッチェには世界でも確認が難しくなっている「川イルカ」が生息している。東北地方の山岳部には野生のトラや像も生息している。中央の湖トレンサップ湖では、平米あたりの漁獲量世界一を誇っている。

人々:クメール人80%、ベトナム系カンボジア人7%、チャム人5%、中国系カンボジア人5%、少数山岳民族3%宗教、仏教(クメール人)、イスラム教(チャム人)、バオダイ教(ベトナム人)、キリスト教(少数民族、一部クメール人)、アニミズム(山岳民族、クメール人)

給料:公務員給料20ドル。(職権利用の副収入あり)
   海外NGO職員。150ドル〜250ドル。
   報道機関職員。500ドル以上。
   ホテルのマネージャー200ドル以上。従業員、50ドル。
   レストランの住み込み従業員。20ドル〜50ドル、料理人、100ドル以上。
   縫製工場の縫いこさん。30〜100ドル
   
物価:米1キロ、3ドル。
   ビール、1ドル。
   豚肉、1キロ27ドル。
   玉ネギ、ジャガイモ、ニンジン、1ドル。
   海外支援物資の中古衣料、1ドル。
   コピー物裏ビデオ、2ドル。
   36枚撮りアーサー100フイルム、2ドル。
   新品バイク(カブ)、1300ドル。

乗り物:トラックバスが庶民の足。300キロ約5ドル。
    メコン川、トレンサップ川のスピードボート300キロ10ドル。
    飛行機300キロ、50ドル。


2000-3-15
「カンボジアニュース No.4 〜連日、日陰でも40度を超える暑さの中〜」

3月6日
 「カンボジアこどもの家」の写真展で使用する写真を撮りに来られるお二人の方の出迎えにタイのバンコクに出かける。夜、待ち合わせで お互いがホテルの部屋で4時間も待つ、という不手際の中、再会。バンコク泊り。

3月 7日
 昨夜来られた、カメラマンの方たち二人とタクシーでアランヤプラテートに向かう。通常バスよりも二時間早く着く。事務所につくと、地雷処理スタッフが待っており、オカ、ロムのお父さんで面接、採用を決定すする。夕刻難民村の視察。

3月8日
 朝、記者の方と二人でシソポンに向かう。
11:00  シソポンのCMAC事務所を尋ねる。CMACでは、マネージャーので迎えを受け、午後の視察を依頼する。 快く受け入れていただく。
12:00  待ち合わせ予定のレストランで待つが、現れない、ようやく13:00に来る、食事の時間も無いので直ぐCMACに向かう。昼食抜きの行動!CMACサイト1の現場視察と聞き取り、夕刻ポイペットに帰り着く。

3月9日
 6:30  事務所を出発し、寺子屋の視察。
10:00  シムリアップから来たアキラと地雷除去を行う、一時間弱で36個の地雷(PMN)と、ジャンピンク゜爆弾3個を回収処理する。抜き取った信管と信管処理の出来ない地雷を爆破する。爆風と音で空気が揺れる。参加者は目の前で始めてみる爆発に驚き、地雷の恐怖を再認識する。午後休憩の後、難民村を視察、聞き取り調査を続ける。

3月10日
 6:00  国境の撮影と聞き取り調査、その後二個所の寺子屋を視察、10:00より CMAC隊員二名と記者の方、新たに地雷処理メンバーとなった二名の人たちで地雷原視察。
13:00  CMACの隊員が当方の地雷処理メンバーにツールボンロー村で地雷処理の実技訓練。安全を重視した地雷処理を教えていただく。その後、桑の木の植樹と、大豆の植え付け作業を撮影し事務所に帰る。

11:00  日本から来られたご夫婦をアランヤプラテートに迎える。その時、国境で地雷爆発! 地雷の恐怖を身近に感じる。

3月11日

 記者一行は地雷原の村に聞き取り調査、ジャパンホスピタル視察の後、タイ、カンボジア国境を撮影に出かける。ご夫婦は寺子屋視察と難民村視察。

3月12日
 6:30  朝食の後、記者一行をタイ国境まで見送る。その後、ご夫婦で寺子屋に記念樹植林(傘の木)キャンプ予定地と、村人の生活を視察する。寺子屋を開設した隣村から寺子屋の開校を切望されている。その村を、新谷ご夫婦と視察する。

3月13日
 キャンプ予定地に作業員小屋建設開始。新たに発生した難民家族について、ANADの会長と話し合いJDAのブルドーザーとエスカベータ(ユンボ)の継続貸しの条件として難民村の整地、道、池の工事を依頼する。

ポイペットニュース
NO.1

 ポイペットにカジノが出来、その場所に住んでいた人たちが追い出され、難民となりました。ビニールを持ちより、風を防ぐ程度の小屋を建て 臨時の住宅が420所帯でき2000人が路頭に生活しています。 水も無く、電気も無く、もちろんトイレや風呂も有りません。乾季の今は、川の水も無く、日々病で倒れていきます。病気になれば、医者にかかる費用もなく、死を待ちます。

先日尋ねた家庭では、ご主人が病に伏していましたが私たちが出かけると、無理をして起き上がり笑顔を向けてきます。寝ていたのでは狭い家の中にお客さんを迎
えるスペースも有りません。

その向かい側で夕食の魚を四匹焼いていました。何人家族ですか? と、尋ねると、6人家族、との答え、それでも私たちを夕食に招待してくれます。家族全員の食事にも足りないと思えるのに・・・・・・

それにもかかわらず、また、新たに国境整備が始まり、2000世帯10000人が路頭に放り出されます。行政の立ち後れを訴えても、カンボジア国庫にはお金が有りません。世界中から寄せられる支援金は、窓口担当者とその関係者の中で消えていきます。

NO.2
 今年に入って地雷被害者が急増しています。その原因として、村人の生活圏に地雷畑が有ります。村人には現金収入が有りません。唯一の収入は、森にある木を切り出し、薪、炭、にして街に売りに行きます。10Km以上の道のりを朝早く出かけ、夕方帰って来ます。もちろん車は有りません。リヤカーと自転車に括り付けての運搬です。

そのような生活の中で、地雷の無い所の木はすべて切り倒され、残された木は、地雷原にしかありません。そして地雷畑に入り込み、事故にあいます。地雷警告看板を立てようと、効果が有りません。地雷原に入らなくても生活できる人には、「なぜ?」と、思うかもしれませんが、その日その日の糧にも事欠く人々には、危険を承知で出かけます。

この二つの問題に対して、新たな取り組みを応援して下さい。

1.難民支援
 今新たな村を建設中です。村に必要な、「池」「道」「井戸」「学校」「保健所」「職業訓練寺子屋」の建設を行っていきます。

追伸:道、池、整地、はオランダのN.G.O「ZOA」が担当します。私たちの支援分野は、「井戸」「学校」「職業訓練所」です。

2.地雷支援
 地雷撤去を積極的に進めていきます。 新たに地雷撤去チームを結成しました!「地雷撤去チーム」は、訓練された村人が 中心になり、村人から報告のあった地域の地雷を撤去し、被害のあった地域を、安全な地域に変えていきます。「地雷撤去チーム」の作業が安全に行われます様地雷探知器を購入します。専属チームの給料も必要となります。

追伸:地雷探知器は、今月10〜13視察に来られていました西宮市の新谷さんご夫婦が支援してくださいます。チーム員は常に危険と背中合わせのため、危険手当が必要となります。

今、カンボジア支援活動は、個人の働きから、カンボジア支援を希望される人々全体の活動となってきています。それぞれの団体や個人が「私たちはこのような活動をしています。」と、自慢し合うのではなく、国籍を超え、人種を超え、力を合わせ、村人たちの現状に合った支援が望まれます。村人の願いを無視した活動は、賢明では有りません。支援者が引き上げた後継続が難しいからです。村人とひざを交え話し合い、村人たちが継続できる支援をしていきたいと願っています。

ポイペットより・・・・・・オカ(栗本英世)


2000-3-5
「カンボジアニュース No.3 〜多忙すぎるオカさん〜」

2月29日
 5:30  家を出てシムリアップ行きのトラックを探すが無く、シソポン行きに乗る。シソポンに着くとシムリアップ行きを探しトラックに乗り込むがなかなか発車しない。カンボジアの旅客輸送手段はトラックだが、お客が一杯にならなければ発車しない。この時は二時間近く待つ。いいかげん待っているだけで疲れてくる。でも、タクシーをチャータすれば十倍かかる。ケチを美徳とする私としては、二時間待って安く済んだと微笑んでいる。

 9:30  ようやく動き出しシムリアップに着いたのは午後の2時過ぎだった。シムリアップに着くと、直ぐにバイクタクシー(唯一市内での輸送手段)に飛び乗りアキラを訪ねる。運良くアキラは在宅していた。9〜10日地雷処理にポイペットまで来てくれるように依頼すると喜んで引き受けてくれた。「感謝! 感謝!」
15:30  大急ぎで空港に向かう、もう一つ大事な仕事がプノンペンで待っている。何とか間に合い4:20分発のプノンペン行き飛行機に乗り込むケチを本分とする私としては痛い出費だが、プノンペンで待つ我が子(孤児)のことを思えば仕方ない。
17:30  プノンペンの事務所に戻る。

3月1日
 クラッチェから来た我が子(孤児)をセントモック小学校に入学依頼する。12歳のお姉さんと10歳の妹が一年生で同級生。翌日から始まる登校のため、制服揃えたり、靴を買ったりオオワラワ、自分が入学するような興奮を覚える。

3月2日
 我が子を連れ、新入学一日目の登校、昼頃迎えに行くがどこにもいない。心配しながら帰ってくると二人とも家に帰っていた。午後、ポイペットの寺子屋先生のためにバイクを買いに行く、何とか予算内で安いバイクが見つかり購入する。

3月3日
 シムリアップからの飛行機代金が余分出費だったので、昨日買ったバイクで、プノンペン〜ポイペットまで500kの道のりを帰ることにする。イャ〜小さなバイクではシンドイ! さすがの私も300k走ったバッタンバンでダウン! 一泊バッタンバンで泊まり、朝早く出発することにする。

3月4日
 5:30  真っ暗な内にバッタンバンを出発、朝8:30分ポイペットに着き直ぐ寺子屋に向かう、数日留守にすると問題山積み。四箇所の寺子屋を回りチェックする。午後先生を呼び反省会。

私の留守中、ロムに村人たちの地雷被害者調査を命じていたが、思いがけない報告を受ける。寺子屋支援村の隣村に「地雷原の中にある村」があることを発見。
明日追跡調査と聞き取りに出かける。

この結果は、次回で報告します。

それではお元気で・・・明日までサヨナラ、サヨナラ・・・
                     ポイペットより・・・・・・オカ(栗本英世)

2000-2-28
「カンボジアニュース No.2 〜なくならないカンボジアの地雷〜」

ポイペットの町外れには「地雷畑」が広がっている。世界中の人々が支援を続けているが、カンボジアの地雷はなくならない。

「カンボジアこどもの家」で支援を続けている寺子屋の村近くにも「地雷畑」が広がっている。「地雷畑」とは、偶然に見つけたり、所々に有るのではなく、文字通り「畑」の様に見渡す一面に埋められている。この言葉はカンボジアの現地新聞や雑誌に使われている用語クメール語で「チョムカーミン」と言う。初めてこの言葉に触れたときは、少し大げさぐらいに感じていたが、自分で地雷畑に入り、地雷除去作業をしたときの感想は、文字通り「地雷畑」であった。

芋畑のように表面は土に覆われて見えないことが多く、発見が難しい。「地雷畑」を歩くときには、一足一足、足元の土を削り取り地雷が埋まっていないか? 確認を取りながら前に進む。帰るときも同じ足跡をたどりながら帰ってくる。間違ってそれ以外の土の上に足を置こうものなら、全身冷や汗が流れ出す。その土の中には「悪魔の兵器」と呼ばれる地雷が眠っている。

先日カメラマンの方を案内して「地雷畑」の側を通ったが、運悪く???地雷の一端が私の目に飛び込んできた。周囲を見渡したが、カンボジア人と日本からのお客さんしか居ない。自分を安全なところにおいて、カンボジア人の方に地雷除去を頼むことは出来ないので、次回専門家を呼ぼうか?とも思ったが地雷が有ることを知っていながら放置することは、私には出来なかった。

細心の注意をはらいながら地雷を除去し、信管を取り除いた。よく注意してみてみると、4〜5m間隔に一個の割合で埋められている。でも、1個取れば周囲4mは安全か?と言うと、そうでもない様だ。この時は客さんを危険な目にあわせるわけにも行かず、五個の地雷処理で帰って来た。

今、「カンボジアこどもの家」では、五箇所の村に寺子屋を開設し生徒600名が通ってきている。せめてこの子達の生活圏から地雷が無くなるよう地雷除去を続けていこうと思っている。

「地雷は危険なので、訓練を受けた専門家以外除去作業は出来ない」と、思っているので地雷除去が遅れているのではないだろうか?

安全な地域で生活できる人々は悠長なことを言っていられるが、今でも、村人は地雷原に入り込み生活している。寺子屋のある村の人々は、「地雷畑」から生活の糧を得ている。地雷のある森は入る人も少なく資源が豊富にある。危険を承知で入り込み事故に遭う。村のこどもは現金欲しさに森に入る。男の子は柴を拾いに入る。女の子は、家の屋根や壁に使う萱を刈りに入る。ただ、「危険だから入るな」と、言うのはたやすいが、誰が生活の面倒を見てくれるのだろうか?危険を承知で地雷畑に入り込む人々の生活を知らないで本当の支援は出来ないだろう。

そんな気持ちが私を動かし、地雷除去にかきたてる。地雷の種類は多くあるようだが、2〜3種類の地雷は、私にも処理が出来るようになった。もう少し訓練を積み、今年中に寺子屋近くの地雷を絶滅したいと思っている。

この文書を読まれた方のうち数人は「バカ者危険なことをするな!」と、怒鳴られるかもしれない。それを承知でお知らせします。

このことから、支援とは何か? じっくり考えていきたいと思っております。カンボジアのポイペットから・・・。 

2000-2-27
「カンボジアニュース No.1 〜動き出した物社会〜」

昨年の四月にアセアン加盟を果たしたカンボジアは、ものすごい勢いで、轟音を発てるが如く動き出している!

ここ、タイとの国境の町ポイペットでは、三つのカジノがオープンした。昨年までは、5,000人程度の小さな町だったが、今では50.000人とも70.000人とも言われる程に人口が増えている。実に一年間で十倍以上の人口増加だ!そのしわ寄せは随所に見られ、元々住んで居た住民達は、苦難の生活を強いられている。

2月25日、ポイペットの町から6kf離れた、新村(プームツマイ)を通りかかると、突如、ボロボロのテント村が出現した!3〜4日前までは何も無かった所に???何故???

この村では一年前から、難民が住みはじめ、今では1,300世帯(7,000人)が細々と生活していた。この村外れにある道の両脇に、テント村が延々と続いている。車を止め数人の住民に聞いてみると、意外な答えが帰って来た!

「私たちはタイとの国境近くに住んでいたが、追い出され、住む所も無くここにたどり着いた」 と、

このテント村には、水も無く、トイレも無く、学校も、病院も無い!不衛生な生活環境は、幼いこども達や、体力の衰えた老人、妊産婦の人々に病魔が襲い掛かり、容赦なく死に至らしめている。昨日聞いた話しでは、「こどもを売る家庭が増えている」との事。

「金と引き換えにこどもを売る親は最低だ!」と、怒りの声が聞こえてきそうだが? 親の立場にたってみなければ、現実は見えてこない。

30年近い内戦の中、必死で生き延びてきた人々に、やっと平和が訪れたかに見えたが? 外見の平和とは裏腹に、「物社会」が動き出し、対応できない人々に、
新たな試練が訪れたのである。長い長い困難の中、こどもを育てていく気力を失った親たちは、貧しい中で死んでいくこどもを不憫に思い、せめて、もう少し豊かな人に任せたほうが、こどもは幸せだと思うようになっている。

二ヶ月前、知り合いのタクシー運転手がこどもを買ってきた値段は1,000バーツ(25米ドル)
                                      
この難民キャンプには、何処からも援助が来ない、援助の手が差し伸べられるまでに、どのぐらいの時間がかかり、どれだけの人々が犠牲になって行くのだろう・・・・・・

2000-1-24
「カンボジアこどもの家」では新たに四校目の寺子屋をオープン

 
写真左 寺子屋で文字を教える栗本、右 まだ建設途中で壁が間に合わない、外では村人たちが作業中


写真 難民村の人々

1月24日バッティミエンチャイ州 ポイペット特別区 サンタピィアップ村に
4校目の寺子屋をオープンします。当日は一日中村人と大騒ぎする予定です。
この村は1992年に出来た村で、今までは学校が無く、こどもたちが教育を受
けるチャンスがありませんでした。                    
この村から1〜2キロ離れたところには地雷原が広がっています。      
村人の中に、地雷被害者や銃弾による身障者が目立ちます。戦争の傷跡が大きく
残っています。                             
村長や村の主だった人々と話し合いを続け、村から5000m2の学校用地の
提供を受けました。                          
2教室を持つ寺子屋の建設を一週間続けてきました。いよいよ開校します!!
余った地所に、芋を植える予定でしたが、人と相談の結果、芋ではなく桑の木に
なりました。六ヶ月後には、村の中で養蚕が始まります。          

     
2000-1-20
「孤児のマイちゃん、ポイペットのこどもの家にくる。」

写真 孤児のマイちゃん(右)、アキちゃん(左)。中央は「カンボジアこどもの家」専属スタッフ ロム君

昨年の八月、寺子屋を始めた村で、小さなこどもを持つ母親が病気で亡くなつた。
「カンボジアこどもの家」では、後に残された五才と七才の二人姉妹の支援をはじめた。
そして、在宅孤児院を目指す「カンボジアこどもの家」では、親身になって世話をして
くださる孤児の親戚を探した。                         
幸い、亡くなった母親のお姉さんが見つかり、相談したところ、快く引き受けてくだ
さったので喜んでいたが……事件が起きた……。                 

叔母さんの嫁ぎ先の家は 、六畳間ほどの広さに十人家族。          
母親を亡くしたこどもは、不安のためか、夜泣きする。             
叔母さんの、義理の母親に当たるおばあさんは、叱り付け、容赦なく叩く。    
こどもは恐れ脅え、人を見ると反射的に逃げる。おばあさんが近づくと縁の下に逃げ
込む。                                   
私が呼びかけても近寄ってこない、数ヶ月前はひざの上に抱き上げると喜んでいたの
に……。                                  

そんなこどもの姿を不憫に思い、二人を引き取る決心をする。        

しかし、女手が必要なので「ポイペットこどもの家」のスタッフの協力を取り付ける。
同居人であり、良き協力者でもある寺子屋の先生 (ニム、モム、ピィァ)女性三名は、
一も二もなく大賛成。                            
そして、一月三日にやってきた子の名前を「舞 」マイちゃん、と、命名する。   
この子は七才のお姉さんのほうで、五才の妹も引き取ることにする。        
ポイペットこどもの家に迎えられた夜、マイちゃんの寝顔を見ると、目に涙を一杯
あふれさせ、泣いている。                           
マイちゃんの顔を、笑顔であふれるようにしてあげたい。と、ひそかに決心する。
辛く、苦しい夜となり、眠れぬ夜を過ごす。                   

1月10日マイの妹キィア、こどもの家に来る!

マイちゃんを連れて妹のキィアを迎えに行くが、近づくと物陰や床下に隠れ出てこない。
それでも飽きずに、毎日会いに行く、姉のマイちゃんとは楽しそうに遊んでいるが、私が
近づくと逃げてしまう。                             
心を閉ざしてしまうと、お姉ちゃんが呼びかけても来ない。             
そんな日が何日か続いたが、ある日おねえちゃんが帰りかけると離れようとしないでつい
て来る。                                    
こうして一月十日キィアちゃんも「こどもの家」にやって来た。           
名前が呼びにくいので、亜紀(アキ)と名づける。身体を丸め上目遣いに人を見る。
近寄ろうとすると床下に逃げ込む。                      
五歳にもならない小さなこどもの心に何があったのだろうか?          
恐怖心がこの子を怯えさせている。まるで自閉症のこどものように隠れてしまう。 
何を話し掛けても表情が動かない?育てていくことに一抹の不安がよぎる。    
この子が苦しんだ何倍かの時間が必要だろう、ゆっくりゆっくりアキちゃんの心を解
していこう。                                

今,私のベッドは二人の子に占領され、私は隅っこのほうで小さくなって眠る。   
今日は寝違えたせいか首が痛い、隣に寝ているこどもの事を想い寝就かれない。   
こどもの寝顔を見ていると一日の疲れも取れるが、こどもの将来に不安を感じる。  
それでも引き取ったことを後悔しないようにしている。              

活動紹介及び案内

はじめに                                   
 カンボジアには、30年に渡る長い内戦の後、ようやく立ち上がろうとしています。1993
年国連の援助により実施された選挙は、カンボジアに平和をもたらしたかに見えました。 
  ところが、内戦は終わっておらず各地で続いていました。1997年7月には首都プノンペンが
戦禍に巻き込まれ、再び政情不安に陥りました。しかし、ほとんどの国民は戦争に疲れ、心
から平和を望んでいます。                             
  昨年の7月26日に新たな選挙が行われました。しかし、国民の多くは字が読めず、それぞれ
の政党の政策も分からず、どの政党に、誰に、投票すれば良いのかさえ、知る事もままなら
ないのです。                                   
  今、私たちに出来ることは、識字率の向上を助け、教育に力を注ぎ、カンボジアの人々が自
分たちで文化を守り、築き上げて行く事のお手伝いです。               


カンボジア社会の現状                
 今、カンボジア農村部の各地に、内戦の後遺症により地雷が残され、農作業が出来ないで
います。また、潅漑用水が無いため川の近く以外は作物が出来ず、ひとたび天災が起きると
借金を背負い込み、農地を手放し、土地なし農民が増えています。現金収入の道はなく家族
に病人が出れば、そのまま死を待つか、こどもを人買いに売るしか選択がないほどです。国
際的な支援が必要となっています。                         

                   
「こどもたちの現状」                 
  「カンボジアこどもの家」では、こどもたちの現状が知りたくて、カンボジア国内を回り
一千人のこどもたちから聞き取り調査を行ってきました。その中で教育の大切さを痛感し
ました。カンボジアのこどもたちは、長い内戦のため教育を受けるチャンスを失い、文字
も読めず知識もないまま大人になって行きます。                  
 国際児童基金(UNICEF)が1997年に発表した「世界こども白書」では、「小学校5年生
までに学校に通うこどもは全体の40%未満、高校を卒業するこどもは2%にも満たない。」
と発表しています。                                
 知識の低さが貧しさにつながり、人身売買をはじめとした悲劇を招いています。また、貧
しさゆえの家庭崩壊にさらされ、ひとたび家庭を無くした孤児は、ストリートチルドレンと
なり雨露をしのぐ家とてなく、路上で生活しています。生活の手段を持たないこどもたちは
、盗みや物乞いでその日その日をすごしています。ひとたび病気になりますと、医者にかか
ることもできず、なす術もなく死を待つばかりです。ローティーンのこどもが、暗がりで客
の手を引き、買春される姿は痛々しく、「今、私たちに何が出来るのか?」と強烈に訴えか
けてくるのです。                                 

 
エイズの危険性と感染防止を訴える看板も、文字が読めなければ理解できない。


教育の現状                     
  「こどもたちが勉強したくても学校がない。学校があっても先生がいない。」      
これがカンボジアの教育現場の現実です。先生がいても給料が安く(公務員規定40,000リ
エル〜70,000リエル、10〜17米ドル)生活できません。都市や町では副業も可能ですが
農村地域では副収入もなく勉強を教え続けることが出来ません。カンボジア東北部の町、ク
ラッチェ県の村の学校では200名の生徒に3名の先生だけでした。この現状だけでも無理が
あります。そのうえ、毎日授業のために来られる先生は1名だけでした。多くの生徒を一度
に教えることは難しく朝、昼、夕と、三部授業をしていましたが、低学年から高学年まで同
じ教室で教えているのです。空いた教室には尼さんが寝泊まりしていました。カンボジアで
は古くから寺子屋が営まれ、村ではお寺の一部を使って教室とし、僧侶が教育の一翼を担っ
ていました。しかし、ポルポト政権下では信仰が認められず、僧侶は弾圧されました。信仰
の指導者を失うだけでなく、村の教育者も同時に失ったのです。また、先生の教育程度も低
く、高学年を教えることが出来ません。大学などの教職課程を卒業した人々は、教職に就か
ず外資系の企業や先進国のNGOなどの団体に就職していきます。公務員の十倍以上の収入
が見込めるからです。                               


ノートや鉛筆の買えないこどもたちは、板にペンキを塗ったボードに文字を書く。


教師は副業(アルバイト)をしないと生活できない。


活動趣旨                      
  「カンボジアこどもの家」に携わる人は、利益利潤を求めることなく、それぞれが持ってい
る、時間、お金、能力、知恵を持ちより、カンボジアの人々が自立して行くためのお手伝い
をします。カンボジアの人々と協力しながら行動します。カンボジアの将来を担うこどもた
ちの教育に力を注ぎ、識字率向上のお手伝いをします。就学のチャンスを提供し学ぶ機会を
与えるためのお手伝いです。                            


活動内容                      
1.就学支援                           

  貧困、学校がない、先生がいない、その他の理由で勉強することのできないこどもに、就学
支援をします。経済的な支援、寺子屋の設立、先生の派遣、文房具、学用品、教科書、その
他就学に必要な物資を提供します。                         
2.識字率の向上                         
  クメール語の識字ポスターを配布し言葉の楽しさを知ってもらう。更に、ことばあそびカル
タ、紙芝居、絵本の朗読、識字教科書、等を使用し文字に接する機会を与え、啓蒙活動を行
う。都市部を除いた農村地域では、10〜20%の識字率しかなく、ある村では、500家族40
00人が暮らしていたが、一人として文字の読める人はいなかった。           
3.孤児の支援                          
  カンボジアのこどもたちは長い内戦の中、両親を無くし、貧しさゆえの家庭崩壊で孤児とな
ったこどもがたくさんいます。孤児となったこどもたちに、家庭の暖かさを体験してもらう
ために、カンボジアの人々に里親になっていただき、孤児たちが家庭生活を受け、学校に通
えるように支援します。                              
4.生活支援                           
  こどもたちの家庭が貧しく学校に通えない家族のため、職業訓練を指導したり、生活相談に
応じます。また、桑の木の植林をはじめ、養蚕を指導します。病気や感染症で苦しむこども
たちやその家族のため、薬草(アロエ、その他)の提供を行い継続的な支援を続けます。 
 

          まとめ                                 
  1970年から始まった内戦はこどもたちから学校を奪い、1975〜79年ポルポト兵士により
教師が追放されました。当時就学適齢児童だった人々が、今のこどもたちのお父さんお母
さんたちです。文字が読めず、毎日のように新聞雑誌をにぎわかせている人身売買の悲劇
を知ることもなく、新聞を買う余裕もないのです。                 
  また、教育を受けるチャンスを失ったお父さんお母さんは学校教育の必要性を感じていま
せん。体の小さなこともは仕事の役に立たないため学校に行かされますが、少し体が大き
くなると、大人と同じ仕事をさせられます。「貧しいから仕方がない」と、言ってしまえ
ばそれまでですが、カンボジアの総人口1000万人のうち50%が15歳以下のこどもたちで
す。カンボジアの将来を担うこどもたちに、何としてでも自分で考え、理解する力を身に
付けてもらうために、学校教育は不可欠なものだと思っています。今、カンボジアのこど
もたちに起こっている諸問題(人身売買、幼児売春、エイズ、児童労働、ストリートチル
ドレン)は貧困が原因していると言われます。その根本問題を解決するには、「教育」に
力を注ぐ以外にないと思います。                         

「カンボジアこどもの家」代表 栗本英世 略歴       
1951年滋賀県近江八幡市生まれ、十代の頃より福祉に興味を持ち、各地の施設で従事する。
台湾の補仁大学で中国語を学んだ後、視点は日本だけにとどまらず、アジアへと広がっていった。
台湾、香港、中国、タイ、ラオス、と活動を続け、96年よりカンボジア支援に取り組む。    
現在は、カンボジア東北部の町クラッチェに「カンボジアこどもの家」を設立して、15人の孤児を
預かり、学校のない村に寺子屋を設立して学校に行けないこどもたちの支援を続けている。   

新聞&TV紹介                     
新聞
                                       
「養蚕を復興の礎に 30年の内戦ー傷跡深いカンボジア」 信濃毎日新聞 99.5.26
     「カンボジアの子供達よポスターで字を覚えよう 〜日本人が作成、配付〜」 朝日新聞 98.10.25
     「奮闘、ひとりNGO」 共同通信
TV                                       
NHK ニュースBS22 22:00〜 99.11.17
 


難民村の周囲にはまだまだ多くの地雷が埋まっている。文字の読めないこども達はその危険性を十分に知らない。

 
「どうして学校に行かないの?」、「学校がないの」

                  連絡先 「カンボジアこどもの家」
                  
携帯電話 : +855-12-85-0098(カンボジア国内滞在中)
                              090-4917-8552 (日本国内滞在中)
                       プノンペン事務所 : 42AE2 st 118 Phnom Penh Cambodia
                                  Tel/Fax  +855-23-880-820
                                  午前中は日本語の分かる現地職員がいます。
                       クラッチェ事務所 : 48AE Priramasut RD Krache Cambodia
                                  Tel +855-72-971-530
                       ポイペット事務所 : Tel 661-866-3015
                       郵便 : P.O. BOX 466 Phnom Pnnh Cambodia
                       E-Mail : cchome@bigpond.com.kh

リンク
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