あなたは、自分の仕事の契約書を、始めから終わりまで、真剣に目を通したことがおありだろうか。もしなければ、車のローンでも、不動産賃貸借でも、旅行保険でもいい、手近にある契約書を一つ、ためしに頭から全文読んでみることをおすすめしたい。実際に読んでみると、たしかに退屈だが、それほど理解困難ではないことに気がつかれると思う。少なくとも、法律の条文自体よりずっとわかりやすい。なぜなら、そこには構造と意図があるからだ。
契約書というものは、たいていの場合、構成が決まっている。まず最初に、契約の当事者の定義と、言葉の定義がおかれている。それから、契約の中心部分が、簡潔に記述されている。中心部分とは、権利と義務のバランスシートだ。たとえば、Aは製品何々をいつまでに納品する。Bはその代金をこれこれの手段でしはらう、といった形になっている。Aはひとつの義務を履行すると、それにみあう権利をBに対して得ることができる。義務と権利の間には、バランスシートの貸方と借方のように、一種の等式関係が成立する(そうでなければ両者は合意できない)。これを権利義務関係という。 ところで多くの場合、契約書本文には、権利義務関係の中心部分について、金額その他の具体的な詳細が、あまり書かれてない。たいていは「添付別紙を参照」という形になっている。これはなぜだろうか。もし契約書本文に金額や製品仕様の詳細条件などを書いてしまうと、多少の条件変更をしたくなった場合(そして変更は現実の仕事にはつきものであるが)、契約書自体を改訂して捺印手続きをやり直さなければならない。正式な契約書には、「印紙税」を示す収入印紙を貼らなくてはならず(これは法律で契約金額に対する%が決まっている)、契約書を作り直すとこの費用も発生する。そこで、詳細は別紙に定めることにして、別紙のみを増補・改訂していくやり方をとるのである。 さて、中心部分の記述のあとには、権利義務関係を補完するような周辺的な条項が並ぶ。そして、契約の発効・更新・解消の条項がある。手続き論の部分だ。さらにそのあとにはたいていの場合、不測の事態に関する記述がある。言いかえるなら、義務が免除になるような免責条項だ。そして契約書の最後には、必ず「仲裁条項」と呼ばれる項目がある。この契約をめぐって紛争がおきたときは、どのような仲裁手続きをとるのかを書くのである。そして添付資料のリストをつけて、署名欄で契約書はおわる。 こうして見てみると、契約書とは、我々のよく知っているものに似ていないだろうか? まず主要変数の宣言がある。ついで、中心部分の処理がある。ただし、その処理の詳細は、別紙を参照する形になっている。つまり「モジュール化」をはかって、内部変数の詳細はメインから隠蔽しておくわけだ。それから周辺処理があり、起動と終了手続きがあり、最後に例外(異常)処理がある。契約書というのは、意外にも情報システムによく似ているのだ。だから、システムが分かる人は、契約の設計もできるはずではないか。 契約の構造設計について、もう一度まとめておこう。契約はモジュール化を活用することによって、契約書自体をあまり重くしないようにする。契約に必要な事項は、用語定義、当事者の確定、対象事項の確定、権利義務関係の記述、発効・継続・解消手続き、免責事項、紛争解決、などからなる。金銭や技術の詳細については、別紙として添付する。 では、契約の設計思想で重要なことは何か。私は、三つの原則をあげたい。それは、「当事者は対等であること」、「自由度が責任範囲を決めること」、「強制力があること」の三つである。 第一原則の「当事者は対等であること」とは何か? これは、発注者と受注者は本来対等であって、その権利義務関係はバランスしていなければならないということだ。もう少し言うと、一方のみが義務を負うような契約はできるかぎり避けろ、という方針である(こうした非対称な関係を片務性とよぶ)。たとえば、「納期に遅れたらペナルティを課す」という条項を客先が出してきたら、「そのかわり納期より早く完了したらインセンティブをもらえる」という条項を対案として出す。これが対等であることの意味だ。 当事者は対等であるので、契約の内容については互いに意見を出し合うことができる。あいにく我が国では、「お客様は神様」という言葉に象徴されるように、力関係は一方的であることが多い。いや、欧米でだって、たいていはお金を払う方が力が強いのだが、彼らの頭の中では、“両者は対等”という原則がある。だから受注側も権利は主張する。私がわざわざこんなことを書くのは、「日本ではベンダーは奴隷と同じですか?」と欧米人が口に出して質問したくなるような状況が、ときどき存在するからだ。 さて、第二原則の「自由度が責任範囲を決めること」とは何か。これは、当事者は自分に許された自由度の範囲を超えて、無限に責任をとらされないようにすべきだ、という意味である。前回、「おまかせ」と「お好み」の寿司屋の話を書いた。「お好み」では製品の選択の自由度は買い手側にある。だから注文した結果が自分の好みに合わなかった場合、客は追加でお金を払って別のものを買い直さなければならない。逆に「おまかせ」の場合、客は出されたものを食べるしかない。そのかわり、代金は一定金額で納まるのである。むろん、出した寿司の品質が明らかに低ければ、寿司屋の側が責任をとって作り直す必要がある。 言いかえるならば、不確実性のリスクは自由度を持つ側が負担すべきだ、というのが第二原則である。さらに、免責条項の中の『不可抗力』として何をあげるかも、この原則から考えるべきだ。たとえば、原材料市況全体が急変して、(たとえば)平均指標が3割以上も上がったら、それは不可抗力として価格再交渉の条件としてあげておくべきかもしれない。むろん、相手が合意するかどうかは、分からない。しかし第一原則「対等」を思い出して、まず主張はしてみるべきなのだ。 じつは契約の論理の根底には、「自分と相手は別の存在であること」との認識が横たわっている。自分と相手は他人であって、一心同体でも以心伝心でもないから、権利義務関係はできるかぎり明確化・文書化する、ということだ。また他人であるから、責任範囲には限界がある、ということでもある。 さて、つぎに第三原則「強制力があること」に進まなければならないが、また長くなりすぎたようだ。この続きは、さらに次回書こう。
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