八王子の無差別殺傷事件の容疑者も、愛知のバスジャック事件の容疑者も、「親を困らせたかった」と語っていた。10代の少年のみならず、30代の大人までがそんなことをいうのか、と驚いた人もいると思うが、最近はもっと上の世代でも「親にわかってほしい」と要求し、それがかなわないと「恨んでやる」「困らせてやる」と言っていろいろな行動に出る人が少なくない。
そして、何かいやがらせのようなことを言ったりやったりして、親が相手にしてくれないとさらに怒る。つまり、その人たちは親を困らせたいのではなくて「かまってほしい」のだ。もっと言えば、いつまでもそうやってこだわり続けるほど、親が大切ということでもあるのだろう。これもまた、“仲良し親子”とは別の形の親子密着なのだと思う。
もちろん、誰にとっても親は大事だし、無関心でいられるよりはあれこれ目をかけてもらったほうがうれしいのかもしれないが、親だって人間だ。いつまでも子ども中心、最大の関心事はわが子、といった生活は続けられない。また、お互いが大人になればなるほど人格の違いなどもはっきりしてくるので、どうしても気が合わない親子というのもいて当然だ。そういう場合、親子はどこかで「まあ、仕方ないな」と割り切って、少し距離を置いて“大人のつき合い”をしていかなければならない。それは決して悲劇でも失敗でもなく、適切な距離を保ちながら、それぞれが人生を歩んでいくことも十分、可能なはずなのである。
ところが最近は、親子というのは必ず理解し、愛し合うものという考えが、強調されすぎているような気がする。親子の感動的な愛を描いたドラマが流行(はや)り、若者の音楽にまで「産んでくれてありがとう」といった親賛歌の歌詞が目立つ。たしかにこういう雰囲気の中では、親とのコミュニケーションがちょっとうまくいかないだけで、「うちの家族はおかしいのだろうか」と子どもが悩んでしまってもおかしくない。
親が子どものいちばんの理解者であるのは幸せなことだが、たとえそうでなくても、不幸せというわけではない。親以外の誰か、たとえば塾の先生や職場の上司、あるいは友だちや恋人がいちばんの理解者になってくれる可能性もある。親だけに過剰な期待をしすぎないように、と子どもたちに教えるためにはどうすればよいのだろう。「期待に応えてくれない親を困らせたい」などと暴走する子どもがこれ以上、出現しないことを祈るしかないのだろうか。
毎日新聞 2008年7月29日 地方版