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2008.07.28

きれいの弊害 洗練の誤謬

医療みたいな不確定要素を相手にする業界は、「模範的な医師」を想定してはいけないのだと思う。

症例検討会のこと

研修医が患者さんを受け持って、必然と、偶然と、病棟でいろんなことが重なって手術になる。 珍しい病気だったり、病理学的に「きれいな」症例であったりしたら、そうした経過は症例検討会で 発表される。

主治医は患者さんの症状や経過、何を考え、どんな検査を行ったのかを報告して、外科医は手術所見を述べ、 病理の先生がたは、取り出された病巣を顕微鏡で検討して、そこに集まったみんなで、貴重な経験を分かちあう。

症例検討会には、「きれいにされた」経過が供覧される。

どこの病院も、現場はたいてい、混乱に次ぐ混乱。患者さんが入院したところで、 実際にその人に会えたのは当日の夜中だったり、後から考えれば最初にやっておくべきだった検査は、 それに気がついたときには、もう患者さんは手術室だったり。

自分たちだって人間だから、忙しいときにはサボりたいし、絶対に忘れてはいけないものに限って、 一番大事な場面で忘れたりする。たいていはそれでも何とかなったり、あるいは誰かを拝み倒して 「何とかして」、足りない準備でその場を乗り切る。

妥協と混乱、その場限りのごまかしを繰り返しながら、それでも患者さんを「治癒」へともっていくのが現場だけれど、 症例検討会にそのまんま出したら笑いものだから、時系列いじったり、検査データを最初から一覧できるように工夫する。 報告された症例は、主治医はあたかも完璧な人間で、患者さんが入院したその日には、すでにそこから先の展開は 全て読めていたかのように描かれて、検査のプランだとか治療の方針だとか、経過中、 主治医には一切の葛藤がなかったかのように語られる。

医学の発展だとか、教科書に書かれた定説だとか、最初は全て症例報告から。きれいに磨かれた症例報告が 積み重なって、医師の「かくあるべき」態度みたいなものが、導き出される。恐らくはそうして生まれたであろう 「医師としての正しいありかた」みたいな医師象は、たぶんいろんな人を不幸にしたのだと思う。

破ることが前提の「正しさ」

どの分野でもたぶん、一つのお仕事が完結したあと、「こうすればよかった」「次はこうしよう」なんて思って、 技術者はそんな後悔を次に生かそうとする。

ところが自分たちの業界は、「こうすればよかった」は、「こうした」ことにしてしまって、 症例検討会には「きれいな」経過が発表される。それが積み重なって教科書になって、 教科書はだから、現場でその通りにやろうとすると、患者さん診察する前に病名分かってるのが前提になったり、 24時間注意力最大に発揮してるのが前提になってたり、運用するのがとても難しくなってしまう。

教科書どおりの「正しいやりかた」は、だからそのまま回していくと、たいていはうまく行かない。 教科書はしばしば、患者さんを「正しく見殺しにする」役には立つけれど、その人を治そうと思ったら、 主治医はしばしば、どこかで教科書を飛び越えて、治癒に結びつくやりかたに飛びつかないといけない。

「きれいな」やりかたを提示するガイドラインや教科書は、そこかしこに「現場の判断」だとか 「必要ならば」みたいな回避ルートが用意されていて、現場が教科書を「破る」ことを、暗に認めていたりする。

昔いた病院では、「自らの脊髄を信用せよ」なんて言葉が伝わってた。

現場で何をしていいのか分からなくなって、頭が真っ白になったとき、 頼るべきは教科書なんかじゃなくて、自ら身につけた脊髄反射、「体の声」みたいなものなんだと。

状況が鉄火場になったとき、頭の中にある「教科書の知識」と、自分がいつも病棟でやっている「脊髄の記憶」とは、 しばしばバッティングする。普段なら、当たり前のように無視される教科書は、自分自身に信用がおけない、 主治医が慌ててるときになると大きな声で「俺に従え」なんて騒ぎ出して、混乱している主治医の頭を、 余計に混乱させる。パニックに陥っても、なお自らの「脊髄の記憶」を信じられるよう、 普段から何となく仕事をするのではなくて、なぜこの場面で教科書から逸脱するのか、 常に問いながら仕事をしないと、本当に大変なときに、失敗するんだと。

「ビジョナリーカンパニー」だったか、社長の成功哲学みたいなものを取材されて、 それを文章化された会社は、たいてい潰れたらしい。最近改訂されたマーケティングの本でもまた、 20年前に「すばらしい成功例」をたたえられてた会社は、たいていそのあと舵取りを間違えて、 第二版が発売されたときには、会社が傾いてたり、マーケットを失っていたりしていた。

恐らくは個人であっても、企業みたいな法人であっても、自らの動作記憶を文章化する過程で、 一番大切な者は失われてしまう。動作記憶を欠落無く保持しているのは自分自身だけなのに、 状況が変わって、どうしていいのか分からなくなったとき、自らの脊髄を信じられなくなったなら、 その人はもう動けなくなってしまう。

動けなくなった個人や企業は、昔のやりかたにすがろうとする。文章として記録されている そんなやりかたは、「きれいに」されたぶんだけ情報が欠落していて、劣化した情報に 今さらすがったところで、成功にはたどり着けない。

「正しい兵士」はウンコを漏らす

「正しい兵士」は人を殺せない。適切な訓練を受けていない兵士は、相手が見える状況だと、 せいぜい20%ぐらいしか発砲しない。適切な訓練を受けることで、発砲率は90%程度にまで 高まるけれど、今度は「人を殺せるようになった」ストレスで、せっかく育成した兵士は、 すぐに戦闘を継続できなくなってしまう。

アメリカ軍兵士の4人に1人は尿失禁の経験があって、8人に1人が大便の失禁を経験した。 激戦を経験したあとは、半数の兵士が尿を漏らし、4人に1人の兵士が大便を漏らした。

空胞を使った訓練などで、「弾に当たったら死ぬ」と教えられた兵士は、実戦で弾に当たると、 実際に動けなくなってしまう。「弾に当たったら生き残れ」と教えられた兵士は、 弾に当たっても、なお生き延びようとする。

米軍は歴史に学んで、勇気があって、どんなときにも冷静沈着、戦闘にも何らストレスを感じない人間を 「正しい兵士」と呼ぶことをしないのだという。正しい兵士は、むしろ戦闘に対してストレスを感じるし、 昔ながらの価値観だと「みっともない」ことをするし、極めて強いストレスを感じたときには「適切な」 行動などとれるはずもなくて、教えられた行動を繰り返すことしかできなくなってしまう。

今はむしろ、こうした不完全な、ある意味みっともない兵士を「正常」と定義して、 ならばこうした人達がどういう訓練を受けたら戦闘を継続できて、厳しい状況でも 生存を志向できるようになるのか、米軍だとか、アメリカの警察は、そんなことを考えて訓練プログラムを作るのだという。

制度が混乱して、人がいなくなって、救急の現場がいよいよ回らなくなってる。

どう振る舞えばいいのかみんな分からなくなって、その時結局、すがるのは教科書になる。

きれいなやりかたしか書いてない、それにすがったら、現場が絶対回らなくなる教科書にみんな殺到して、 混乱した現場の振る舞いは、実用からは一番遠い、もっとも「きれいな」やりかたに収斂する。 今はだから、どこに問い合わせても「十分な設備がないので」とか、厳密に教科書どおりの治療ができない、 という理由で断られる。

それはもちろん、「訴訟圧力」だの、「患者さんの質的変化」だの、いろんな理由付けがなされているのだろうけれど、 バックグラウンドで動いてるのはたぶん、こうした教科書への回帰現象なんだと思う。

上の人達が「きれいさ」にこだわり続けたツケが、ここに来て噴出しているような気がする。

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Comment & Trackback

 同様に考える人もそれなりにいるようで、最近では「失敗例」とか「ピットホール」を集めた症例集みたいなのもぼちぼち出版されていますよね。
 学会とかでも「こうしたら失敗した」とか「こういうつもりがああなってしまった」というような恥さらし的症例報告とかもっともっとあって良いと思います。

『愚者は成功例に学び、賢者は失敗例に学ぶ』って云いますし。

「脊髄反射」って、コメ欄反応かと思いましたw
教科書回帰と法令遵守、良いじゃないですか!
お上の声は、神の声。なんでも従いましょう。
危ないことはやらなくていいも~ん!
言い訳できないことは、やらなくて良くなりました!
みたいな世の中って、内向き?歪んでる?・・・釣られましたorz

発砲率を上げるっていうのは、兵士の訓練プログラムでも重要なことだったらしいですね。その後、発砲率が上がった後は、反射的に頭を打ち抜く「ゲーム」のような刷り込みを行うことだったとか。25人に一人のソシオパスみたいに何の良心の呵責無く、ストレス無く任務を続けられる人はやはり少なくて、PTSDという疾患概念までできました。
僕も医学部の解剖のあとは焼き肉が食べられなくなっていましたが、半年もすると解剖実習で疲れた後にみんなで焼き肉を食べに行ったりしてましたし、大腸内視鏡の研修に行っていたころは内視鏡の画像を見ながらお弁当を食べたりしていました。。。訓練というか慣れはすごいと思います。
でも、救急外来とか、、、患者さんの生死に関わる現場で心乱すことなく働くっていうことはやはりPTSDになりかねません。。。患者さん、その家族と対峙し、心乱すことなく仕事を続けていけるのはある種の特殊部隊ですし、ある意味で「ソシオパス」的な要素が無いと続かないのかもしれませんし、「ソシオパス」の要素を持った人ならばとても上手くできるし、家へ帰った後も何の感情も引きずらないのでしょう。
僕には無理でしたけど。

「居酒屋タクシー」の件以降、官僚にも偽善的(露悪趣味的?)な教科書信奉論が広がったことがあったと思います。曰く「ここまではいい、これは駄目、と全部指定してほしい」と。これも社会的に「きれいな官僚」からわずかでも逸脱した場合に集中攻撃を受けるから、ですよね。
カイルさんの言われている「失敗例集」みたいなものが、医療業界だけでなく、一般にもっと知られ受け容れられるようになる必要があるのだと思います。きれいからの逸脱が前提の社会。綺麗事は綺麗事として、現実は別なんだよと。道は遠そうですが。
そういえば今回のエントリで「きれい」という言葉はたくさん使ってるのに一度も「綺麗事」って言わないあたりは見事だなと思いました。

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