翼烈伝 / 002
「国破れて戦闘機」

川西 N1K2-J
局地戦闘機「紫電改」

紫電改の精密図面

紫電改は海軍戦闘機のなかで特異な存在である。少なくても3つの意味で特異だ。

1つは紫電という詩的な名前にかかわらず、日本戦闘機らしからぬ図太い容姿であることだ。紫電一閃は鋭利な影だし、むしろ痩身の剣士にこそふさわしい。名が体を表さない。

2つめは海軍の発想で無いことだ。海軍は唯我独尊、自らを高く評価してはばからなかった。発注する戦闘機の発想を民間に任せた例はほとんど無い。ところがこの紫電は、川西の発想によって生まれた例外的な戦闘機なのである。海軍は追認である。

3つめは改造による成長だ。強風−紫電−紫電改と、改造ごとに目に見えて逞しくなった。ぎりぎりで設計された日本戦闘機はほぼ原型で最高点であり、改造はほとんど性能の成長をもたらしていない。紫電は例外だ。

●好機逃すべからず●
その-1
今でも航空機産業は軍需が主体である。平和憲法では官需というが、誤解を恐れず端的にいえば軍需だ。ましてや戦前はほぼ100%が軍需であった。

顧客が軍だけであれば立場は明確である。大袈裟に言えば軍が殺傷与奪の権を持つ。

だからかも知れないが、航空機メーカーは重工業の一部でありかろうじて対抗していた。しかし川西は独立した資本で軍に対抗できるほど大きくはない。

にもかかわらず独自の存在を主張し得たのは、優れた飛行艇と水上機のメーカーだったからだ。94水偵や97大艇、2式大艇をヒットさせ海軍に認められ続けた。戦後新明和になってもPS-1、US-1を造っている。

そんな川西が太平洋戦争勃発に対処するため真剣に次の作品を考えた。
飛行艇や水上機が、将来に亘って存続し得ないと感じたのである。

少なくても飛躍はあり得ない。勘ぐれば社業を伸ばす好機到来と思ったのかもしれない。

開戦直後、社長、副社長、航空機部長、主任技師が集まり議論した結果、戦闘機開発の結論になった。それも試作中の水上戦闘機「強風」をベースにした改造案である。

会議は昭和16(1941)年12月末、開戦より20日ほどした時である。明けて17年1月、まだ門松が取れていないうちに海軍に提案し、海軍はあっさり承認した。

資料によっては「雷電」の遅れを憂慮した海軍が開発を承認したとあるが、この時の雷電の開発遅れは2ヶ月遅れ程度であり、まだ初飛行もしていない。
その-2
泥沼の苦しみはまだ先である。海軍にそんな先見の明があったとは思えない。

ハワイでアメリカ太平洋艦隊を壊滅させ、マレー沖にイギリス東洋艦隊を屠ったばかりだ。フィリッピンでは快進撃を続けている。鷹揚な気分で川西の提案を聞き入れたのが本当であろう。それに正月だ。

もし思いつくことがあるとすれば、すべての戦いは陸上機で済んでしまい、水上戦闘機の出る幕はない。放っておけば川西の技術力が死ぬ。気があるなら陸上戦闘機を作らせておこう、そう思ったかもしれない。

海軍は仮称一号局地戦闘機として取り上げ、1月31日には計画要求をどうするかで審議会を開いている。やたら腰が軽くて戦勝お祭り気分の匂いがある。
N1K1-J「紫電」の名が与えられて、4月15日には正式発注された。

おそらく審議会は14試局戦「雷電」の要求が下敷きになったのだろうが、「雷電」に対するほど真剣では無かったろう。もし失敗してもダメモトと思っていたに違いない。

川西にもご祝儀発注で、「雷電」に遅れをとれば、いつ海軍の気が変わらないでもない思いがあったろう。「強風」のマイナー・チェンジで対応しようとした決心が分かる。

強風は雷電とエンジンも同じだし、フロートを外せば雷電に近い性能は出せる。エンジンが「誉」なら雷電を越せるかもしれない。遅れをとって海軍から「もう要らない」、と言われるのが川西最大の恐れだったろうと思う。

●局地戦闘機●
昭和17年正月、戦線は破竹の勝ち戦で海軍はいい気持ちだ。紫電の要求はどうだったのか分からないが、計算は最大速度が350kt(650km/h)と出ていた。雷電の要求325ktは十分に満足させられる。

ところが上昇性能は6,000mまで7分50秒かかっている。雷電の要求は5分30秒以下であった。

戦争が始まって、対戦相手が中国爆撃機からアメリカやイギリスの爆撃機に変わった。局地戦闘機の要求も変わって当然である。しかしおかしい。なぜ仕様が見直されなかったのだろう。

もぎ取った島嶼の防衛には何が必要になるのかも考えた形跡が無い。ただ上昇力があれば済むと思ったのだろうか。
勝って兜の緒を締めよ、そんな格言を忘れて浮かれている高級官僚を思うと、今もそうだと暗い気持ちになる。

紫電にはあからさまな局地戦闘機の仕様変更の論議は無く、昭和10年代前半に起こった局地戦闘機論議は熱病が冷めたようだ。

名称と固定概念の中だけに残り、もう局地戦闘機は要らないとも言わない。うやむやにした。偏差値秀才が採る典型的な手法だ。

紫電改は海軍最後の制式戦闘機である。陸上戦闘機を代表するだけでなく、艦上戦闘機型も試作されているから、局地戦闘機はもう雲散霧消してしまっている。頭の中だけで作った観念は、現実の前に熔けてしまったのだ。


●空戦フラップ
紫電と紫電改には自動空戦フラップが装備されていた。ピトー動圧から速度、水銀で旋回加速度を検知し、どんな速度でも最適揚抗比になるようフラップを操作する巧妙なシステムである。

性能は高く、機構も単純で信頼性は高かった。紫電のエンジンやプロペラがやたら故障するなかで、頼りになる装置であった。そのためだろうこの装置を批判する者はいない。

原理、機構、作動は素晴らしい。技術的に非を鳴らしたら、臍曲がりの誹りは免れないだろう。しかし自動空戦フラップを手放しで称えることができない。旋回戦闘への拘りだからだ。

空中戦を旋回戦闘と信じている証拠品で、空中戦を根本から考え、いかに勝つかを考えていない告白に等しい。
空中戦は<発見・占位・攻撃・機動>で成り立つ。自動空戦フラップは優れた機動の用具であるが、<発見・占位・攻撃>をなおざりにしたのならば、尻拭いの装置は免れない。誰が誰の尻を拭ったのか、それを考えさせる装置だ。この国、いつの時代でもそれを考えようとしない。

自動空戦フラップに言葉を尽くして称える文章は多いが、戦後のアメリカやソ連の戦闘機に優れた装置として引き継がれることはなかった。F-86にもMiG-15にも振り向かれていない。時流に外れた運命の装置なのだ。これを着けた紫電は、あたかも時代に乗れなかった近藤勇の剛刀虎徹のようである。

弁明するなら、ベトナム戦以後の戦闘機には空戦フラップが付いている。前縁フラップとともに、最適解になるよう働く。きっと遠い昔の、日本の発明を思い出したのだろう。


川西 N1K2-J 局地戦闘機「紫電改」
その-1
紫電の原型は「強風」である。中翼の水上戦闘機だ。中翼はしぶきを避けるためである。

水上戦闘機は飛行場ができるまでの「補用戦闘機」だ。もしくは飛行場を作るまでのない、暇な戦域を守る「暇な戦闘機」である。わざわざ本格的に作る戦闘機ではないはずだが、熱を入れて作ったところが日本海軍である。

水上戦闘機は最前線を守る戦闘機なはずである。してみると局地防空戦闘機ということになる。論より証拠に「強風」は「雷電」と同じエンジン・三菱の火星13型を選び、直径が大きいから太くて紡錘形の胴体だ。フロートを履いているので最大速度は480km/hほどしか出ないが、5,000mに5分32秒で駆け昇る性能があった。まさに局地戦闘機なのである。

しかし、襲ってくる爆撃機や攻撃機に有効かどうかの判定ではなく、零戦改造の2式水上戦闘機と旋回戦闘能力で比較された。だから自動空戦フラップは窮余の一策なのである。
本義から考えれば、川西はフロートを外し雷電と優劣を競いたかったであろう。雷電並の性能は出せると秘かに思っていたに違いない。

改造は水上機を陸上機に変えることだ。フロートを車輪に換えればよい。ただし問題があった。強風は中翼だからそのままなら脚が長くなる。長いまま工夫するか、低翼にして普通の脚にするかだ。しかし考えている暇は無い。

川西は引込脚の経験がない。盲者の蛮勇というべきだろう長い足を選んだ。機銃の位置は変えられないから、いったん縮めてから引っ込めるという奇術のような方式である。若気の自負がむんむんする。

その上エンジンも変えた。失敗を忘れてしまった功名心が見えるようだ。博打で負ける典型的なパターンである。もし雷電がそこそこに成功していたら、紫電は敢えなくボツになっていただろう。しかし雷電がつまずき紫電にもまだ余地が残る。初飛行は昭和17(1942)年12月31日大晦日。
その-2
ところが紫電もつまずく。奇術の脚は所詮奇術だった。思うように動かず多くの操縦士を殺す結果になった。換装したエンジンもきわめて信頼性に乏しい。性能もカタログ通りには出ない。陰口が囁かれた。「雷電紫電国を滅ぼす」。

もしエンジンを火星のままで、23型にしていたらどうだったろう。カタログ落ちした「誉」に近い馬力を出したのではないか。すれば脚の問題解決に全力を投入できたろう。なにせ胴体の太さは火星に合わせたまま設計変更しなかったのだから。

それでも背に腹は代えられない。紫電は生産され次々とフィリッピン戦線に投入された。信頼性に乏しく稼働率の低い紫電は、群がるアメリカ戦闘機の中で消耗し決して目の覚めるような活躍はできなかった。

紫電でより本質的な問題は脚だ。低翼にして短くしなければ本物になれない。試作機が飛び始めるや改造設計に取りかかった。
昭和18(1943)年3月である。本来なら「急がばまわる」のが筋なのだ。川西だって分かっていたはずである。でなければ短期間で紫電を作り、紫電改に改造する設計を、矢継ぎ早に時期を失せずできるわけがない。たぶん心の底に、海軍の気が変わらぬうちに実績を作ってしまいたい目論みが働いていたのだろう。そこには軍とメーカーの不健全な関係がある。

紫電21型N1K2-J、すなわち紫電改の初飛行は昭和19年1月1日だった。設計開始から10ヶ月である。海軍最速の戦闘機と認められ、重点機種に指定され優先生産が決定された。艦上機型まで計画されたから、どれほど期待されたか分かる。

343空の紫電改が呉でアメリカ艦上機群を邀撃し、52機を屠って片鱗を見せたが、少ない機数で戦勢を挽回できるはずもなかった。溶けるように343空も戦力を失っている。所詮戦闘は戦略に及ばない。

エンジン
その-1
紫電および紫電改のエンジンは誉21型である。空冷星形複列18気筒で、離昇2,000馬力第2公称は6,000mで1,760馬力であった。

誉はコンパクトだが大きな出力を出した。全気筒容積35.8リッターで2,000馬力である。容積当たりでは55.8馬力/リッターとなる。

零戦の栄21型は40.5、雷電の火星23型で43.2、5式戦のハ112でも46.4馬力/リッターである。アメリカのR-2800-10は43.6馬力/リッターだ。素晴らしいと思うと同時に懸念があってしかるべきだろう。

にもかかわらず海軍は心酔した。惚れ込みようもただ事ではない。新機種には全て誉を搭載せよと指示を出した。いかにも偏差値秀才の決断である。観念的で独善的で偏執的だ。

誉は現場でエンジンを作る人たち、それを整備する人たち、使う場所、使うガソリンの質など、現実的な配慮にまで及ばない設計であった。用兵者のくせして海軍はそれが分からない。
はたせるかな実用段階で故障が続出した。油温上昇、冷却不足、混合気不均等、油漏れ、軸受け破損などが続発し著しく稼働率が落ちた。フィリッピンでは誉を装備した陸軍の疾風も紫電も、30%〜40%だったろうと言われている。

アメリカ軍機の稼働率は80%程度だった。対戦する機数が1/2なら実働機数は1/4にしかならない。おまけに稼働率が落ちただけでなく、馬力も出ていない。

昭和19年に台上実測したら第2公称で1,300馬力であった。実に27%も目減りしている。40.7馬力/リッター。並以下だ。

小さなエンジンで大きな馬力を稼ぐために、誉はピストン速度や平均有効圧力を上げている。デトネーションを起こさないため、92オクタンの燃料と良質なオイルが必要だった。けれども逼迫した日本には供給ができない。現実は誉を維持できない。
その-2
馬力が30%落ちると最大速度は10%小さくなり、上昇力は40%も低下する。紫電試作機が650km/hを予定しながら580km/hにしかならなかったというのが頷ける。

誉21型の直径は1,180mmである。強風から紫電に改造するとき、1,340mmの火星13型に造った胴体幅はいじらなかった。もし火星のままにしたら、13型の1,420馬力から23型の1,820馬力が可能だったはずだ。もう少し我慢すれば1,850馬力の25型も使えただろう。フィリッピン戦線に間に合い、初期故障から脱出できたのではないか。

もちろん後知恵である。しかしすぐ気が変わる民族の欠点も考えなければならない。この国、いつでも辛抱強く改良していく根気がないのだ。

過給器は1段2速で第1公称馬力は1,750mで1,860馬力。第2公称は6,100mで1,620馬力であった。
ただし資料によっては1,750馬力とも1,700馬力とも書いてある。たぶん設計者へ海軍が提示した馬力は1,700馬力であったのだろう。

紫電改ではエンジン・ルームを再設計し、誉に合わせて横幅は贅肉が削られている。そのため紫電より前方視界が大きく改善された。

吸気はダウンドリフト型でカウリング上部に大きな吸気口があり、下部はオイル冷却用空気取入れ口だ。排気は推力単排気管で円筒形のオイル・クーラーが付いていた。

プロペラは直径3.3mの恒速4翅。油圧式VDMだがこれが問題だった。信頼性に乏しく取り扱いが難しい。2,000馬力を吸収するプロペラは、もうライセンスを買っての模倣では済まないレベルに達していた。

主翼

その-1
紫電、紫電改と胴体や脚は大きく変えていったが、主翼は「強風」と共通であった。構造はモノスパー(単桁)、翼型は層流翼のLB系である。

スパーは層流翼で最大厚が後方にあったから、翼弦の30%を通り左右直線になっていた。桁材は片翼を通しで作り中央で結合した。ほぼ6mのテーパーした桁を削るため、川西は独特の工作機械を造っている。

この設備は高価なESD(超々ジュラルミン)の使用を少なくし、翼内を単純にして燃料タンクや備砲の搭載を楽にした。そのため紫電改は片翼に燃料93リッターと、99式2号20mm機関砲2門を搭載できたのである。

層流翼は層流が保てるように表面仕上げができないと額面通りの性能は出せない。P-51ムスタングは厚板を使って凹凸を無くし、最後はワックス仕上げをしたというが、残念ながら紫電の仕上げは粗かった。
主翼面積は23.50u、全備重量が4,200kgだから翼面荷重は178.7kg/uである。零戦52型の128.8kg/uに比べてかなりの跳躍であった。死闘を演じた敵手グラマンF6Fの167.4kg/uよりも大きい。低翼面荷重が日本、高翼面荷重はアメリカという図式が反転している。アスペクト・レシオは6.12であった。

しかしアメリカ戦闘機より翼面荷重が大きいのに、不利な旋回戦闘に拘るのだから自動空戦フラップ無しでは話にならない。あったとしても分が良いとは言いきれず、海軍は長所を活かす戦闘法が工夫できなかったのである。

もしエンジンが額面通り2,000馬力を出していたら馬力荷重は2.1kg/馬力、グラマンF6Fは2.6kg/馬力である。縦の面の戦闘なら有利に戦えたはずだ。

その-2
昭和20(1945)年2月16日武藤金義飛曹長の紫電改が、単機厚木上空でグラマンの編隊を襲った。飛行場の人たちが見ている空で、降下と上昇を繰り返し、鮮やかに2撃で2機を撃墜した。

紫電の特性を十分理解した操縦だ。さすがは撃墜王である。機種の長所を素早く読み取っての戦法であった。

紫電では完成期間を優先させるため、フロートから脚への改造にあたり中翼のままにした。当然脚は長くなる。まともには引っ込めることができないので、いったん油圧で縮めてから折り畳む機構にした。

まったくの経験が無い脚で問題解決するか、低翼にして解決するかとなったとき、普通なら知らない分野で冒険はしないだろう。それを脚でしたのは若気の過ちとしか思いようがない。しかも強風3.2mのプロペラから10cm大きくしたのだからたまらない。
戦闘機に満々たる自信がある中島でも、疾風は同じ誉を積みながら3.0mのプロペラで我慢している。損をしても地上姿勢を低くしたかったからだ。もし川西に中島ほどの分別があったら、伸縮式引込脚などいう奇術的解決はしなかったろう。

補助翼(エルロン)は金属フレームに羽布張りである。タブは左右とも固定式であるが、操縦装置は速度に応じて舵角が変えられる仕掛けになっていた。

腕比変更装置というが、高速では操縦桿の動きに対してエルロンの動きは小さくなる。すなわち小さい操縦力で横転がうてるのだ。

フッラプはファウラー式で、空戦時は揚抗比最適の包絡線に沿って作動し旋回を助ける。

武装
原型の強風は7.7mm 2挺と20mm 2門の武装であった。要求仕様は雷電と同じだ。ところが川西は陸上戦闘機の提案をしたとき20mm 4門を計画していた。爆撃機を邀撃する戦闘機はハードパンチャーでなければならないと思っていたからだ。海軍より読めている。

利用できる20mm砲は99式1号で、零戦に装備されたときの弾倉はドラム式60発である。発射速度は毎分550発、全弾撃ち尽くすのに6.5秒だ。1回の射撃に2秒としても。3回射撃したらもう弾がない。

名人でなければ威力を発揮できなかったろう。100発入りの弾倉ができたのは昭和16年12月であった。太平洋戦争開戦の月である。配備はだいぶ経ってからだ。

紫電は初めからこの100発入り20mmを装備したが、翼厚の関係で外側砲は翼の下に装備しなければならなかった。日本離れしたスタイルがいよいよ日本離れする。だが川西は胆を据えてやった。
戦闘機の機銃はあらゆる姿勢で発射できなければならない。大きなGが掛かっている状態でもスムースに給弾できなければならない。ベルト式にすれば携行弾数が増えるのは分かり切っていたが、この問題をクリアできなくてやむなくドラム式なのだ。

解決したのが18年6月で、弾数は内側200発外側250発になった。携行弾数は7倍になったのである。兵器としては飛躍的な進歩だ。紫電は故障が多くて未完ではあったが、事態は待てる状況ではない。

とりもなおさず量産されたのは頷ける。戦う操縦士の心理にはそれ以上の違いであったろう。絶えず残弾を気にして戦うのと、気兼ねなく撃てるのでは大きな違いである。

20mm99式2号銃(砲)は1号砲より砲身が56cm長くなって初速が750m/s、24%も大きくなった。弾道が延びて有効射程が増し、命中精度が良くなっている。

胴体
強風から紫電への改造は、急ぐあまり胴体にはほとんど手を着けていない。着陸3点姿勢に合わせるため後部胴体を深くし、尾輪の高さの辻褄を合わせただけである。

空中戦は<発見・占位・攻撃・機動>である。しかし海軍は発見と占位を操縦士だけに押しつけた。そうなれば視界に拘らざるを得ない。組織は要地を守るにも、レーダーや通信網などとの連携を必死に考えようとはしなかった。

日本の用兵家たちも操縦士も、発見と占位を根本から変えようとはせず、安直に機種の視界だけで解決しようとした。だから雷電でもこの紫電でも、視界の確保が機種の大成を妨げる重大な要素になってしまった。

銃火の下に身を置く操縦士にとってみれば、視界は生死を分ける重大な問題だ。ただ我が儘と批判するだけでは済まない。それが地上にいる者の批判なら笑止の沙汰である。誰も補う方法を考えなかったのが問題なのだ。

紫電改は胴体をエンジンに合わせて再設計した。細くなって低翼になり、視界は著しく改善された。最大速度も上がっている。

エンジンの後ろはオイル・タンクで容量は50リッター、2つの隔壁に挟まれている。隔壁は主翼桁を挟む形で頑丈な筐体になっていた。そして後部の隔壁がファイアウォールである。
胴体燃料タンクは前後に分かれ前方タンクは主桁と補助桁の間で容量は270リッター、後部タンクは座席の下にあり260リッターである。操縦席下の燃料タンクは川西の気迫だろう。防弾を施し太い胴体を無駄にせず、物怖じしない面目若如たる配置だ。操縦席が前に来るのがいい。

前部ウインドシールドは70mmの防弾ガラス、コクピットは枠こそあるが水滴型だ。操縦席の後ろにヘッドレストを兼ねた転覆防護柱がある。着陸時にひっくり返ってもパイロットの頭を護る。

左側胴体にはパイロット乗り降り用のステップがあるが、胴体と主翼をつなぐフィレットがやたら大きく、あまり乗りやすそうではない。

操縦席後部胴体に1式3号無線機があるが、ご多分に漏れず性能は悪かった。耳の聞こえぬ身体障害者、とても本式な編隊戦闘はできなかったろう。無線機の下が水メタノール・タンクで140リッター。エンジン誉はデトネーション防止のため水メタノールの噴射が前提であった。アンテナ・マストの下に円筒の酸素ボンベがあった。

後部胴体は3点姿勢のために深くなった。日本機離れしたスタイルの最大の原因である。ただ地上姿勢のためだけときくと拍子抜けするが、いかにも意志あるがごとき面構えに見える。

尾翼
尾翼は金属製だが動翼は金属骨格に羽布張りである。昇降舵(エレベーター)はエルロンと同様腕比変更式になっており、速度に応じて操舵力が変わる。トリムタブは可動式。

ラダー(方向舵)は紫電では強風同様水平尾翼から上のみだったが、方向性が不十分なため、紫電改では胴体下部まで延長されている。タブは日本機にはこれまた珍しく可動式。いかにも川西らしい配慮だ。射撃の時、細かい舵を使うには操舵力は抜けていなければならない。

未来予測は誰がするか
戦争は人間の営みのうち最もクリティカルなものであり、クリエイティブなものだ。ダイナミックに形を変える。先入観に縛られた方が負け、未来を予測して対応できる方が勝つ。湾岸戦争などはその典型だ。

手本の社会があり、追いつくことが目標の構造では、優秀な人材を官僚として選んで先頭を走らせる。それが最も効率的な方法だ。すなわち回答が分かっているのが前提なら、偏差値秀才が優遇される原理である。

ところが手本が無くなれば、とたんに偏差値秀才は無能レベルに到達する。未来予測は努力の対象で無いからである。不幸なのは秀才ともてはやされ、本人も無能とは思わないし周囲にも思えない。

未来が重戦闘機の時代になるのか軽戦闘機の時代が続くのか岐路に立ったとき、秀才・軍事官僚たちは無能レベルに到達していた。予測を手放して民間に託すべきであったのだ。

戦後経済が世界レベルに到達したとき、復興で優秀だった官僚たちは一斉に無能レベルに到達した。
頂点に達する前に彼らの力を削ぐべきだったのだ。1990年代、空白の10年はそれを怠ったために生じた必然である。敗戦による塗炭の苦しみが何も生きていない。

陸軍は頑迷で海軍は開明的だと思われている。しかし事を戦闘機に限れば、陸軍の方が遙かに開明的であった。鍾馗の後継者・疾風は、明らかに重戦闘機なのである。

それに反し海軍は頑迷固陋であった。最後まで軽戦闘機に執着して烈風にそれを要求した。自分の判断が間違っている反省はまるでない。天上天下に唯我独尊である。負けるのは当たり前なのである。

そんな中で、紫電は川西の未来予測から生まれた例外的な戦闘機である。海軍に最後の華を添えたのが、民間の発想による戦闘機というのが大いなる救いだ。

未来予測の最良の方法は、トライ・アンド・エラーである。エラーを許す度量と、エラーを修正する柔軟さが備わらなければならない。ただ紫電の場合、エラーを修正しているうちに戦局は破滅してしまった。