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<礎(いしずえ)>近代が残したもの

2005年8月25日掲載

特攻へ向かった道 海軍鶉野飛行場跡

加西市

平成に入り、航空ショーが開かれるなど、今なお空とのかかわりがある。一方、周辺には掩体壕や機関銃の台座、弾薬庫など、戦争遺跡が多数残存。関係者は平和教育のための保存を模索している=いずれも加西市鶉野町

平成に入り、航空ショーが開かれるなど、今なお空とのかかわりがある。一方、周辺には掩体壕や機関銃の台座、弾薬庫など、戦争遺跡が多数残存。関係者は平和教育のための保存を模索している=いずれも加西市鶉野町

六年前、滑走路脇に建立された平和祈念の碑。戦死者の氏名や飛行場の歴史などが記されている

六年前、滑走路脇に建立された平和祈念の碑。戦死者の氏名や飛行場の歴史などが記されている

 舗装路が田園地帯を引き裂いて横たわる。六十年前に役目を終えた旧海軍の滑走路が、当時のままの形で残っている。

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 太平洋戦争は一九四二(昭和十七)年六月のミッドウェー海戦を境に、日本に不利な状況へと向かった。軍はパイロットを短期間に多数養成するため、各地に訓練用の飛行場を急造した。

 兵庫県内でも、加西郡(現・加西市)南東部の鶉野(うずらの)台地に、海軍の飛行場建設が決定。百戸以上の民家を立ち退かせ、同十一月ごろ着工。近隣住民や朝鮮人労働者らを大量動員し、翌年九月、突貫工事で使用開始にこぎつけた。その翌月、パイロット志願の兵士を訓練する姫路海軍航空隊がここに設立された。

 飛行場の歴史に詳しい上谷昭夫さん(66)=高砂市=によると、当初は土を固めた滑走路だったが、四四年にコンクリート舗装の滑走路を新設。終戦までに長さ一二〇〇メートル、幅六〇メートルの規模となった。一方、隣接地には川西航空機(現・新明和工業)の工場が建てられ、戦闘機「紫電」「紫電改」を組み立てた。滑走路は練習飛行のほか、ここで完成した戦闘機の試験飛行にも使われた。

 その後、戦局がますます切迫し、南の海では特攻が始まった。同航空隊でも四五年になると特攻隊「白鷺(はくろ)隊」を結成。ここで訓練を受けた六十三人の若い兵士が、各地の航空隊へと赴き、沖縄近海の米艦目掛けて突っ込み、散っていった。

 飛行場周辺には、戦闘機を米軍の目から隠すための掩体(えんたい)壕を多数造ったが、滑走路はなすすべがない。一帯は終戦間際、爆撃や機銃掃射に何度も見舞われ、犠牲者が出た。緑濃い山間の丘は戦場と化した。

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 滑走路は今、陸上自衛隊が訓練場として管理する。周囲の美田は、戦後入植した開拓団の努力の結晶だ。傍らには旭日旗が翻る平和祈念の碑。ここでは六十年前が「過去」に思えない。(写真・文 田中靖浩)
メモ
〈北条線列車転覆事故〉 1945年3月31日、鶉野飛行場周辺で試験飛行していた戦闘機、紫電改がエンジン故障で不時着。その際旧国鉄北条線(現・北条鉄道)の線路に接触してゆがめ、直後に通過した列車が転覆。乗客死者11人、負傷者104人の大惨事となったが、当時事故原因が戦闘機である事実は伏せられた。2年前、同線網引駅に慰霊看板が設置された。

※この記事は過去に神戸新聞に掲載されたものです。
内容については変更になっている場合がありますので、おでかけの際はあらかじめご確認ください。

[10] 特攻へ向かった道 海軍鶉野飛行場跡(2005-08-25)