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毎年この時期は会社の健康診断がある。
苦手な注射で採血されたり酒の飲み過ぎだと毎回お説教を頂くので、出来れば行きたくはないが会社の決まりなので仕方ない。今年も嫌々診察を受けた。
ところで、この辺りは田舎なので大きな病院がないため、自分で行きやすい任意の個人病院に予約を入れて検査を受けるシステムになっている。この地に転勤してきて以来ずっと同じ病院だったが、あまりにも設備が古いため、検査項目をすべて受診することが出来なくなったことから、会社から病院の変更を指示されて今年は違う病院になった。
去年まで診察を受けていた病院、仮にQ医院としようか、ここの設備は素人目にも明らかに時代遅れだとわかる代物が並んでいた。ネタは尽きないがいくつか紹介すると・・・
視力検査の時に見る表(Cがいろんな方向に向いているやつ)があるのだが、そのQ医院に初めて行った時になかなか見えなくて、視力が急に悪くなったのかと心配したが、さにあらず。建物が古くて部屋が暗いのにもかかわらず、電気をケチって照明がほとんど付いてないから見えなくて当然だ。おまけにその表自体がもう黄ばんでいて見にくいったらありゃしない。いったい何十年同じシートを貼っているのか。
それでも今から2年ほど前か、その黄ばんだ紙の表が無事に引退して、背面に蛍光灯が装備された電気式掲示板?みたいな今どきのタイプに替わった。その年の視力が格段に良かったのは言うまでもない。
また、胃のレントゲンを撮影する際に診察台みたいのがいろんな角度に回転して、隣の部屋からの指示によって体を右に向けたり左に向けたりするのだが、その回転する機械の轟音で指示が聞こえない。それにマイクを使っているのにどうもスピーカーよりガラスを伝わって直接聞こえる声のほうが大きいのだ。機械の轟音の中から微弱な音声を聞き取るという、ある意味レントゲン撮影しながら聴力検査を受けているが如し。
スピーカーから音が出ていないのを知らないのでは、と思ったがガラスの向こうで先生はゼスチャーを交えて指示しているところから、これは確信犯だと判明する。
何とか、連想ゲームと聞き取り試験の複合検査のようなレントゲンを終わって問診の際に「聴力やけど、今しゃべっている声が聞こえるよね。」と先生。ええ、聞こえますとも、あの騒音の中で聞き分けたぐらいですから・・・って、聴力検査ってコレかよ!
そんな飲み会のネタに困らないようなQ医院から一転、今年の病院は何もかもが先進的だった。
そもそも患者を「○○さ〜ん」ではなく「○○様」と呼ぶ。もうお客様扱いだ。ナースの制服や建物の設備、待合室に置いている観葉植物や小物など、もう昔の病院のイメージはない。早朝から繁盛?しているのも頷ける。
そんなリゾートホテルのロビーのごとく完璧な病院も画竜点睛を欠く。ここには胃のレントゲン設備がないのだ。もっとも、影でしか診察出来ないレントゲン自体が古いのだろうが・・・。代わりにここの主役は胃カメラだった。
胃カメラ・・・40数年間生きてきて初めての体験だ。だいたいカメラは三脚の上に立てるもので飲むものではない。最初からイヤな予感はしていたが、その初体験は地獄のような拷問だった。
そもそもカメラを飲む前に水飴のような液体を流し込まれるのだが、この時点で既に「オエッ〜、オエッ〜」状態になっている。私は子供の頃から口に何かを突っ込まれるのが苦手で、学校の歯科検診でもあのヘラみたいな棒を入れられただけで「オエッ〜!」となっていたほどだ。それを喉に留めておくようにだと?飲み込まないようにだと?これが拷問の始まりだった。
ソファーに座ってよだれを垂らしながら待つこと数分、やっと診察台に案内された。話しに聞いていた胃カメラはもっと細いものだと想像していたが、近くて見ると水道のホースぐらい太かった。
「喉を過ぎたら楽になりますから」と先生は説明してくれたが、最初から最後までずっとツラかった。体感的には10分以上の長時間だが、実質は5分少々か。その間、ずっと「オエッ〜、オエッ〜」と唸っていて涙とヨダレがボロボロ出まくりだった。先生が持っているカメラのホースが黒い大蛇に見えた瞬間でもあった。
悪酔いした深夜に吐き気をもよおすものの、既に胃の中には何もない状態なのに吐き続ける、あの苦しみと言えば分かってもらえるだろうか。その日のエネルギーすべてを放出した疲労感が漂う状態で、診察台を降りた。「あしたのジョー」的に言うと「燃え尽きちまったぜ」のモノクロシーンだろう。
待機場所のソファーでぐったりしているとナースから「心電図を取りましょう」との声。
心電図?こんな燃え尽きた状態で心電図〜?今の私は死んでんず・・・などとオヤジギャグを連想するも笑う力も残っていない。さぞかしご乱心な心電図となっただろう。
このつらかった体験をあとで胃カメラ経験者に話すと、最初に飲んだ水飴とカメラの間に麻酔の注射があるらしい。私の時にはなかった。麻酔が必要ないと判断したのか、それとも忘れただけなのか。いや、もうそんな些細なことはどうでもいい。胃カメラ対決、初戦は完全に私の負けだったのだから。
だが、次回はこう簡単にやられないぞ、黒い大蛇を丸ごと飲み込んでやる!
と言いつつ、来年はもう少し細く飲みやすい形状にモデルチェンジしてくれていること期待する気弱な私だった。
この文章は2007年7月頃書いたものです。
今はもう読んでいないが、とあるクルマ雑誌に「10年10万キロストーリー」というコーナーがあって、毎月楽しみにしていた。
文字どおり愛車を10年以上所有しているか、10万キロ以上走った人にその思い出を語ってもらう企画だが、まさに十人十色、様々なクルマや価値観があって面白かった。中には20万キロ30万キロという強者もいて、オーナーの分身のような存在にまでなっていたクルマもあった。
ただ、ここで大事なことは愛車であることと、その過程には多少なりともストーリーがなければいけない。ただ単に年月や距離を重ねてきただけの愛のないオーナーにクルマを語る資格はなく、またそれほどの付き合いをしていたらおのずと物語はあるはずなのだ。長年、連れ添った夫婦のような関係か。
高知県津野町にある長沢の滝にて
梅雨入り直前だが空にはすでに入道雲が
何事にも熱しやすい反面すぐに飽きてしまう困った性格の私だが、これでもクルマを替えるたびにいつも「今度は10万キロ乗ろう!」とか「こいつとは10年付き合おう」と思っている。思ってはいるが、未だに達成したことはない・・・一番長く乗って5年6万キロ程度か。
理由は後からなんとでも付けられる。家族が増えたからとか、荷物が積めないだとか、税金が高いだとか・・・でも、ホントは飽きてしまったことが一番大きな理由だろう。
別ページでも書いているが、これでも(?)バイク乗りだった。もっとも、もう20年以上も前の話しではあるが。
その当時、クルマには興味がなくバイク一筋だった。ホンダとの熾烈な販売競争に負けてしまったヤマハの「XJ400スペシャル」を駆って西へ東へよく走った。販売では完敗だったが、名車と言われるホンダのCBシリーズに負けず劣らずいいバイクだった。
当時は本州に居たので地理的にもどこかに移動するのに都合が良かったせいもあるが、夜勤明けに信州へ数百キロの強行ツーリングに行ったり、和歌山か三重の山中で道に迷い、半泣きになりながら深夜に帰宅したこともあった。人生で初めて「遭難」という文字が頭に浮かんだ瞬間でもあった(笑)
二十歳前後の体力があった時期なので無理も出来たが、今では絶対あんなに走れない。
余談だが、その後四輪とはいえ当時のライバルであるホンダ車に乗るとは不思議な巡り合わせを感じる。
そんなバイクのツーリングにはウェアーや雨具と同じぐらいにバックが重要なアイテムになる。クルマと違って積載量が限られているので、むやみに大きすぎるバックは使えない。不安定な形状のシートに固定したときのバランスや防水性とかも考慮しないといけないのだ。
そこで私もその当時(今でもか?)有名だった「クシタニ」のバックを購入した。とはいえ、高校を卒業したての薄給の身分でそれほどいいバックが買えるはずもなく、季節にもよるが一泊程度の荷物しか入らない小型で何の変哲もない赤いツーリングバックを選んだ。
以後、バイクに乗っていた間にグローブやブーツは何度か買い換えたが、不思議とこのバックは破れもせずいつもタンデムシートに鎮座して旅の良きパートナーになっていた。その後、クルマに乗るようになってからも何かと重宝してこのバックを使っている。
先述のようにクルマは10年乗ったことがないが、このバックとの付き合いはもう20年を越した。最初はもっと鮮やかな赤、そうフェラーリレッドのような赤だったのが、かなりくすんだ赤になってしまったのがその年月の長さを教えてくれるようだ。
バイクに乗っていた当時から今までを合計すると、いったい何十万キロ一緒に走ってきたのだろう。今では私の温泉行きに必ず付き合わされているこのバック・・・こいつが語る「20年数十万キロストーリー」はとてつもなく大きくて長い物語になるはずだ。
この文章は2005年7月頃書いたものです。
昔々、まだ小学生だった頃、週刊の少年ジャ○プや少年マ○ジンを読むのがものすごく楽しみだった。とは言っても、小学生のお小遣いでは毎週買えるはずもなく、ほとんどが立ち読みや友達から1週間遅れで借りて読んでいた記憶がある。
それでもたまに自分で買うと、元を取るべく隅から隅まで読み尽くした。
読むだけじゃ勿体なくて懸賞のハガキも一生懸命書いて送った。もっとも、その努力が報われたことはなかったが・・・。唯一、送った投稿が採用されたのが、読者の広場みたいなコーナーだった。
残念ながら今となっては内容までは覚えていないが、たぶんそんなに大した内容ではなかっただろう。何十年も経って大人になったにもかかわらず、こんなサイトを作っていることから考えると、おのずと子供の時のレベルは想像が付く・・・(-_-;)。けど、小学生にとって全国誌に掲載されるというのは大変な出来事で、そのときにはムチャクチャ興奮したのを覚えている。
それから2週間ほどしてからだろうか、私宛てに見知らぬ所から1通のハガキが来た。
名前は書いてないが、消印を見ると関東地方からだった。明らかに同年代の、つまり小学生が書いたような字で『不幸の手紙』が送られてきたのだ。
今では子供だましというか、子供すら相手にしないようなこの種の手紙だが、この当時はこういうハガキを送ったり、こっ○りさんで好きな相手のことを占ったり、どこそこで幽霊が出た!なんてうわさ話をしたりしてよく遊んだ。だから、そのハガキが来たこと自体はそれほど驚かなかったが、ここは四国である。少なくても私は関東に知り合いはいない。
よくよく考えてみても住所や氏名が公になったのは、先の雑誌の投稿だけだった。個人情報保護法が施行されようかという今の時代からは想像も出来ないだろうが、昔は住所氏名はもちろん、もし書いていたら電話番号までもがバッチリ載っていたのだ。今なら振り込め●欺の格好の餌食になるだろう。古き良き時代だった・・・。
で、そのハガキを受け取ってどうしたかって?一週間以内に同じ文章の手紙を何人に出さないと不幸に〜という例の決まり文句の文面だったが、もちろん無視した。その結果、不幸かどうかの判断はともかく、30年以上経った今でもこうして生きている(笑)
今年に入ってしばらくの間、そう1ヶ月間ぐらいだったがメールチェックをしていなかった。久しぶりに受信をクリックすると画面にはなんと「255通のメールがあります」との表示。昨年後半ぐらいから徐々に多くなってきていたが、1ヶ月も経たないうちに200を越えるメールが来るのは明らかに異常だ。うちは未だにダイアルアップ接続なので、受信がすべて終わるまで延々と待たなければならなかった。
それが知り合いからならまだ許せるが、255通中255通がいわゆる出会い系サイトからのメールと正体不明の添付ファイルを送りつけてくるメール。以前からそういう類のメールは受け取らないように、プロパイダーのほうで怪しいアドレスを登録してブロックしていたが、それだけではとても防ぎきれなくなってきた。彼らはいつまでも同じアドレスを使ってないし、ドメインも巧妙に変えてきている。
去年、このサイトに表記していた私のアドレスはこういうメールが多くなってきたので消した。ネット上でアドレスを打ったのは記憶にある限り、某掲示板でのみだった。おそらく自動で徘徊するロボット型検索ソフトがアットマークの付いた文字列を片っ端から拾ってきて、その中に私のアドレスも入っていたのだと推測される。
そんなわけで不便だが、あるドメイン以外はすべて受信拒否に設定した。おかげでスパムメールは激減した(それでも完全にはなくならない)が、その代わり知り合いや他のまっとうな(?)メールも受信できなくなった。なんのためのEメールなのか・・・情けない。
先の255通が受信されている間、毒々しいメール文章を延々と眺めながら、ふと子供の時の『不幸の手紙』を思い出した。手段は違うが、受け手側が希望しないということではどこかスパムメールに通じるものはある。しかし、自動で大量に送りつける陰湿悪質なスパムメールと違って、高いハガキを買ってきて、手書きで一枚一枚書いている姿を想像したら、逆にほほえましく思えるほどでつい許してしまいそうになる。不幸の手紙がメジャーだった頃のほうが、良かった時代なのかもしれない。
この文章は2005年2月頃書いたものです。
早いものでこの文章を書いているのは2004年夏。
去年は冷夏と大雨で夏らしい日も数えるぐらいしかなかったのに、今年は7月はじめから猛暑!全国至る所で「観測史上初」という記録的高温&局地的集中豪雨に見舞われています。地球規模でどんどん天候がおかしくなってきているような気がします。子供らの世代にはいったいどうなっているのやら・・・。
そんな心配をよそに(?)今年もやってきました、オリンピック。
どんなに猛暑でも、どんなに豪雨でも、はたまたどんなにテ○の危険性があろうとやります、オリンピック。もう、これは国家の一大事業ですから、いや意地ですから。
今回の開催地はアテネ。巷ではスタジアムの建設が間に合わないとか、オリンピック発祥の地のくせに盛り上がりに欠けるとか、なにかと厳しいご意見もあるようですが、どうやら無事に開催されるようです。間違っても愛国心があるとは言い難い私ですが、こういうときには日本選手が1個でも多くのメダルを取れるようにと応援しています。
で、本題はオリンピックではなく・・・それに便乗した商戦にまんまと乗せられたというお話。
とうとう買ってしまいました、液晶TVとDVDレコーダー!160GBHDD付き。最初、液晶TVはさすがに高価で二の足を踏みましたが、どうせビデオが新しくなるのだからという勝手な「こじつけ」と、最近テロップとかがブレて映るので見にくかったため購入。ただし、ビデオとセットで買ってもそんなに割安にはなりません。
セットもの(口の悪い人は抱き合わせ商品とも言う)が安いのはなんたってジャパ○ットタカ○。商品はともかく、深夜のTVショッピング番組、好きです(笑)
本命はテープが円滑に回らなくなったVHSビデオに代わる商品。今まで使っていた古いデッキは再生すると時々コマ送りのようになってしまうので、子供たちからブーイングを浴びていました。ただのVHSデッキなら1万円も出せば買えるんですけど、今さらテープでもないだろうということでパナソニック製DVDレコーダーをゲット。ただし、従来のVHSデッキは付いていません。
電器屋さんに行くとオリンピック商戦で液晶やプラズマTV、DVDレコーダーが目白押し。店中、購買意欲をかきたててオリンピックに間に合わそうと駆け込み受注を狙っています。たしかにどうせならこの機会に・・・という人はたくさんいるようで、かくいう私もその作戦に乗せられた中の一人です。けど、この乗せられ具合はまんざらでもなく、正直買って正解だったかなと思います。
ブラウン管TVでは到底無理な高画質、早送りや頭出しが一瞬で終わる便利さ、片っ端から録画しても余裕のHDD容量。車内で聴く音楽カセットがテープからCDやMDに取って代わったように、家庭用録画ももうテープには戻れません。
これからの課題は豊富な機能をどう使いこなすかにあります。購入してからまだ日も浅いので、普通にTV番組を録画再生するぐらいしか使っていませんが(DVD-Rにダビングすることさえも未経験)これではあまりにも勿体ないです。運の悪いことに近くのレンタルビデオ屋さんも閉店する始末で、DVDビデオも借りられません。(DVDソフトって、買うとまだ高いんですよね〜)
手始めにネットに接続して・・と考えていますが、それにはブロードバンド環境が必要。ちなみにうちの現状は少数派になったアナログ回線。これでは使えませんので、まずここから変えていこうと考えていますが、それには大きな問題が(-_-;)
なにが問題なのかはまた別のページで詳しく書いていこうと思います。
この文章は2004年8月頃書いたものです。
例年になく猛暑と水不足になった2000年の夏、私が使っている会社のクルマが替わりました。
おそらく日本で一番使われていると思われるT社のCというバンです。(ここまで書いたらカ○ーラだってことはすぐに分かるけど)前のクルマも同じ車種。ですから見た目や外観はほとんど一緒なのですが、そこには驚くべき進歩があったのです。
まず、必要最小限の装備しかない実用車なのに標準でエアーバックが装備されています。個人的にはエアーバックよりもABSのほうがありがたいのですが、万が一のためにはこれもうれしい装備です。ただ、動作するときの事は考えたくありませんね(笑)一度も使わずに済むようにしたいと思います。
それと会社のクルマですからミッションはMTなのですが、これが5速仕様になっています。ちなみに今まで5MTのクルマなんて乗ったことありません。クロスレシオのスポーツミッションではありませんから、間違ってもギヤ操作が楽しいという感じはしませんが、燃費への貢献は大きいでしょう。
じつは先ほどのエアーバックといい5MTといい、この装備は納車1ヶ月ほど前に行われたマイナーチェンジで盛り込まれた内容です。あえて追記するならば、プリテンショナー&フォースリミッター付シートベルトも入っています。で、T社の宣伝をそのまま信用するならば価格は据え置きということらしい。もっとも以前の価格は知りませんけど・・・恐るべしT社の底力!最近はニッチ商品が目立つこのメーカーですが、押さえるべきところはちゃんと押さえています。
私の個人的感情としてはこのメーカーのクルマはあまり好きではありませんが、一つの『物』として評価した場合、日本一の品質と価格を提供していると思います。ただ、クルマというのはそれだけでは魅力ないんですよね(っと、H社に乗っている私の負け惜しみも書かして下さい)(^o^)
それで肝心の走りはどうなのかというと「これがいい!」とても商業車には思えません。まあ、前のクルマが5年11万キロほど走ったクルマなのでそれから乗り換えたら何でもいいと感じる部分はありますけどね。
乗り始めて最初に驚いたのはその静けさ。ラジオが良く聞こえます(爆)それと乗り心地の良さ。バンですから荷物を積むことを前提に少し固めにしているようですが、それが私の好みに合っています。たった1,3リッターしかない4E−FEですが、車重が軽いせいか良く走ってくれます。
街中では5速はやや余計と感じますが、郊外の走行ではエンジンの回転数を押さえられて燃費の向上になるでしょう。ちなみに「平成12年基準排出ガス25%低減レベル」対応にするため無理矢理5速にしている感じもしないではないですけど。
私はこのクルマに乗って新たな発見をしたような気がします。クルマに乗るだけならこれで充分じゃないかと・・・確かに高級感や優越感はありません。同じ車種でもグレードのいいタイプでないと気が済まない人には受け入れてもらえないでしょうが、クルマとしての基本性能は満足できるレベルになっています。
このグレード(1,3リッターMT仕様)で車両本体価格が約91万円!諸経費を加算しても新車が110万円前後で購入出来ます。200万も250万も出して「薄っぺらいクルマ」を買うぐらいなら断然こちらをオススメします。問題は貨物ナンバーなのでリヤーシートの居住性は良くないことと、あとは営業車に間違われることぐらいでしょう。
このクルマをベースに、オリジナルの良さを壊さない程度の改造をしてサーフィン仕様やオートキャンプ仕様にする・・・・・そんな賢い使い方が出来るクルマだと思います。
この文章は2000年9月頃書いたものです。
私の仕事は、サービスエンジニアという読んで字のごとく機械をメンテナンスする仕事です。どんな機械かというと、俗に言うOA機器と呼ばれるものです。コピーやFAX、プリンターなんかがあります。
外から見たらたいそう難しい仕事に見えるようですが、実際はそんな事ありません。ちょっとコツを覚えれば大抵の人は出来ます。簡単なクルマの整備が出来るような人でしたらまずOKです。
実際に仕事をするのは、お客さんの所へ行ってそこで作業します。持ち込み修理なんて基本的にほとんどありません。ここがクルマの整備とかと大きく違う所でしょう。まあ、持ってきてくれと言っても、そう簡単に持ってこれるような大きさではありませんから。ですから様々な業種の様々なお客さんに会うことになります。いちいち書いていたらとても終わりそうにありませんのでここでは割愛しますが、以前に心温まる体験をしたのでその時の様子をお話ししようと思います。
今は転勤でこの高松にいますが以前は、生まれ育った愛媛県にいました。日本の島国、四国のことですからどこに行っても田舎であることに変わりありません。
その田舎の愛媛県の中でもまだ田舎である離島の民家に訪問したときです。機械が調子悪いとの要請で行きましたが電話をした当人は不在でした。代わりにその人のお母さん(かなりの高齢)が出てこられました。昔ながらの農家で土間もちゃんとありました。
いいですね、こういう雰囲気は・・・いかにも日本の良き時代が残っているようです。作業自体は簡単に終わり説明をして帰ろうとしましたが、そのお母さんに呼び止められて
お母さん 「これ少ないけどもらってやって下さい」
私 「えっ?いや、こんなものは受け取れませんから」
お母さんはあろう事か財布から千円札を出して私に渡そうとします。
お母さん 「こんな所まで来てもらって気の毒なのに。帰りにジュースでも買って下さい」
私 「いや、ホントに受け取れませんので・・・」
しばらく押し問答が続いた後、さすがにあきらめた様子で
お母さん 「そうですか。お金がいけないのならちょっと何か食べていって」
そう言って、さっきの土間の方へ行きました。まあ、船の時間もまだでしたから私も腰を下ろしました。しばらくしてお母さんがどんぶりに何やら入れて持ってきてくれました。中身は豚汁にうどんを入れて煮たようなものでしたが、これがなかなかの美味、まさに田舎の味でした。
唯一の欠点は上からかけた七味が多すぎたことでしょうか。ありがたく全部頂いて、その後ミカンをもらっておみやげにと柿まで渡されました。仕事で来ているだけなのにこんなにしてくれるなんて・・やっぱり田舎は良いです。
帰りの船の中では、多すぎた七味のせいで体がポカポカ暖かくなっていましたが、心の中はそれ以上に温かくなっていました。あれからもう6年ぐらい経ちましたが元気で農作業されているでしょうか。その後、他の訪問先でうどん入り豚汁を食べさせてもらった事はありません。
スーパーのレシートを整理して家計簿をつけていたうちのやつが突然「な〜んだ」とおっしゃいました。
私 「どうしたん?」
妻 「いや、今レシートを確認していたらナナミという品物があって、最初何のことかわからんかったんよ」
私 「なんじゃそのナナミというのは?」
聞き覚えのない品物なのでレシートを見るとたしかにナナミというのが打たれている。そんな物買ったか?妻がよくよく考えた結果、実はコレ「七味」の事だった。「七味」が「ナナミ」かあ。無理したら読めないこともないけどね。でもおまえ、そんなマジカル頭脳パワーみたいな発想よく出来たな〜。
妻 「バーコードの品名を入力するときに間違って入れたんやろうけど、七味を知らん人っておる?」
私 「どうせ、ろくすっぽ品物を見ずに適当に入力したんやろ」
ここ香川県は言うまでもなく讃岐うどんの本場。うどんと言えば七味なのにおかしな話です。
妻 「なんか信じられんねえ。それじゃあ、一味はどんな名前で入力したんやろ?」
私 「そりゃあ、ひとみやろ」
妻 「・・・・・・・・」
「ナナミ」に「ひとみ」か。お台場を舞台にした友達以上、恋人未満的恋愛物語を見ているようだった。(お台場って行ったことないけどね・・)
この文章は1999年1月頃書いたものです。
5年半ほど住んだ香川県高松市から7月に愛媛県宇和島市という所へ引っ越しました。
大体の場所や位置関係は図を見てもらえれば分かると思いますが、結構離れています。会社の転勤ですからイヤというわけにもいかず、高松〜宇和島間250キロの移動となりました。
子供の1学期終了後、家族が移動して元の生活が始まりましたが、まだまだ片づけが終わらなくて苦労しています。今はなかなか時間的な余裕がなくて撮影に行けませんが(台風や大雨のせいもあります)近い内にここの 素晴らしい自然を紹介していきたいと考えています。そうそう、長い間更新や掲示板のレス付けが出来なくてスイマセン。この場を借りてお詫びします。
でもって、そんなに忙しいのに子供たちが退屈そうなので台風が近づいている日曜日、南レクへ遊びに行きました。ロープウエイにも乗ったし飛行機(現存する唯一の紫電改)も見えたし・・・あとは海水浴だな!
この文章は1999年8月頃書いたものです。