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2007-07-28 (Sat.) 自発教令と梅村司教様

カトリック新聞2007年7月22日号に掲載された、今回の教皇様の自発教令についての日本カトリック司教協議会典礼委員会長梅村昌弘司教様のお言葉について考えてみたい。(記事全文

まず第一に気になるのは、字数が少な過ぎるということ。この字数では、梅村司教様がどのようにお考えなのか正確には分からないと思う。
しかし逆に考えれば、この少ない字数はかえって梅村司教様のお考えになっていることのポイントを浮き彫りにする、ということになるかも知れない。私は司教職とカトリック新聞の関係について詳しくは知らない。しかし梅村司教様はカトリック新聞社が報道しようとしているご自分の「発言」に関わる記事の内容を、事前にチェックしているのではないだろうか。それが自然である。そしてそれにOKをお出しになったからこそ、それが私達のところに届いているのではないだろうか。

まず、今月16日の日記にも書いたことだが、報道においてはまず第一に見出しである。7月22日号のその記事における第一の見出しはこうである-----「梅村司教 教皇自発教令を解説」。
私はこの見出しに関して、次のような感想を持つ。-----「解説? しかし教皇様の自発教令またそれに伴う司教宛の書簡を読むにおいて、私達は必ず誰か私達自身以外の人の "解説" を必要とするだろうか? 教皇様の真意が私達に届くために、必ずそのような "二段階" を踏まなければならないだろうか? 確かに私達は謙遜でなければならない。私達は平信徒であり、一方梅村司教様などは私達の指導者である。しかし、それにしても必ず二段階を踏まなければならないだろうか? 教皇様のお心を受け取るために、私達は他に誰かの助けがなければ全く無能なのだろうか? 教皇様のおっしゃっておられることは、私達にとってそれほど難解なことだろうか?」

日本司教協議会は私達に「教皇様の真意」を "解説" するが、その前に自発教令の全文をそのままに翻訳してそれを私達に表示してみせることは決してしない。

記事本文。

(梅村司教は)まず、この自発教令の背景として、「一九八八年のルフェーブル大司教による離教(教皇に服従せず教会との交わりを拒否すること)があることをまず理解しなければなりません。これをもって内容を読んでいただきたい」と強調する。

(梅村司教は言う)「たとえ離教者であっても有効に叙階された司教が、司教や司祭を叙階してもその叙階は有効です。有効に叙階された同会の司教・司祭が増えることで教会の分裂はますます深まります。ですから、教会の一致を阻害している原因をいち早く取り除く必要があります。今回の自発教令は、その目的のために公布されたものと考えます。」

( )は管理人

私はこの言い方がわからないのだ。この表現によると、あたかも聖ピオ十世会が今もある意味において「教会の内部」にあるかのようである。
聖ピオ十世会が「教会の内」にあるなら、聖ピオ十世会が新しいミサや第二バチカン公会議を否定することによって「教会の一致を阻害する」ことは、勿論できる。でも、聖ピオ十世会が「離教団体」であり「教会の外」にあるものなら、聖ピオ十世会ができるのは「妨害」か「攻撃」である。教会はそれに防波堤を築けばいいだけであって、「教会の一致を阻害するものである」という形で嘆くことはない。
やはり「離教」であり「違法」ではあっても、叙階や秘跡が有効であれば、それは「教会の内」に属するものなのだろうか。このへんを明確にしてもらいたいと思う。

もし「聖ピオ十世会は "離教団体" である」とカトリック教会が定めているなら、それは誤謬を教会から追い出したことであるから、かえって「教会の一致を高めた」ということである。より「教会の一致を固めた」ということである。そこに今更「聖ピオ十世会が教会の一致を阻害している」という表現は出る余地はない。既に整理されているのだから。

聖ピオ十世会は教会の「内」にあるのか「外」にあるのか。どっちなんだ。

私も今度の自発教令が何らかの意味でその背景に「ルフェーブル派」の問題を持っていることは知っている。しかし梅村司教様が「今回の自発教令は、その目的のために公布されたものと考えます」と言うように、果たしてそれが「主要な目的」なのだろうか。-----皆さん、どう思いますか?
自発教令の目的に関してこの点だけを言う梅村司教様とカトリック新聞は、果たして「公正な発言と報道をなさっている」と言えるだろうか。「事実に正確に相対面していらっしゃる」と言えるだろうか。

教皇様は何故、今度の自発教令をお出しになったか。その目的は何か
「聖ピオ十世会との和解」あるいは「カトリック信徒を "トリエント・ミサを持った、そしてそれ故かなり強い魅力を一部の信徒達に感じさせる離教団体" の悪影響から護ること」だけが、その目的だろうか。あるいは、「だけ」ではないにしろ少なくともそれが「主要な目的」なのか。本当にそうか。

たとえば、教皇様は司教達への書簡の中でこうも書いていらっしゃいます。(私の下手な訳で申し訳ありません。)

しかしながら、そこで起こった隆盛の理由はもっと深いレベルにありました。第二バチカン公会議の指し示された性格を明らかに受け入れ、また教皇にも司教にも忠実だった多くの人々が、それにもかかわらず、彼らにとって大切だった神聖な典礼の形式を回復することを望んだのです。このことはとりわけ、多くの場所でミサが新しいミサ典書の規則に忠実に行なわれなかったために-----しかしこのことは実際には創造性を認可すること、あるいは創造性を必要とすることとしてさえ理解されました。しかしこれはしばしば耐えられないほどの典礼の変形を引き起こしました-----起こりました。私は、私自身がこの全ての希望と混乱の時期を生きてきたので、その経験から話しています。そして私は、この典礼の恣意的な変形というものが如何に教会の信仰に全く根ざしている個々人に深い痛みを引き起こしたかを見てきました。

司教達へ宛てられた書簡

このようなことは、カトリック新聞が自発教令に関して初めて報道した7月15日号の記事においても、また今回の梅村司教様の記事においても、決して触れられることがない。自発教令の中の重要な要素の一つとしてこれがあることを、日本司教協議会は決して語らない。
しかし私が思うに、梅村司教様も、日本司教協議会も、カトリック新聞も、教皇様のそのようなお言葉に、素直に耳を傾けるべきなのです。この教皇様のお言葉は私達の国日本にも無縁ではないからです。1987年に起こった京都河原町教会地下聖堂での御聖体への全くの冒涜である典礼の濫用を思い出して下さい(1)。また最近の両形態の御聖体拝領における平信徒達の「深い痛み」に気づいて下さい(2)。またつい先日私が取り上げた「あっちこっちミサ」に対する信徒達の嘆きの声を聞いて下さい(3)。こういうことが現にここ日本でも存在するのに、梅村司教様は何故、この自発教令のことにおいて「ルフェーブル問題」のことしかおっしゃらないのでしょうか。この書簡の中の教皇様のお言葉、そしてそのご精神を前にして、日本の司教樣方は少しも誠実に己が身を振り返らないのでしょうか。目をそむけるのですか。見なかったこと、なかったことにするのですか。ここらで一つ正直に、「日本でも残念ながら確かにそのような濫用があったことを私達は認めます。私達は今それらを改め、より確実に典礼問題における一致を教会にもたらすよう心を砕こうと思います」とおっしゃってはどうですか。

また教皇様はこうもおっしゃっておられます。

第二バチカン公会議の直後、1962年版のミサ典書の使用を求めているのは、それと共に育った古い世代の人々に限られていると思われていました。しかしそのうち、若い人々もまたこの典礼の形式を発見し、その魅力を感じ、その中に至聖なるミサ聖祭の神秘との出会いの形を見出し、そして特にその形が彼ら自身に適していることに気づいた、ということが明らかに証明されてきました。

司教達へ宛てられた書簡

つまり、聖ピオ十世会の問題とは全く関係なく、信徒の中に、若い世代にも、この旧典礼(トリエント・ミサ)に惹き付けられる人達が現にいるということです。ここ日本でも間違いなくいます。そのような信徒達の心の保護のことも、教皇様はおっしゃっておられるのです。
それなのに、どうして梅村司教様は、離教団体のこと、教会の一致の問題のことだけをおっしゃって、それで済ますのでしょうか。

カトリック新聞の記事は、梅村司教様の言葉を紹介して、こう書いています。

(梅村司教は)「ラテン語ミサに固執することが新たな分裂の火種となることを私は司牧者として一番恐れます」と懸念を表明する。

記事全文

まず、教皇様が今回の自発教令で事実上「開放」した「1962年に福者教皇ヨハネ23世によって公布されたローマ・ミサ典礼書」は単なる「ラテン語ミサ」ではないことを明示すべきだろうと思います。
しかし梅村司教様は特にこのミサが「ラテン語」で立てられることが気になるのでしょうか。それとも儀式形態全体ですか。しかしとにかくどちらにせよ、この旧典礼が、というより旧典礼に「固執」することが、「新たな分裂の火種となる」ことを懸念されているわけでしょうか。
では問題となる「固執」とはどういうことでしょうか。それは旧典礼と新典礼を対立的に見て、旧典礼を好む信徒が新典礼を好む信徒のことを「不敬虔だ」と非難したり、あるいは逆に新典礼を好む信徒が旧典礼を好む信徒のことを「彼らは古くさい。彼らは敬虔ぶっているだけだ」などと非難することでしょうか。あるいは、「 "第二バチカン公会議の精神" はその曖昧さにおいて、すなわちその "適応" において間違っている」と考える「保守的」な(しかし離教団体に属さない)信徒達はこれによって心を強くし、また一方「旧典礼はエキュメニズムを後退させる」などの「進歩的」な考えを持っている信徒達は不満である、というようなことでしょうか。あるいはミサ挙行の際の実際問題として、旧典礼と新典礼両者における会場(聖堂)の取り合いというか、調整の問題をめぐっての対立でしょうか。
確かにそのような問題の発生する可能性も多少はあると思います。しかし、私達は今もう一度、教皇様のお言葉に耳を傾けてみましょう。

第一の怖れは、この文書が第二バチカン公会議の権威を損なうものであり、その本質的な決定のひとつ-----典礼改革-----が疑問符の下に置かれようとしている、というものです。この怖れには根拠がありません。(中略)これら二つの版のローマ・ミサ典書のことを、あたかもそれらが「二つの典礼」であるかのように語るのは適切ではありません。むしろこれは一つであり同じである典礼の二つの活用なのです。

司教達へ宛てられた書簡

この待たれた自発教令についての議論の中で表明された第二の怖れは、1962年版ミサ典書の広い使用の可能性は教区コミュニティーの中に無秩序を、あるいは分裂さえもたらすのではないか、というものでした。この怖れも、私には全く根拠のないものとしか思えません。古いミサ典書の使用は、ある程度の儀式構成の問題とラテン語に関する幾らかの知識を前提としますが、これらのどちらも、それほど多くは見つかりません。

司教達へ宛てられた書簡

特にここで私は、梅村司教様に、教皇様が言及された「第二の怖れ」について目を向けて頂きたいと思います。それは私が最近知った「あっちこっちミサ」-----頻度は少ないが教会の青年部を中心に不定期に全国規模で行なわれているミサ-----との関連においてです。
このミサで行なわれていることを少し見るだけで、私にはこれが教皇様のおっしゃる「多くの場所でミサが新しいミサ典書の規則に忠実に行なわれなかった」「このことは実際には創造性を認可すること、あるいは創造性を必要とすることとしてさえ理解されました。しかしこれはしばしば耐えられないほどの典礼の変形を引き起こしました」「この典礼の恣意的な変形というものが如何に教会の信仰に全く根ざしている個々人に深い痛みを引き起こしたか」ということに該当すると、全くもって確信します。またこれは教皇様が自発教令の冒頭で引用した「ローマ・ミサ典礼書の総則」の言葉-----「各地方教会は、信仰の教義と秘跡のしるしに関することにおいてばかりでなく、連続した使徒的伝統によって普遍的に受け入れられてきた習慣に関しても、普遍教会と一致していなければならない。教会の祈りの法 (lex orandi) は信仰の法 (lex credendi) に通じるが故に、それらの習慣は、単に誤りを避けるためだけでなく信仰がその完全性において伝えられるために、維持されなければならない」-----にも全く明らかに反したものだと思います。(何故なら、「あっちこっちミサ」のいったいどこに、信仰の確実な伝承を保証する「完全性」がありますか?)
しかしとにかく日本の司牧者の方々は典礼に関してこれほどの「自由奔放さ」と「柔軟さ」を持っているということは確かなわけです。それなのに何故、旧典礼に関してはこれほど用心深いのでしょうか。旧典礼が教会の一致を阻害するからですか。教皇様は「そんなことはない」とおっしゃっておられます。少なくとも「司牧者の然るべき配慮があれば、そんなことはない」「そんなことがないように。それを避けることももちろん可能ですから」とおっしゃっておられます。また「問題の解決がつかなければエクレジア委員会に任せることもできる」とまでおっしゃっておられます。教皇様はそこまで、ある意味旧典礼の実施に対してご覚悟がおありになるのです。「多少のリスクをおかしてもそれには価値がある」と間違いなく判断されています。そしてそれは熱意でもあります。どのような熱意もないなら教皇様はそれを「自発教令」にはなさいません。それで、結局、旧典礼に対する教皇様のお考え、また聖座の考えとは、今、明らかにこうではないでしょうか-----「そもそもそれは教会の財産であるそれが教会の中で廃止あるいは禁止されたことは今迄一度もなかったし、それは信徒の霊性や信仰の感覚を深める充分な可能性を秘めている。」

梅村司教様は「『一致促進』第一に配慮」(見出し)であられ、教会の中に「新たな分裂の火種」が発生することを何よりも「懸念」されながら、一方「あっちこっちミサ」のような、「新しいミサ典書の規則に忠実に行なわれる」ことのない、「恣意的な変形」を持つ、「 "信仰の法" を完全な形で維持するために必要な "祈りの法" 」を持つとはとうてい思われない、「教会の信仰に全く根ざしている個々人に深い痛みを引き起こす」であろうところの全く異形の典礼を、平気で許可されているのではないでしょうか。それとも、ミサ中信徒に自作の福音劇を演じさせたり、信徒オリジナルの曲を皆で歌わせたり、ポピュラー音楽のような雰囲気で若者にドラムやギターを演奏させたり、開祭時に「ただいま!」「おかえり!」、派遣の挨拶に「いってらっしゃい!」「いってきます!」などと言わせることは、「ノヴス・オルド・ミサをその基礎に持ち、その応用であるから、教会の一致を乱すものではない」とでもおっしゃるのですか?
片や今教皇様によって取り上げられた典礼は、教会の何百年もの、千何百年もの歴史のある、カトリックの信仰にしっかりと結びついた由緒正しきトリエント・ミサです。どうしてその格式も実績もある尊敬すべき典礼、「教会の財産」たる典礼に、「一致の阻害」や「分裂の火種」を見て、他方「あっちこっちミサ」にはそれをお感じになられないのですか?(笑) そんなことってありますか? 何故それほど変形された典礼を信徒のために「実験」することができて、旧典礼をここで改めて信徒のために、また宣教の成績のあまり芳しくないカトリック教会の現状を打開するために「実験」することが、ひとつもできないのでしょうか。このようなことを見せられている私達は、梅村司教様の「一致促進への配慮」や「分裂への懸念」というお言葉を、その言葉通りに、それが梅村司教様の真実のお気持ちを表わしたものであると〈本気で〉信ずることができるでしょうか? 梅村司教様がそれらのもっともらしいお言葉を口にされることを、少しも笑いの衝動なく聞くことができるでしょうか? 少なくとも「あっちこっちミサ」、また聖座の指導に沿わない両形態の御聖体拝領、このようなものを「一致を阻害するもの」として一切確実に排除してから、そのようなことをおっしゃって下さらないでしょうか?
(私が笑いの衝動を感じるからといって侮辱と取らないで下さい。日本のある教会では、間違ったやり方の両形態の御聖体拝領をして祭壇の上に置かれた御血の入ったカリスを倒したあげく、床にこぼれた御血をただ普通にモップ掛けをして処理するそうです。またある司祭は教皇様のことを上長ではなく「仲間」だと言っています。そのような有り様で、日本の教会のどこにカトリック教会が昔から継承して来た筈の「信仰」の「一致」など存在しているのでしょうか。梅村司教様が求めてやまないと言うその「一致」とは、いったいどこに、何に一致することですか。今や典礼の形態など以外でも、秘跡の意味、信仰の内容そのものにおいても「恣意的な変形」があるのではないですか。)

ミサ挙行の会場たる御聖堂の問題にしたって、大きな教会では主日には二度以上の御ミサがあるわけですし、小聖堂だってあるわけです。決して不可能な筈はありません。

これら全てを鑑みて、今、梅村司教様が私達に向かって打ち出すべきことは-----
「色々な困難が予想されるが、教皇様の御意向を深く受け止め、また信徒の皆さんのご理解も頂きながら、できるだけ前向きに、今回の教皇様の自発教令を日本の教会にも反映すべく努力してゆきたい」-----である筈です。違うでしょうか?

教皇様は自発教令の中で、聖パウロの次の言葉を引用なさっています。教皇様は何をおっしゃりたかったのでしょうか?

私達の口はあなた方に対して開かれる、コリントの人々よ。私達の心は広い。あなた方は私達によって制限されていない、しかしあなた方自身の心の中で制限されている。そうではなくて・・・あなた方の心も広くせよ!

(コリント第二 6:11-13)

聖書の言葉なので、私の翻訳ではなくバルバロ訳を掲げます。(多少前後を含めて)

コリントの人々よ、私たちは、遠慮なく話した。私たちの心は広くなった。私たちの心のなかであなたたちは、窮屈ではない、むしろあなたたちの心が窮屈である。あなたたちも、心を広くして、私にむくいよ。-----私は自分の子に話すように話している。

この部分については新共同訳も悪い訳はしていないようです。(私も言葉上の問題においてチラッと新共同訳を覗くほどには「心が広い」のです...(^^;ゞ )

コリントの人たち、わたしたちはあなたがたに率直に語り、心を広く開きました。わたしたちはあなたがたを広い心で受け入れますが、あなたがたは自分で心を狭くしています。子供たちに語るようにわたしは言いますが、あなたがたも同じように心を広くしてください。

そしてバルバロ訳はこの箇所について次のような注釈を付けています。

パウロはコリント人に自由にのびのびと語った。その心のひろさは、かれらへの愛のあらわれである。しかしあるコリント人は、パウロに対して愛をもっていない。

どうか梅村司教様が、また日本の他の司牧者の方々が、「教皇様に対して愛をもっていない」と言われないように、今回の教皇様のご提案に対して-----本当は「提案」以上のものですが-----「こころを広くして」、教皇様に「むくい」て下さいますように!

最後に、典礼秘跡省局長であられるマルコム・ランジス大司教様の言葉(自発教令公布前のもの)をここに置こうと思います。大司教様の言葉は教皇様のご意向と、それこそ、「一致」していると思われるからです。

しかしそこには時折多くの形骸化と陳腐化が見られます。
従って、私達は礼拝における神聖さと神秘に対する真のセンスを取り戻さなければなりません。
そして、もし信徒達が、トリエント・ミサが他の何よりも彼らにその神聖さと神秘の感覚を提供すると感じるのであれば、その時私達は彼らのこの要求を受け入れる勇気を持たなければなりません。
モツ・プロプリオがいつ公布されるのか、またそれがどんな性質ものになるのかについては、まだ何も知らされていません。それを決めるのは教皇様です。
そして彼がそうする時、私達は全くの従順さをもって彼が私達に示したことを受け入れなければなりませんし、また教会に対する真実の愛をもって、彼を助けることに骨折らねばなりません。どのような抵抗的態度も、教会の霊的使命を害し、天主御自身の御意志を妨げるだけでしょう

"決めるのは教皇様です"

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