部落問題から人権問題へ ―新しい視座をひらく |
1. 人はなぜ差別するのかー加害者の心理 私は、差別する人と犯罪加害者を共通の視点でみている。どちらとも ・ コンプレックスの裏返し であり、 ・ ためこんだ怒り・コンプレックスをより弱いものにぶつける(犠牲にする、カモにする) という言う点で同じだからだ。 10年以上前、ある差別事件があった。この事件は、差別する人の心理、加害者の心理をみる必要性を感じさせるものだった。差別をなくすには、運動する側が差別する側の心理分析をし、それに対処できるプログラムが必要だと感じている。最近でこそ、加害者の復帰のためのプログラムが出てきたが、当時はまだまだ啓発・教育手法といえば、「差別された人はつらい」ということを訴えるだけの内容だった。「プログラム開発」が遅れていたのだ。 当時、私は、常に差別する側の人間の「心理」にこだわっていた。なぜ、人は差別するのか・・・・これは、まさに金香百合さんが提示されているように、「心の栄養がなくなったから」なのだ。単に「空気のように吸い込んだ差別意識がある」というのではなく、暮らしの中で「染み付いた文化」があり、ポジティブなものもネガティブなものもある。多くの場合無批判的に継承している私たちの生活の中では、「心の栄養がなくなったとき」そのネガティブな文化が暴力=差別へと転化するのだと思う。 差別事件をおこした人:Aには、家庭内での大きな問題を抱えていた。しかし当時は、「虐待」という概念がない時代だった。Aは、精神的に両親、姉・兄から精神的虐待を受けていた。つまり、家庭の中で「差別」されていたのだ。 差別され続け、心が凍ってしまっていた。周辺の人間に理解がむずかしかったのは、A本人でさえ、自分の心の傷を理解できていなかったからだ。精神的虐待を受けた人にはありがちなことだったが、自分の内面の問題にふれると解離症状 を起こす。家庭の話になると、能面のような顔になる。「もう慣れているから、気にしていない」と。 これは、虐待されている子どもに関わっている人ならすぐに分かると思う。被虐待に慣れてしまった人は、自分の痛みさえ避ける。痛みを自覚すると自分が壊れるという心の体力への自己防衛反応であるとも言えるが、さらにそれが日常化し、固定化されていくと、自分の痛みを痛みとして感じなくなる。いわゆる自己トレーニングされてしまうのだ。自分の痛みさえ避ける人に、他人の痛みは理解できない。平気で差別して当たり前だ。 そして、救いを求めるがごとく暴力(=差別)をする。それは、自分の中にたまってしまった毒を表現することで、自分の救いの方策を誰かにさがしてほしいという表現でもある。 これは、非行とて同じ現象だ。人のものを壊す、盗む、暴れる・・・「俺をみてくれ、この傷を発見して癒す方法を教えてくれよ!!」「本当に私の命が大事だというなら、こんないやな私でも、救ってごらんなさいよ」と叫んでいるのだ。 Aの傷も、日常の仕事や人間関係の中で、怯えていた。エリート意識があるのに仕事ができないのだ。Aは、自らの傷を学歴意識にすがって乗り越えてきたようだった。しかし、特に問題解決力が問われる場面で何もできなきなる。様々な条件が重なってAは、その現実をみたくなくて、煮詰まって、差別という行為に走った。いけないとわかっていて、万引きをしてしまう行動、逆上して人を刺す行動と変わりはない。この「背景」を理解しないと、Aの差別意識は解明できないし、何より本人自身が「差別したことの意味」さえ咀嚼できないし、もちろんのこと反省もできない。病に近い症状があり、人権問題の学習会でどうにかなるものではなかった。カウンセリングが必要だった。 部落解放運動が糾弾会で実践していた理念は、「差別者が差別するに到った生い立ち」を加害者にふりかえらせ語らせる(自分をくぐらせる)ことで、自分のしんどさを人にぶつけていた(=心の栄養を失って、外向きの暴力に出ていた)ということ、そしてそこに追い込まれる社会的位置をみつめ、内面とともに、それに追いやる環境の変革の展望を導き出すということだったが、そういった理性的な「学び」の場は、病が回復しないとできない。 Aは親に愛情を得られなかったどころか、兄や姉と比べられ、やっかいものの扱いする日々の親のことばに傷ついていた。事件は、Aの中にたまった怒りを毒にして、自分より弱いと感じた対象=部落の人々にはき出してしまうという落書きだった。人権擁護の法律もないもとで、この問題の解決は、解放運動や市民の手にゆだねられた。 しかし、このような人に「差別はだめです」と批判しても何の解決にもならない。「差別された人は傷ついています」と被害者の痛みを訴えても、「あらそうですか」とさえなる。(池田小学校事件の宅間は典型だろう。)なぜなら、本人が長年傷ついていて心の痛みに麻痺しているからだ。自分自身のことでさえ、どうでもいいと思っているのだ。 「かわいがってくれていた祖母が亡くなってから家庭に居場所が無くなった。」とAは言っていた。10年後、少年サカキバラが同じことを言ったとき、私は背筋が冷たくなった。 差別心というのは一種病理にも近い。米国ではHate Crimeという概念がはっきりとあり、民族差別等の意識からくるに暴力・犯罪を大きな課題としてとりあげているし、それにとりくむNPOの力は大きく、ブッシュでも一応は、9.11の直後アラブ人へのHate Crimeを公的に批判したほどだ。(ポーズでもそうせざるを得ないほど、人権団体・NPOが強いということだ。) 日常の小さな差別心は、あるとき発火すると大きな殺人的力となる。それは、個人の中の発火であるか、集団としての発火であるかは状況によって違う。 繰り返すが、心淋しい人にどんなに「差別はだめです」といっても「はいらない」のだ。 その人の満たされない思いを引き出さない限り、その人は心開かないどころか反応しない。そこまでの視点・技術に基づいたプログラムは当時の解放運動にもなかった。たった10年前、心理学・精神医学は、この領域ではあまりリンクしていなかった。 私は、人が差別するかどうかというのは、「その人が満たされているかどうか」の一点だと思っている。 これは、決して良い親に恵まれないと、誰もが差別するようになるといっているのではない。 もし、親によって満たされなくても、精神的親代わり・家族代わりというのは現れるものだ。そういう人生の「出会い」は、昔は自然に得られたが、今では、意識的に求めないとなかなか出会えない。その出会いをつくる=コミュニティ 形成がNPOの仕事なのだと思う。 家族の問題が複雑になってきた(というよりは、孤立化してきた)今日、教師もまたそういう視点で子ども達と接しないと、もたなくなっている。米国のように、学校にカウンセラーではなく、ソーシャル・ワーカーが必要な時代になってきたともいえる。勉強にうちこめない子どもの原因をさぐり、家庭環境を調整したり、その子どもがセルフ・エスティームを高めるためのコミュニティの組織化・再構成、あるいは社会資源の活用は、もう教師の職責の枠をこえた仕事であろう。そういった機能を学校に補充するNPOが必要なのだ。 2. 人権問題と心理学・精神医学、生活文化という視点 さて、人権問題をいかに個人の中に内面化するのか(日常生活への反映や活動へのモチベイションの基礎として)という視点で展開する際に、いくつかの視点を考えたい。 A) 「嫌い」の心理 「差別する人は悪い=醜い=ああは、なりたくない=私はちがう」となるのが人情だが、この「嫌い」の中に隠れたものがある。差別意識を他者に帰属するものとして批判すると、「そのような素質は自分にない」と思えるのだ。人を批判していると自分は、とても楽だ。 私はある講座で「嫌いの心理学」という展開を試みた。これは、自らをくぐらせるという作業のひとつでもあったと思う。 嫌いな人の嫌いな部分をどんどんあげてもらう。すると、実はそこに「認めたくなかった自分」が出てくる。ある友人に、彼女が雇われている社長の嫌いなところをどんどんあげてもらった。つきることなく出てくる批判。だまって、ふんふん・・・そりゃあ、いやなやつだ・・・と聞いていた。彼女は、30ぐらい出した頃にこういった「え・・・これって、あたし?」・・・彼女は愕然とした。 これは、まさに「くぐる」行為だ。 つまり、人は自分の中にあるとは認めたくない素質を人に転化して意識し、その人を排除・批判することで「自分はそういう人間ではない」という安心感を得ようとする。 父の差別意識を批判していた私が、自らの学歴意識が、結局は差別につながることを考えたとき、私は愕然とした。大学にはいったばっかりの時にこれに気づかされたおかげで、より部落問題に向き合うようになった。 批判していた父の文化をしっかりと身につけていたのだ。 B) 連 鎖 私は父を批判していたから、自分の息子に対して父のようにはなりたくない、息子には自由になってほしいと思っていた。しかし、息子に対して一生懸命やったことが、「父の行為亜種」であることに気がついた。自分が実現できなかった夢を必死に押し付けているのだ。父はひたすら私に学歴を求めた。だから、息子には学歴を気にしない自由な学校にはいってほしいと思ったのだ。ところが、「自由という概念」を使って私の自由を押し付けようとしていた。それは、息子の個性をみない=否定する=期待しているようで、強制している行為なのだ。子どもに夢を託すのは、美しいことでもある。が、時にはそれが子どもの思いとちがっていることはよくある。 留学の夢を息子に押し付けていた私。・・・はたと気がついた私は、高校をドロップアウトした息子にいった。「ごめんね、私の夢を押し付けて」と。「いいよ、俺だってやる気はあったんやし・・・」。実は、それですっきりして、息子を尻目に「ごめんごめん、私の夢だったわ」と昨年渡米したのだ。 実はこれは、父の隠された夢だった。どうやら父の二次的夢の方をひきとった。私は、改めて子ども時代に外国人との触れ合いの機会をつくってくれた父に感謝した。父が与えてくれた外国人との触れ合いは、父の趣味のアコーディオンの交流を通じて、父が与えてくれたものだった。子どもは、親が楽しんでいるものをポジティブな文化をポジティブに引き継ぐのだ。同時に、ネガティブなものを拒否しつつ、それもまたやっぱり染み付いて受け継いでいる。 私の友人に、両親にうまく愛されなかったと実感している女性B子がいる。彼女は両親と同じような方法で子どもをけなしてしまう。身についてしまった文化なのだ。やっとあの両親のことば、態度に「実は傷ついていたたんだ」と自覚できた彼女は、それを繰り返す自分に再び傷つく。「私はいやだったのに、どうして子どもにやってしまうんだろう」と。しかし、その「ひとこと」を言ってしまったとき、やってしまったとき、そのことにすぐに気づき、気づいた瞬間、傷ついた子どもの顔をみて「ごめんな」と言える。こうして自分の中に染み付いてしまっている文化を加工し、新しい文化をつくる土壌ができる。痛い作業だ。 ことばの虐待ひとつとってもそうやって、ふりおとしていく作業が痛みをともなって起こる。差別を憎んでいた自分が差別をしてしまうのだ。そういう己れを見せられるのはつらい。 虐待されてきた人は、「暴力の連鎖」という言葉に傷つく・・・・そういう声もある。 しかし、虐待とはいわずとも、自分のちょっとした「怒り方」「叱り方」「怒鳴り方」は、なんとも自分の親に似ている・・・と気づいたことのある人は多いだろう。 彼女は実際に自分の中で否応なく連鎖している自分と向き合うことで、連鎖をたちきろうとしている。そして、たちきるのは、「あのとき、私も傷ついていた」という自覚であり、その傷を認めて慈しむということをくぐってなされるのだ。そうやってこそ連鎖が断ち切れるのだと思う。 一方で彼女もまた、母親にとっては何気ないことであるが、唯一母親とポジティブに楽しめたことが、いまや天職となっているようだ。 差別や虐待に限らず自分の体験・あるいは自分の中にある心の傷をみつめて、自分らしい癒しのデザインをすること。それも、自分をくぐらせるということだ。 さらに「己の中にしみこんだ文化的連鎖を見つめる」・・・・これがまさに自分をくぐらせるということのひとつではないだろうか。 C) 部落問題にかぶせた思い 「他人を批判すること」の危うさは、「自分はそんな人ではない、そんな考え方をもっていない」という、他人への攻撃性に裏付けられたときにある。 他人を攻撃したいとき、そこには、隠された怒りがある。自分が気づくことなく、ためてきた毒が蓄積しているのだ。それが何かのトリガー にふれ、あるいは、対象化されたとき、怒りに火がつく。 思春期のころ、「わかってもらえない怒り」のために反抗していた。実は、反抗できるなら、おそらくどんなネタでも良かったのだろう。部落問題という正義があったため、私はそこに自分を重ね、父を批判する理由をつくることができた。しかし、その当時、私は部落の人とも出会ったこともなかったのだ。少なくとも部落の人々の思いを知って代弁していたわけではない。なのに、「父はまちがっている。部落差別はだめだーーー!」と叫んでいた。でも、実は、「どうして学歴ばかりを要求するの、ありのままの私をみて」それが私の本質的な叫びだった。 「私は私をわかってほしかった」たったそれだけの「思春期の満たされない思い」があったことを教えてくれたのは、「インナーチャイルド」 である。 私が学生時代、部落問題にコミットしたのは、単純に差別はだめだ、と思ったからではなかったのだと気が付いたのは、部落問題以外のアプローチによってである。 「怒」を軸にした部落解放運動は、私にもってこいだったのだ。父への怒りを部落解放運動が代弁してくれるという解放感、そして、力をもって社会を変えているように見えていた解放運動の権力、それは、「わかってくれなかった父」への怒の表現としてうってつけだったのかも知れない。 解放運動が繰り広げる大きな力に依存した。そのことで、父へメッセージを送っているのだ。「ほらみろ、差別はだめなんだ」とわからせたいのだ。しかし、実は、父にわからせたいのは、部落問題ではなく「私」・・・それだけだったかもしれない。 そこにあるのは「ありのまま愛されたい」という飢えだったのだ。 もし、部落問題との出会いがなければ、非行に走っていたかも知れない。 父に似た権力的で高圧的な男性をみると、かっとなる。これは、若い頃、ずいぶん続いた。私にとって父に似た人は「トリガー」となった。 「批判すべき差別意識や古い家父長意識をもった男性への怒り」を通じて父への怒りを表現している自分に気がついたのは、心理学とミックスされたときだ。 「私は、単に目の前にいるこの彼の差別意識に怒っているのではなく、父に似た彼に、自分の中の父への怒りをぶつけるという代償行為をしているのだ」という側面があった。これに気がついて、色々なセルフワークをした。私には、その独特の怒りがなくなった。「父に愛してほしかっただけだったんだ」という自分を慈しんだからだ。 そうみると、突然怒り出す人をみると「小さい頃、怒られてばかりいたんだろうな」「自分のことをふり向いてほしくて、そうしてもらえなかったんだろうな」という想像力が働く。 糾弾会や会議などで人にくってかかっていく人をみると、どうもその人の家庭のことを思い描く。 D) 相手をくぐるとき 人権問題のワークショップも、心の相談事業も、学校教育も、ある意味で、くぐった自分のキャパシティを通じて相手をくぐるという仕事だ。その時、上記のような問題には、必ずぶつかるだろう。 私のように、まじめに部落問題にコミットしている人間にも多くの問題が残されていた。残された問題にどこから、どういうきっかけで手をつけていくか、というのは本人の問題であるが、相手をくぐろうとしている立場にある人間は、少なくとも人間がたどる様々なプロセスがあることを自らを通じて学んでおく必要があるだろう。自分の問題のみつめ方、解決の仕方、そのプロセスのデザインは本人がするものだ。古い啓発方法は、考えるプロセス、論理までをやたらと押しけるかのような感があったのはいなめない。そのため、マインド・コントロールだと言われかねない危険性さえある。 この様々なプロセスについては、さまざまな人から学ぶことで、引出しを増やすことができる。しかし、人から学ぶ際、何をひきとるのか、というのは、自らのくぐり具合で、浅くも深くもなる。自分をしっかりみると、人間の共通のテーマを学ぶことができると思う。 そうして、引き出しをふやすと、十人十色のくぐり方を、自らの方法を強要することなく受け入れ、学び、交流の場としてのワークショップやセッションとなるだろう。 人は「大事にされたい」たったそれだけのことから何もかも始まる。 3. 人権問題の地平=共通に横たわるもの 私が行動をともにした解放運動は、部落の人々の中に起こっているドメスティック・バイオレンスや児童虐待、その結果の学力低下を全て「部落差別の結果」とし、同和対策予算を計上してきたという一面がある。まだまだ解明されていなかったのだから、それはそれで仕方ないし、また、「人権」という横へのつながりで、多くのとりくみのチャンスをつくってきたことは事実だ。 DV,児童虐待といった概念がない中で、先進的なとりくみでありつつ、人間性への普遍的波及という意味では、全てを部落差別で説明するということで、広がりをもたせることができなかったのが弱みであったのかも知れない。 「少年院にはいったら、まわりは、部落の子、在日韓国・朝鮮人の子どもばかりだった」とある部落の青年は言った。非行の向こうに差別がある。差別を理解しない限り、彼らの本音を引きだし、本当に立ち直るのはむずかしいだろう。差別やそこからくる貧困、家庭に怒る歪みは、子どもや若者の人生の展望を奪うからだ。自分が暮らす地域のまわりの大人たちが差別で仕事を失っている、結婚差別で自殺した話を聞かされたりするという「社会的環境」が幼い頃からあったとき、人は展望をもてるだろうか? それを思えば部落問題の深刻さは、単に本人にふりかかったものだけではなく、事件をきくたびに起こる二次的被害を追っている環境だともいえる。犯罪被害者・災害被害者へのサポートの際、気をつけなくてはならないのは、サポーターの精神的二次的被害だ。だとすると、部落で暮らす人たちは、仲間や親戚の悲しい事件を聞くたびに二次被害を負ってきたともいえる。 一方で、非行という問題を部落差別だけで説明するのも無理がある。発達心理・家族心理という側面からみれば、それをのみこむだけの家族力、さらにコミュニティ論的にいえば、それを支えるコミュニティをどうつくるかということのテーマが横たわっている。 一時期は、「同和」事業の意義を薄めるといって「人権文化センター」への名称変更の抵抗感は大きかったが、今では多くの隣保館が人権文化センターと名乗っている。 心のサポート、といった軸をもつとりくみや視点、違った切り口、論理、方法論で展開されてきた市民活動が、相互交流することで、新しい視座が開かれていくだろう。 A) 共通項T 〔外から内へ〕 そこにセルフ・エスティーム(Selfesteem) 、レジリエンしー(Resiliency) という人類共通の概念が現れてきた。この概念は、差別・被差別、加害・被害どの立場においても問われる。米国においても、どの民族であろうが、At-risk Youthといわれる問題を抱えた子ども向けのプログラム全般に横たわっている概念だ。 親が子どもと向き合い、そして、自分がうけてきた差別とむきあい人生・思いを語ったとき、初めて子どももまた自分が向き合うモティベーションとなる。一方で、形式化した部落問題一辺倒の説明は、子どもに「またか」と思わせる。時代は変わり、社会が変わる。今は、悲惨さを訴えるだけの時代ではない。 また、差別の解決を、外側の差別意識や社会構造だけではなく、それをはねかえせる精神的耐性を身に付けるという「内面」の問題にシフトしてきたのが、この概念だ。 これは、大きな流れでもある。金銭や物質を満たすプログラムはそろった。しかしいまだ残る問題は、当事者の主体的なたちあがりだ。米国においてでも、ホームレスの緊急シェルターや、住宅建設だけではなく、自立の力(内面的なものをベースとし、さらに学力、資格・技術)を身につけるプログラムがしっかりと展開されている。さらに、文化醸成にもシフトしつつある。 部落問題ひとつとっても、コミュニティ論はもちろん、福祉、親子関係心理学、被害者の心理学さらには加害者をみるときには、精神医学さえミックスすることでより豊かな展開として広がる可能性をもっている。 B) 共通項U 〔スピーク・アウト〕 私が部落問題に救われたのは、「しんどいことをしゃべってもいい」という文化づくりだ。 自分の家庭=父のアルコール依存は、恥だと思っていたし、自分は、まわりの幸せそうな家庭に比べてずいぶん不幸だと思っていたのが、中学生時代だ。 「自分の身に起こっていることは、恥ではなく、家庭の問題を個人に帰せず、語り、客観化し、社会化することで解決する」この視点を部落解放運動が教えてくれた。 これは、実はサバイバーにとってのスピーク・アウトの文化でもあり、いまや、部落出身者宣言、在日韓国・朝鮮人の本名宣言に限らず、性暴力被害、HIV感染被害、ゲイ・レズイアン、性同一性障害、ユニーク・フェイス・・・・と、さまざまな人がさまざまな方法で、幸せなことに、自分の時期を迎えてスピーク・アウトしていっている。「自分の時期を迎えて」とあえて言ったのは、過去には部落解放運動は、時には、本人には、その場所で自分のことを語ることがまだ腑に落ちていないのにその場を迎えてしまうことが時々あったからだ。 まだ、普遍化の方法論をもっていなかった解放運動は、現象を全て部落差別に結びつけて説明するしかなかった。部落外の人間が、自分の中の問題として差別の問題に向き合ったとき、部落問題への連帯を結論とすることが主流だった。 しかし、私の思いはそこでは満たされなかった。「地区に住んだらどうだ」という提案を受けたがあえて断った。地域の人にとっては、部落問題を理解した仲間として、あるいは運動の戦力としても外からの人材がほしかったのだろうと思うが、部落出身者になりすまして部落を語るよりも、私には、部落の人間でないなりの任務があると思っていたし、私は私の課題に向きあいたかったのだ。 また、部落解放運動という軸だけでは解決できない問題もさまざまにあった。それは、まさに外の空気を運び込むことで、豊かになっていったのも事実だ。 C) 共通項V 〔加害者が抱える問題〕 結果、私は「父の意識変革は可能だったのか」ということにこだわり、加害者の心理に固執した。加害者を理解しようとすると、時には、被害者には理解されない、被害者感情を魚ですることもある。しかし、差別をなくす、暴力をなくすというのは、差別する人・暴力をふるう人が育たない社会をつくることだ。 それは、被害者が「つらかった」ということを伝えるだけではできない。強いていえば、差別意識をもった人、加害者予備軍、加害者自身の心をあたためることでしかない。実際、そうした予備軍が、コンプレックスに怯えながら私達の目の前で生きているのだ。 自分のつらさをつらいとわからない人に、人のつらさは、わからないのだ。米国では、「加害者はかつての被害者」というのは、当たり前の認識となっている。もちろん、これも被害者がたちあがり、被害者支援策が充実した上 での流れであって、被害者支援の手薄な日本ではまだ、難しい面もある。 一方で、人のつらさをわかったとき、壊れてしまうこともある。女子高生コンクリート事件に関わり少年院にはいった4人の少年のうちの1人は、弁護士の誠意ある接触によって、ようやく自分の犯した罪に気がついたという。しかし、あまりの罪の重さにおしつぶされて病の世界に行ってしまったのだそうだ。ここで、親を責めるのは、ふつうの世間の傾向だが、人権意識をもつ人なら「コミュニティが、彼の可能性を伸ばせなかったのか、親・学校以外の価値観であたためられる機会はなかったのか」と思いをはせることはできるだろう。 多くの人権問題が「被害者の心理を理解しましょう」と促す。それは、すでに加害者予備軍には響かないということは、何度もふれた。前述の女性B子は、家庭の中で暴力的ことばをあびていたため、親への安心できる信頼感をもてず、塾の教師からの性的虐待をうちあけられず、その犯行は1年近く続いた。その後、彼女は、虐待妄想が激しくなり、さらに明らかに虐める側にまわったという。この虐めの行為がそのものが被害者としての叫びでもあったのだ。そして、その虐め行為(=加害)を理由に、今度は虐められる側にまわった。その後彼女は、人格障害寸前のボーダーをさまよった。話をつくってでも、同情の気をひこうとすることを繰り返していたという。傷(被害)が放置され、自分の存在が大事にされないとその毒を人に吐くようになるのだ。 彼女は、つい最近、自分の過去の姿に似た人に出くわし、自分の過去をその人の中に発見した。そのことで、性的虐待の被害後の心理を思い出すことができ、客観化することで抜け出すことができたのだ。 不思議なことだが、人が何かの課題をクリアしかけたり、クリアした直後には、なぜか同じテーマをもった人間が目の前に現れ、相談に来たりする。まるで、復習(おさらい)をさせられているようなのだ。 クリアがまだ不十分だとそういう相手に怒りの心がわく。それは、自分が許せていない弱い自分が投影されるからだ。「ああ、私もあんなふうに弱かったなぁ・・・」と笑ってみられるようになると、それは、みごとにすっきりする。 D) 共通項W 〔背景をみる〕 私は、部落問題を通じて「背景をみる」ということも学ばせてもらった。それは、「部落差別という背景」なのだが、さらに、発達心理上の背景、精神医学的見地からみた背景をみることも必要である。 私の場合には、アラノンという問題があった。 家庭に居場所がなかったB子の場合は、両親の不仲と両親のそれぞれの生い立ちからくる両親の中にある傷が彼女に向かって吐き出させたものがあった。 |
この文章は、2002.10.13に行なわれた自らをくぐらせる地球市民・人権教育実践交流会の 分科会:自らをくぐらせる組織運営で発表された小論「自らをくぐる ー組織運営の視座ー」からの抜粋です。 全文をご覧になりたい方は、http://www.eonet.ne.jp/%7Ejyth/jyth_org.html JYTHのホームページは、http://www.eonet.ne.jp/%7Ejyth/index.html |