[AML 20261] Re: 人が人として成長するのに必要なものは?

とほほ tohoho at t-t-japan.com
2008年 6月 30日 (月) 13:21:52 JST


amlの皆さんこんにちは とほほです。

in article "[AML 20257] Re: 人が人として成長するのに必要なものは?"
永好 wrote:
>●北朝鮮人より。。。
>やっぱり日本人は始皇帝死状態なんじゃぁないでしょうか。2000万のアジアの人
>びとを虐殺して数億の無辜の人民に塗炭の苦しみを味わわせておきながら、ほとんど
>罪の意識がないんですから。それどころか最悪の戦争犯罪人がなんら責任を問われな
>かっただけでなく、『平和国家ニッポンの象徴』になっちゃうんですから。。。国民
>は巨悪の戦争犯罪をすべてごく一部のA級戦犯になすりつけて平然としています。戦
>争中毒アメリカのポチになって朝鮮戦争、ベトナム戦争、インドシナ半島における破
>壊行為などに加担して富を蓄えてきたんですからね。最近でもアフガン・イラクでア
>メリカの侵略戦争のお手伝いをやってますね。

以下の文章は中国で日本と中国のサッカーの試合が行われた時に発生した一部中
国サポーターの乱暴を批判する日本世論に私が反論したものです。
昨今の北朝鮮バッシングや総連への弾圧など永好さんの怒りが日本人全体へ向か
ってしまうことも、この社会傾向をとめることの出来ない我々の責任であると思
います。
でも決して思考停止せずに頑張っている日本人もいることも知っていただきたく
私もその一人でありたいと願っています。

以下昔の記事より抜粋、全文はこちら
http://t-t-japan.com/tohoho/talk/gyougi.htm

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日本人のお行儀	とほほ	2004/08/27 15:22
		
****さんご無沙汰してます。相も変らぬご活躍大変心強く思います。
さて、****さんの言説の一部が某掲示板へ転載され(善意の転載です)****さん
の言説とは知らず、おちゃらけRESをしたところ色んな人に怒られました(^^;
ここでの****さんの言説である、と知った以上、ここへも投稿します。

> 先の北京でのサッカー・アジア杯の会場でも、怒号とブーイングの四面楚歌の
> なかで、日本の若者たちは、横断幕に「日本中国友好 LOVE」と書き、そのフ
> ェアな観戦態度が賞賛されました。このような高邁な志の若者たちに比べ、日
> 本のオヤジたちは何と情けないことでしょう。

先にお断りしておけば私は決して暴徒化や暴力を肯定するものではありません事
をご理解願い、誤解を恐れずに申し上げさせていただきます。

端的に申し上げますれば日本人サポーターのあまりのお行儀の良さには、かの超
人気をはくした北朝鮮美人応援団のお行儀のよさと同質のものを感じてしまい、
私にはどうにも虫唾が走るのです(^^;
「こりゃ、へたすると中国の方が民主化が進んどるぞ」などと考えてしまうのは
私のへそ曲がりが由縁でしょうか。

まずは、私は「若者よ、中国過激サポーターに怒れ、そして知れ」と主張したい
ですね。

中国政府の「許すけど忘れない」と言う対日本外交は私は非常に崇高で民主的な
ものだと評価しております。それに対して、すっかり忘れてしまった人々が「日
本中国友好 LOVE」等とお行儀よく振舞ったところで、相手の心に通じる事はな
いと思います。旧大日本帝国の「五族協和、大東亜共栄」と同じものくらいにし
か感じないのではないでしょうか?

これはもちろん日本人サポーターに責任があるわけでなく、いや少なくとも戦後
に生まれた我々にももちろん戦争の責任はありません。ただ、我々が背負わされ
ている責任は戦争の真実を後世代にきちんと伝えていく事こそがその責任だと思
っています。そうした中国の「忘れない」と言うスローガンに日本はどう対処し
たらよいのでしょう?やはり決して忘れてはならないのです。戦後の日本は民主
国家に変わったのだそして「決して忘れない、そして二度と繰り返さない」と言
うものを対中国及び周辺諸国外交の基本とせねばならないと思います。

と申しますのも、私自身が掲示板上でのある論争がきっかけで日本の戦争犯罪を
調べ、そしてそれを知り、日本に対して激しい怒りを感じたからです、これは人
間であれば共通の怒りであると思いますし、その怒りは中国人サポーターの怒り
にも劣らないと思います。そしてこれを二度と繰り返してはならない、と真剣に
考えるようになったのです。

首都の都知事が石原慎太郎であったり、小林ヨシノリが人気を博したり、自由主
義史観などが横行したり、日本の戦争犯罪について何も教えない公教育であった
り、等の風評は海外にも伝わっている事でしょう。これは中国人サポーターの一
部とはいえ彼らの怒りの責任はこうした動きを止める事が出来ない現代に生きる
我々の責任と言えると思いますし、民主国家として生まれ変わったのだ、と言う
主張もこの事実の前には力がありません。
横断幕に【私たちは軍国主義を倒した、一緒に戦いましょう】と堂々と掲げる事
が出来る日が来る事を願います。

ただ、私がここで主張したいのはそうした戦争責任問題もさることながら、「お
行儀」について一考察してみたのです。

<中略>

---
「いまや何をなすべきか。まずわれわれはヴェルサイユで、この条約(講和条
約)の徹底的な改訂のために全力を注ぐべきである。それに成功したならば、こ
れに調印すべきである。もし成功しなかったならば、どうすべきか。その場合は
積極的な抵抗も、消極的な抵抗も試みるべきではない。わが国の代表ブロックド
ルフ=ランツァウ伯(Ulrich von Brockdorff-Rantzau。外相)は、憲法制定議会
を解散する正式の布告と、大統領以下全閣僚の辞表とを敵国政府に手交し、ただ
ちにドイツの主権と全政府機構とをひきつぐことをかれらに要請すべきである。
かくすることによって、平和に対する責任、統治に対する責任、いや、いっさい
のドイツの行動にたいする責任は、かれら敵国政府のものとなる。かれらは世界
と歴史と自国民の前で、六千万のドイツ人の面倒をみなければならなくなる。こ
れは歴史上前例をみない国家の破滅の仕方であるが、それこそがドイツ人の名誉
および良心と両立する方法である。」
--- 「東郷重徳、伝記と解説」萩原延壽著、原書房より ---

以上は第一次大戦後に、ドイツに突きつけられた講和条約に対するワルター・
ラーテナウ(Walther Rathenau)の言葉である。ラーテナウと言う人物は共産主義
(ポルシェヴィズム)と言う新思想に対し激しい危機感と嫌悪を抱いていた当時
の諸国指導者層の中において、共産主義を冷静に分析しいわゆる「感情的嫌悪」
とは一線を画しており「共産主義への恐怖心」も持たなかった実業家である、彼
は共産主義を人類の試験的試みと見ていた。

さてここで持ち出したラーテナウの言葉と彼の共産主義への対応とは関係ない。
もちろん講和条約に対するラーテナウの自暴自棄的な言動とも見ることもできる。
周知のように、ドイツはこの講和条約を受け入れる以外にその主権を維持する道
はなく、そしてラーテナウの言葉のように主権を放棄することはなく、ドイツ国
民議会は講和条約への調印後共和国憲法を発布しワイマール共和国の過酷な道の
りがはじまるわけである。ワイマール共和国はカップクーデターを皮切りにあら
ゆる右翼勢力からの攻撃を受け最終的にナチズムが台頭するようになる。ラーテ
ナウの言動はこうした右翼勢力を扇動する結果になったのかもしれない。

私は、現日本が本当に民主主義国家であるならば、対中外交(対中に限らない
が)においてこのラーテナウの言葉の実践こそが日本人民のあるべき立場だと思
う。国民国家と言う概念や価値観に依存して生きていく以上その国民国家が犯し
た罪は永劫にその責と業を国民が背負う。国民国家の概念から超越した世界秩序
がありえないのであれば、そしてその国家が民主主義を維持しようとするなら、
それ以外に日本人民がその尊厳と良心を両立させて生き残る道はない。
中国に主権を渡したところで何もおそれるものはない。我々日本人は「民主主義
者」である、香港がそうあるように日本もそのようにあればよい。日本がそうな
った時にはじめてそれこそ中国本土の民主化は我々(その時の我々は中国人民で
ある)の民主主義の為の緊急課題となるのである。

戦争責任問題は私に問う。
「戦後に生まれた我々に戦争の責任はあるのか?」
私はこう答える。
「我々にはもちろん責任はない、が国民国家の国民である責任として、その体制
からもたらされた富により私の命は存在するのであり、正しい歴史を後世に伝え
ねばならない。」

さらに懐疑的な私の中の戦争責任回避論者は問う。
「個人(少なくとも戦後に生まれた個人)にどうしようもなかった戦争、に対し
て何らかの責任を負わせる事は個人としての人権を侵すものではないか?」
「個人の人権を生かすと言うことは、他者の人権の尊重に他ならない、犠牲者ま
たはその遺族の人権を尊重することこそ己の人権を護る事になる」

懐疑的な回避論者はまだおさまらない。
「他人の犯した人権侵害について関係のない個人が責を負うのか?」
「国民国家の国民である以上その責から逃れられない。」

こうした終わりのない議論をしているときに私はふと気がつく。
この議論は所詮は「国民国家」の国民である事の枠から超越せねば、延々と続く。
そしてなぜ自分が「国民」であるのか?「国民」ではない自分はありえないの
か?となり、そして「国民」であればこそ「人権」を有するのか?と帰結する。
そして私の解答は否である、人権は万人に与えられた権利であり私が国民である
必要はない。
しかし国民である事は逃れられない現実なのだ。

****氏の言説にある通り「中国の排他的ナショナリズム」が「民主主義の敵」で
あるとしても、その国境の外側からそれを攻撃する事はできない。なぜなら外部
ナショナリズムに対抗できるのは内部ナショナリズムだけであるからだ、この内
部ナショナリズムは往々にして民主主義の御旗の下に正義の衣を着ており、この
内部ナショナリズムもまた「民主主義の敵」になりかねない。民主主義者である
我々にできることは己を支配するものへの警戒であり他国の「民主主義の敵」に
対する警戒または攻撃は国民国家体制下の世界秩序の上では無意味であるか否か
は結論できないが少なくとも無効である。

本稿冒頭において一次大戦後のドイツに触れたのはその良いモデルであるからだ。
確かにヨーロッパの国民国家としてのあり方と日本のそれとではその歴史に大き
な隔たりがありラーテナウのような思考が日本に生まれるにはその成立からして
無理がある。
また、日本は当時ドイツが突きつけられたような苛烈な条約を強要されたわけで
もない、どころか周辺諸外国からは賠償を免責されており連合諸国の積極的支援
を受けている立場である。しかし国民国家概念の上に安穏として生活しその繁栄
を享受する以上ラーテナウの言説の正しさは認めざるをえない。

であれば「一国平和主義」と言う言葉がよく使われるが「一国民主主義」ももは
や成り立たない。つまりこれは、敗戦国だから、戦争犯罪を犯した国家だから、
と言う枠にもとらわれない事になる。己の民主主義(一国民主主義)を守るため
に、他国(それが民主主義の敵であるとしても)を攻撃する、と言う行為そのも
のが己の民主主義をも破壊する事に他ならない。戦争を否定する我々は「一国民
主主義」がもはや成り立たない事に気がついたのである。国境がある以上他国の
民主化に言及する時、情報戦略、非民主国家人民へ対する民主国家内の全ての情
報公開、がこれまでのところ最善の方策である、そのためには国境の内側にいる
我々の民主社会こそが真の民主主義国家として成熟しておらねばならないのだ。

がしかしこの戦略も己を安全な位置に置きながら中国人民に多量の血を流させる
事になる可能性を否定できない。鉄のカーテンやベルリンの壁の崩壊は一縷の希
望を持たせるものであるかもしれないが、現在流されている大量の血は例外では
なかった事を示唆しているようにも見える。イラクで人質に取られた方々の行動
は正しかったのだ、イラクの民主化の為にはその支配下へ飛び込むしかない、そ
して飛び込んでいった彼らの勇気はたたえられるべきものである。

戦争を否定する我々は政治的外交的いかなる制裁処置をも発動する事はできない。
だが自衛権の行使は国民国家の体制化にあってはその正当性を免れる事はできな
いが、それは己の民主主義をも破壊する。
であるからこそ軍備廃棄の正当性はラーテナウの言説によりこそ付与される。
日本の民主主義がそこまで成熟するには100年いや何百年かかるのかはわから
ない、しかしその事に気がついた私がとるべき行動はハッキリしている(それが
如何に非力であったとしても)。

本来民主主義に国境はいらない、が、現実に国境が存在する。となれば民主主義
が「民主主義の敵」を倒すにはその敵の支配下においてのみ有効である。
中共が政治的外交的措置としてそれを持ち出したときにはじめて、それを論難す
る事ができる、しかもあくまでその立場(ラーテナウの言説にある立場)を固守
すべきである。その立場を崩そうとする国内勢力にこそ日本の国境の内側にいる
民衆は警戒せねばならず、そうではない中共への論難は国境内での「民主主義の
敵」を勢いづかせるだけである。

****氏は言う。
> ****

また実証史学を批判して上野千鶴子氏も言う。
---
「自由主義史観」を主張する人々を、「デマゴーク」や「プロバガンディスト」
と呼んで、相手にするに足りない、と斥けるのは容易である。だが、その見方の
背後で、「真理」に奉仕する学問の「客観性・中立性」の神話が、無傷で保存さ
れるとすれば、その危険もまた指摘しておかなければならない。
---「ナショナリズムとジェンダー」上野千鶴子著、青土社---
としながらも、【わたしの意図も、「自由主義史観」」一派との論争にはない。
】と続けている。
#上記文の注釈で上野氏は「日本の戦後史は必ずしも単純な実証主義に還元され
ない」と説明している。

上野氏の著述は6年前(1998年第一刷)である。「取るに足りない」とした
時に誰が取るに足りない教科書が検定を通る、と予想できたであろうか。誰がた
った一校でもそれを採用する学校が出てくる、と予想できたであろうか。
そして公教育が「取るに足らない教科書」の全面採用に至った時も、そんなデタ
ラメな教科書を信じる若者などいない、と我々は言うだろう、それこそ取るに足
らない教科書なのだから。大戦前の知識人は常にそうして己の良心を欺いてきた
のだ。

原爆を作った科学者は言うだろう「こんな馬鹿げた爆弾を使う馬鹿げた国家はい
ない」と。抑止力の為にこそある、と。そうして己の良心精神性を維持する「確
かに私が作ったがその使用には絶対反対である」
アインシュタインは天国で被爆犠牲者に対面しながらもそう思っているだろう
か?

私はここでも「悪魔の飽食」森村誠一から引用したい。
---
民主主義というものは、本質的に脆い。それは民主主義に反する主義思想をも体
内に抱含する。自分を破壊し、覆そうとする敵対思想をも認めなければ民主主義
は存在し得ないところに、この体制の脆さと宿命があるのだ。

民主主義の敵を認めて、ひとたび敵(ファシズム=独裁主義)の天下になれば、
ふたたび民主主義を取り戻すために多量の血が流されねばならないことは、歴史
の証明するところである。民主主義はその敵に対する絶えざる疑惑と警戒の上に
辛うじて維持される。

われわれが「悪魔の飽食」を二度と繰り返さないためにも、民主主義を脅かす恐
れのあるものは、どんなささやかな気配といえども見逃してはならない。われわ
れは民主主義の敵に対して警戒しすぎるということはないのである。そのことを
この実録によって再確認できれば筆者の幸せこれにまさるものはない。
---新版悪魔の飽食、森村誠一著、角川文庫、301P---

となれば、国民国家の国民であることに喘ぎながらも私にはモグラ叩きを続けて
いくより術はない。見たくない現実(中共のナショナリズム)を見ないのではな
い、見えている現実に対してできる事をせねばならないのである。
あくなき自由への追求も民主主義に与えられた宿命であり、これこそが見えてい
るのに見たくない、が見なくてはならない現実なのではないか。
私は「お行儀の良い民衆」が【民度(石原慎太郎語録における)】が高いのか否
か判定できない、自由である事の真の姿はもっと醜いはずである。程度問題では
あるかもしれないが、お行儀の良い若者を形成する社会には胡散臭さを感じる、
戦中日本人民のお行儀は世界一であったであろう。若者のお行儀が悪くある事も
自由である事の本質的な姿である。そして大人と喧嘩するのである。

「若者よ、中国過激サポーターに怒れ、そして知れ」
やはりこの主張は取り下げられない。
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