「神職」の考慮すべきこと
裁判員制度施行に当たって
神職の考慮すべきこと -------------2008.5/26神社新報
(皇學館大学名誉教授 鎌田純一)
裁判員制度が平成二十一年より施行される予定である。
神職は国法を遵守すること当然であり、神職たるもの裁判員に選ばれたらその任に当たらなければならないが、神社本庁憲章第十一条第二項に、「神職は、古典を修め、礼式に習熟し、教養を深め、品性を陶治して、社会の師表たるべきことを心掛けなければならない」とある。
すなはち神職たるもの、その修養のために古典を修めることが求められてゐるのであり、さらに同条第三項に、「神職は、使命遂行に当たって、神典及び伝統的な信仰に則り、いやしくも恣意独断を以てしてはならない」とある。
すなはち神職はその使命遂行の準拠としても、神典に通じてゐなければならないのである。その古典、神典、神道古典の一つとして律令が挙げられてゐるが、その「神祇令」のなかに、散斎のうちは、「喪を弔ひ、病を問ひ、宍を食ふことを得ざれ。亦、刑殺を判(こと)わらざれ(原漢文、下略)」とある。
要するに、祭祀の前の一定期間より、喪を弔ひ、病を問ひ、肉食をすることとともに、刑殺を判断すること、裁判に当たることを、けがれにふれることとして禁じてゐるのである。これを如何うけとめるか。
私の乏しい経験であるが、大学教授会で時に学生処分のことが議題に上ることがあった。それで停学処分、さらに退学処分と決議せざるを得なかった時の空しさ、哀しさ、何故その学生の罪を未然に防げなかったか、その両親がこの結果を聞いて如何想ふかなど考へて心乱れ、数日間は、とても神様の前に出させて頂ける精神状態ではなかった。
この「神祇令」は「唐令」を範としてゐるが、それにないものを加へてをり、先人が祭祀を前にして、心すべきことよく規定されたと思ふのであり、これはその後に守られ、中世の神宮祠官度会行も、その著『類聚神祇本源』巻第十五神道玄義篇のなかでも記してゐるが、さらに家行はそこで、「清浄」とは「正直」のこと、また「一心不乱」のことと記してゐるのである。
祭祀に当って身も心も清浄と当ったこと、神道古典に、また先人の書にみられるのである。
神職、この平成の大御代の社会事情をよくみて、夙夜平らけく安らけき世をと祈り、六月十二日の大祓であらゆる罪を祓へ給ひ清め給へと念じてゐるのに、凶悪犯罪、その出たことに、自身の祈祷の至らなさ、神道教化の至らなさに大きな責任を感じ、心乱れるであらうことの上に、裁判員の任に当ることでさらに心乱れるのではないであらうか。
裁判員制度の施行、その裁判員に選ばれるに当って、神職には現行法ではないが、神祇令に定められて以来、時代とともにその期間等は短縮されることなどもあったが、根本は寄せられてきたものがある。
それで、この裁判員制度施行、その裁判員に選ばれることによって、神職は心乱れ本務に大きな支障の出ること必至とみられる。
これに如何対させて頂くべきか。職員の多い大社の場合、その裁判員に選ばれた職員はその任に当る数日間は遠慮休暇をとらせて頂くことも出来るであらうが、大半の神職は大祭の前数日間は辞退させて頂く法など考慮すること、これ神職個人で考慮することではなく、神社本庁が、神道政治連盟また有識者を招いて早急に方法を考慮しておかなければならないことである。
神職たるもの、伝統的な信仰、それをもととしての先人のあゆみに則り、これに真劍に対処し、後世よりもの批判に耐へるやう、この制度に対すること急務と考へるのである。
-------------2008.5/26神社新報
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