裁判員制度は家族の問題でもある
「まったく、なんでこんなことを始めるんでしょうね」。初老の男性がため息をついた。こんなこととは、来年五月に始まる裁判員制度のこと。来所したのは夫婦関係の相談のためだが、裁判員制度へのスタンスで夫婦喧嘩になったという。
「妻は、人を裁くのなんか嫌、行かないですむ方法を考えろって。私だって凶悪犯を見るのは怖いから参加したくない。でも、無茶でしょう?」
確かに無茶な話だ。選ばれたら、嫌だから怖いからと拒否はできない。七十歳以上なら辞退できるが、この男性は六十七歳。正当な理由なく呼び出しに応じなければ十万円以下の過料を払わなければならない。父母の葬式は正当な辞退理由となるが、兄弟やいとこでは駄目。男性のご両親はすでに鬼籍にある。
国会議員や自衛官、警察、弁護士は裁判員になれないが、彼は民間企業の役員。裁判員になる資格がある。
男性とその妻のような人々は多い。四月、最高裁が発表した全国意識調査では、八割以上が「参加したくない」と回答。それに、裁判を忌避するのは洋の東西を問わない。アメリカでも陪審員に選ばれない方法を書いた本がロングセラーだ。
少なくとも日本の場合、忌避の感覚は「面倒だから」ではないと思う。日本の裁判員制度は陪審制とまったく異なるのだ。有罪か無罪かだけでなく、量刑もみずから判断する。死刑か、それとも無期懲役かという、究極の判断まで迫られることがあるのだ。最高裁の調査に、四分の三が「被告の運命を決めるため責任を重く感じる」と答えたのも納得できる。
ひとたび裁判員となり公判や評議に出ると、少なくとも数日間拘束される。しかし、私がこだわるのは法律論ではなく、家族に「秘密」を抱えなければならない点だ。刑事裁判制度としての問題は法律家がさまざまに提起しているが、私は家族問題の専門家として、ここで反対を唱えざるをえない。
裁判で話し合われたことは生涯他言してはならない。もしもしゃべったら六月以下の懲役か五十万円以下の罰金に処せられる可能性がある。これはいわゆる「前科がつく」ということだ。
かりに夫が裁判員となったら、彼は「人を裁く」ことに大きなストレスを抱えるだろう。扱うのは、殺人や放火といった非日常の世界にある凶悪事件なのだから。
その負担を軽くしてあげたいと、妻は夫の胸の内を聞く。話を聞くことでストレスを解消してあげるのは、家族にできる大切なことだ。しかし、それが罪に問われるのだ。優しい気持ちで尋ねてあげたばかりに、夫には前科がつき、妻は共犯者とされるかもしれない。
これは夫婦だけの問題ではない。
たとえば、連続女性暴行殺人事件の裁判員に若いお嬢さんが選ばれたとしよう。彼女はむごたらしい殺害現場の証拠写真を見なければならないだろう。そのショックはいかばかりだろう。母親は傷ついた様子の娘にどう対処したらいいのか。しかも、娘はなぜ傷ついたのかさえ明かせないのだ。
心的外傷後ストレス障害(PTSD)を負う可能性を考え、国は裁判員への「心のケア」を予定している、という。だがそれは違うのではないか。多大なストレスを抱えるという前提で、なぜ家族を送りださなければならないのか。
私の娘も今年二十歳。裁判員に選ばれる資格を得てしまう。一人の母親としての立場から、あるいは家族問題の専門家の立場からも、裁判員制度が施行されないことを望んでいる。そうでなくても夫婦のきずなが問われ、家族が壊れやすい時代を迎えているのに、家族の間で秘密を持てと国から強制されるのは、とうてい納得できない。
六月十三日、日比谷公会堂で二千人規模の「裁判員制度はいらない! 全国集会」が開かれる。今まで市民運動に関わってこなかった私だが、この集会には出席し、壇上で発言する。裁判員制度は法律だけでなく家族の問題でもあるからだ。
お一人お一人が、ご自身とご自身の家族の問題として考えてほしい。
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2008年5月掲載
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